シャボンディ諸島の朝は、特有のヤルキマン・マングローブが分泌する樹脂の匂いと、海から吹き込む潮風が混ざり合った独特の香りで始まる。
数日前の人間オークション会場での騒動の爪痕はまだ島の一部に生々しく残っていたが、逞しい下々民たちはすでに日常を取り戻すべく、各々の仕事に精を出していた。
特に活気を取り戻しつつあるのが、諸島の港湾エリアである。
大小様々な船が停泊するドックでは、木材を切り出す鋸の音や、甲板に釘を打ち込むリズミカルな槌の音が響き渡っていた。
「おい、そこの滑車、もう少し右に引け! 張りが足りないぞ!」
怒号のように指示を飛ばしているのは、屈強な船大工……ではない。
ゆったりとした天竜人の装束の上半身を脱ぎ捨て、腰に巻きつけただけの姿で、汗を流しながら巨大な帆柱のロープを引っ張っている赤髪の青年――マヤだった。
研ぎ澄まされた筋肉には汗が光り、無駄のない動きで重い木材を次々と組み上げていく。その手際たるや、熟練の船大工すら舌を巻くレベルである。
「マヤ様! そこは俺たちがやりますから!」
「いい。お前らじゃ重心の取り方が甘い。あと五センチずれてたら、波を被った時に帆柱ごと持っていかれるぞ」
慌てて駆け寄ろうとする職人たちを制し、マヤは事も無げに重労働をこなしていく。
その光景を、少し離れた木箱の上に腰掛けながら、二人の女性が呆れたように眺めていた。
「……本当に、なんで天竜人が率先して船の修理なんてやってるのかしらね」
オレンジ色の髪を潮風に揺らしながら、ナミがため息まじりに呟いた。
彼女の膝の上には、マヤから与えられた世界最高級の画板と製図ペンが置かれている。
「ふふ、いいじゃない。マヤ聖は『汚いものと壊れているものが嫌い』だそうよ。それに、手伝ってもらっている職人さんたちも、最初は怯えていたけれど、今はすっかり頼りにしているみたいだし」
ロビンが、手元の分厚い歴史書から視線を上げて微笑んだ。
彼女たち二人は、マヤの『所有物』としてこの数日間を宮殿で過ごした。だが、与えられたのは絶対的な安全と、望む限りの物資、そして完全な自由だった。
奴隷のように扱われることは一切なく、むしろ「俺の部屋の掃除はメイドがやるから、お前らは自分のやりたいことをやってろ」と、半ば放任されている。
「お前ら、そこに座ってるなら釘の補充くらいしろよ。……まあ、お前らは船に乗ってたんだろ? 船の構造くらいわかるだろうが、これは男の仕事だ。無理はしなくていい」
マヤが額の汗を手の甲で拭いながら、二人に声をかけた。
「私たち、これでも海賊だったんだけど?」
「だから? 今は俺のメイドみたいなもんだろ。お前たちの仕事は海図と研究だ。たまには息抜きに、美味いもんでも食べに行ってくればいい。これは俺が好きでやってることだ」
マヤはこともなげに言い放ち、再びハンマーを振り下ろした。
その横顔を見つめながら、ナミはぽつりと零した。
「……マヤ聖って、本当に変わってるわよね」
「ええ。世界中を敵に回してでも生き延びようとしていた私が、こんなに穏やかな時間を過ごせる日が来るなんて、思ってもみなかったわ」
ロビンの瞳には、過去のしがらみから解放されたような、静かな安堵が宿っていた。
「私も……なんで海賊なんてやってたのかしらね」
ナミは自分の手元にある海図を見つめ、自嘲気味に笑った。
「ココヤシ村にいた頃は、海賊なんてこの世で一番憎い存在だったのに。ルフィに救われて、彼についていくのが正解だと思ってた。でも……結局、彼らと一緒にいれば、あんな風に関係ない人たちを巻き込んでしまう」
数日前に見た、瓦礫の街と死傷者の惨状が脳裏をよぎる。
ナミの沈んだ声を聞きつけ、マヤが手を止めて振り返った。
「色んな人生があるさ。出会い方一つってやつだ。俺も、よくシャルリアや他の奴らに『変な奴』って言われるよ。でも、汚いのは嫌だろ? 壊れてるなら直した方が早い。それに、この街は人手が足りてないしな。ただ、それだけのことさ」
マヤはにかっと笑い、再び作業に戻った。
その屈託のない笑顔と、軽やかな生き方に、ナミとロビンも自然と顔を見合わせて笑い合った。
どぶ掃除を手伝わされるのは御免だが、この男の側にいられることは、決して悪いことではない。心からそう思えた。
だが、その穏やかな時間は、予触れもなく破られた。
「ずいぶんと、島の人間に慕われている天竜人様だ」
背後から掛けられた低い声に、ナミとロビンがビクッと肩を震わせた。
振り返ると、銀色の長髪を後ろに撫でつけた初老の男が立っていた。丸眼鏡の奥の瞳には、鋭い覇気が宿っている。
冥王、シルバーズ・レイリー。
マヤはハンマーを置き、面倒くさそうに首を鳴らしてレイリーに向き直った。
「……なんだ、この前の爺さんか。何の用だ? ここは遊び場じゃないぞ」
「その二人を、いい加減解放してくれないか」
レイリーの言葉に、周囲の空気がピンと張り詰めた。職人たちが息を呑み、作業の手を止める。
だが、マヤは顔色一つ変えずに鼻で笑った。
「何を言ってる? この二人は、正当な手続きを踏んだ俺の『所有物』だぞ。……お前が買い取るか?」
「所詮は天竜人、か……」
レイリーは深くため息をつき、蔑むような目をマヤに向けた。
ナミとロビンは、二人の間に漂う一触即発の空気に身を固くする。
「人様の物を欲しがってるのは、お前の方だろ? 老人よ」
マヤの声が、一段と低く、冷たく響いた。
「それに対する『対価』を払う。当たり前のことを言ってるだけだが?」
「人を、なんだと思っているんだ」
「お前こそ、人の者をなんだと思ってるんだ?」
レイリーが言葉に詰まる。マヤは呆れたように肩をすくめた。
「この老人は話が通じないのか? これだから海賊という奴は、自分たちの目先の感情しか見えない連中だよ。人の物を奪うなら対価を払うか、筋を通す。それすらできないで『解放しろ』だと?」
「利益だと……!? 力ずくでその二人を奪っておいて、何を語る!」
「奪った? 俺は保護したと言っている。これが伝説とかいう海賊の成れの果てかね。悲しいもんだ」
マヤはゆっくりとレイリーに近づき、見下ろすように視線を合わせた。
「ルールも無視し、欲しいものがあったら力で奪い取る。自分の気に入らない奴は殴り飛ばす。まさに海賊だね。俺はね、しっかりこの世界のルールに則って、この二人を所持しているんだよ」
「天竜人の権力を使っただけだろうが!」
レイリーの怒号が響く。だが、マヤの赤い瞳は少しも揺らがなかった。
「はぁ……。じゃあ、なにかい? お前は、この二人を守れるのか?」
マヤの問いに、レイリーの眉がピクリと動いた。
「今、この瞬間に。海軍から物理的に逃げ回るような生活じゃなく、陽の当たる『平穏な世界』で、こいつらが生きられるようにしてやれるのか?」
「…………」
「できるから、俺に解放しろって言ってるんだろ? なら、連れて行けよ」
ナミとロビンが、驚いてマヤを見た。
「どうした? 連れて行けよ。平穏な世界で生きられるように、二人を守ってくれるんだろ? まさかとは思うが、世界政府に追われる海賊なんてものに、また戻すとかいうふざけた話はなしだぞ?」
「……だが、彼女たちは『麦わらの一味』の仲間なんだぞ!?」
レイリーが絞り出すように言った。海賊としての絆。それが彼にとっての最大の理由だった。
しかし、マヤは心底理解できないというように首を傾げた。
「そうかい。で?」
「……わかってくれたか」
「さっぱりわからんな」
ズンッ!!
レイリーの全身から、ついに覇王色の覇気が立ち昇った。
周囲の職人たちが白目を剥いて次々と倒れ伏し、ドックの空気が重圧でミシミシと悲鳴を上げる。
ナミとロビンも膝をつき、必死に意識を保とうと荒い息を吐いた。
だが、その威圧の中心に立つマヤは、ただ無表情のまま、うるさいハエでも見るような目をレイリーに向けていた。
「……またそれかよ」
「なっ……!?」
「後ろ見ろよ。ナミとロビンが怯えて息切らしてるじゃないか。お前、こいつらを救いに来たのか、威圧して痛めつけに来たのか、忙しい奴だな」
マヤの言葉にハッとしたレイリーが、覇気を収める。
「……何故、解放しない?」
「もしもーーし。お爺ちゃん、俺の話、聞いてましたか?」
マヤはレイリーの目の前で、パンパンと手を叩いた。
「俺は『連れて行け』って言ってる。その上で、『平穏な世界で生きられるようにしろ』っていう当たり前の条件を付けてるだけだ。俺は一度も、麦わらの一味がどうとか、海賊の絆がどうとかいう話はしていない。わかるか?」
「…………」
「俺は、そこの『女二人の今後の人生』について話してるんだよ。話を、自分の都合のいい海賊のロマンにすり替えるな」
ぐうの音も出ない正論だった。
海賊に戻せば、彼女たちは再び命を狙われ、泥水をすするような逃亡生活に戻る。マヤの庇護下にいれば、海図も研究も、何不自由なく安全に行える。
どちらが彼女たちの『人生』にとって幸福かなど、火を見るより明らかだった。
騒ぎを聞きつけた海軍の駐屯部隊が、慌ただしい足音を立てて駆けつけてくる。
それと同時に、倒れるのを免れた遠巻きの住民たちが、口々に叫び始めた。
「海賊が、マヤ様に言いがかりをつけてるぞ!」
「あっちへ行け! マヤ様は俺たちの恩人だ!」
「海軍! 早くその海賊を捕まえてくれ!」
天竜人であるマヤを、下々民である住民たちが必死に擁護している。
レイリーにとって、それは長く生きたこの世界でも、見たことのない異様な光景だった。
「はぁ……。どうなってんの、これ」
マヤがため息をつきながら、ナミとロビンを振り返った。
「おい、お前ら。どうするんだ。行くのか?」
「……私は、しばらくマヤ聖の場所にいます」
ナミが、震える足で立ち上がりながら、はっきりと言い切った。
「……私もよ」
ロビンもまた、迷いのない瞳でレイリーを見据えた。
「なんだと……? 君たち、麦わらの一味はどうするんだ!?」
「はい、話は終わりね」
マヤが、レイリーと二人の間に割って入った。
「二人は俺の所有物なんでね。そして、その二人が『ここに残る』と自分で選んだんだ。文句はないだろ?」
「……まさか、操られているのか!? 君は、悪魔の実の能力者か!?」
レイリーが苦し紛れに放った言葉に、マヤはきょとんと目を丸くした。
「おいおい、なんだそれは?」
「あの……マヤ聖。能力者というのは、その……『悪魔の実』というものを食べた人間のことでして」
ロビンが、気まずそうに補足した。
「へぇ……。それは、食べ物なのか?」
「え?」
海軍も、レイリーも、住民たちでさえも、全員が驚愕してマヤを見た。
悪魔の実の存在すら知らない? 天竜人でありながら?
「うまいのなら一度食べてみたいけど、随分と物騒な名前だな」
「あの……なんていうか、こういうものです。えい」
ロビンが両手を胸の前で交差させた。
ポンッ、ポンポンッ!
マヤの背中や肩から、ロビンの腕が何本も花のように咲き誇る。
「うわっ!? なんだこれ……手がたくさん……」
マヤは自分の肩から生えた腕をまじまじと見つめ、少しだけ顔を引き攣らせた。
「便利……なのか? そういうのが能力ってやつか。ごめん、それはちょっと……気持ち悪いな」
「…………。せっかくお見せしたのに、酷いですわ」
ロビンが少しだけ頬を膨らませて能力を解除する。
その、まるで日常のコントのようなやり取りを見せつけられ、レイリーは完全に戦意を喪失していた。
目の前の男は、悪魔の実の力など使っていない。純粋な己の力だけで、自分と互角以上に渡り合い、そして彼女たちの心を掌握しているのだ。
「で、おじさん、どうすんの? もういいだろ。戻ってくれ。話にならないよ」
マヤはヒラヒラと手を振ってレイリーを追い払うような仕草をした。
「なんだよ、麦わら麦わらって。そんなに大事なら、その辺の帽子屋で新しいの買ってこい。……ほら、お前ら。今日の仕事はおしまいにして、ご飯でも食べに行くぞ。ナミ、ロビン」
「あ、うん……」
「ええ、行きましょうか」
マヤの背中を追って歩き出す二人の姿には、もはや一切の迷いがなかった。
取り残されたレイリーと、駆けつけた海軍たちは、ただ呆然とその異端の天竜人の背中を見送ることしかできなかった。
その後、マヤが二人を連れて入ったのは、高級なレストランなどではなく、港の裏路地にある適当な下々民の定食屋だった。
油の匂いと、魚を焼く香ばしい匂いが漂う、どう見ても天竜人が足を踏み入れるような場所ではない。
だが、カウンターの奥にいた親父は、マヤの顔を見るなり人懐っこい笑みを浮かべた。
「おう、マヤ様! 今日も仕事帰りかい! 奥の席が空いてるぜ!」
「ああ、腹減った。今日は三人だ。適当に見繕ってくれ」
慣れた様子で奥のテーブル席にどっかりと座るマヤを見て、ナミとロビンは目を白黒させていた。
「ここの飯は美味いからな。好きに食べてくれ、金は俺が出す」
「マヤ聖、お金はいつも要らないって言ってるでしょうが! この間の屋根の修理代だけで、うちの定食一生分はお釣りが出ますよ!」
「それはそれだぞ、店主。謙遜しすぎはよくない。ちゃんと対価は受け取れ。それがルールだ」
笑いながら言い合うマヤと店主の姿は、どう見ても気のいい地元の青年と常連のやり取りだった。
運ばれてきた山盛りの海鮮シチューと黒パンを、マヤは行儀など気にせず豪快に口に運ぶ。
ナミとロビンも、恐る恐るシチューを口に運んだ。素朴だが、魚介の出汁がしっかりと効いていて、冷えた体に染み渡るように美味しい。
(ああ……)
ナミは、温かいスープを飲み込みながら、ふと思った。
この人は、本当にただ『当たり前』に生きているだけなのだ、と。
汚いものを綺麗にし、壊れたものを直し、腹が減ったら対価を払って飯を食う。そこに身分の差や、海賊だの海軍だのという肩書きの偏見は一切ない。
ただ、自分の目の前にあるものを、自分の手で守っているだけ。
(私たち……本当に、とんでもない人に拾われたのかも……)
ロビンもまた、同じように感じていたのか、口元に柔らかな笑みを浮かべてパンを千切っていた。
そんな、他愛のない平穏な食卓の空気が凍りついたのは、定食屋の店主が「そういや、今日の新聞、号外が出てたぜ」と、一枚の紙をテーブルに置いた時だった。
『白ひげ海賊団二番隊隊長・火拳のエース。マリンフォードにて公開処刑決定』
その見出しと、鎖に繋がれた男の写真を見た瞬間、ナミの手からスプーンが滑り落ち、カチンと高い音を立てた。
「エ、エースが……処刑……!?」
ロビンの顔からも、スッと血の気が引いている。
「アラバスタで……ルフィのお兄さんよ……」
「どうして、あんなに強い人が……」
二人の様子が急変したのを見て、マヤは口の中のパンを飲み込み、新聞の記事を覗き込んだ。
「誰それ? 二人の大事な人か?」
「ルフィの……船長のお兄さんよ。私たちも以前、少しお世話になったことがあって……」
震える声で答えるナミに、マヤは「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らした。
「で? 助けたいの?」
マヤのあまりにも軽い言葉に、ナミとロビンは弾かれたように顔を上げた。
「助けるって……相手は世界政府よ!? 海軍本部と王下七武海が待ち構える、マリンフォードでの公開処刑なのよ!?」
「だから?」
マヤは不思議そうに小首を傾げた。
「お前たちが恩義を感じてて、助けてほしいなら、俺がなんとかしてやるって言ってるんだ。お前たち二人は俺のメイドだからな。メイドの恩人は、俺にとっても助ける理由になる」
ナミとロビンは、息を呑んで目の前の男を見つめた。
冗談で言っている顔ではない。この男は本気だ。本気で、世界政府の最高決定を、己の一存でひっくり返そうとしている。
「……どうする? 俺に、助けてほしいか?」
マヤの赤い瞳が、真っ直ぐに二人を射抜いていた。