ドレスローザの空は、絶望的なまでに黒く歪んでいた。
先程までの陽気なラテン音楽と情熱的な喧騒は嘘のように消え失せ、代わりに王宮の広場を支配しているのは、ただ一人の男の体から漏れ出す、濃密で絶対的な『死』の気配だった。
神鬼マヤ。
普段は『温厚』でどぶを浚い、誰にでも気さくに話しかけるこの天竜人の赤い瞳から、一切の感情が抜け落ちていた。
彼の体から立ち昇る覇王色の覇気は、怒りという言葉すら生温い、全てを蹂躙し尽くす修羅の奔流となって周囲の空気を軋ませている。
パリリンッ!!
王宮の分厚いステンドグラスが、覇気の圧力に耐えきれずに次々と粉砕される。
「ひっ……! ぁっ……!」
ドレスローザの王であり、王下七武海でもあったドンキホーテ・ドフラミンゴは、地べたに這いつくばったまま、息をすることもできずにガタガタと震えていた。
彼の隣では、最高幹部のトレーボルが完全に白目を剥き、泡を吹いて気絶している。
ドフラミンゴは、自分の一時の悪ノリが、どれほど巨大で恐ろしい『バケモノ』の尾を踏んでしまったのかを、骨の髄まで理解させられていた。この男は、ただ権力を持っているだけの天竜人ではない。武力、実務能力、そして何より、世界を直接動かすことのできる本物の『上澄み』だ。
マヤが一歩、ドフラミンゴに歩み寄る。
その拳に、どす黒い覇気が纏われた。このまま振り下ろされれば、ドフラミンゴの首などトマトのように潰れるだろう。
「……マヤ聖」
その修羅の歩みを止めたのは、静かな、しかし確固たる意志を持った声だった。
マヤの背後に音もなく立っていた黒服の男――CP10(エース)が、サングラスの奥で主君を真っ直ぐに見据えていた。
「これ以上は、一般市民にまで被害が及びます。……お鎮めください」
「…………」
マヤの動きが止まる。
赤い瞳がエースを捉えた。エースは微塵も怯むことなく、マヤの右腕としての職務を全うすべく、真っ直ぐに主君の怒りを受け止めていた。
かつての直情径行だった『火拳のエース』の面影は、そこにはない。マヤの盾となり、剣となり、そして時にはこのように理性のストッパーとなる。彼は完全に、マヤの最も信頼するエージェントとして成長していた。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
「……フゥー」
マヤは深く息を吐き、纏っていた殺気と覇気をスッと収めた。
空の歪みが晴れ、ドレスローザに再び陽光が差し込む。
「大将が来るまで、こいつらをここに縛り付けておけ」
「承知いたしました」
エースは無機質な声で応えると、懐から海楼石の手錠を取り出し、ドフラミンゴの両腕を背中に回して厳重に拘束した。
「ぐっ……! 俺に海楼石を……!」
「黙ってろ。お前はもう、七武海でも王でもねェ。ただの犯罪者だ」
エースはドフラミンゴを一蹴し、さらに視線を広場の隅へ向けた。
そこには、ルフィを逃がすために殿(しんがり)として残り、エースの圧倒的な体術の前に制圧され、海楼石で縛り上げられている革命軍参謀総長・サボの姿があった。
「お前……」
サボが、地べたに座らされながらエースを鋭く睨みつける。
「なぜ、俺の動きが読める? まるで、俺の癖を全部知っているような戦い方だった。どこかで……会ったことがあるのか?」
サボの問いに、エースのサングラスの奥の瞳が微かに揺れた。
(……記憶がない、か)
ゴア王国のゴミ山。幼き日に交わした兄弟の盃。死んだと思っていた兄弟との再会が、まさかこのような形になるとは。
だが、エースは黒い『特製防護手袋』をギュッと握りしめ、感情を完璧に殺し切った。
「……俺はただの護衛(CP10)だ」
エースの声は、どこまでも平坦で冷たかった。
「お前のような、人攫いの手伝いをする革命軍のテロリストとは、初対面だ。馴れ馴れしく話しかけるな」
「なんだと……!」
サボが歯噛みする中、エースは地下交易港で捕縛したシュガーと、同じく地下を調査中に遭遇し制圧した革命軍のコアラ、ハックを広場へと引きずり出してきた。
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数時間後。
ドレスローザの上空から、無数の眩い光の粒子が降り注ぎ、それがゆっくりと人の形を成した。
黄色いストライプのスーツに、正義のコート。海軍本部大将・黄猿(ボルサリーノ)。
「やれやれェ〜。ガープ中将の孫が、また天竜人を怒らせちゃったんだってェ〜? 困ったもんですねェ、マヤ聖」
黄猿は、いつものように間延びしたおどけた口調で広場に降り立った。
だが。
「……ボルサリーノ。よく来てくれた」
マヤの声を聞いた瞬間、黄猿の顔からスッとおどけた色が消え去った。
声に、怒りも焦りもない。あるのはただ、絶対零度の冷酷さと、底知れぬ威圧感だけだった。
そして周囲を見渡せば、あの傲慢なドフラミンゴが完全に心を折られて海楼石で縛られ、革命軍の幹部たちまでが為す術もなく転がされている。
(……こいつァ、マズいねェ)
黄猿はサングラスの奥の目を細めた。長年海軍大将を務めてきた彼の直感が、「今回の事件は、いつもの天竜人のワガママや、ルフィの悪ふざけレベルの騒動ではない」と告げていた。
「お前が『光』となって素早く来てくれたおかげで、多少俺の苛立ちも和らいだ。良い人選だ」
「……この状況を見るに、最悪のようですねェ」
黄猿は、真顔で短く答えた。
「ドフラミンゴ……前々からやり過ぎだとは思ってましたがね。で、こっちで縛られてる奴らは、一体?」
マヤの背後から、エースが冷徹な声で答えた。
「革命軍です。マヤ聖の保護下にあるお二人を、麦わらのルフィと結託して『人攫い』を手伝ったテロリストどもです」
「……は?」
黄猿の顔が、文字通り青ざめた。
「お前らよォ……何をしてくれてんだい? わかるかィ?」
黄猿は、地に這いつくばるサボたちを信じられないものを見るような目で見下ろした。
「あの二人は、マヤ聖の奴隷なんかじゃないんだぞォ? 立派な誘拐犯罪だし……相手が天竜人ってだけでも本来アウトだ。それが、よりにもよって『マヤ聖』の愛する人ともなると……革命軍、どうなっても知らないよォ?」
黄猿の言葉に、サボは悔しそうに顔を背けた。
「さて、今後だ」
マヤの平坦な声が響く。
「まずドフラミンゴはインペルダウンのレベル6へ送れ。……それと、人を『おもちゃ(忘却)』に変える悪魔の実の能力者がいる。そいつは極めて危険だ。ここで殺して能力が他に移っても厄介だからな」
「……どうされるおつもりで?」
「海底へ連れて行き、そこに『特殊な海楼石の檻』を作らせる。魚人島の海底で飼い殺しだ。ネプチューン王と白ひげを交え、センゴクにも話を通す。まァ、許可は出るだろう。よくもまぁ、こんな厄介な能力者をドフラミンゴは飼っていたもんだ」
(……!!)
黄猿は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
天竜人が、四皇の白ひげや、他国の王であるネプチューンを「当然のように」動かし、世界の法を超えた超法規的な処置(能力者の厳重管理)を下そうとしている。
しかも、インペルダウンよりも厳重な『海底の隔離施設』という発想。
この男は、世界政府や海軍すらも飛び越えて、独自の世界統治(裏の法)を敷き始めている。本気で怒らせてはいけない存在を、あの麦わらと革命軍は怒らせてしまったのだ。
「……わかりやした。早急に手配してきやす」
黄猿は、大将としての最敬礼で応じた。
「おい、革命軍」
マヤが、冷たい目でサボたちを見下ろした。
「お前たちの処遇は重いぞ」
「……なぜ、天竜人がネプチューン王にそのような指示を出せるのですか!」
縛り上げられていたコアラが、鋭い声でマヤを睨みつけた。
「あ?」
マヤが顔をしかめる。
「お前こそなんだ? 一国の王とお前は関係ないだろが。そもそも、俺の大事なものを奪った犯罪者が、どの口で聞いてんだ?」
「……っ!」
「……待て」
マヤは、コアラの顔をじっと見つめた。
「お前……どこかで見たな? どこだ……」
マヤはしばらく考え込むと、黄猿に顔を向けた。
「ボルサリーノ。お前はまず、ドフラミンゴとあの能力者を海軍船へ連れて行き、牢に入れろ。そのあと、こいつら三人に聞かなきゃならないことがある。お前は、話次第ではセンゴクに直接繋げ。それほどの案件だ」
「え? あっしも同席するんで……?」
「光か……便利なもんだな。街の治安維持は、残りの海軍兵に任せておけ。解放されたばかりで混乱があるだろうがな。お前は同席しろ。革命軍の事だからな」
「……わかりやした」
黄猿は小さく溜息をつき、ドフラミンゴたちを光の速度で連行していった。
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別室。ドレスローザの港に停泊する、マヤの専用船の広々とした船室。
豪華な絨毯の上に、海楼石の手錠をかけられたサボ、コアラ、ハックが正座させられていた。エースはマヤの背後に無言で立ち、黄猿も壁際で腕を組んでいる。
「よく、暴れずに着いてきたな。非を認めたということではないだろうな。どうせ天竜人の船の内情を探れるとでも思ってのことだろうが、俺にとってはどうでもいい」
マヤの言葉に、サボがピクッと眉を動かした。図星だった。
「さて。俺が呼んだのは、そこの帽子を被った女だ。お前、もしや……背中に『奴隷の刻印』があるな?」
「!!」
全員が息を呑んだ。エースのサングラスの奥の目すら見開かれている。
「どうなんだ? 正直に答えないと、強引に背中を見せてもらわなきゃならなくなる。その意味はわかるよな? 俺もそんな野蛮な真似はしたくねェ。なきゃないでいい」
「……」
コアラが唇を噛み締め、ハックが苦渋の表情で頷く。
「……はい。あります。ですが……もうその紋章は、別のものに上書きされています」
「ハァ……」
マヤは、深く深く天を仰いだ。
その顔には、怒りよりも、深い絶望と悲哀が刻まれていた。
「その上書きした紋章……『タイヨウの刻印』だろ?」
「なぜそれを!!」
コアラが叫び、サボもハックも驚愕に目を見開いた。
「そうさな……何処から話せばいいか。……まず、名を名乗れ」
「……コアラです」
「サボだ」
「……ハック」
「内情は喋らなくていい。お前たちの革命の思想に興味はねェ。……コアラ。お前、『フィッシャー・タイガー』に助けられたな?」
コアラとハックの顔から、一気に血の気が引いた。
「……あのォ、マヤ聖」
黄猿が、バツが悪そうに手を挙げた。
「あっしは、これ以上は聞かない方がいい気がしてきたんで、外に出てますわ。見張ってることにしやすよォ」
「察しのいい奴だ」
黄猿がそっと退室し、重い金属の扉が閉まる。
船室には、マヤ陣営と革命軍の三人だけが残された。
「簡潔に言う」
マヤは、ゆっくりと口を開いた。
「今、俺はリュウグウ王国のしらほし姫の肩に、俺の紋章を刻んでいる。それは、しらほしを他の天竜人から完全に保護するためだ」
「なんですと!?」
ハックが激昂して腰を浮かす。
「姫様を奴隷にしたというのですか! 貴様ら天竜人は、どこまで魚人族を侮辱すれば気が済む!!」
「やはり、天竜人なんてクズは……!!」
サボも、海楼石の鎖を鳴らして叫ぶ。
ドゴォォォン!!!
サボの顔面に、凄まじい速度で放たれたエースの回し蹴りがめり込んだ。
「ぐあっ……!」
サボが吹き飛び、床を転がる。
「……それ以上の侮辱は、俺が許さねェ」
エースが、冷たく見下ろした。
「お前ら、まずは自分が何をしたか考えろ。人攫いの片棒を担いだんだろうが! マヤ聖が、どんな思いであの二人(ナミとロビン)を保護し、愛していたかも知らねェでよ!!」
「CP10。それくらいにしてやれ」
マヤが静かに制する。
「その……なんだ。お前にとっても、あの男(サボ)には思うところがあるだろうからな」
「……マヤ聖への感謝を忘れた海賊と、薄っぺらいテロリストに、情けなどありません」
エースは深く一礼し、再び定位置へと戻った。
「最後まで話を聞くか、ここで終わるか。どうする?」
マヤが問うと、コアラが涙目になりながらも強く頷いた。
「……聞かせて、ください」
「同じく……」ハックも息を整え、座り直す。
「コアラ」
マヤの赤い瞳が、コアラを真っ直ぐに射抜いた。
「タイガーと一緒にマリージョアから逃げる時……どぶさらいをしていた少年を知らないか?」
「……っ!!」
コアラの体が、びくっと大きく跳ねた。
記憶の底に眠っていた、あの燃え盛る業火の夜。タイガーの背中にしがみついて逃げる最中、汚水に塗れた水路で、名も知らぬ少年が密かに経路を確保し、彼らを逃がしてくれたあの光景。
「なぜ……そのことを……!? それは、タイガーさんが逃げる時に、その少年が手伝ってくれたと……ジンベエさんから……」
「そういう縁だ。ゆえに、しらほしもネプチューンも、俺を認めてくれた」
「まさか……!!」
ハックが、顔面を蒼白にして震え出した。
「タイガーの兄貴を……マリージョアから逃がしてくれたという少年……それが……」
「あとはジンベエにでも聞くか? それとも、俺の言うことを『天竜人だから』という理由で遮断するか? どっちだ?」
「聞かせてください……! お願いします……!」
コアラは、祈るように両手を組んでマヤを見つめた。
「……俺が、その少年だよ」
マヤの口から、ギリッと奥歯を噛み締めるような、酷く悔しそうな声が漏れた。
その声には、世界最高権力者の威光など微塵もなく、ただ一人の無力な人間の、血を吐くような後悔が滲んでいた。
「俺は……タイガーが死んだ事が、ずっと許せなかった。自分が逃がしたことで、あいつは追われて死んだのか。一緒に逃げた連中は、その後どうなったのか……。俺には、あそこで遺体を弔う事や、逃げる手引きをする事しかできなかった……!」
マヤの言葉が、重く、船室に響き渡る。
「20年だ!! 20年間、それをずっと考えながら、どぶを浚い続けてきた。今もだ!!」
革命軍の三人は、あまりの事実に完全に言葉を失った。
「まずは……お前も生きててくれたのか。それは喜ばしい。……だがな」
マヤの冷徹な声が、悲痛な怒りに震える。
「くそが……!! それがなんで、俺の大事なやつらを奪う手伝いをしたんだよ!!! これじゃあ、俺がタイガーを逃がしたのも『間違い』だったって事になっちまうだろうが!! お前らのやってる革命ってのは、恩人の思いを踏みにじることなのか!! 一体なんなんだよ!!」
「あ、あぁ……あぁっ……!」
コアラの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
自分たちが「絶対悪」として打倒しようとしていた天竜人。それは、自分の命と、恩人であるタイガーの命を繋いでくれた大恩人だった。
その恩人の『愛する人』を、自分は、ルフィの言葉だけを信じて、暴力で強引に奪い去ってしまった。自分はなんて恐ろしい、最低の恩知らずな真似をしてしまったのか。
「……なんて事をしてしまったんだ、我々は……!」
ハックも床に頭を擦り付け、激しい悔恨に震えて咽び泣く。
「……コアラ? ハック? なんだよ、どういう事だよ……!」
何も知らないサボだけが、二人の絶望の理由を理解できずに混乱している。
「コアラ」
マヤは、深い溜息をついて彼女を見下ろした。
「革命というのは、確かに凄い事だ。だがな、その中に『小さい間違い(無知による正義の執行)』が一つでも起きれば、世界は簡単に狂うんだよ。だから、より慎重にやらなきゃいけねェんだ。お前たちは、革命には向いてないよ」
「……うぅっ……! ひっく……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!!」
コアラは、ただひたすらに謝罪の言葉を口にして泣き続けることしかできなかった。
「そうだな。ナミとロビンを無傷で奪還するまで……コアラ、お前は俺が預かる。ハックとサボは、海軍の牢(インペルダウン)に入れる」
「ふざけるな!! コアラに何をするつもりだ!!」
サボが激怒して叫ぶ。
「お前は黙ってろ」
エースが、底冷えのする声でサボを睨み据えた。
「本当に……今のやり取りを聞いてて、何もわかってねェんだな。お前に口を挟む権利はねェんだよ」
「……その提案を飲みます」
ハックが、涙で顔を濡らしたまま、深く頭を下げた。
「我々の軽率な行動が招いた罪です。……本当に、すまない。マヤ聖……!!」
船室には、コアラとハックの咽び泣く声と、サボの無力な歯軋りの音だけが響いていた。
---
一方、海軍大将の追撃と、絶対的な神の怒りを背負って逃走を続けるサウザンド・サニー号。
「おい、どうしたんだよお前ら! 喜べよ!」
ルフィが、暗く沈み込んだ船内の空気に耐えきれず、大声で笑ってみせる。
「ナミとロビンを取り返せたんだぞ! これからまた、冒険の始まりだ!」
「……ルフィ」
ゾロが、腕を組んだまま鋭い視線で船長を見た。
「今回のお前の判断……本当に正しかったのか?」
「え?」
「俺たちは、生きるためにドフラミンゴと結託し、あいつらを強引に攫ってきた。……ナミの言う通り、俺たちはもう『海賊』じゃねェのかもしれねェな」
「なんだよゾロ! お前までそんな事言うのか!」
「……黙れよ、ルフィ」
タバコを深く吸い込んだサンジが、冷たい声で遮った。
「俺たちは、超えちゃいけねェ一線を超えたんだ。……もう、引き返せねェよ」
ナミとロビンは、船室の隅で互いに身を寄せ合い、ルフィたちには一切の言葉を発しようとはしなかった。
逃避行は、始まったばかりだった。
だが、彼らの乗る船は、すでに『内部崩壊』という名の沈没を始めていた。