赤い土の大陸(レッドライン)の頂に君臨する聖地マリージョア。そして、その麓に位置するシャボンディ諸島。
マヤが所有する広大な宮殿の裏手には、海へと繋がる巨大な地下水路が存在していた。かつてはマリージョアからの廃棄物や、逃亡を企てた奴隷たちの無残な死体が流れ着く、文字通りの『どぶ』であった場所だ。
「よし。今日の水質は悪くねェな。ゴミの引っ掛かりも少ない」
長靴を履き、高級なシャツの袖をまくり上げたマヤが、巨大な熊手のような道具を使って水路の泥を掻き出しながら独りごちた。
天竜人でありながら、自ら泥に塗れて下水の清掃を行う。その異様な光景を、水路に繋がる海側から、身長十二メートルにも及ぶ美しい人魚姫――しらほしが、不思議そうに覗き込んでいた。
「あの……マヤ様。なぜ、マヤ様ご自身がそのような泥だらけになるお仕事を……?」
「ん? ああ、俺の趣味みたいなもんだよ。もう二十年以上やってるからな」
マヤが額の汗を拭いながら笑う。
その少し離れた安全で清潔なテラス席では、ナミがパラソルの下で真新しい海図を広げ、ロビンがマリージョアの書庫から持ち出した古文書を優雅に読み解いていた。彼女たちの横には、黒スーツにサングラス姿の護衛――世界的には『頂上戦争で死亡した』ことになっているポートガス・D・エースが、静かに立っている。
「ナミ様、ロビン様……。皆様は、お手伝いなさらないのですか?」
しらほしが申し訳なさそうに尋ねると、ナミは海図から顔を上げずにため息をついた。
「手伝おうとしたわよ、何度もね。でも、あいつ(マヤ聖)が絶対にやらせてくれないの。『女は泥に触るな。自分の好きなことして休んでろ』って。……こっちはもう十分すぎるくらい休んでるっていうのにね」
「私たちが手伝おうとすると、本気で怒るのよ。だから、私たちはこうして彼が泥だらけになるのを眺めながら、自分たちのやりたいことをやらせてもらっているの」
ロビンが、古文書のページをめくりながらふふっと笑う。
「黒服さんは……?」
「俺は護衛だからな。主人の命令には逆らえねェし、掃除は管轄外だ」
エースがサングラスを押し上げながら、肩をすくめた。
誰もマヤを手伝わない。しかし、そこには冷たい主従関係などは微塵もなく、むしろ「マヤが泥を被ることで成立している、絶対的に安全で優しい日常」が完成していた。
「マヤ様は、どうして二十年も……?」
しらほしの問いに、マヤは熊手を止め、暗く奥まった水路の先を見つめた。
「昔はそりゃあ酷かったんだよ。このどぶにはよ。海賊同士の成れの果て、マリージョアから逃げ出した奴隷たちや、天竜人の気まぐれで傷を負わされた奴らが、毎日のように流れ着いてた。中には、もう息のない奴も無残にな……。俺は、そういう奴らをここで助けたり、弔ったりしてたんだよ」
平熱な、だがひどく重い声だった。
「お前ら魚人族の英雄であるタイガーや、ハンコックたちを逃がしたのも、この場所だ。その延長だな。……ここが綺麗だと嬉しいだろ? 腐った匂いもしないし、人が死んだ記憶も薄れる」
「……」
初めて聞くマヤの凄惨な過去の日常に、ナミとロビンの手が止まった。
(私と同じ時期に……この人はたった一人で、そんな死臭の中を生きてきたのね……)
ロビンは、手元の歴史書をそっと閉じた。彼女が裏社会で逃げ回っていた二十年間、この若き天竜人は、世界の絶対悪の中心で、たった一人で名もなき死者たちの泥をすくっていたのだ。
エースもまた、サングラスの奥で目を細め、静かに戦慄していた。
(やべーな……。俺がルフィやサボとコルボ山でガキの遊びをしてた頃から、こいつはずっとここで、本当の『死』と戦ってたってのか……)
「マヤ様……。タイガー様の件も、本当に……色々とありがとうございます……っ」
しらほしの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、海面に小さな波紋を作った。彼女は、目の前で泥まみれになっている若者が、どれほどの犠牲と悲しみの上に立って自分を守ってくれているのかを悟り、胸が締め付けられる思いだった。
「泣くこたぁねェよ。俺は、目の前の人間から救えるなら救いたいと思ってただけだ」
マヤは水路から上がり、ホースの水で泥を洗い流しながら言った。
「暴力で全部ぶっ壊して解決するのは簡単だけどな。そういうやり方は、俺の性に合わないんだ。……やれることを、地道にやってただけだ。これが俺なりの、天竜人の特権ってやつさ」
「「「え?」」」
三人の女性が、同時に間の抜けた声を上げた。
「ちょっと、マヤ聖。それ、『どぶさらいの特権』ってこと?」
ナミが呆れたようにツッコミを入れる。
「フフ……さすがマヤ聖ね。本当に愛しい考えだわ」
ロビンが、頬杖をつきながら熱っぽい視線をマヤに向けた。
「世界最高権力を持っていて、やってることが『死者の弔い』と『女性の保護』だなんて。……大好きよ、マヤ」
「ちょいちょい、ロビン! アピールしすぎじゃない!? マヤ聖はもう十分私たちのこと認めてくれてるじゃない!」
ストレートすぎるロビンの愛情表現に、ナミが慌てて割って入る。
「あら、愛を囁くのは何回でもいいものよ? 本当に愛しいんだもの」
「本当、変わったわね……。でも、私も色々と肩の荷が下りたっていうか、今は本当に毎日が安心してるわ」
ナミも、パラソルの下で大きく伸びをした。
しらほしは、そんな二人の軽口と、泥を洗い流しながら苦笑しているマヤを見て、顔をぽっと赤らめた。
「色々な……天竜人の方が、いらっしゃるのですね」
「ま、俺はここしかあまり知らないからな。軽く海軍とかに聞くと、海賊の横暴で疫病やら飢餓に苦しんでる国もあるって聞くからな。……俺は、俺の周りをそうはしたくないだろ?」
「そうね。世界にはまだ理不尽な国もあるわね。……でも、私は今のこの時間が大好きよ。マヤ」
「だからロビン、抜け駆け禁止!」
泥臭い作業の横で繰り広げられる、平和な女子トーク。
マヤはタオルで顔を拭きながら、二カッと純粋な少年のように笑った。
「みんな、ありがとうな。こうして一緒にいてくれてよ……心強いよ」
その一切の曇りもない笑顔に、ナミとロビンは顔を見合わせ、小さく息を吐いた。
「……そういうところですよ、まったく」
しらほしもまた、海に半分顔を沈めながら、真っ赤になって泡を吹いていた。
そこへ――。
「あーっ!! あったえ!! あのデカい人魚、わちきのものにするえ!!」
耳障りな甲高い声と共に、防護服のようなカプセルを被ったずんぐりとした男――チャルロス聖が、数人の黒服を引き連れてテラスに乱入してきた。
その後ろには、冷ややかな目をした彼の妹、シャルリア宮も続いている。
「ひっ……!?」
しらほしが、かつて自分を奴隷にしようとした他の天竜人の存在に怯え、海の中へ身を隠そうとする。
「おやめなさいお兄様。あれはマヤのお気に入りで、彼の所有物でアマス」
シャルリア宮が、扇子で口元を隠しながら冷たくたしなめた。
「マヤの所有物に手を出せば、どうなるか……わかっているアマスか?」
チャルロスは「うっ」と怯んだが、それでも強欲な目をしらほしから離そうとしない。
マヤはタオルを首にかけ、ゆっくりとチャルロスの前へと歩み寄った。
「チャルロス。なんでもかんでも力ずくで欲しがる癖は直せ。いたぶるだけじゃ、人はまともに動かないぞ」
「うるさいえ! わちきは天竜人だえ! 欲しいものは全部――」
「お前、この前シャボンディで下々民(ルフィ)に殴られただろ?」
マヤの静かな、だが絶対的な威圧感を伴った一言に、チャルロスの顔面からスッと血の気が引いた。
「自分の足場も固めずに、ただ権力を振りかざして好き勝手やってるから、あんな野良犬の海賊に舐められるんだ。舐められたくないなら、もう少し賢くやれ。……ここは俺の宮殿だ。帰れ」
「ひっ……わ、わかったえ……!じょじょうだんだえ。幼馴染じょーくだえ、」
チャルロスは逃げるようにテラスから立ち去り、シャルリア宮も「またくるアマス」と一瞥を残して後を追った。
しらほしは、その光景を震えながら見つめていた。
(他の天竜人の方々は、あんなに恐ろしいのに……マヤ様は、ご自分の力で私を完璧に守ってくださっている……)
しらほしの胸の中で、マヤに対する絶対的な信頼と敬愛が、さらに深く根を下ろした瞬間だった。
――一方、その頃。
マヤの宮殿から遙か一万メートルの海底。魚人島の外れにある薄暗い入り江では、全く別の『現実』が麦わらの一味を押し潰そうとしていた。
「……腹減ったァァァ!! 肉!! 肉食いてェェェ!!」
半壊したサニー号の甲板で、ルフィが餓鬼のように手足をばたつかせて喚いていた。
修理には、船大工たちが総出でかかっても一ヶ月はかかる。しかし、問題は船の修理費(マヤが前払い済み)ではなく、彼ら自身の『生活費と食費』だった。
「うるせェ!! 少しは我慢しろルフィ!!」
サンジが、血走った目でルフィの頭を蹴り飛ばした。
「手持ちのベリーはもう底を尽きかけてんだ! お前のバカみてェな胃袋を満たす肉なんか買えるか!! 今日も海底で拾ってきたワカメのスープだ!!」
「ええええ!? また草かよ!! 力が出ねェよォ!! お前ら、なんか仕事して肉買ってこいよ!!」
「てめェ……殺すぞ!!」
サンジが本気でルフィの胸ぐらを掴む。
ゾロは甲板の隅で腕を組み、重苦しい沈黙を保っていた。フランキーは無言で修理を手伝い、チョッパーとブルックは空腹で動けなくなっている。
航海士(ナミ)という優秀な財務管理者がいなくなったことで、一味の家計は完全に崩壊していた。
さらに悪いことに、ルフィが「島の守護者であるマヤ聖(天竜人)」を襲撃したという噂は島中に知れ渡っており、誰も彼らに仕事を与えようとしなかった。白ひげ海賊団の睨みも効いており、海王類を勝手に狩ることもできない。
エースの弟という肩書きも、マヤがエースを保護している以上、ルフィを擁護する理由にはならなかった。
「……だいたいよォ」
ルフィが、不満げに唇を尖らせた。
「なんであんな奴(マヤ)が手配した船大工なんかで直してんだよ! 俺はあいつの世話になんかなりたくねェ! あいつはナミたちを奴隷にした悪い奴だぞ!!」
その言葉が、ついに張り詰めていた糸を断ち切った。
「いい加減にしろォォォ!! ルフィ!!」
ウソップが、涙と鼻水を垂らしながら、ルフィの胸倉を力任せに掴んで怒鳴りつけた。
「う、ウソップ……?」
「お前のその意地のために、俺たち全員、この海底で餓死しろってのか!?」
ウォーターセブンの時のような、船への愛着による喧嘩ではない。これは、純粋な『生存』と『船長の責任』を問う、生々しい絶望の叫びだった。
「ナミもいねェ、金もねェ! お前が騒いだせいで、島中の奴らが俺たちを厄介者扱いしてんだぞ!! 船を直さなきゃ海にも出られねェのに、お前はまだ『自分の嫌いな奴だから』ってだけで現実から目を逸らす気か!!」
「ウソップ、お前まであいつの味方すんのか!!」
「味方なんかしてねェ!! 現実を見ろって言ってんだ!! お前は船長だろ!! 自分の意地より、仲間を生かすことを優先しろよ!!」
ルフィは、ウソップの悲痛な正論に言葉を失った。
振り返ってゾロとサンジを見ても、二人はルフィから目を逸らし、無言で海を見つめていた。誰も、ルフィの味方をしない。
誰かが悪い奴だから起きている問題ではない。
ルフィ自身の「生活能力の無さ」と「現実を見ない意地」が、仲間を苦しめ、一味を内部から崩壊させている。
自分はもう、誰も救えない。ただ仲間を飢えさせるだけの、無力な子供なのだ。
マヤが何の手出しをしなくても。
ルフィという英雄のアイデンティティは、海底の暗闇の中で、静かに、だが確実に削り取られていた。