シャボンディ諸島の高級居住区に位置する、マヤの宮殿。
広大な敷地と、大理石で設えられた荘厳な内装は、ここが世界最高権力者である天竜人の住まう場所であることを雄弁に物語っていた。
だが、その一室に案内されたナミとロビンは、あまりの厚遇に戸惑いを隠せずにいた。
奴隷の首輪をつけられることもなく、豪奢なベッドと衣服が与えられ、食事も望むまま。
「保護しただけだ」「メイドみたいなもんだ」というマヤの言葉は、決して天竜人特有の気紛れな嘘ではなかった。彼は本当に、二人を客人か、あるいは自室の観葉植物程度の認識でただそこに「置いている」だけだった。
翌日の昼下がり。
宮殿の応接室に、重苦しい空気が立ち込めていた。
「マヤ聖。昨日の件は、海軍を代表して深く謝罪いたします」
深々と頭を下げたのは、海軍本部元帥、仏のセンゴクだった。
その斜め後ろには、昨日の一件に立ち会った大将・黄猿が、相変わらず飄々とした、だがどこか探るような目で控えている。
豪華なソファに深く腰掛けたマヤは、テーブルの上の紅茶を一口飲み、無造作に頬杖をついた。
「謝罪は受け取るよ。シャルリアも怪我はなかったしな。……で? 海軍のトップがわざわざ足を運んできたってことは、本題は別にあるんだろ」
「……はい。そこに控えておられる、ニコ・ロビンについてです」
センゴクの鋭い視線が、マヤの後ろで身を硬くするロビンへと向けられた。
「彼女だけは、世界政府の法において海軍へ引き渡していただきたい」
「なんで?」
マヤの平熱な問い返しに、センゴクの眉間が険しくなる。
「彼女は『オハラ』の生き残り。歴史の本文(ポーネグリフ)を解読し、世界を滅ぼす古代兵器を復活させかねない、悪魔の申し子です」
「ふうん。で、そのオハラってところでは何があったんだ?」
マヤは全く事情を知らないというように、首を傾げた。
センゴクは一瞬言葉を詰まらせたが、相手が天竜人である以上、隠し立てはできない。
「……法を破り、世界に牙を剥いた学者たちを、国家ごと『バスターコール』で消し去りました。世界を守るための、苦渋の正義です」
「なるほどな」
マヤは紅茶のカップを置き、静かに口を開いた。
「学者を殺すのは、お前らのルールなら好きにすればいい。だがよ……」
マヤは振り返り、顔を青ざめさせているロビンを一瞥した。
「二十年前ってことは、そいつは当時、ただの子供だろ? お前ら、国を焼き払って、たった一人の子供を二十年も追い回して、世界中から裏切られるように仕向けて『悪魔』に仕立て上げたのか?」
「それは……! 危険な思想は、種から絶たねばならないという判断で――」
「子供一人に世界の罪を全部背負わせて、逃げ回る生き方を強いるのが、お前らの言う『正義』なのか?」
静かな、だが絶対的な理詰めが、応接室の空気を氷点下まで冷え込ませた。
センゴクがギリッと奥歯を噛み締める。
「俺はこいつを預かると言った。なおさら渡すわけにはいかねぇな。……まぁ、本人が行きたいって言うなら話は別だが。どうする、ロビン?」
「……私は……」
ロビンは震える唇を噛み、絞り出すように言った。
「ここに、いさせてください」
「だそうだ。いいぞ。好きなだけいろ」
マヤはあっさりと頷き、センゴクに向き直った。
「それによ。危険思想っていうなら、今この瞬間のお前たちの判断、二十年経って『危険思想』だって思わないか?」
「…………ッ」
「わかってるんだろ? 過去のバスターコールも、子供を執拗に追い回すことも、本当は『悪かった』ってよ。だが、今さら引っ込みがつけられない『上』がいるってことだろ?」
センゴクの目が限界まで見開かれた。
海軍元帥としての立場、五老星からの圧力、そして自身の中にある正義の矛盾。それを、目の前の若き天竜人は完全に看破していた。
「だから、俺が保護した。天竜人が権力で無理やり囲った。それでいいじゃねーか。上にはそう報告して、お前らはメンツを保てばいい」
「……マヤ聖、あなたは……」
黄猿がサングラスの奥で目を細めた。海軍の懐事情まで見透かし、逃げ道まで用意する。単なる我儘な権力者の振る舞いではない。
バンッ!
その時、応接室の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。
「マヤ! 遊びに来たアマス!」
透明なヘルメットを被ったシャルリア宮が、護衛も連れずに軽やかな足取りで室内へと入ってきた。
張り詰めていた空気が、一瞬で間抜けなものに変わる。
「おう。ちょうど来客の話が終わるところだ」
「海軍の元帥と大将でアマスね。マヤに何か失礼なことをしたアマスか?」
「い、滅相もございません、シャルリア宮……」
海軍の最高戦力たる二人が、我儘な少女の登場に露骨に肩をすくませた。
マヤはその様子に小さく息を吐き、思い出したように尋ねた。
「そうだ、センゴク。昨日の『あいつら』が起こした騒ぎの被害はどうだった?」
「……逃げ遅れた一般市民に死者三名、重軽傷者数十名。パシフィスタの破壊による損害、及び応戦した海兵にも多数の重傷者が出ております」
事務的な報告だったが、その内容は凄惨だった。
マヤは振り返り、部屋の隅に控えていたナミとロビンを見据えた。
「聞けよ、お前ら。これが、お前らの船長が『友達を傷つけられたから』って理由で起こした騒ぎの、本当の『結果』だ」
「…………っ」
ナミの顔から血の気が引いた。
「俺を殴るために帽子を必死に奪い返そうとするようなガキが、感情のままに動いて、関係ない市民が三人も死んだ。海賊ってのはそういう生き物だ。わかったか?」
死者三名。
そのリアルな数字が、ナミとロビンの胸を鋭く抉った。ルフィの純粋さは、時に圧倒的な暴力となって無関係な者を蹂躙する。その事実から、もはや目を背けることはできなかった。
「そういえばよ」
沈痛な空気を引き裂くように、マヤが唐突に話題を変えた。
「昨日、レイリーとかいう爺さんがやってた威圧……あれ、何て言うんだ?」
「覇王色の覇気……数百万人に一人しか持たない、王の資質ですがねェ」
黄猿が訝しげに答えると、マヤは「へえ」と小さく頷いた。
「こんな感じか?」
ズンッ……!!
応接室の空間が、物理的に歪んだ。
マヤの体から放たれた『念の威圧』――修羅の殺気と混ざり合ったそれは、正真正銘、最上級の覇王色の覇気として具現化し、部屋中の空気を軋ませた。
テーブルの上のティーカップがひび割れ、窓ガラスが悲鳴を上げる。
センゴクと黄猿は息を呑み、咄嗟に全身の筋肉を硬直させてその圧倒的な重圧に耐えた。
マヤの背後にいたナミやロビン、そしてシャルリア宮には、不可思議なことにその威圧は一切向けられていなかった。的確なコントロールによる完全な指向性。
「な……っ!」
「マヤ聖、あなたは覇王色までも……!」
「なるほど。ついでに、こんなのもできるな」
マヤは右手を軽く持ち上げた。
バチッ、バチバチッ……!!
赤い髪を揺らすマヤの拳に、黒と赤の禍々しい稲妻が纏わりつく。
自身の練り上げた念と覇王色を衝突させ、拳の表面で高密度に圧縮した状態。それは海軍の最高戦力でさえ一握りしか到達できない絶技、『覇王色纏い』に他ならなかった。
「纏うこともできるのか。こいつは便利だな」
「…………ッ!!」
センゴクの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。
天竜人でありながら、四皇クラスの覇王色を無造作に操り、さらには纏うことまでやってのける。
目の前の男は、怒らせてはならない。世界政府の根幹を揺るがしかねない、規格外の怪物だ。
海軍トップの二人は、逃げるようにマヤの宮殿を後にした。
数日後。
マヤの宮殿の広大な一室には、海軍を通じて手配された世界最高級の製図道具一式と、歴史に関する膨大な量の文献が運び込まれていた。
目を輝かせるナミとロビンに、マヤは無造作に言った。
「資料は好きに見ていいぞ。海図のデータもある。だが今日は、外の惨状を見に行くぞ」
シャルリア宮も「私も行くアマス!」と当然のように追従し、四人は宮殿を出て1番GRへと向かった。
人間オークション会場周辺の街並みは、数日経った今でも無惨な爪痕を残していた。
ひび割れた大地、崩壊した家屋。怪我の手当てを受けながら、焼け出された荷物の前で途方に暮れる住人たち。
ナミは息を呑んだ。
これが、ルフィが天竜人を殴った代償。海賊が『自由』を振りかざした後に残る、残酷な現実だった。
「マヤ様……っ!」
瓦礫を片付けていた住民の一人が、マヤの姿を認めて駆け寄ってきた。
「この間はお助けいただき、本当にありがとうございます……っ」
「ああ。怪我の具合はどうだ。家が直るまでは、海軍が立てたテントを使え」
「マヤは、やっぱり変わってるアマス!」
シャルリア宮が、泥と埃に塗れた街を歩きながらヒステリックな声を上げた。
「わざわざこんな泥と瓦礫の場所に来て、下々民の話を聞くなんて!」
「放っておいたら、街が腐るだろ。俺は汚いのが嫌いなんだよ」
マヤは呆れたように言い返し、足を怪我して泣いている子供の前にしゃがみ込んだ。
そして、その小さな足にそっと手をかざす。指先から淡い光――医療の念――が流れ込み、数秒で傷が塞がっていった。
子供が泣き止み、不思議そうにマヤを見上げる。
「マヤ、貴方またそんな得体の知れない力を……」
「便利だろ。痛いよりは笑ってる方がいい」
マヤは立ち上がり、背後の二人を振り返った。
「俺を殴るために必死になってた裏で、この街の連中がどうなってたか。……目に焼き付けておけ」
ナミの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
海賊の冒険は楽しい。仲間との絆は本物だった。
けれど、その裏でどれだけの人間が泣いているのか、想像したことすらなかった。
ロビンは、瓦礫の街で平民に手を差し伸べる天竜人の背中を、静かに見つめていた。
絶対的な安全圏を与え、自身の過去を『危険じゃない』と肯定し、圧倒的な力で守り抜く男。
ルフィたちの船に乗っていた時の暖かさとは違う。ここにあるのは、揺るぐことのない『庇護』だった。
(私たち……本当に、海賊でいる必要なんて、なかったのかもしれないわね)
ロビンの胸の中にあった麦わらの一味への未練は、この焼け跡の景色と、マヤという男の背中を見た瞬間に、完全に消え去っていた。