どぶさらいと天竜人と海賊   作:マイナーチョコ

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第19話】『プロレス不成立と、泥臭い現実

深海一万メートル。太陽の光が届かない絶対的な暗黒の海中を、特殊な樹脂のシャボンに包まれた一隻の海軍軍艦が、音もなく漂っていた。

 

魚人島を遠巻きに見下ろす位置に停泊したその軍艦の甲板で、海軍の英雄と称される中将、モンキー・D・ガープは、手にした双眼鏡を重々しく下ろした。

潮風のない、ゴムと樹脂の匂いが充満する甲板には、重苦しい静寂が落ちている。ガープの険しい顔には、普段の豪快な笑みは欠片もなく、ただ深く、苦い疲労だけが刻まれていた。

 

「……プロレス、じゃと……。いきな真似をさせてくれるわい」

 

ガープは低く唸り、海を隔てた先にある美しき海底の楽園、リュウグウ王国の輝きを睨みつけた。

 

数日前。ガープは、若き天竜人、神鬼マヤ聖から直接の通信を受けた。

内容は、魚人島でマヤを襲撃した自身の孫、ルフィの処遇についてだった。

 

本来であれば、天竜人への暴行は問答無用で海軍大将が動く大罪である。その場で黄猿の光速の蹴りで頭を吹き飛ばされていても、インペルダウンの最下層で永遠の拷問を受けていても、一切の文句は言えない。それが世界の絶対的な法であり、現実だ。

だが、マヤはガープに対し、ひどく平熱な声でこう告げたのだ。

 

『ルフィの件だが、大将は動かさない。あんたが直接追跡しろ、ガープ。……適度に危機感を煽って海へ追い立てる「プロレス」で構わない』

 

それは一見、孫の命を救うための温情のように聞こえるかもしれない。しかし、海軍の裏も表も知り尽くしたガープには、マヤの声色に「情」など微塵も含まれていないことが痛いほど理解できていた。

マヤはルフィに何の興味も、何の思い入れも持っていない。

 

『あんたには海軍の英雄としての顔がある。俺は別に、大将を動かして無駄な血を流し、魚人島の平穏を乱したいわけじゃない。それに、俺の手の者が過去に世話になった分の、最低限の「手切れ」だ。……孫が可愛いなら、あんたの手で適度に痛めつけて、自分の無力さを教えてやれ』

 

マヤがガープに与えたのは「恩赦」ではなく、「英雄ガープの顔を立ててやるための政治的妥協」に過ぎなかった。

本来なら即刻処刑されて然るべき大罪を犯した愚かな海賊を、あえて泳がせ、身内の手で追わせる。そうすることで海軍の面子を保ちつつ、マヤ自身は手を汚さずに厄介払いをする。

その冷徹なまでの為政者としての合理性に、ガープは背筋が凍る思いだった。

 

ルフィの「海賊王になる」という身の程知らずの夢など、彼の目には路傍の石ころの転がり方に等しいのだ。

 

「……じゃが、マヤ星。お前さんの用意した優しさすら、あいつらには上等すぎたようじゃぞ」

 

ガープは再び双眼鏡を構え、魚人島のはずれ、暗く湿った入り江の最下層にある薄汚れた安宿の窓を覗き込んだ。

 

そこには、四皇や海軍に立ち向かう気概に満ちた若き海賊たちの姿はなかった。

あるのは、日々の生活苦と飢えに顔を歪ませ、互いに牙を剥き合う、惨めな男たちの泥臭い現実だった。

 

---

 

魚人島の歓楽街から遠く離れた、日差し(陽樹イブの光)すら満足に届かない入り江の裏通り。

その一角にある、カビと潮の匂いが染み付いた安宿の一室で、麦わらの一味は重苦しい沈黙と苛立ちの中にいた。

 

「……肉……。肉が、食いてェ……」

 

薄汚れた畳の上に大の字で倒れ込んでいるのは、一味の船長であるルフィだった。

かつて無尽蔵のエネルギーで暴れ回っていたゴム人間の面影はない。極度の栄養失調とカロリー不足により、頬はゲッソリとこけ、手足は枯れ木のように細くなっている。覇気を練るどころか、立ち上がることすら億劫なほどに衰弱しきっていた。

 

「うるせェ!! 少しは黙ってろルフィ!!」

 

狭い粗末な台所で、包丁を握っていたサンジが血走った目で怒鳴り声を上げた。

彼の足元には、市場で捨て値で売られていた硬い海藻と、骨ばかりで身の少ない深海魚の残骸が転がっている。

 

「手持ちのベリーはもう完全に底を尽いたんだ! お前のバカみてェな胃袋を満たせるような肉を買う金が、どこにあるってんだ!! 今日もこの海藻のスープと、魚の骨の出汁で我慢しろ!!」

「えええええ!? また草かよ!! んなもん食っても、全然力が出ねェよォ!! お前ら、もっと仕事して稼いでこいよ!!」

 

ダンッ!!

サンジの蹴りが、床に転がるルフィの頭を情赦なく蹴り飛ばした。

 

「てめェ……本気でぶっ殺すぞ!! 誰のせいでこんなことになってると思ってんだ!!」

 

サンジの怒声が、狭い部屋にビリビリと響き渡る。

部屋の隅では、フランキーが頭を抱え、ブルックが壁に寄りかかって虚ろな目をしている。ゾロは腕を組んで目を閉じ、この惨状から意識を切り離すように無言を貫いていた。

 

サウザンド・サニー号の修理は、現在も入り江のドックで進行中だった。

マヤがナミとロビンへの「手切れ金」として全額を前払いしたおかげで、腕利きの船大工たちが総出で作業に当たっている。しかし、竜骨までダメージを受けた船を完璧に直すには、丸一ヶ月の時間を要する。

 

問題は、その一ヶ月間の「生活費」だった。

 

優秀な財務管理者であったナミが去ったことで、一味の財布は完全に管理能力を失っていた。

残された男たちは、生きるために魚人島で日雇いの仕事を探した。フランキーは造船所の助っ人として、サンジは飯屋の厨房で、ブルックは広場での演奏で、それぞれが懸命に日銭を稼いだ。

 

だが、彼らがどれだけ働こうとも、ルフィという『赤字製造機』の底なしの胃袋が、稼いだ端から全てを食い潰してしまうのだ。

常人の何十倍ものカロリーを消費するゴム人間。彼を満たすための食費は、日雇い労働の賃金で賄える次元ではなかった。

 

さらに悪いことに、彼らを取り巻く環境は最悪だった。

島の住民たちは皆、マヤ聖を「魚人島を救った大恩人」として神のように崇めている。そのマヤ聖の宮殿に不法侵入し、あろうことか殴りかかろうとしたルフィは、島中から『恩知らずの野良犬』『平和を乱す厄ネタ』として忌み嫌われていた。

 

『天竜人に逆らった海賊を雇っていると知れれば、店が潰される』

『マヤ聖の威光に泥を塗る奴らに、売る食料はない』

 

まともな仕事は回ってこず、市場では食料を露骨に値上げされ、時には売ることすら拒否された。

海に出て海王類を狩ろうにも、周囲は四皇・白ひげ海賊団の絶対的な縄張りである。許可なく勝手に狩りをして暴れれば、今度こそ白ひげの部隊に海に沈められる。

マヤという絶対的な為政者と、白ひげという圧倒的な武力。その二つのルールに完全に縛られ、彼らは手足を搦め捕られていた。

 

「……だいたいよォ」

 

床に転がったまま、ルフィが不満げに唇を尖らせた。

 

「なんで、あんな奴(マヤ)が手配した船大工なんかで船を直してんだよ。俺は、あいつの世話になんかなりたくねェ! あいつは、ナミたちやしらほしを奴隷にした悪い天竜人だろ! そんな金で直した船なんかで、海に出たくねェ!!」

 

パツン、と。

部屋の中で、何かが決定的に切れる音がした。

 

「……いい加減にしろォォォォォ!! ルフィィィ!!」

 

ウソップだった。

彼は涙と鼻水を顔いっぱいに垂れ流しながら、ルフィの胸倉を力任せに掴み上げ、激しく揺さぶった。

 

「う、ウソップ……?」

「お前のそのクソくだらねェ意地のために!! 俺たち全員、この海底のどぶで餓死しろってのか!!」

 

ウソップの絶叫は、船長への諫言などという生易しいものではなかった。純粋な『生存の危機』から来る、魂からの怒りだった。

ウォーターセブンでメリー号を手放すか否かで揉めた時とは、根本的に重さが違う。あの時はまだ「海賊としての価値観の相違」だった。しかし今は違う。ルフィの行動は、ただ仲間の命を無意味な危険に晒しているだけなのだ。

 

「ナミもいねェ! ロビンもいねェ! 金も食い物もねェんだぞ!!」

ウソップは、力のないルフィを壁に叩きつけるようにして怒鳴り続けた。

「お前が勝手に暴れたせいで、島中の奴らが俺たちを厄介者扱いしてんだ!! 船が直らなきゃ、海に出ることすらできねェのに……お前はまだ『自分の気に食わねェ奴だから』ってだけで、現実から目を逸らす気か!! お前が意地を張って、ここで俺たちが飢え死にして、それがお前の言う『海賊王』への道なのかよ!!」

 

ルフィは、虚ろな目をわずかに見開き、ウソップの顔を見た。

「ウソップ……お前まで、あいつの味方すんのか……」

 

「味方なんかしてねェ!! 現実を見ろって言ってんだよ!!」

 

ウソップの喉から血が滲むような声が出た。

 

「俺だって天竜人なんか大嫌いだ! あんな奴の金なんか使いたくねェ! ……でもなァ、今この金に縋らなきゃ、俺たちは終わりなんだよ!! お前は船長だろ!! 自分のチンケな意地より、仲間を生かすことを優先しろよ!!」

 

ルフィは、言葉を失った。

何かを言い返そうと口を開いたが、腹の底から湧き上がるはずの覇気も、言葉の熱も、今の痩せ細った体からは何も出てこない。

助けを求めるように視線を動かしたが、ゾロは壁に寄りかかったまま目を伏せ、サンジはタバコを深く吸い込んで煙を吐き出すだけだった。誰も、ルフィの「信念」を擁護しようとはしなかった。

 

それが、答えだった。

ゾロやサンジは、マヤの政治的な手腕と、彼が魚人島やナミたちにもたらした「絶対的な安全」を、冷静に理解している。マヤはルフィを苦しめようとして罠を張ったわけではない。ただ、彼自身の責任として手切れ金を払い、日常に戻っただけなのだ。

今のルフィの姿は、自分の生活能力の無さと、感情論だけの意地で仲間を巻き添えにしている、ただの無責任な子供に過ぎなかった。

 

部屋の中に、重く、淀んだ絶望の空気が澱み続ける。

冒険のワクワクも、強敵に立ち向かう高揚感もない。ただ、明日の食い物をどうするかという泥臭い現実だけが、彼らの心を削り取っていた。

 

---

 

「…………」

 

はるか遠く、軍艦の甲板からその一部始終を望遠鏡で観察していたガープは、大きなため息と共に双眼鏡をケースに放り込んだ。

 

胃が、キリキリと痛む。

海軍の英雄として数々の死羅場を潜り抜けてきたガープでさえ、今目の前で見せられている光景は、あまりにも直視に耐えないものだった。

 

孫は、海軍の誇りをかけて戦うべき「強大な悪」ですらなかった。

ただの、生活に困窮し、身内でいがみ合うだけの、惨めなフリーターの集まり。

 

ガープは懐から特別製の電伝虫を取り出し、ダイヤルを回した。

数回のコールの後、ガチャリという音と共に、静かで平熱な声が響いた。

 

『おう。マヤだ』

 

背景には、どこかの宮殿の優雅なクラシック音楽か、あるいは波の音が微かに聞こえる。少なくとも、飢えと泥臭さとは対極にある、完全に管理された平和な世界からの声だった。

 

「……マヤ。ワシじゃ」

『ガープか。どうした? 孫のプロレスは順調か? ちゃんと海軍の面子を保つように、派手に追い回してくれてるんだろうな』

 

マヤの声には、純粋な確認以上の感情はない。

ガープは重い額に手を当て、搾り出すように報告した。

 

「……すまんが、マヤ聖。プロレス、できんのじゃが」

 

『……あ?』

マヤの声が、微かに怪訝なものに変わる。

 

「ワシが追っかける以前の問題じゃ。あいつら……船が直るのを待つ間に、日々の生活苦と食費で自滅しそうになっとる……。仲間内で胸倉掴み合って、餓死寸前じゃ……」

 

数秒の、完全な沈黙が電伝虫越しに流れた。

やがて、マヤの口から、心底呆れ果てたような、冷たく短い息が漏れた。

 

『……そうかよ』

 

マヤの声は、氷のように冷徹だった。

 

『なら、放っておけ。それがそいつらの「現実」だ』

 

『誰に頼まれるでもなく、てめェの足で海に出たんだろ。なら、飯が食えないのも、船が出せないのも、全部てめェらの責任だ。俺は手切れ金として船の修理代は出してやった。それ以上、野良犬の生活まで面倒を見る義理はねェ』

 

正論。あまりにも、反論の余地がない絶対的な正論だった。

本来なら処刑されるべき大罪人を、ここまで手心を加えて生かしておいてやったのだ。これ以上何を望むというのか。

 

『プロレスの件はもういい。適当に周辺を哨戒してるフリでもしてろ。あいつらが海底で餓死しようが、仲間割れして海賊をやめようが、俺の知ったことじゃねェ』

 

「……すまんの、マヤ聖」

『謝るな。あんたのせいじゃない。……俺は今から、アラバスタに行く用事がある。切るぞ』

 

ガチャリ。

一方的に切られた電伝虫を見つめながら、ガープは深く、暗い海に向かって息を吐き出した。

 

マヤは、次に動く。

彼がアラバスタへ向かう理由。それが、かつてルフィ達が命を懸けて救った国に対する「過去の清算」であり、ルフィという存在の痕跡を、政治的に完全に消し去るための行為であることを、ガープはまだ知らない。

 

海底の安宿で飢えに苦しむ孫。

その頭上ではるかに高く、マヤという神鬼が、世界を確実に、そして残酷なまでに平和へと作り変えようとしていた。

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