赤い土の大陸(レッドライン)の影に隠された、世界政府専用の巨大な秘密港。
そこに停泊していたのは、一般的な海賊船や海軍の軍艦とは根本的に次元の違う『怪物』だった。
全長およそ一五〇メートル。流線型の白亜の船体は、風の抵抗を極限まで計算し尽くされた滑らかなフォルムを描き、船首には世界政府と天竜人の権威を示す荘厳な紋章が黄金の輝きを放っている。巨大なマストや帆は存在せず、代わりに船体の下部からは、海楼石をふんだんに用いた特殊な装甲と、未知の動力を生み出す機関の低い駆動音が響き渡っていた。
「……嘘でしょ、これ……っ!」
出航して間もなく、甲板の最前列で手すりに身を乗り出していたナミが、震える声で叫んだ。
彼女の瞳は、これまでにないほどの強烈な知的好奇心と興奮で、キラキラと輝いている。
現在、彼らが航行しているのはグランドラインの両脇を挟む『無風帯(カームベルト)』である。風は一切吹かず、潮の流れすら存在しない死の海域。通常の帆船であれば進入した瞬間に立ち往生し、海底に潜む超巨大な海王類たちの餌食となる絶望の海だ。
しかし、この天竜人専用の高速艇は、無風状態など全く意に介さず、圧倒的な推力で静かな海面を切り裂くように直進していた。しかも、船底に施された海楼石の恩恵により、海王類たちは船の存在に気づくことすらなく、静寂の中をただ矢のように進んでいく。
「風がないのに、なんでこんな速度が維持できるの!? 機関室はどうなってるの!? スクリューの形状は!? ちょっと、このまま直進できるなら……今まで海流に邪魔されて測れなかった航路が、全部直線で繋がるじゃない!!」
ナミは手にした測量計と真新しい海図を広げ、デッキを右へ左へと走り回っては、信じられない航行性能に歓喜の声を上げていた。
航海士にとって、天候や海流という絶対的な自然の壁を「科学力と資金力」で物理的にねじ伏せるこの船は、まさに魔法の産物である。
ルフィたちとの航海では、常に天候の急変に命を懸け、海流を読み切り、ボロボロになりながら進むのが常識だった。だが今、彼女の目の前には、世界を自分の手で正確に測り切るための『最強の足』がある。
「すごい……! 帰りも同じ航路をそのまま戻れるんでしょ!? これならグランドラインの気候分布の逆算も完璧にできるわ!!」
甲板ではしゃぎ回るナミの姿を、パラソルの下にあるデッキチェアから、マヤが優雅に冷えたグラスを傾けながら眺めていた。彼はいつも通りのラフなシャツ姿だが、その身のこなしには拭い切れない気品が漂っている。
「……おい、マヤ」
マヤの背後に立つ、黒のスーツに身を包んだ護衛――ポートガス・D・エースが、呆れ果てたようにサングラスを押し上げた。
「お前、こんなすげェ船を持ッてたのかよ」
「ん? 持ってたぞ?」
「じゃあなんで、俺をインペルダウンに迎えに来た時や、シャボンディの移動で使わなかったんだよ!」
エースの当然のツッコミに、マヤはグラスの氷をカランと鳴らし、心底不思議そうな顔を向けた。
「あの時は、海軍のメンツを立てて海軍の船で行く必要があっただろ。あれは海軍の管轄だったしな。だが今回は、アラバスタの王族に会うんだ。天竜人としての『格式』を見せる必要がある」
「……そういう問題か?」
「そういう問題だ。俺の気まぐれだけでどうにかなる話じゃねェんだよ」
マヤは軽く肩をすくめ、海原を見つめた。
「この船を動かすには、裏で大勢の人間が整備や根回しをしてくれてる。そういう連中が俺の『メンテナンス』をしてくれてるから、俺もあいつらが平和に暮らせるように、どぶさらいをして足元の『メンテナンス』をしてたんだ。……使える権威は、必要な時にだけ最適に使う。無駄に振りかざして威圧したって、人はついてこねェよ」
そのマヤの言葉に、隣のデッキチェアで読書をしていたロビンが、静かに本を閉じてふふっと微笑んだ。
「必要な時にだけ、最も効果的な手札を切る。……本当に、恐ろしい方ね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「ええ、最大級の賛辞よ。……でも、ナミがあんなにはしゃいでる姿を見るのは久しぶりだわ」
ロビンの視線の先では、ナミが船長や機関士を捕まえて、専門用語を連発しながら質問攻めにしている。彼女は今、これまでの過酷なサバイバルから解放され、純粋に自分の夢である『世界地図の作成』に没頭していた。
泥臭く、常に飢えや命の危機と隣り合わせの海賊の旅では、決して得られなかった絶対的な安全と最先端の知識。それが今、マヤの庇護の下で彼女に与えられているのだ。
「ま、楽しそうなら何よりだ。今回はあいつらにとっても、大きな節目になるからな」
マヤは目を細め、遥か前方にうっすらと見え始めた巨大な大陸の影を見据えた。
天竜人の技術の粋を集めたこの船は、通常の海軍船なら1週間もかかるであろう死の海域を、わずか四日で走破してみせた。
砂の国、アラバスタ王国が、いよいよ目前に迫っていた。
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アラバスタ王国の首都、アルバーナ。
王宮の正面玄関には、最高級の絨毯が敷かれ、国軍の精鋭たちが微動だにせず立ち並んでいた。
灼熱の太陽が照りつける中、国王ネフェルタリ・コブラと、王女ネフェルタリ・ビビは、流れる汗を拭うこともせず、ただ緊張の面持ちで「その時」を待っていた。
世界最高権力、天竜人の訪問。
通常であれば、アラバスタのようなグランドラインの国に天竜人が直接出向くことなどあり得ない。もし何かあれば、海軍大将が飛んできて国そのものが火の海になる。国を挙げての厳戒態勢の中、巨大な神輿のような御所車ではなく、一台のシックで洗練された馬車が王宮の前に静かに滑り込んだ。
扉が開き、降り立ったのは、世界政府の頂点に立つ者とは思えないほど若く、しかし研ぎ澄まされた刃のような覇気を静かに纏う男――シンキマヤ聖だった。
白を基調としたフォーマルなスーツを完璧に着こなし、その赤い瞳は平熱のまま、コブラとビビを真っ直ぐに捉えている。
「よくぞ……よくぞお越しくださいました、マヤ聖」
コブラが深く頭を下げる。ビビもそれに倣い、王女としての完璧な礼を尽くした。
「堅苦しい挨拶は抜きにしようぜ、コブラ王。今日はあんたらと、しっかり話をつけに来た」
マヤが淡々と告げ、背後の馬車を振り返った。
「降りてこい。お前らの番だ」
その言葉と共に、馬車から二人の女性が姿を現した。
その瞬間、ビビの息がヒュッと止まった。
「ナミ……さん……? ロビン……!」
二人の装いは、ビビの記憶にある「海賊」の泥臭さなど微塵もなかった。
マヤが用意させた最高級のシルクで仕立てられたイブニングドレス。ナミは鮮やかなオレンジを基調とし、ロビンは深みのある紫のドレスを纏っている。宝石で飾り立てているわけではないが、その洗練された美しさと堂々とした佇まいは、まるでどこかの大国の王族のようだった。
久しぶりの再会。無事だったかつての仲間たち。ビビの顔にパッと喜びの花が咲きかけた――が、次の瞬間、彼女の表情は凍りついた。
二人のイブニングドレスは、背中が腰のあたりまで大胆に、そして美しく開いたデザインになっていた。
そして、その白い肌の背中の中央には、赤々と、生々しく刻み込まれた『印』があった。
奴隷の証として知られる『天駆ける竜の蹄』――それをベースにしながらも、まるで一匹の龍が『S』の文字に絡みつくようにデザインされた、異質で美しい紋章。
ビビの瞳が限界まで見開かれ、全身の血の気が引いていくのがわかった。
「なっ……!? そ、その背中の印……まさか……!!」
ビビは震える指で二人を指さし、次いで、射殺すような鋭い視線をマヤに向けた。王女としての礼儀も忘れ、彼女の口から激しい怒りの声が爆発しようとした。
「ん?、でも、そのきれいな刻印はなに?」
広場が水を打ったように静まり返る。立ち並ぶ近衛兵たちの顔が一瞬にして強張った。
「ビビ! 控えなさい!!」
コブラが血相を変えて一喝した。天竜人に対する不敬は、最悪の場合、国が滅ぶ大罪である。何より、この門前には兵士や使用人など人目があまりにも多すぎた。
「マヤ聖、娘が無礼を……! どうか平にご容赦を……。このような場所での立ち話も何です、すぐに奥の特別室へご案内いたします」
「構わねェよ」
マヤは気にする素振りもなく、小さく息を吐いた。
「確かに、表で立ち話するような内容じゃないからな。案内してくれ」
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王宮の最奥。外部の音が一切届かない、豪奢な迎賓室。
重厚な扉が閉められ、室内にはコブラ、ビビ、そしてマヤたちの一行だけが残された。エースが扉の前に立ち、無言で周囲に睨みを利かせている。
「さあ、説明してちょうだい。ルフィさん達はどうしたの!? 彼らが……あのルフィさんが、こんなこと、絶対に許すはずないわ!!でも、その刻印は、タトゥーのようでもあるし。どうなってるの?」
人目がなくなったことで、ビビは堰を切ったように悲痛な声でナミたちに詰め寄った。
ビビの中にある麦わらの一味の思い出は、あの小さなゴーイング・メリー号での、笑顔と希望に満ちた眩しい時間で止まっている。仲間のためならどんな強敵にも立ち向かうルフィが、ナミやロビンを天竜人の奴隷にされることなど見過ごすはずがない。
きっと、ルフィ達は戦って敗れ、二人は無理やり連れ去られたのだ。そうに決まっている。
だが、激昂するビビに対し、ナミとロビンは顔を見合わせ、悲壮感など欠片もない、信じられないほど穏やかな笑顔を浮かべた。
そして、隠すどころか、誇らしげに背筋を伸ばした。
「違うの、ビビ」
ナミが、昔と同じように、だがどこか落ち着いた大人の響きで語りかけた。
「これは、私たちが自分の意志で選んだ道よ。マヤ聖は私たちを奴隷になんかしてないわ。……絶対に安全な場所で、私たちの夢を守ってくれているの」
「え……?」
ビビは呆然と立ち尽くした。
「ええ。この印は、彼が世界から私たちを守るための『盾』なのよ」
ロビンが静かに言葉を引き継ぐ。
「魚人島のしらほし姫も、今は彼の大切な保護下で笑っているわ。……ルフィはそれを理解できずに、勝手にマヤ聖を襲撃して、自滅したのよ」
「ルフィさんが……自滅……?」
理解の範疇を超えた言葉に、ビビはめまいを覚えた。あの強くて真っ直ぐなルフィが? ナミとロビンが自ら天竜人の側にいる?
混乱するビビとコブラを前に、ロビンが一歩前へ進み出た。
彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、コブラ王とビビに対し、深く、深く頭を下げた。
「コブラ王。ビビ。……かつて私がクロコダイルに加担し、この国を危機に晒したこと、そして多くの民を苦しめたこと……心から謝罪します。本当に、申し訳ありませんでした」
歴史を解き明かすためとはいえ、バロックワークス副社長としてアラバスタを滅亡の淵に追いやった事実は消えない。ロビンはその重い過去から逃げず、自身の言葉で明確に謝罪を口にした。
「そして、彼……マヤ聖は、私のその『不始末』に決着をつけるために、今日わざわざここへ来てくれたの」
ロビンの言葉を受け、マヤがポケットに手を入れたまま、静かに本題を切り出した。
「そういうことだ。ロビンの件は、俺が責任を持つ。さらに、インペルダウンから脱獄したクロコダイルや、お前らの国に眠るあれを狙うやつらの干渉からこの国を守るため……今日からアラバスタは、俺の『直轄保護下』に置く。これで、誰もお前らの国に手出しはできない。海軍も、海賊もな」
コブラは驚愕に息を呑んだ。
天竜人が、一国の未来と安全を本気で案じ、自らの権力を『盾』として差し出している。
「……マヤ聖は、魚人島でも同じように動かれた」
マヤの背後に控えていた黒服の男――エースが、サングラス越しに低く補足した。
「ルフィに殴られながらも一切の報復をせず、それどころかルフィ達の船の修理代や、シャボンディで壊れた街の修理代まで自腹で出して、事態を丸く収めたんだ。……これほど実務的で、民の血が流れるのを嫌う天竜人は、世界中探してもこの人だけだ」
コブラの目が限界まで見開かれた。
「天竜人が、殴られて報復しないばかりか……自ら修繕費を……? そこまで深く、周囲の民や国の未来まで考えて動く天竜人が……実在するのか……」
「持ち上げすぎるな」
マヤは淡々と首を振った。
「俺は、目の前で知り合いが困ってるなら手を差し伸べただけだ。ルフィの件は別件だ。あいつが勝手に意地を張ってるだけだからな」
ビビは、目の前で紡がれる「真実」に頭が真っ白になっていた。
自分が知っている「悪い天竜人と、正しい海賊」という構図が、根底から崩れ去っていく。マヤはルフィを罠にはめたわけでも、ナミたちを洗脳したわけでもない。
ただ、圧倒的な政治力と不器用な優しさで、ルフィには救えなかったもの(ロビンの過去の罪や国の将来)を完全に処理してしまっているのだ。
「これでアラバスタの安全は担保される。だが、ビビ」
マヤの赤い瞳が、冷徹な光を帯びてビビを射抜いた。
「お前が海賊(ルフィ達)と深く関わっていたという『過去』は、今後の国の政治的負債になる。もしその事実が五老星や他の天竜人に知れれば、アラバスタは海賊の庇護国として制裁を受ける可能性もある」
「……っ」
ビビは痛いところを突かれ、唇を噛んだ。
「だから、彼らとの関係に『政治的な区切り』をつけろ」
マヤは、冷酷なまでに理路整然と解決策を提示した。
「アラバスタからルフィ達へ、『かつて国を救ってくれた恩義に対する航海資金』という名目で、手切れ金を出す。それを受け取らせることで、『これで過去の貸し借りは完全に清算した』という政治的な事実を作るんだ」
「手切れ、金……」
ビビの目から、大粒の涙が溢れそうになる。それは、彼女の青春であり、何よりも大切だった「麦わらの一味との繋がり」を、金という最も現実的な手段で完全に断ち切ることを意味していた。
「実務を成立させるための、必要な経費だ。俺も鬼じゃない、アラバスタの国庫を空にしろと言ってるわけじゃない。足りない分は俺が少し足しておこう」
マヤはあくまで実務者として、感情を差し挟むことなく告げた。
それは、ビビという一人の少女から大切な思い出を奪う残酷な宣告であり、同時に、アラバスタという国を永遠に守り抜くための、最も強固で完璧な防波堤の構築でもあった。った。