シャボンディ諸島、第七十一番グローブ。
海と直結した広大な庭園を持つマヤの宮殿は、魚人島から帰還した一行を静かな佇まいで迎え入れた。
宮殿の奥に用意された豪奢な客室。その分厚い天蓋付きのベッドで、ビビは膝を抱え、ただ静かに涙を流し続けていた。
魚人島の薄暗い路地裏で見た、ルフィたちの惨状。金と食料を巡って血みどろで殴り合うかつての仲間たち。そして何より、「お前はいつも俺の大事なものを奪っていく!」と、マヤの言葉の真意も知らずに拳を振るったルフィの、あの子供のように傲慢な姿。
彼女の青春を彩った「奇跡の冒険」は、海底のどん底で、泥水のように濁りきって終わった。
王女として自ら引導を渡したものの、ビビの心には巨大な空洞がぽっかりと口を開けていた。王としての責務を果たすための正しい選択だったと頭では理解していても、割り切れない感情が絶え間なく雫となって溢れ落ちる。
「……マヤ聖」
客室の前の廊下で、ナミが心配そうにマヤを見上げた。
「ビビのこと、これでよかったんでしょうか……。あの子、ずっと泣いてて……」
「国を背負う人間が、過去の幻想と決別したんだ。それなりの代償(痛み)は伴うさ」
マヤは、白のスーツのネクタイを緩めながら淡々と答えた。
「慰めの言葉なんか要らねェよ。今はただ、あいつが安全に、一人で感情を整理できる場所と時間が必要なだけだ」
「マヤ……」
「お前たちで、温かい紅茶でも淹れてやってくれ。泣くなら、気が済むまで泣かせとけ。……ところで、俺は少し出張に行ってくる」
「えっ?」
マヤの唐突な言葉に、ナミと、横で聞いていたロビンが目を丸くした。
「出張って、どこへ?」
「新世界の、トットランドって所だ。ちょいと四皇に呼ばれてるんだよ」
「よ、四皇!? ビッグ・マムのところ!?」
ナミが血相を変えた。四皇といえば、世界政府ですらおいそれと手を出せない海の皇帝だ。そんな危険な場所へ行くと言うのだから、驚くのも無理はない。
「私も行くわ! 航海士がいなきゃ困るでしょ!?」
「私も同行するわ。四皇の縄張りの歴史や文化には興味があるもの」
二人が前のめりになって食い下がるが、マヤは苦笑して軽く手を振った。
「いや、お前らはここで留守を頼むよ。すまないがな」
「どうしてよ!」
「しらほしもいるし、何より、今のビビを放っておけないだろ? 女同士、お前たちにしかできないケアがあるはずだ。それに、向こうの縄張りは色々と面倒臭そうだからな。エースだけ連れて、サッと行ってサッと帰ってくる」
マヤの言うことには理があった。今、ビビのそばには、同じように海賊の船から降りて、それでも前を向いて生きている大人の女性の存在が必要不可欠だ。
「……わかったわ。でも、絶対に無茶はしないでよ?」
「おう。菓子屋らしいからな、適当に美味いもん貰ってくるよ」
マヤはナミとロビンの頭を軽く撫でると、出航の準備に向かった。
帰還して数時間前
シャボンディー諸島に広がる、シャボンディの生活排水が流れ込む淀んだ水路。
マヤは長靴と分厚いゴム手袋を身につけ、腰まで泥水に浸かりながら、長い柄のついたシャベルで底のヘドロをすくい上げていた。
(ザクッ……バシャァ……)
単調な作業音が、静かな裏水路に響く。
二十年間、一日も欠かさず続けてきた日課。死の匂いと腐敗臭が立ち込めるこの場所こそが、彼にとって最も落ち着く「世界の真実」だった。
「ペロリン……。いやはや、奇妙な光景もあるものですねェ」
ふと、背後からひどく甘ったるい匂いと共に、ねっとりとした声が降ってきた。
マヤが顔だけを後ろに向けると、水路の岸辺に、巨大なキャンディの杖を持った奇抜な男が立っていた。細長い舌を舐めずり回すその男は、四皇ビッグ・マム海賊団の長男、シャーロット・ペロスペローだった。
「白ひげのオヤジが『面白い天竜人がいる』と笑っていた意味が、ようやく分かりましたよ」
ペロスペローは、泥まみれのマヤを見下ろしながら、微かな警戒心を滲ませた目で笑った。
「まさか、世界最高権力者が、自ら死臭のする泥水をすするとは……。ペロリン、お初にお目にかかります。神鬼マヤ聖」
「あ? 誰だお前」
マヤはシャベルの泥を払いながら、心底興味なさそうにペロスペローを見た。
「なんか甘ェ匂いがするな。菓子屋か?」
「……菓子屋、ですか」
ペロスペローの額に青筋が浮かぶが、相手は天竜人であり、白ひげが認めた男だ。彼は恭しく頭を下げ、懐から豪奢な装飾が施された封筒を取り出した。
「私はシャーロット家長男、ペロスペロー。ウチのママ……ビッグ・マムが、あなたに興味を持ちましてね。これはママからの『お茶会への招待状』です」
ペロスペローは封筒を岸辺の石の上に置いた。
「天竜人でありながら、白ひげと対等に渡り歩く男。ママは、あなたとお近づきになりたいと申しております。……もちろん、断る自由はありますがね。ペロリン」
事実上の呼び出し、いや、脅迫に近い誘いだ。断ればビッグ・マムの不興を買い、このシャボンディに四皇の戦力が差し向けられる可能性もある。
しかし、マヤの反応はペロスペローの予想を遥かに超えていた。
「……へェ。あの四皇のビッグ・マムからか」
マヤはゴム手袋を脱ぐと、岸辺に上がり、封筒を無造作に拾い上げた。
「肝っ玉母ちゃんだろ? 母親がわざわざ招待してくれたんなら、顔を出すのが筋ってもんだな」
「……行く、と?」
「ああ。近いうちに行かせてもらうよ。手土産は……泥団子じゃ怒られるだろうから、適当に見繕っていくさ」
ペロスペローは絶句した。
四皇の本拠地、文字通りの『魔境』に呼び出されて、この男は微塵も警戒していない。それどころか、「立派な母親からの誘いだから行く」という、海賊の理屈とは全く違う、常軌を逸した価値観で動いている。
(この男……ただの権力者でも、武闘派でもない。底が、全く見えない……!)
ペロスペローは冷や汗を流し、逃げるようにその場から立ち去った。
シャボンディ諸島の秘密港。
そこには、アラバスタから一行を運んできた全長一五〇メートル級の天竜人専用高速艇が停泊していた。
この船は、マヤ一人の力で動かしているわけではない。海軍の精鋭機関士たちや、シャボンディの民間の優秀な船大工たちが、自ら進んで日々のメンテナンスを行い、最高の状態を維持しているのだ。
普通、天竜人の所有物に関わることは、民間人にとって恐怖でしかない。少しでも傷をつければ死罪になるからだ。
しかし、マヤは違った。彼は普段からこの巨大な船を権威の象徴として乗り回すようなことはせず、必要な時にしか動かさない。そして何より、彼自身が暇さえあれば街の裏水路で「どぶさらい」をし、民の船が壊れていれば自ら工具を持って修理を手伝うような男なのだ。
『俺の住んでる街を綺麗に維持してくれてる連中だ。お互い様だろ』と笑うマヤを、シャボンディの民も、警備を任されている海軍の兵士たちも、深い敬意と好意を持って慕っていた。
だからこそ、この巨大船は常に完璧な状態を保ち、いつでも出航できる体制が整えられている。
「マヤ聖! 機関の調子は最高です! いつでも出せますぜ!」
「おう。ご苦労さん」
甲板から手を振る船大工たちに軽く応え、マヤはエースと共にタラップを上った。
出航の合図と共に、船底の特殊機関が低い唸りを上げる。
通常の天竜人の船のように無駄な砲塔や過剰な装飾を積まず、ただひたすらに「速力」と「快適性」に特化したこの船は、レッドラインの特殊ゲートを潜り抜けると、新世界の荒れ狂う海へと滑り出た。
そして、風を待つことも海流を読むこともなく、カームベルトの無風地帯すらも一直線に切り裂き、最短距離で四皇の縄張りへと突き進んでいった。
新世界、万国(トットランド)。
三十四の島々からなるその巨大な海域は、四皇ビッグ・マム海賊団の絶対的な支配下にある。
その近海をパトロールしていたタルト船の部隊は、突如として海域に現れた巨大な船影に大パニックに陥っていた。
「な、なんだあの巨大な船は!!」
「砲塔は少ないが、速力が異常だ! ナワバリウミウシの警戒網を完全に無視して突っ込んできやがった!」
「50mクラスの船が三隻は入るデカさだぞ! まさか、どこかの勢力が攻めてきたのか!?」
警報が鳴り響き、チェス戎兵たちが慌てて武器を構える。ペロスペローをはじめとする幹部たちも港に駆けつけ、殺気を放ちながら巨大船を包囲した。
しかし、ゆっくりとタラップが降り、そこから姿を現したのは――ラフな白のスーツを着たマヤと、黒服のエースの二人だけだった。
「なんだ、あれは……?」
拍子抜けしたような空気が流れる中、マヤは周囲の殺気を全く意に介さず、平然と港に降り立った。
「おう。お茶会に呼ばれたから来たぞ。船は、ここでいいか?」
「…………」
四皇の本拠地に、ちょっと近所の定食屋にでも立ち寄るかのような軽さ。
ペロスペローは額に青筋を浮かべながらも、得体の知れないこの天竜人を、ホールケーキ城の最上階へと案内した。
お菓子で作られた不気味でメルヘンチックな巨大城。
その最上階にある玉座の間には、四皇ビッグ・マム――シャーロット・リンリンの巨大な体が鎮座し、無数の幹部たちが周囲を固めていた。
甘い匂いと共に、息が詰まるほどの圧倒的な威圧感が空間を支配している。
だが、マヤは平然と、一切の怯えも見せずに広間の中央へと進み出た。
「マ〜マハハハ! よく来たねェ、天竜人の坊や!」
リンリンの地鳴りのような笑い声が響く。だが、その声には明らかな怒気と苛立ちが混じっていた。
「ペロスペローから聞いたよ! いきなりあんなバカでかい船で、ウチの縄張りを荒らすように突っ込んで来るとは、どういうつもりだい!? アタシに喧嘩を売りに来たのかい!!」
周囲の幹部たちが一斉に武器に手をかけ、エースもサングラスの奥で目を細めた。
だが、マヤはその怒声を完全に無視し、白のスーツのボタンを外すと、四皇に対し、深く、丁寧に頭を下げたのだ。
「初めましてだな。俺は神鬼マヤ聖だ」
「……は?」
リンリンの言葉が止まった。
天竜人が、海賊である自分に対して自ら頭を下げ、先に名乗ったのだ。
マヤは顔を上げ、平然とした声で続けた。
「突然の訪問ですまなかったな。ただ、天竜人の移動用の船ってのは、俺はあれしか所持してないんでね。あれでも一番小回りが利くやつなんだ。……でお名前を伺ってもよろしいか?」
「…………」
怒り狂おうとしていたリンリンは、完全に肩透かしを食らい、呆気にとられた。
呼ばれた側が先に名乗り、しかも相手の名前を尋ねるという、あまりにも真っ当すぎる「礼儀」。
「……ハ、ハ〜ッハッハ! アタシから呼んだのに、先に名乗るとはねェ! アタシはシャーロット・リンリンだよ!」
「そうか。リンリンだな」
マヤは頷き、姿勢を正した。
「まずな。俺は女性や、母親には、凄い敬意を払いたいと思ってるんだ。女性は大事だ。女性がいないと、俺らは生まれない。それを大事にするのは当たり前だろ?」
広間が、しんと静まり返った。
「そんな大勢の子供を産み育てた母親なんて、凄まじい敬意に値すると思ったから、こうして直接会いに来させてもらった」
マヤの言葉には、お世辞や嫌味は一切なかった。ただ純粋な、母親という存在への畏敬の念だけが込められていた。
ペロスペローやカタクリ、そして娘たち――プリン、ガレット、アマンドをはじめとするシャーロット家の家族全員が、ポカンと口を開けて絶句した。
「そうかい! アタシに敬意とは見所があるねェ!」
リンリンは、思わぬ真っ当な褒め言葉に機嫌を良くし、手元のケーキを口に放り込んだ。
「アタシは家族が幸せになるように、この国を作ってきたのさ!」
「それは素晴らしいな!」
マヤは我が意を得たりとばかりに顔をほころばせた。
「さぞ、家族を第一に考え、家族の意向を聞き、家族が笑って過ごせる家庭なんだろうな。俺はそういう家族が大好きだ。子供は宝だからな!」
(……あれ?)
家族一同の心の中に、一斉に猛烈なツッコミが湧き上がった。
(少し……いや、だいぶ違くない!? ウチの家族、恐怖で縛り付けられてるんですけど!? ママの前でそんな真っ当な家族論を展開するの!?)
しかし、マヤは本気で言っている。彼の中では「これだけ大勢の子供がいる=愛情に溢れた偉大な母親」という方程式が成り立っているのだ。
「マ〜マハハハ! お前、本当に気に入ったよ!」
リンリンが巨大な身を乗り出し、マヤを見下ろした。
「どうだい、お前! ウチの娘なんかどうだい? ウンともスンとも言わさず、お前さんの所に嫁がせるぞ! プリン、ガレット……年上ならアマンドあたりがお前さんに合いそうさね!」
名前を呼ばれた三人の娘たちが、ビクッと肩を震わせた。
天竜人への強制的な政略結婚。断れば殺されるし、受け入れれば奴隷のような扱いを受けるかもしれない。三人の顔に、絶望と諦めの色が浮かぶ。
しかし、マヤは表情一つ変えずに、出された紅茶のカップを静かに置いた。
「ふむ。いきなり嫁の紹介か」
マヤは腕を組み、真顔で答えた。
「それは良いお誘いだがな……結婚ってのは『お互いの意志』が大事だな。政治の道具でやっていいものではないと、俺は考える」
「なに? 政治じゃない? なんでだい?」
リンリンの眉が不機嫌そうにピクリと動いた。
「嫁ぎ先が良いのは、娘にとっても幸せだろ? 海賊にとっても天竜人にとっても、政略で繋がれば強くなる。いいことずくめじゃないか」
「駄目だろ、そんなの」
マヤは呆れたように首を振った。
「お互いの心もないのに政略で繋がったところで、海ばかりのこんな世界で、一体何の意味があるんだ?」
(いきなりママの根本の思想にぶっこんだァァァー!? この人凄い!!)
家族一同が内心で悲鳴を上げる。政略結婚こそがビッグ・マムの全てと言っても過言ではないのに、それを真正面から否定したのだ。
「待ちな、お前の考え、少しおかしくないかい?」
リンリンの声が低くなる。
「プリンは若い、ガレットは見栄えがいい、アマンドは少し年だが身持ちと強さはあるんだよ? なにが不満だい」
「いや、不満とかじゃなくてな。それ、無理やり嫁がせて、後で裏切られたら怖いだろ?」
マヤは肩をすくめた。
「まァ、自由恋愛でも裏切られることはあるけどな。政略結婚もありかもしれないが、まずは当人同士の話し合いで、裏表なく付き合うのが俺はいいかなって。……これでも俺、意外と純情なんだ!」
(自分で『純情』って言ってる!? 流石は天竜人……メンタルが鋼すぎる!)
ペロスペローが冷や汗を拭いながらツッコミを堪える。
「そうだな。少し大人向けに話そうか」
マヤは少しだけ姿勢を正し、リンリンの目を真っ直ぐに見つめた。
「俺は天竜人だ。もし俺が命令して、お前が今言った娘たちを、奴隷のように扱うのを許容できるのか?」
「なに……?」
「逆も然りだ。俺が天竜人じゃなく、逆の立場だった時を想定してみろってことだ」
マヤの静かだが重みのある言葉に、広間の空気が張り詰めた。
「俺はそんな外道な真似はしないが……天竜人なんてのはよ、そういう変な奴も多いんだよ。だからより慎重になるし、その三人が俺という男をどう見るか、それが俺は大事だと思ってる」
名前を挙げられたプリン、ガレット、アマンドの三人が、思わず顔を赤らめた。
これまで、自分たちのことを「政略の道具」としてしか見てこなかった男たちの中で、この男だけは、自分たちの『幸せ』と『尊厳』を本気で気遣ってくれている。しかも、四皇であるビッグ・マムを前にして、一歩も引かずに。
「もちろん、俺との婚姻相手にはそれ相応の特権はつくだろうし、上の連中にも言わないといけない。……だからこそ、嘘で固められるより、真実で向かってきてほしいってことだな。嘘の婚姻ほど、脆いものはないってことだよ」
「……アタシの娘を奴隷扱いだと? そりゃあ許さないね……」
リンリンは、怒るどころか、完全に調子を狂わされて毒気を抜かれていた。
「あんた……怖いねェ。ますます欲しくなるよ」
「それはありがたい。俺も嫁は欲しいけどな、お互い難しいもんだ」
(困惑……!!)
三人の娘たちが顔を見合わせる。
(あれ? なんか話がまとまってる? ていうかこの人、ママの思想と違うのに、完全にママをやり過ごしてない!?)
カタクリも、張り詰めていた気を少し緩めた。この男、腕力ではなく『対話』でママの機嫌をコントロールしている。
「それより、あんた」
マヤが、ふと声を落とし、リンリンの目を見つめた。
「少し小耳に挟んだんだがな。あんた、『食いわずらい(癇癪)』をお持ちだとか?」
「っ!!」
ペロスペローがキャンディの杖を取り落としそうになる。
それは、この国における最大のタブー。食いわずらいの癇癪に触れることは、すなわち「死」を意味する。
「浮かんだものを食べるまで暴れるとか。……悲惨な過去だったんだな」
マヤの言葉に、リンリンの目つきが一瞬にして捕食者のそれへと変わった。
「食えないというのは、人をおかしくするからな」
「……治る、かね?」
リンリンの低い声。だが、マヤは微塵も怯まず、深く同情するような、優しい目をした。
「たぶん、その極限の空腹だった過去の時に、食べて満たされた物が印象に残りすぎてるんだ。それを代用しているのが、今の『お菓子』なんじゃないか?」
マヤは、まるで医者が患者を診察するかのように淡々と分析した。
「その時、お前は何を食べて満たされた? そこがカギだと思うぞ」
「……『セムラ』が……美味かったねェ……」
リンリンの脳裏に、遠い昔の記憶――マザー・カルメルや羊の家での誕生日の記憶が微かにフラッシュバックする。
「ふむ。それが何かわからないが、それが常に手元にあれば、かなり軽減できるんじゃないかな」
マヤは頷いた。
「まず、そのセムラを食べた時の『思い』を大事にして、その食物がすぐ用意できるようにする。そこから始めてみたらどうだ?」
(え!? あの天災に、一歩前進の解決策が……!?)
家族一同が、驚愕に目を丸くする。誰も触れられなかったタブーに、こんなにあっさりと踏み込み、しかも解決策まで提示したのだ。
「私もね。……どぶさらいをしてましてね。私、25になるんですがね、もう20年やってるんです」
「……は?」
リンリンが、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「飢えは、きついですよね」
マヤは、遠くを見るような目で、静かに語り出した。
「食べ物がなくて、飢えて。……それで亡くなった人、道端に無駄に捨てられた人を、ずっと弔ってきたんです。同族(天竜人)の不始末とはいえ、見過ごせなくてですね」
広間が、信じられないほどの静寂に包まれた。
世界最高権力者が、五歳の頃から二十年間、道端に捨てられた奴隷たちの死体を弔い、泥水をすすってきたと言うのだ。
「飢えのきつさ、痛いほど分かりますよ。気がおかしくなるのも、当然です」
マヤの言葉には、嘘も誇張もなかった。それは、彼が二十年間、シャボンディの裏水路で泥まみれになりながら見てきた「世界の真実」そのものだった。その声の奥にある底知れぬ悲しみと優しさに、シャーロット家の子供たちの目に、思わず涙が浮かびそうになっていた。
「お前……天竜人だよね?」
リンリンの目から、敵意が完全に消え去っていた。
「なにしてんのさ、お前……」
「天竜人だからこそですよ。自分の住んでるところくらい、綺麗にしたいじゃないですか。そういう気持ちでやってましたね。……ま、今では浮かんでるのは、酔っ払いくらいですがね」
マヤが少しだけ自嘲気味に笑うと、リンリンは巨大なため息を吐いた。
「……お前も、苦労したんだねェ」
「人それぞれですよ。なので、あんたもゆっくりと、その『癇癪』と向き合えばいいんです。その悲しみ、悔しさ、色々とあるでしょう。私はそんなことばかりでしたからね」
「そうかい。一歩一歩、か……」
リンリンは、完全に毒気を抜かれた顔で笑った。
「あんた、いい男だねェ。……それに、さっきから『上』って言ってるけど、なんだい?」
「まァ、悪友みたいなもんだ。癇癪で街を壊すのは非効率だからな。リンリンもいちいち、建物の修理費用ばかにならないだろ? 俺がやってるどぶさらいするのとは、訳が違う辛さだ」
(どぶさらいに行くんだ、この人……)
家族一同が、そのギャップに頭を抱えそうになる。
「今日は、泊まっていってもいいかな?」
マヤが、紅茶を飲み干してふと思いついたように言った。
「少し、この街の行政とか仕組みを見てみたくてね」
「え?」
リンリンの顔が、ニヤリと歪む。
「泊まる……? つまり、娘と、かい?」
「え? 娘? ……あ〜、そうだな。それもいいな。街の案内をしてほしいね」
マヤは、純粋に「視察の案内役が欲しい」という意味で頷いた。
しかし。
(泊まる!? 娘と!? それってつまり……そういうこと!?)
プリン、ガレット、アマンドの三人の顔が、一気に沸騰したように真っ赤になる。
(あれ!? これ、完全に会話が噛み合ってない!? 微妙にズレてないか、この人!?)
カタクリやペロスペローたち兄弟は、この得体の知れない天竜人の「天然のタラシっぷり」と、勘違いから生み出された恐るべきピンク色の空気に、ただただ冷や汗を流して立ち尽くすことしかできなかった。