シャボンディ諸島の海軍本部との通信から、さらに数日が経過した。
そしてさらに新世界での“お茶会”から数週間が経過した。
グランドライン前半の海、『楽園』に位置するシャボンディ諸島の空は、今日もどこまでも高く澄み渡り、七色のシャボン玉が陽光を弾いて宙を優雅に舞っていた。
第七十一番グローブの島のはずれにひっそりと佇む、巨大な宮殿。
その最奥にある広々とした執務室で、神鬼マヤは分厚い報告書に目を通していた。ネクタイを緩めた白のスーツ姿。開け放たれた窓からは、彼が自らの手で「どぶさらい」をして綺麗に保っている街の、穏やかで活気に満ちた喧騒が微かに聞こえてくる。
「マヤ聖、少し休まれたらどうですか?」
執務机の横から、ロビンのしなやかな手が伸び、マヤの肩にそっと置かれた。
マヤが顔を上げると、ロビンが知的な笑みを浮かべて見下ろしており、その横ではナミが湯気を立てるコーヒーカップを二つお盆に乗せて立っていた。
「ああ、そうだな。少し目が疲れてきたところだ」
マヤは報告書を置き、革張りの背もたれに深く寄りかかった。
「お疲れ様。はい、特製のブレンドよ。少し甘めにしておいたわ」
ナミがコーヒーをデスクに置き、そのまま流れるような自然な動作で、マヤの膝の上にすとんと腰を下ろした。
「おい、ナミ。ここは一応、執務室だぞ?」
「いいじゃない。誰も見てないわよ」
ナミは悪戯っぽく笑い、マヤの首に細い腕を回してすり寄った。柑橘系の爽やかな香りが、マヤの鼻腔をくすぐる。
ロビンもクスクスと笑いながら、マヤの背後に回って彼のこめかみを優しく揉み解し始めた。
「二人とも、最近妙に積極的だな。トットランドでの一件をまだ根に持ってるのか?」
「……当たり前でしょ」
ナミが少しだけ口を尖らせる。
「ちょっと目を離した隙に、四皇の娘を三人もお持ち帰りしそうになったんだから。これくらいして、マヤ聖の頭に私たちのことを刷り込んでおかないと、またフラッとどこかへ行っちゃいそうだもの」
「私は、たくさんお友達が増えるのは構わないのだけれど」
ロビンが、マヤの耳元で艶やかに囁く。
「でも、マヤ聖が一番落ち着く場所は『ここ』だということを、しっかりと思い出させたいわね」
二人の女性から向けられる、直球で重い愛情。
マヤは苦笑しながら、ナミの細い腰に手を回し、ロビンの手の上に自分の手を重ねた。
「悪かったよ。だが、俺が帰る場所はお前たちのいるここだけだ。それは信じてくれ」
「……ええ、わかってるわ」
ナミが嬉しそうに微笑み、マヤの胸元に顔を埋めた。
海賊という過酷な運命から解放され、絶対的な安全と愛情の中で生きる喜び。ナミもロビンも、この平和な時間が永遠に続くことを信じて疑わなかった。
その甘い空気を破るように、執務机の上の電伝虫がけたたましく鳴り響いた。
「……またあのジジイか」
マヤが溜息をつき、ナミを膝に乗せたまま受話器を取る。
「おう、ガープ。今度は何の貸しを減らそうってんだ?」
『わーっはっは! マヤ聖、ご機嫌麗しゅう!』
ガープの豪快な笑い声が響く。
『いやいや、今回は頼み事ですじゃ! 実はですな……例のバカ孫の船が、どうやら新世界の「ドレスローザ」という国に向かっているようでしてな』
「ドレスローザ? 王下七武海、ドンキホーテ・ドフラミンゴの治める国か」
『左様です! パンクハザードの一件からこっち、ドフラミンゴの奴め、裏社会での動きがキナ臭いという噂もありましてな。それに、あの国にはどうにも我々海軍が手出ししにくい空気が蔓延しておるのですじゃ』
「シーザーが捕まって、SMILEの供給が絶たれた影響が出始めてるんじゃろうて」
ガープは冷静に分析した。
『そこでですな! マヤ聖、少し新世界へ足を伸ばして、ドレスローザを「視察」という名目で見てきてはもらえませんかな? ついでに、バカ孫の動向も……チラッと確認していただければと!』
「……また俺を便利使いしやがって。孫の保護者はお前だろ」
『わーっはっは! 頼みますじゃ! マヤ聖のような偉大な天竜人が視察に行けば、ドフラミンゴめも下手な動きはできませんからな! では!』
ガチャッ。
「……また勝手に切りやがった」
マヤが呆れて電伝虫を置くと、ナミが目を輝かせて立ち上がった。
「ドレスローザ! 情熱と妖精の国ね! 私、一度行ってみたかったの!」
「ドフラミンゴの統治する国……裏の歴史がどうなっているのか、興味深いわね」
ロビンも微笑む。
「行く気満々だな、お前ら」
「当然でしょ! マヤ聖がまた変な女に騙されないように、私たちが見張っておかないと!」
「やれやれ。……おい、CP10。出航の準備だ」
マヤが声をかけると、部屋の隅の影から、黒服にサングラス姿のエースがスッと現れた。
「承知いたしました。すぐに船を手配します」
エースは短く答え、一礼して部屋を出て行った。
かつての「火拳のエース」の姿は、そこにはない。マヤの直属の剣として鍛え上げられ、サイファーポールすら凌駕するほどの体術と暗殺術を身につけた、無機質なエージェント「CP10」の姿だった。
数日後。新世界、ドレスローザ近海。
波一つない穏やかな海を、全長一五〇メートルを誇る天竜人の巨大な専用高速艇が、優雅に滑るように進んでいた。
白亜に輝くその威容が、ドレスローザの港にゆっくりと接岸していく。
その巨大な船を、王宮のバルコニーから見下ろしている男がいた。
ピンク色のフラミンゴのような羽のコートを羽織った男――王下七武海、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。
「チッ……。なんでこんな時期に、天竜人なんざ来やがる。面倒な」
ドフラミンゴは、忌々しそうに舌打ちをした。
「どうします、若? 追い返しますか?」
幹部のトレーボルが鼻水を垂らしながら尋ねる。
「バカ野郎。相手は腐っても天竜人だ。ここで機嫌を損ねて、大将を呼ばれてみろ。今のSMILEの取引が停滞してる状況で、海軍に嗅ぎ回られるのはマズい」
ドフラミンゴは、サングラスの奥で港をねめつけた。
「まぁ、どうせ女を侍らせて観光しに来ただけの、頭の空っぽな権力者だろ。適当にもてなして、さっさと帰らせろ」
彼にとって、天竜人など「生まれ持った権力に胡坐をかいているだけの無能」でしかなかった。
当のマヤ本人は、ラフな白のスーツ姿で港に降り立ち、純粋に観光を楽しんでいるように見えた。
「おお、すげェな。花の匂いと、情熱的な音楽……良い国じゃないか」
「本当に素敵な街並みね! ねぇマヤ聖、あそこのカフェでパエリア食べましょうよ!」
ナミがマヤの腕を引き、子供のようにはしゃいでいる。
「ふふっ。おもちゃが人間と一緒に歩いているなんて、不思議な光景ね」
ロビンも、周囲を行き交う奇妙なおもちゃたちを観察しながら、静かに微笑んだ。
マヤたちはアカシア通りのカフェテラスに陣取り、優雅なティータイムを過ごしていた。
だが、マヤの赤い瞳は、楽しげに踊るおもちゃたちを眺めながら、氷のように冷え切っていた。
「……マヤ聖も、お気づきなんでしょう?」
ロビンがコーヒーカップを置き、声を潜めた。
「ええ。人間をオモチャに変え、世界中の人間からその記憶を消し去る悪魔の実の能力……。それが、この国の『闇』を支えるシステムだ。この国には、記憶の死体が転がりすぎている」
マヤは、カップをソーサーに置くと、背後に立つ黒服――CP10に向かって小さく口を動かした。
「……CP10」
「ハッ」
「ナミたちの護衛は俺がやる。お前は、この街の地下交易港へ潜れ。あのオモチャを作っている元凶の能力者を特定し……例の『手袋』を使って、海楼石で縛り上げておけ。ドフラミンゴの部下なんざに遅れをとるなよ」
「承知いたしました」
エースは音もなく気配を消し、人混みの中へと溶け込んでいった。
マヤは彼の圧倒的な体術と実務能力を信頼していた。能力者の弱点である海楼石を『特製防護手袋』で自在に扱うCP10は、今やマヤの最も鋭利な隠密の剣だ。
その頃。
ドレスローザの裏側の岩礁地帯に、ボロボロになった小さな海賊船が、座礁するようにして漂着していた。
サウザンド・サニー号。
「ハァ……ハァ……! 着いた、着いたぞ!!」
甲板で大の字に倒れ込んだルフィが、ひび割れた唇を歪めて笑った。
「飯だ……飯を食いに行くぞ!!」
航海士であるナミを失った彼らの航海は、文字通り『地獄』だった。
天候を予測できず、嵐に巻き込まれ、食料は腐り、金もない。極限の飢餓。だが、彼らはギリギリのところで海賊としての「誇り」を保ち、略奪には手を染めまいと奥歯を噛み締めて耐え抜いていた。
街の裏路地をふらふらと歩いていたルフィたちの前に、不意に一人の青年が現れた。
黒いシルクハットにゴーグル、鉄パイプを背負った金髪の青年。
革命軍参謀総長、サボ。
「おい、お前ら……大丈夫か? ひどい有様だな」
サボが声をかけると、ルフィは力なく顔を上げた。
その顔を見た瞬間、サボの脳裏に、激しい頭痛と共に鮮烈な記憶の断片がフラッシュバックした。
「お前……ルフィ……?」
「……サボ? お前……サボなのか!?」
幼き日の記憶。ゴア王国のゴミ山。交わした盃。
死んだはずの兄弟との、奇跡的な再会。サボはルフィを抱きしめ、二人は路地裏で涙を流した。
「サボ……生きてたんだな……!!」
「ルフィ……! お前、なぜこんなボロボロになってるんだ? お前には、優秀な仲間の航海士がいたはずだろ?」
サボのその言葉が、ルフィの逆鱗に触れた。
「……奪われたんだよ!!」
ルフィの目から、血の涙のような怒りが溢れ出した。
「俺の仲間は!! ナミもロビンも、天竜人に無理やり連れ去られて、奴隷にされたんだ!!」
「天竜人に……!?」
サボの顔色が変わる。革命軍にとって、天竜人の横暴は絶対に許せない悪だ。
「しかも、そいつらは今、この島に来てやがる! 港にでけェ船が停まってたのを見た!! 俺は絶対にあいつをぶっ飛ばして、仲間を取り返す!!」
ルフィは、自分のワガママでナミたちを失ったという事実を完全に脳内で変換し、「天竜人に強引に奴隷にされた」という被害妄想の塊になっていた。
だが、サボには、そのルフィの言葉が「真実」として響いてしまった。
「……天竜人が、罪のないお前の仲間を奴隷に……。それが本当なら、見過ごすわけにはいかないな。俺も手伝う」
そのやり取りを、路地裏の屋根の上から見下ろしている男がいた。
「フッフッフ……傑作だな」
ドフラミンゴだった。
彼は、ルフィの怒りと、それに加担する革命軍の存在を即座に利用することを思いついた。
ドフラミンゴが、音もなくルフィたちの前に降り立つ。
「誰だお前!!」
「フッフッフ。落ち着け、麦わら。俺はこの国の王、ドフラミンゴだ」
警戒するサボとゾロたちに向かって、ドフラミンゴは両手を広げた。
「お前ら、天竜人から仲間を奪還したいんだろ? あのマヤとかいう頭の空っぽな天竜人……俺も目障りで仕方ねェんだ。俺が少し『アシスト』してやる」
「アシスト?」
「あいつの護衛の黒服は、なぜか今、あいつの傍を離れてやがる。俺の『イトイトの実』の能力で、ほんの一瞬、あの天竜人の動きを止めてやる。その隙に、お前らが女たちをかっさらうんだ」
ドフラミンゴの悪意に満ちた提案。
ルフィは、手段を選んでいる余裕などなかった。
「……わかった。ナミとロビンを取り返せるなら、なんだってやる!!」
傲慢な天竜人に一泡吹かせてやろうというドフラミンゴの悪意と、革命軍の独善、そして海賊の狂気が、最悪の形で結託した。
アカシア通りのカフェテラス。
マヤは、二杯目のエスプレッソを飲み干そうとしていた。
その瞬間、凄まじい怒号と共に、大通りを真っ二つに割って、ルフィとサボが猛然と突っ込んできた。
「いたぞォォォォォォ!! 天竜人ィィィ!!!」
「ナミィ!! ロビン!! 迎えに来たぞ!!」
狂気に満ちた叫び声。
「……ちッ」
マヤが顔を上げ、ルフィの首を撥ね飛ばそうと立ち上がった、その一瞬。
――ピキッ。
マヤの手足が、目に見えない強靭な『糸』によって、背後から強引に拘束された。
(寄生糸(パラサイト)……!)
近くの建物の屋根の上から、ドフラミンゴが遠隔で妨害を仕掛けたのだ。マヤがそれを覇気で引きちぎるまでの、ほんのコンマ数秒の隙。
だが、その隙が、致命的だった。
「いまだ!! ゾロ!!」
「おう!!」
ゾロとサンジが、凄まじい速度でマヤの背後に回り込む。
標的はマヤではない。ナミとロビンだ。
「キャアッ!?」
「ナミ!?」
ゾロがロビンの腕を掴み、サンジがナミを抱え上げる。
極限状態の彼らは、かつての仲間への気遣いなど完全に消え失せ、ただ「奪還する」という目的のみに特化した野獣の動きだった。
「お前ら……!」
マヤが糸を引きちぎり、修羅のような冷たい目でルフィたちを睨みつけた。
マヤが一歩踏み出し、覇気を纏った拳を振り上げた、その瞬間。
「……マヤ聖!!」
ナミが、サンジに抱えられながら、マヤに向かって叫んだ。
その目には、悲痛な覚悟が宿っていた。
(お願い……! ここで私たちが抵抗して、マヤ聖が手を出せば……ルフィたちは確実に死ぬわ! この島だってどうなるか分からない!)
(私たちは……大丈夫だから! 必ず戻るから!)
ロビンも、ゾロに腕を掴まれながら、マヤに強く目配せをした。
彼女たちは、自分たちが誘拐されることよりも、マヤが「ルフィたちを殺す」という最悪の結末を避けるために、あえて抵抗せずに連れ去られることを選んだのだ。
「……っ」
マヤの足が、ピタリと止まる。
愛する女たちの決死の覚悟。それを無下にしてまで、この場でルフィたちを惨殺することは、マヤにはできなかった。
「やったぞ!! ナミとロビンを取り返した!!」
ルフィが狂喜の声を上げる。
「サボ、ありがとう!! にげるぞ!! サニー号へ!!」
サボが煙幕を張り、ルフィたちはナミとロビンを連れて、港の方向へと凄まじい速度で逃走していく。
煙が晴れた後、マヤはただ一人、感情の一切消え失せた赤い瞳で、彼らが消えた方向を見つめていた。
数分後。
ドレスローザの港から、ボロボロになったサウザンド・サニー号が、突如として空高く打ち上げられた。
「風来爆発(クード・バースト)ォォォ!!!」
フランキーの叫び声と共に、サニー号は凄まじい衝撃波を放ち、海軍の軍艦もマヤの専用船も飛び越えて、遥か空の彼方へと奇跡的な逃走を遂げた。
ぽっかりと空いた空。
サニー号による奇跡の逃走が、マヤから最愛の女たちを奪い去った瞬間だった。
「フッフッフッフッ!!!」
その光景を建物の屋根の上から見ていたドフラミンゴが、腹を抱えて狂ったように笑い出した。
「傑作だな!! あの威張ってた天竜人様が、海賊のガキ共に出し抜かれて、大事な女を二匹も奪われたか!! フッフッフ!! 良い気味だぜ!! ただの飾りの天竜人の威光も、地に落ちたもんだ!!」
ドフラミンゴは、自分を追放した天竜人という存在が屈辱を味わう姿に、最高のエクスタシーを感じていた。
だが。
その狂った笑い声は、次の瞬間、真冬の湖のように凍りついた。
「……おい」
はるか下の路上に立っていたはずのマヤが。
人間離れした跳躍力で一瞬にして建物の屋根に飛び上がり、ドフラミンゴの目の前に、音もなく立っていたのだ。
「ひっ!?」
ドフラミンゴは、額に冷や汗を浮かべて後ずさった。マヤから発せられる気配が、先程までの「温厚な天竜人」とは全く違う、圧倒的な『死』そのものだったからだ。
「……ドフラミンゴ。お前、今なんて言った?」
マヤの赤い瞳が、ドフラミンゴのサングラス越しに眼球を射抜く。
「俺の大事なものが奪われて、良い気味だと? お前が海賊と革命軍と『結託』して、俺の女を奪う手引きをしたな。……笑わせるな」
マヤは懐から、真鍮の装飾が施された電伝虫を取り出した。
プルルルル、ガチャ。
『おお、マヤ聖か! ドレスローザの視察は――』
「……ガープ」
マヤの声には、怒りも焦りもなかった。ただ、絶対零度の冷酷さだけが込められていた。それが逆に、電話の向こうのガープの背筋を凍らせた。
「おい。お前の孫が、七武海と、革命軍と組んで……俺の保護下にある『俺の愛するもの』を奪って逃げたぞ。……ガープ、事態は最悪だ」
『ま、待ってくだされマヤ聖!! あやつにはわしから……!』
「今この瞬間をもって、ドンキホーテ・ドフラミンゴの『王下七武海』称号の剥奪を決定する」
「なっ……!?」
ドフラミンゴの顔面が蒼白になる。
「大将を寄越せ。それと、この場にいる革命軍も要警戒指定だ。センゴクにも話を通しておけ」
『…………ッ!! 承知……いたしました』
「ルフィたちは、ナミとロビンが無傷で奪還されれば、お前に温情をくれてやる(命だけは助ける)。だが……次に俺の前に現れたら、ガープの孫だろうが確実に殺す」
ガチャッ。
マヤが電伝虫を切った瞬間、ドフラミンゴは膝から崩れ落ちそうになった。
(な……なんだコイツは!? 海軍の英雄に直接命令し、その場で俺の七武海剥奪を決定しただと!? こいつ、ただの飾りの天竜人じゃねェ……世界政府を直接動かせる『上澄み』か!!)
自分の一時の悪ノリが、国ごと消し飛ぶ最悪の破滅を招いた。ドフラミンゴが絶望に顔を歪めた、その時。
――ウワアァァァァァァァァッ!!!
ドレスローザの街中から、凄まじい轟音と、人々の悲鳴と歓声が入り交じった巨大なノイズが湧き上がった。
おもちゃたちが、次々と本来の「人間」の姿へと戻っていく。記憶を奪われていた家族たちが、互いを思い出し、涙を流して抱き合っている。
「なんだと……!? 地下のシュガーが、やられたのか!?」
ドフラミンゴが悲鳴を上げた。
屋根の上に、黒服――CP10が音もなく降り立つ。
「マヤ聖。任務、完了いたしました。地下の能力者は、海楼石の手錠で制圧しました」
「ご苦労」
エースの手には、分厚い黒の『特製防護手袋』が嵌められていた。悪魔の実の能力者でありながら、海楼石のエネルギーを完全に遮断し、自在に扱うためのCP10専用装備。
地下交易港で、CP10がただの非能力者の護衛だと高を括っていたシュガーや幹部たちは、その圧倒的な体術と海楼石の手錠の前に、為す術もなく制圧されたのだ。
「ただの護衛の黒服が……ウチの最高幹部を、あっさりと……!?」
ドフラミンゴは、マヤ陣営の常識外れの戦力と実務能力に戦慄し、己の浅はかさを心底呪った。
「ドフラミンゴ」
マヤが、地べたに這いつくばる七武海を見下ろした。
「お前は、俺の女を奪う手引きをした。……その代償、命で払え」
マヤの体から、凄まじい覇王色の覇気が奔流となって溢れ出した。周囲の建物のガラスが粉々に砕け散り、ドレスローザの空が黒く歪む。
海軍の大将が到着する前に、狂気の王の破滅は、完全に確定した。
一方、奇跡の逃走を遂げ、空を飛ぶサウザンド・サニー号。
「しししっ! やったぞ!! やっとナミとロビンを取り返した!!」
甲板で、ルフィが無邪気に両手を挙げて喜んでいた。
「全く、手間かけさせやがって。これでようやく、まともに航海できそうだな」
ゾロも、刀を鞘に納めながらニヤリと笑う。
だが。
船壁にもたれかかっていたサンジは、タバコを深く吸い込み、暗い顔で俯いていた。
(俺は……止められなかった。あの理不尽な略奪を。航海が過酷すぎて、俺たち全員が飢えと絶望でおかしくなってた……。でも、あれは絶対にやっちゃいけねェ一線だったんだ……! マヤ聖は、絶対に俺たちを許さねェ)
「ナミィ! ロビン!! 腹減ったぞ! なにか作って――」
バシィッ!!!
ルフィの歓声は、ナミの容赦のない平手打ちによって断ち切られた。
覇気も何もない、ただの怒りと軽蔑を込めた一撃。
「な……んだよ、ナミ。怒ってんのか? もう大丈夫だぞ! 俺たちが助け――」
「私たちを助けた?」
ナミの目は、真冬の海のように冷え切っていた。
「違うわ。あなたたちは、自分たちが生きるためにドフラミンゴなんていう外道と結託して、あまつさえ人の心まで強引に奪おうとした。……ただの『野盗』に成り下がったのよ、ルフィ」
「な……」
ルフィが呆然とする。
「私たちは、あなたたちを助けるため……マヤ聖があなたたちを惨殺するのを止めるために、あえて着いてきただけ」
ロビンも、氷のような視線でルフィたちを見下ろした。
「ルフィ。あなたがやったことは、海賊としての誇りすら捨てた、最低の行為よ。……あなたたちはこれから、海軍の全戦力と、本気で怒った『神』に追われることになるわ」
ルフィたちの思い描いていた「感動の再会」は、そこには全く存在しなかった。
奇跡の逃走は、彼らに何の救いももたらさず、ただ仲間からの決定的な軽蔑と、絶対的な強者からの終わりのない追撃という、地獄の幕開けを告げただけだった。