新世界での“お茶会”からおよそ二週間後。
グランドライン前半の海――通称『楽園』に位置するシャボンディ諸島は、今日も七色のシャボン玉が陽光を弾いて宙を舞う、穏やかで活気に満ちた一日を迎えていた。
第七十一番グローブ。
島のはずれにひっそりと佇む巨大な宮殿の奥、広々とした執務室で、神鬼マヤはゆったりとした革張りのソファに深く腰を沈めていた。
ネクタイを緩めた白のスーツ姿。傍らのローテーブルには、数時間前に自身の手で裏水路から引き上げた泥まみれの長靴が、丁寧に洗われて干されている。
「……マヤ聖」
執務室の豪奢な木製ドアがノックされ、ナミが顔を出した。
彼女は片手に、真鍮の装飾が施された通信用の特別な電伝虫を抱えている。その表情は、どこか呆れたような、それでいて少しだけ緊張を孕んだものだった。
ナミの後ろからは、ロビンと、この宮殿での生活に少しずつ慣れ始めたビビ、そして常にマヤの影として控える黒服のエースが静かに入室してくる。
「海軍本部からよ。また、あの『お爺ちゃん』から」
「あー……。全く、大将でも元帥でもねェただの中将が、世界最高権力者の直通回線をどんだけ気安く鳴らすんだか」
マヤは深い溜息を一つ吐き、ナミから受話器を受け取った。
プルルルル、という間抜けな着信音が止み、ガチャリと重い音が響く。
『おお! マヤ聖か!』
受話器の向こうから、海軍の英雄、モンキー・D・ガープの野太く快活な声が弾けた。電伝虫の顔が、ガープ特有の豪快な笑い顔に変化する。
「おう。またお前か、ガープ。……俺はヒマじゃねェぞ」
『わーっはっは! 堅いこと言うな! いやぁ、ルフィの件では、色々と目をつぶってくれて本当に助かりますじゃ!』
ガープの言葉に、マヤは目を細めた。
「そうだな。お前の孫には、なぜか俺は三発も顔面を殴られてるからな。天竜人への暴行は、本来なら一発で大将が飛んでいって島ごと消し飛ぶ大罪だ。お前に対する『貸し』が四個だったが、少し増やして七にするか。縁起がいい数字だろ?」
『七個!? ひ、ひぇ〜〜っ! それはちとキツいですじゃ……!』
電伝虫の顔が、露骨に冷や汗を流す。
マヤは皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「いまだに、多少は多少追いかけてるフリをしてるんだろ? そうして威圧しつつ、海軍の網の中で監視しておけ。放っておけば、海軍の手を煩わせるまでもなく、あのバカは勝手に自滅して野垂れ死ぬだろ?」
その言葉を背後で聞いていたビビが、息を呑んだ。
(ルフィさんの……お祖父さんと、そんな密約までして……)
ビビは、ルフィたちが魚人島の薄暗い路地裏で、自分たちの生活力(航海術)の無さゆえに飢え、金銭を巡って殴り合っていた惨状を思い出した。
あの時、マヤが介入していなければ。そして、海軍の英雄であるガープが裏で手を回して手加減をしていなければ、ルフィたちはとっくに海軍の総戦力に囲まれ、海の底に沈んでいたはずだ。
「……そうよ、ビビ」
驚愕して立ち尽くすビビの肩を、ナミがそっと抱き、耳元で小声で囁いた。
「あいつ、マヤ聖を殴ったのに何度も見逃してもらってるの。それなのに、自分の間違いに気づかないで、ずっとあんな感じになってたのよ」
「私……本当に、無知だったのね……」
ロビンは何も言わず、ただ優しくビビの背中を撫でながら、マヤの背中を見つめていた。
そしてエースは、無表情のままサングラスの位置を直した。かつて弟として命を懸けて愛した男だが、今のルフィの幼さと傲慢さには、もう呆れを通り越して諦めの境地に達していた。彼にとって今一番重いのは、自分と白ひげ海賊団を救ってくれたマヤへの絶対的な恩義だ。
『増えとる!? ま、まー……それも致し方ないですな。わしの育て方が悪かったのじゃ……』
ガープの声が少し沈むが、すぐにいつもの調子に戻る。
『それで! 今回の件はですな。少し海軍で変わった事がありましてな』
「あ?」
『誰とは言えんのですが、シーザーという奴が、どうやら新世界の変な島で、子供の誘拐と、違法な何か(SMILEの原料や兵器)を製造しておったようでしてな。それを、我が海軍の精鋭があっさりと拿捕した事を、ご報告をと思いましてな! ……これで、わしの貸しが少し減ればな〜っと思いまして!』
マヤは、信じられないものを見るような目で電伝虫を見つめた。
「……お前、さすが英雄だな。そんな図太い交渉あるか?」
マヤの声が、呆れを帯びて低くなる。
「違法な兵器製造の犯罪者を拿捕するのは、お前ら海軍の『仕事』だろ。それを俺への貸しの返済に充てようってのか?」
『わーっはっは! まぁまぁ! 結果的に、マヤ聖が憂いている世界の治安が少し安全になったんですから、良いではありませんか!』
「はぁ〜……わかったよ」
マヤは、頭をガシガシと掻いた。
「内容次第で貸しは減らす。お前らの働きで、少しは安全な海になったってことだろ? ……で? それには、大将クラスが動いた案件か?」
『わーっはっは! 誰がとは言えませぬが、大将クラス(青雉や黄猿)案件でしたね。海軍の威信をかけた大立ち回りでしたわい。……ですから、ね? マヤ聖?』
ガープが、電話の向こうでゴマを擦っているのが目に浮かぶようだ。
「はぁ〜……お前のその気さくで図太いところが、俺は嫌いじゃないぞ」
マヤは皮肉を込めて笑った。
「本当、政治がうまいやつだな。大将クラス案件なら、よほど大がかりな組織犯罪だ。なら、貸しはマイナス1だ。深刻な被害が出る前に、ボヤの段階で防いだってことでいいな?」
『その通りですじゃ!』
ガープの声がパッと明るくなる。
『これも全て、頂上戦争を防いでくださったマヤ聖のおかげですじゃ。センゴク元帥も退役せず、我ら海軍のトップは完全に一枚岩! 盤石の体制で海を睨んでおります。近頃は、センゴクの胃痛も和らいでおりますゆえ!』
ガープの言葉は、この世界の真理を突いていた。
マヤがエースを保護し、白ひげと密約を結んだことで、海軍は一切の戦力を削られることなく、圧倒的な軍事力を維持したまま新世界に睨みを効かせている。
だからこそ、シーザーのような悪党が少しでも怪しい動きを見せれば、大将クラスが即座に派遣され、事態が大きくなる前に「あっさりと拿捕」されてしまうのだ。
世界の治安は、皮肉なことに、マヤという一人の天竜人の政治力によって、かつてないほど強固な「平和」を保っていた。
「ありがとうよ。センゴクによろしく言っといてくれ」
マヤはテーブルの上のグラスを手にした。
「まー、そのまま一味の監視もお前に任せるから。孫可愛さに、あまり手伝うなよ? ……で? あいつらの現状はよ?」
その問いに、電伝虫の表情が、スッと真剣なものに変わった。
『それがですな……。あまり上手く、航海ができてないようですな。対処が全て後手に回っております』
ガープの低い声に、執務室の空気が微かに張り詰めた。
『うちのバカ孫は、嵐が来て喜んでいたり、大波が来ても楽しんでいたり。……ですが、船の修理も追いつかず、食料なども少し傷んでいるのではと……わしはヒヤヒヤしながら監視しておりますじゃ……』
ビビが、息を呑んで絶句した。
嵐が来て喜ぶ。大波を楽しんでいる。
それはかつて、ビビが共に旅をしていた頃のルフィと全く同じ姿だ。どんな絶望的な天候でも、彼は笑って「すげェ!」と目を輝かせていた。
だが。
「……やはり、自分のワガママを通すための航海士が、どうしても欲しかったのね」
ナミが、唇を噛み締めながら小声で吐き捨てた。
「ええ……」
ロビンも、痛ましそうに目を伏せた。
「ナミがいたから、あの子は嵐を『アトラクション』として楽しめたのでしょうけど。気候を予測し、船を制御する人間がいない状態で嵐を楽しむのは、ただの異常よ。……海を、舐めすぎているわ」
エースが、深々と溜息をついて天を仰いだ。
(……変わらねェな。昔から、ガキのまんまだ……。誰かが自分の尻拭いをしてくれるって、無意識に信じ切ってやがる……)
「……それは、お前の家の育て方なのか、お前達一族の『D』の血なのかは分からんがな」
マヤの平坦な声が、執務室に響いた。
「だが、これだけは言っておくぞガープ。俺は、お前のその『孫可愛がり度』が過ぎてるところ……嫌いじゃないぞ。ま、海兵として精々がんばれよ」
『ウッ……!!』
電伝虫の向こうから、ガープが鼻をすする音が聞こえた。
『マヤ聖……! 本当に、ありがとう……ありがとう。わしが幼い頃、もっとあやつをしっかりとした海軍に育てておれば……こんなことには……ッ』
世界に名を轟かせる英雄が、孫の不甲斐なさと、天竜人の優しさに触れて、本気で泣いていた。
そのあまりのギャップに、マヤは思わず吹き出しそうになった。
「あいつが海軍とか、どんだけ恐ろしいんだよ。それのほうが世界にとってよっぽど脅威だろ。ルールなんて守りゃしねェんだから」
マヤのツッコミに、ナミたちも「確かに……」と小さく頷く。
「せめて、ただの『賞金稼ぎ』にでもしておけばよかったんだよ。それならお前のメンツも保てたし、あいつも自由に暴れられただろ」
『ハッ!?』
ガープが、涙声を引っ込めて素っ頓狂な声を上げた。
『そ、その発想はなかったですじゃ!! 賞金稼ぎ……! なぜわしは、海軍に固執してしまったのか……! 今からでも遅くないかもしれん!?』
「はぁ? お前、俺に人生相談というか……俺を殴った相手の進路相談をしてる自覚あるか?」
マヤは心底呆れたように肩をすくめた。
「今からじゃ難しいんじゃないか? あの赤髪の男(シャンクス)の影響が、あいつにはデカすぎるだろ」
『確かに……。でも、その線でもやってみますじゃ! わしからルフィに、賞金稼ぎへの転職を勧めてみますわい!』
ガープの声が、すっかり希望に満ちたものに変わっていた。
『では〜、良いアドバイスもいただいた事ですし! これで貸しは2個返済しましたぞ〜! ガチャッ!』
ツーツー、という無機質な切断音。
「……おい!! 勝手に2個にすんな!!」
マヤは受話器に向かって怒鳴ったが、すでに通信は完全に切れていた。
「くそ、あのジジイ……自分の都合のいいところで切りやがった」
マヤは受話器を乱暴に本体に戻したが、その口元は微かに緩んでいた。
世界最高権力者である自分に対して、こんなにも図太く、孫のために計算高く立ち回る海兵。その人間臭さが、マヤは嫌いではなかった。
「……まー、いいか」
マヤが小さくはにかんだように笑った、その時だった。
「マヤさん!!」
ビビが、意を決したように一歩前へ踏み出し、大きな声を上げた。
「おいおい、どうした急に!?」
マヤが驚いて振り返る。
「……マヤ、聖、です」
ビビは慌てて敬称を付け直し、両手を胸の前で強く握りしめた。その瞳には、かつての迷いや喪失感は微塵もなく、ただ真っ直ぐな決意の光が宿っていた。
「なんか、なんか、上手く言葉が見つからないけど……!」
ビビは、深く、床に頭がつくほどに深々と頭を下げた。
「ありがとう……! アラバスタを、私たちを救ってくださって……本当に、ありがとうございます!!」
「あ〜……それな」
マヤは、バツが悪そうに後頭部を掻いた。
「いいよ。お前のためじゃない、ロビンのためだ。気にすんな」
「ふふっ。そういう照れ屋なところよ?」
ロビンが、クスクスと上品に笑いながらマヤの背中を小突いた。
「しっかり受け取ってあげて。彼女、ようやく自分の中で全てを整理して、決心したんでしょうから」
「そうよ? あんたが泥被ってまで現実を教えてあげたんだから、堂々と受け取りなさいよ」
ナミも、腕を組んで得意げに笑っている。
「……そうか」
マヤは小さく息を吐き、ビビを見つめ返した。
「そこまで悩んでたか。……でもな、勘違いするなよ、ビビ」
マヤの赤い瞳が、為政者としての真剣な色を帯びる。
「国が上手く行けたのは、俺がどうこうじゃない。クロコダイルが消えた後、お前たちが必死に耐えて、後ろ盾もない中で、死に物狂いで国の立て直しを頑張ったからだ」
「っ……」
「お前の、王族としての血の滲むような頑張りがあったからこそ、俺も手を出せたんだよ。誇れよ、お前の努力だ」
その言葉に、ビビの目から、今度こそ悲しみではない、温かくて誇り高い涙が溢れ出した。
自分が信じ、戦い抜いた日々は、決して無駄ではなかった。ルフィたちとの冒険の結末は残酷だったかもしれないが、自分が国を守るために流した汗と涙は、この世界で最も力のある男に、しっかりと認められていたのだ。
「はい……っ! ありがとうございます……!!」
ビビの涙声と、ナミとロビンの温かい笑い声が、広々とした執務室に響き渡った。
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――だが、その平穏で温かな時間の裏側で。
世界の闇は、冷酷にその歯車を回していた。
新世界、北の海を支配する巨大な闇の軍事組織――『ジェルマ66』。
その中枢である巨大な城の玉座で、ヴィンスモーク・ジャッジは、部下から差し出された一枚の手配書を冷徹な目で見下ろしていた。
「……見つけたぞ」
手配書に描かれているのは、魚人島での一件から海軍の監視網に引っかかり、鮮明に写真が撮られてしまった『黒足のサンジ』の姿だった。
本来なら、ルフィたちの航海術(無計画さ)では、どこをどう飛んでどの島へ行くか予測不能であり、ジェルマの索敵網を長く逃れられるはずだった。
しかし、航海士を失い、魚人島の海底で長期間の足止めを食らったという彼らの「自滅」が、結果的にサンジの居場所を早々に特定させる致命的なミスとなってしまったのだ。
「四皇ビッグ・マムとの同盟……そのための生贄には、ちょうどいい」
ジャッジの冷たい言葉が、玉座の間に響く。
「連れ戻せ。あの『出来損ない』を」
ルフィの無責任さが引き起こした遅滞は、サンジという一人の男を、逃れられない血の呪縛と、四皇の政略結婚という巨大な地獄へと、急速に引きずり込もうとしていた。