どぶさらいと天竜人と海賊   作:マイナーチョコ

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第22話:『シャボンディの日常と、巨大な人魚姫』

 

アラバスタ王国、首都アルバーナから遠く離れた沿岸部の秘密港。

朝日が砂漠の地平線を黄金色に染め上げる中、国王ネフェルタリ・コブラは、眼前の海に浮かぶ威容を前にして、言葉を失っていた。

 

全長およそ一五〇メートル。

一切の過剰な装飾を排し、ただ「最速で海を切り裂く」ことだけを目的として設計されたような、滑らかな流線型の白亜の船体。帆を張るためのマストはなく、船の側面と底部からは、かすかに地鳴りのような未知の駆動音が響いている。

船首には、朝日に照らされて冷たく輝く、世界政府と天竜人の紋章。

 

「これが……マヤ聖の、専用船……」

コブラの隣に立つアラバスタ最強の戦士ペルも、信じられないものを見るように目を丸くしていた。アラバスタの誇る軍艦など、この怪物の前ではまるで小舟だ。

しかし、コブラが真に戦慄しているのは、この船の持つ圧倒的な軍事力や科学力ではない。

 

「……これほどの力、これほどの技術の結晶を持ちながら。あの方は、これをただの『足』としてしか使われないのだな」

コブラの呟きに、ペルが息を呑む。

権力者であれば、この船を誇示し、世界に自らの威光を見せつけようとするのが常だ。だが、あの若き天竜人にとっては、これは単なる移動手段に過ぎない。この巨大な船を動かす莫大な資金も、裏で動く人員も、すべては彼の実務を円滑に進めるための「道具」でしかないのだ。

 

「おう、コブラ。世話になったな」

タラップの上から、ラフなシャツ姿のマヤが軽く右手を挙げた。世界を裏から操る怪物とは思えないほど、その口調は等身大で、どこか気怠げだ。

「じゃあな。国のメンテ、しっかりやれよ」

「はっ。貴方様も、どうか良き旅を」

 

コブラは深く頭を下げ、ペルもそれに倣った。

ビビはタラップを上りながら、何度も何度も故郷の土を振り返った。その背中には、昨日刻まれたばかりの『S』の刻印が、衣服の下でひっそりと熱を持っている。

マヤはそんなビビを急かすこともなく、ただポケットに手を入れたまま、海風に髪を揺らしていた。

やがてタラップが引き上げられ、低い駆動音が一段と高くなる。風を待つこともなく、巨大な船は滑るようにアラバスタの港を離れていった。

 

 

 

 

グランドラインの両脇を挟む、死の海域『無風帯(カームベルト)』。

風は一切吹かず、波一つ立たない鏡のような海面。不気味なほどの静寂が支配するその海域を、天竜人の専用船は矢のような速度で直進していた。

 

「すごい……! 本当に風が全くないのに、速度が落ちないなんて!」

甲板の最前列で、ナミが目を輝かせながら海図と測量計を交互に見つめていた。

「ビビ、見て! 私たち今、カームベルトを突っ切ってグランドラインを逆走してるのよ! 普通の船じゃ絶対不可能な航路だわ。これがあれば、今まで推測でしか描けなかった気候の分布データが完璧に取れるの!」

 

鮮やかなオレンジ色の髪を潮風に揺らし、甲板を右へ左へと走り回るナミの姿は、子供のように無邪気で、喜びに満ち溢れていた。

パラソルの下でその様子を眺めていたロビンが、優雅に紅茶のカップを傾けながらふふっと微笑む。

「ナミがあんなにはしゃいでるの、久しぶりね」

「ああ。まぁ、好きなだけ測らせてやれ。あのデータが溜まれば、今後の航海もずっと楽になるからな」

隣のデッキチェアで読書をしていたマヤが、本から目を離さずに淡々と応じた。

 

ビビは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。

揺れ一つなく、静かに、そして確実に海を進む豪華な船。

ビビの脳裏に、かつて共に旅をした「ゴーイング・メリー号」の記憶が蘇る。

 

メリー号は小さくて、波に揺られっ放しで、嵐が来れば全員でロープを引き、死に物狂いで帆を張らなければならなかった。食料が尽きてひもじい思いをしたことも、海王類に襲われて悲鳴を上げたことも数え切れない。

いつ命を落としてもおかしくない、泥臭くて過酷な旅。

それでも、あの船の上にはいつも、ルフィの底抜けに明るい笑い声が響いていた。仲間たちが肩を組み、バカ騒ぎをして、明日への希望に満ちていた。

 

だが、今のナミはどうだろうか。

彼女は今、天竜人の絶対的な庇護の下、命の危険など微塵もないこの完璧な船の上で、自らの夢である「世界地図の作成」に心から没頭している。

(ナミさんは……可哀想な奴隷なんかじゃない。自分の意志で、あの人の側にいることを選んだのね)

ビビは、ドレスの胸元をきゅっと握りしめた。

ナミが幸せなら、それでいい。ロビンが安全な場所を見つけたのなら、喜ぶべきだ。

頭では分かっている。マヤという男が、理不尽な暴君ではなく、彼なりの優しさと恐るべき政治力で世界を回していることも、コブラの態度を見れば理解できる。

 

(でも……ルフィさんたちは? あの時、一緒に涙を流して別れた私たちの絆は、そんなに簡単に『過去のもの』にされてしまうの?)

ビビの心の中には、まだ燻り続ける火種があった。

マヤが正しいのだとしても、ルフィの真っ直ぐな熱や、どんな困難にも立ち向かっていくあの勇気まで、全て否定されたくなかった。

 

 

 

出航から数日後。

巨大船は、赤い土の大陸(レッドライン)のすぐ近く、無数の巨大なシャボン玉が宙を舞う美しい群島――シャボンディ諸島へと到着した。

太陽の光を反射して七色に輝くシャボン玉が、空高く昇っていく。ビビにとって、それは初めて見る幻想的な光景だった。

 

「ようこそ、シャボンヤルクへ。マヤ聖の宮殿はすぐそこよ」

ロビンに案内され、ビビは港からほど近い場所にある広大な敷地へと足を踏み入れた。

天竜人の宮殿。ビビは、奴隷たちが首輪をつけられ、鞭で打たれながら重労働をさせられているような、血生臭く豪華絢爛な場所を想像して身構えていた。

しかし、目の前に現れたのは、過剰な装飾のない、白と青を基調とした風通しの良い邸宅だった。もちろん調度品は超一流の品だが、成金趣味のような下品さは一切なく、どこか静謐な空気が漂っている。

 

宮殿の奥へ進むと、そこには海と直接繋がるように設計された、とてつもなく巨大なプールがあった。

「……プール? というか、これ、小さな湖くらいの広さが……」

ビビが驚いて声を上げたその時だった。

 

ザパァァァァンッ!!

 

プールの水面が大きく盛り上がり、巨大な水柱とともに「何か」が飛び出してきた。

「きゃあっ!?」

ビビは思わず後ずさり、目を限界まで見開いた。

 

「あ、マヤ様! お帰りなさいませ!」

 

空から降ってきたような甘く可愛らしい声。

水飛沫の中から姿を現したのは、ビビの身長を遥かに超える――推定十二メートルはあるだろう、絶世の美女の顔を持つ巨大な人魚だった。

波打つ桜色の長い髪、透き通るような白い肌、そして陽光を反射して輝く美しい尾ひれ。

「初めまして! 私、リュウグウ王国のしらほしと申します!」

 

「じゅ、十二メートルの……人魚姫……!?」

ビビは唖然として、首が痛くなるほど見上げた。

「えへへ、マヤ様と一緒に帰っていらしたんですね!」

しらほしは、マヤの姿を認めるなり、巨大な両手をパタパタとさせて心底嬉しそうに微笑んだ。その瞳に、天竜人を恐れる気配など微塵もない。

 

「おう、ただいま。留守番ご苦労だったな」

マヤがプールの縁に歩み寄り、軽く手を挙げる。

「はいっ! マヤ様のおかげで、私、もうあの暗い硬殻塔の中に隠れていなくてもよくなったんです。こうして毎日、お日様の光を浴びて泳げるなんて……夢みたいです!」

 

しらほしが身を乗り出した拍子に、彼女の豊かな肩口がビビの視界に入った。

ビビは息を呑んだ。

しらほしの肩に、小さな、本当に小さな『S』の意匠が刻まれていたのだ。ビビやナミの背中にあるものと同じ、マヤの保護下にあることを示す特注の刻印。

奴隷の証として忌み嫌われるはずのその印を、しらほしはまるで大切な宝物のように撫でた。

「マヤ様が私を守ってくださる『お守り』です! えへへ、マヤ様が可愛くデザインしてくださったんですよ」

 

ビビは言葉を失った。

魚人島といえば、かつて天竜人の奴隷にされていた歴史を持ち、人間を深く恨んでいる者も多いはずだ。それなのに、魚人島の姫が、自ら進んで天竜人の刻印を受け入れ、太陽の下でこんなにも無邪気に笑っている。

(この人は……マヤ聖は、一体どれだけの人を救ってきたの……?)

 

宮殿の一室で荷物を降ろしたビビは、ふとマヤの姿が見えないことに気づいた。

「マヤ聖は……どこへ行かれたの? 先ほど、着替えてくるって……」

ビビが尋ねると、ソファでくつろいでいたナミが窓の外を指差した。

「あそこよ。宮殿の裏水路」

 

ビビは窓辺に寄り、そちらを見下ろした。

宮殿の裏手には、シャボンディ諸島の生活排水や、海からの漂着物が流れ込む暗く淀んだ水路があった。

そして、その泥水の中に、見覚えのある男の背中があった。

 

「え……?」

 

ビビは自分の目を疑った。

先ほどまで仕立ての良いスーツを着ていたマヤが、今は色褪せたツナギを着込み、足には長靴、手には分厚いゴム手袋をはめている。

彼は腰まである泥水の中に躊躇なく入り、長い柄のついた網とシャベルを使って、底に溜まったヘドロやゴミを黙々とすくい上げていたのだ。

 

「泥だらけになって……何をしてるの……?」

「どぶさらいよ。彼の日課なの」

背後から、ロビンが静かに答えた。

「私たちも手伝おうとしたのだけれど、絶対に泥に触らせてくれないのよ。もう二十年間このシャボンディ諸島のどどふさらいを、彼はずっと一人で泥をすくっているわ」

 

ビビは居ても立っても居られず、部屋を飛び出し、裏水路へと駆け出した。

水路に近づくにつれ、鼻をつくような酷い悪臭が漂ってきた。腐敗した海草、生活ゴミ、そして得体の知れない泥の死臭。

そんな中を、マヤは顔に泥を跳ね飛ばしながら、ただ黙々と、機械のように正確な動作で作業を続けている。

 

(ザクッ……バシャァ……)

 

泥をすくい、岸に積む音だけが静かに響く。

「……マヤ聖」

ビビが思わず声をかけると、マヤは額の汗を手の甲で拭い、ゆっくりとこちらを振り返った。

 

「……なんだ王女様、わざわざ見に来たのか? 面白いものでもないぞ。汚れるから少し離れてろよ」

マヤの言葉には、威張る様子も、自分の善行をひけらかすような響きも一切なかった。ただ、「そこは汚れるから危ない」という、ごく普通の気遣いだけだ。

 

「だって……」

ビビは震える声で絞り出した。

「あなたは天竜人で、世界を支配する権力者なのに……なんで、そんな泥水の中に……」

 

マヤは手元のシャベルを止め、ふっと息を吐いた。

 

「天竜人だから、汚れ仕事をしてはいけないってことはないだろ」

淡々とした、平熱の声。

「ここが綺麗だと、皆が気持ちよく過ごせるだろ? 俺は汚いのが嫌いなんだ。ただそれだけだ」

 

それ以上、彼は何も語らなかった。

自分がこれまで誰を救い、誰の死体を弔ってきたか。天竜人というシステムの中で、どれほどの無力感に苛まれながら、この泥水に手を突っ込み続けてきたのか。

マヤは一切の言い訳も誇張もせず、ただ再びシャベルを泥水に沈めた。

 

(ザクッ……バシャァ……)

 

ビビは、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。

この人は、権力や恐怖で人を支配しているのではない。

誰よりも深く、誰よりも長く、この世界の最も汚い泥水に浸かり、足元から世界を支え続けてきたのだ。

だからこそ、ナミも、ロビンも、しらほし姫も、この男を信じ、自らその側にいることを選んだ。

 

ビビの中で、「天竜人=悪」「海賊=善」という単純な図式が完全に崩壊し、粉々になっていくのを感じた。

マヤという存在の前に、ルフィ達の「自由」という言葉が、ひどく無責任で軽いものに思えてくる。

 

(私が間違っていたの? 私たちが信じた冒険は、ただの自己満足だったの……?)

 

ビビは唇を強く噛み締めた。

マヤの圧倒的な行動の重さと、語らない背中。それが正しいのだと、頭では完全に理解できている。

しかし、彼女の心の奥底には、まだ微かな痛みが残っていた。

 

(でも……それでも……)

 

過酷な砂漠を共に越えたルフィの笑顔。

「お前は俺たちの仲間だ!」と叫んでくれた、あの熱い声。

それが全て、泥水の中の泡のように無意味なものだったとは、どうしても思いたくなかった。

 

(ルフィさん……お願いだから、マヤ聖の言う通りにならないで。あなたが本物の海賊だって、私が信じた光だって……証明して)

 

ビビは、悪臭の漂う水路の脇で、泥だらけになって働く若き天竜人の背中を見つめながら、己の中で渦巻く巨大な矛盾と葛藤に、静かに涙を流していた。

やがて彼女が目にする「ルフィ達の残酷な現実」が、その微かな希望すらも完全にへし折る宣告になることを、今の彼女はまだ知らない。

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