新世界。ドレスローザから命からがら逃走を果たしたサウザンド・サニー号の甲板は、死のような静寂と絶望に支配されていた。
食料は尽き、ろくな休息も取れないまま、水平線の向こうには常に海軍の巨大な軍艦の影がちらついている。神鬼マヤを本気で怒らせた代償は、四皇に追われる以上の重圧となって、麦わらの一味の精神を確実に削り取っていた。
「……もう、限界だな」
マストの上で見張りをしていたゾロが、血走った目で乾いた声を漏らした。
海軍の包囲網だけではない。サニー号の目の前の海を塞ぐように、巨大なでんでん虫の形をした無数のステルス艦隊が、突如として海中から浮上してきたのだ。
「ジェルマ66……!」
サンジは、甲板の手すりを握りしめ、血の気の引いた顔でその艦隊を睨みつけた。
黒を基調とした禍々しいステルス艦の甲板に立つ大柄な男――実の父親であるヴィンスモーク・ジャッジが、冷酷な目でサンジを見下ろしている。
『久しぶりだな、我が一族の恥晒しよ。……お前を迎えに来たぞ』
「ふざけるな……! 俺はもう、お前らとは何の関わりもねェ!!」
『東の海の「海上レストラン」。そこのオーナーである片足の老人の命は、今、我々が握っている』
「……っ!!」
サンジの心臓が、早鐘のように跳ねた。
『四皇ビッグ・マムとの政略結婚の道具になれ。断れば、老人の命はない。おまけに……今この場で、そのボロボロの海賊共も皆殺しにしてやる』
ジャッジの非道極まりない脅迫。
サンジは、振り返って仲間たちを見た。ルフィは飢餓と疲労で倒れ伏し、ナミとロビンは氷のように冷たい目でサンジたちを見ている。一味はすでに内部崩壊し、背後からは海軍の大艦隊が迫っている。逃げ道など、どこにもなかった。
(……俺が、行くしかねェ)
サンジは強く奥歯を噛み締めた。
(俺がジェルマの要求を呑んで生贄になれば……ゼフの命は助かる。ルフィたちも、この場は逃げ延びられるかもしれない。……俺の犠牲で、全員が助かるなら……!)
数分後。
「帰れ、下級海賊共!! 俺はジェルマの王子だ!!」
サンジは、止めに入ったルフィの顔面を容赦なく蹴り飛ばし、血を吐くような嘘をついて、自らジェルマの船へと乗り移った。
「サンジィィィ!!!」
ルフィの悲痛な絶叫が海に響く中、ジェルマの艦隊はサンジを乗せ、四皇ビッグ・マムの治める『万国(トットランド)』の海域へと姿を消していった。
サニー号に残されたのは、深い絶望だけ。
だが、その絶望の質は、サンジの思い描いていたヒロイズムとは全く異なる、酷く冷たく、ドライなものだった。
「サンジくんは……自分を犠牲にして私たちを逃がしたつもりなのね」
ナミが、冷え切った声で呟いた。
「滑稽ね。私たちが海軍に追われているのは、あなたたちがマヤ聖を裏切って強引な略奪をしたからなのに」
「……ええ」
ロビンも、静かに頷く。
「私たちを助けるためじゃなく、自分たちの『海賊の誇り』のために泥棒をして、勝手に海軍に追われて、勝手に一人で生贄になっていく。……独りよがりもいいところだわ」
「おい、お前ら……!」
ゾロが鋭く睨むが、ナミとロビンの瞳には、もはや麦わらの一味への情など微塵も残っていなかった。
「ロビン、急ぐわよ」
ナミはゾロを無視し、甲板の後方に置かれた『シロモクバ1号(ジェットバイク)』の元へ向かった。
「ルフィたちが騒いでる今なら、このままジェットバイクで海軍の船まで逃げ切れるわ。……これでやっと、マヤ聖の元に帰れる」
ナミは懐から、鈍く光る金の袋を取り出し、甲板の樽の上にドンッと置いた。
中には、マヤから「何かあった時の護身用」として渡されていた、数百万ベリーに相当する純金の金貨がぎっしりと詰まっていた。
「これで、このジェットバイクを買い取らせてもらうわ。残りの金で食料でも買えば、あなたたちも数ヶ月は逃げ延びられるでしょ。……さようなら」
ナミの言葉に、ゾロが目を見張る。
「おい、ナミ! 今、俺たちから離れれば、海軍に撃たれるか捕まるかだぞ! 本気で言ってんのか!?」
「ええ、本気よ。……むしろ、捕まるために行くのよ」
ナミは、水平線の向こうに見える海軍の軍艦のシルエットを見つめながら、悲痛な決意を込めて呟いた。
「もし今、私たちが海軍の船へ逃げ帰れば、ルフィたちは『誘拐犯』のレッテルを貼られる。でも……マヤ聖なら、私たちが無事に戻ったと知れば、温情をかけてルフィたちの命だけは見逃してくれるはずよ。……あの人は、そういう人だから」
ナミの胸の奥底にあるのは、マヤへの深く、狂おしいほどの愛情だった。
自分たちを助け、愛し、絶対的な安全を与えてくれた男。彼に、これ以上ルフィたちを殺すという非情な決断をさせたくない。マヤの手を汚させないためにも、自分たちはここでルフィを切り捨て、自ら『誘拐の被害者』として帰らなければならなかったのだ。
「ロビン、乗って! エンジンをかけるわよ!」
ナミがシロモクバ1号にまたがり、後部座席にロビンが乗る。
ナミが思い切りスターターの紐を引いた。
――ガフッ。
鈍い音がしただけで、ジェットバイクのエンジンは火を吹かない。
「え?」
ナミは首を傾げ、もう一度強く引く。
――ガフッ、スカッ。
「どうして……!? 整備は完璧なはずなのに、どうしてエンジンがかからないの!?」
「ナミ、どうしたの? 今の混乱に乗じて逃げられるわよ? もたもたしていると、海軍の砲撃が……」
「違うのよ! エンジンが……どうしてもかからないの!!」
ナミが焦燥に顔を歪める。ロビンが代わってスターターを引くが、やはり動かない。まるで、目に見えない強大な力が、彼女たちの離脱を強引に拒絶しているようだった。
「……おい見ろルフィ! 金貨だ!! すげェ額だぞ!!」
ジェットバイクと格闘するナミたちの背後で、ウソップのすっ頓狂な声が響いた。
「ほんとだ! ナミ! ロビン! お前たち、金までくれて、やっぱり俺たちのところに戻ってきてくれて嬉しいぞ!!」
飢餓で倒れていたはずのルフィが、金貨の入った袋を抱え上げ、無邪気に満面の笑みを浮かべてナミを振り返った。
「ふざけないで……!! 貴方達のために来たんじゃないって、何度も言ってるでしょ!? 私はマヤ聖の元に帰るのよ!!」
ナミが甲板に飛び出し、怒鳴りつけた。
だが、次の瞬間。ナミはサニー号の周囲の海面を見て、息を呑んだ。
「……というか、何なのこの状況!? 海軍の船が、どんどん離れていくじゃない!!」
サニー号が、海軍の軍艦から放たれる砲撃を神がかった回避軌道ですり抜け、異常なスピードで海を滑るように進んでいたのだ。帆の角度も、舵の向きも、誰も操作していないにも関わらず、船は自らの意志を持っているかのように、四皇の領土であるトットランド方面へと猛烈な加速を見せていた。
「しししっ! やったな! なんでか分からねェけど、海軍の奴ら、全然追いついてこねェぞ!」
ルフィが歓喜の声を上げる。
「うまいこと逃げ切れそうだし、これでサンジを助けに行けるな!! にっししし!」
その屈託のない笑顔に、ナミの背筋にゾクリと悪寒が走った。
「……ダメね、ナミ。これは……」
甲板に上がってきたロビンが、異常な海流と船の動きを見て、青ざめた顔で呟いた。
「これは……『サニー号の意志(クラバウターマン)』なのかもしれないわ」
「はっ……!!」
ナミの脳裏に、これまで何度も自分たちを窮地から救ってくれた、船の精霊の存在がフラッシュバックした。
仲間を守り、航海を助けてくれた奇跡の力。……だが、今、自分たちは『ルフィの元を離れたい』と本気で願っている。しかし、船からすれば、自分たちは『どんなことがあっても連れ戻すべき仲間』なのだ。
「嘘でしょ……」
ナミは、その場にへたり込んだ。
「いつも私たちを助けてくれてたその奇跡が……いざ私たちが離れようとしたら、こんな『理不尽な檻』になるなんて……!!」
「なに言ってんだナミ? ほら、ウソップ! その金でまずは飯だ!! トットランドに行けば食い物がいっぱいあるらしいぞ!!」
「おう! これで飯が食えるし、またみんなで冒険だ!!」
絶望に打ち震えるナミたちの前で、ルフィとウソップだけがズレた歓喜の声を上げている。
その異常な温度差を、ゾロ、フランキー、チョッパー、ブルックたちは、甲板の隅で暗い顔をして見つめていた。
彼らは知っている。マヤ聖が、どれほど自分たちに温情をかけ、ガープの軍艦がわざと捕まえないように手加減をしてくれていたかを。あの金貨も、マヤ聖がナミに持たせていたものだということを。
(……ルフィ。お前は本当に分かってねェ。俺たちはもう、海軍の温情から完全に外れて、絶対領域(四皇の海)へ足を踏み入れちまったんだぞ……!)
ゾロは、刀の柄を握りしめながら、冷や汗を流した。
(サニー……お前、なんて時に奇跡を起こしてくれやがるんだ……。これじゃあ、ナミたちまで完全に共犯(一味)になっちまうじゃねェか……!)
フランキーも、愛する船が引き起こした『最悪の誘拐劇』に、ただ震えるしかなかった。
ルフィの独善的な海賊の論理と、船の奇跡が引き起こした理不尽なる航海。もはや歯車は誰にも止められない。エンジンのかからないジェットバイクを残し、サニー号は狂ったように四皇の海域を突き進んでいく。
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その頃。四皇ビッグ・マムの治める巨大な海域『万国(トットランド)』。
ホールケーキアイランドの巨大な城の玉座で、ビッグ・マムことシャーロット・リンリンは、特大のフルーツサラダを貪り食いながら、不機嫌そうに電伝虫を睨みつけていた。
『――というわけで、我が息子「サンジ」を差し出しましょう。政略結婚の相手として』
通信の向こうで語るのは、ヴィンスモーク・ジャッジだった。
「……で? その『サンジ』ってのは、どんな男だい?」
『今は「麦わらの一味」とかいう海賊団のコックをしているようですがね』
「……麦わらの、一味だと?」
ビッグ・マムの目が、スッと鋭く細められた。
(ドレスローザでマヤ聖の愛する女たちを攫い、あの絶対的な権力者を本気で怒らせたという、今世界で一番「関わってはいけない」バカ共じゃないか……!)
「ジャッジ。お前、そいつをどうするつもりだい?」
『我が軍のステルス艦で強襲して回収しました。このまま、トットランドへ連れて行きましょう』
「……そうかい。わかったよ、とりあえず連れてきな」
ガチャ。
通信を切るなり、ビッグ・マムは傍らに控えていた長男ペロスペローを怒鳴りつけた。
「ペロスペロー!! すぐにマヤ聖に通信を繋ぎな!! マヤ聖の獲物(麦わらの一味)を黙って連れ込んだと知られたら、アタシらがマヤ聖にケンカ売ってると思われるだろうが!!」
すぐに電伝虫が繋がり、マヤの平坦な声が響く。
『……なんだ、リンリン。俺は今、忙しいんだが』
「マァマァマァ! マヤ聖、少し耳に入れておきたい情報がありましてねェ。実は今、ジェルマのジャッジが、『麦わらの一味のサンジ』をトットランドに連れ込んでいる最中なんですヨ。……アタシたちに、マヤ聖の獲物を横取りするような他意は一切ありませんからね?」
『……なんだと!? ジェルマが、麦わらを強襲しただと!?』
電話の向こうの空気が、一瞬で緊迫したものに変わった。
『……わかった。ジェルマの船が着いたら、お前が責任を持って港に足止めしておけ』
ガチャ。
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凪の帯(カームベルト)。一切の風が吹かず、巨大な海王類が巣食う魔の海域を、天竜人の巨大な白亜の船が、海楼石の船底コーティングと最新鋭の動力によって猛スピードで横断していた。
「急げ!! 進路変更、トットランドへ直行だ!!」
マヤは、執務室の机をドンッと叩き、珍しく声を荒げていた。
その顔には、普段の「平熱」の冷徹さはなく、はっきりとした焦燥が浮かんでいる。
「マヤ聖、どうかお鎮めを……!」
黒服のCP10(エース)が、サングラスの奥で主君を案じながら宥める。
「鎮められるか! よりによって、ジェルマだと!? 麦わらの船が強襲されたってことは……ナミとロビンも巻き込まれて、一緒にトットランドに連れ込まれた可能性があるだろうが!!」
麦わらの船が襲われたのなら、当然同じ船に乗っているナミとロビンも危ない。マヤの思考は、愛する身内を心配する一人の男として、至極当然の焦りに支配されていた。血も涙もない科学部隊に捕まり、四皇の領土に引きずり込まれる。それだけは絶対に許せなかった。
そこへ、マヤの懐の別の電伝虫がけたたましく鳴った。
「俺だ! ジジイか! ルフィの船はどうなってる!」
マヤが怒鳴るように受話器を取る。
『マヤ聖! 申し訳ありませぬ!!』
ガープの、酷く焦ったような声が響いた。
『なぜか急な海流の乱れや、麦わらの船の謎の異常加速により、我々の艦隊が全く追いつけず……! 麦わらの一味は、海軍の包囲網を突破して四皇の海域(トットランド)に入ってしまいましたじゃ!』
「…………え?」
マヤの動きが、ピタリと止まった。
「……は? 取り逃がした? 海軍の大艦隊が、あんなボロボロの海賊船一隻に、追いつけなかっただと?」
『面目次第もござらん!! まるで、見えざる力が彼らの船を押し進めているようで……!』
「……ナミたちは? ジェルマに攫われたのは?」
『ナミ嬢たちはまだ麦わらの船に乗ったままですじゃ! ジェルマに回収されたのはコックの男一人だけで……ルフィたちも、ナミ嬢を乗せたままトットランドへ向かっているようで……』
「…………何が起きてんの?」
マヤは、完全に状況の錯綜に陥り、思わず素の声を出した。
海軍の大包囲網を、ボロボロの海賊船が謎の現象で振り切る。攫われたのはサンジだけで、ルフィたちはそれを追っている。ナミとロビンは、ルフィの船に乗せられたまま。
「……マヤ聖。いかがなさいましょう。もうトットランドの海域に入る寸前ですが。引き返しますか?」
エースが、気まずそうに尋ねる。
「……はぁ〜」
マヤは、深く深く天を仰いで、特大の溜息をついた。
「……まァいいか。もうトットランドに着くし、どっちにしろナミたちを迎えに行かなきゃならねェ。……俺が直接出向いて、回収する」
安堵と脱力が入り混じった妙なテンションのまま、マヤの巨大な船は、お菓子の島々が浮かぶ万国(トットランド)の海域へと静かに滑り込んでいった。
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ホールケーキアイランドの城内。
ビッグ・マムは、バルコニーでジェルマの総帥、ヴィンスモーク・ジャッジと対峙していた。
ジャッジは威風堂々と胸を張り、同盟の条件を語っている。
「……かくして、我がジェルマの科学力(クローン兵)とビッグ・マム海賊団が結びつけば、北の海の制覇も――」
「あー、ジャッジ。その話はちょっと待ちな」
ビッグ・マムは、特製のダイエットサラダをかじりながら、ハエでも払うように適当に遮った。
「マム? 何か不服でも――」
「いやね、お前らのクローン兵? まぁ貰えるもんは貰うが……今、アタシたちは『無駄な軍拡』をしてる場合じゃないんだよ」
白ひげが健在であり、マヤという圧倒的な権力者が世界のパワーバランスを完全に固定している現状。無闇に軍備を拡張して彼らを刺激することは、百害あって一利なしの悪手でしかない。平和なビジネスを滞りなく進めることこそが、今の彼女の最優先事項なのだ。
そこへ、マムの懐の電伝虫が鳴った。
「マァマァマァ! マヤ聖ですかィ?」
『あー、マム。俺だ。……もうすぐ港に着くんだけど、受け入れ頼むわ』
「ペロリン!?」
傍らにいたペロスペローが、信じられないものを見るように悲鳴を上げた。
「マァマァマァマァ!! もちろんですヨ!! お待ちしておりました!!」
通信を切るなり、ビッグ・マムは満面の笑みで叫んだ。
「さぁ野郎ども! 最高のスマイルでマヤ聖をお出迎えするよ!! 粗相をした奴は寿命を抜くからね!!」
「キャアアァァァッ!! マヤ聖が!! マヤ聖がいらっしゃるのね!!」
バター大臣のガレットと、ナッツ大臣のアマンドが、両手を叩いて乙女のように歓喜の声を上げる。
だが、その狂騒の中で、次男のカタクリやペロスペローたち一部の最高幹部だけは、顔面を蒼白にして震えていた。
(天竜人の上澄みが……四皇の本拠地に、単独で乗り込んでくるだと……!? 海軍の大将や白ひげをアゴで使うようなバケモノが、もしこの島で少しでも機嫌を損ねたら……トットランドは、明日には地図から消されるぞ……!!)
カタクリは、冷や汗を流しながら見聞色の覇気で最悪の未来を幻視し、奥歯を噛み締めた。
「マ、マム!? 一体何事だ! 天竜人だと!? なぜ我々の同盟の祝の席に、世界政府の人間が……!」
完全に置いてけぼりを食らっていたジャッジが、狼狽して叫ぶ。
「うるさいねェ!」
マムが、苛立たしげにジャッジを睨みつけた。
「お前が勝手に連れ込んだその金髪の小僧のケジメをつけに、マヤ聖がわざわざお越しになったのさ。お前らジェルマも、マヤ聖の機嫌を損ねたら、北の海ごと地図から消されると思いな!!」
「なっ……!?」
ジャッジの顔面から、スッと血の気が引いた。
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同じ頃、城内の豪奢な客室。
そこには、悲壮な覚悟を瞳に宿した金髪のコック――サンジと、可愛らしいドレスに身を包んだ三つ目族の少女、シャーロット・プリンが向かい合って座っていた。
「……プリンちゃん」
サンジは、タバコの煙を細く吐き出しながら、優しく、しかしどこか諦めきったような声で語りかけた。
「君みたいな綺麗な子が、俺の婚約者だなんて……夢みたいだ。でも、君も親の『政略結婚』の犠牲者なんだろう? 大丈夫だ。俺が、君を守ってみせる」
サンジは本気だった。
ルフィたちを裏切ってまで背負った、恩人の命と仲間の命。(俺が犠牲になれば皆助かる……ナミちゃんやロビンちゃんも、いつか俺の思いを分かってくれるはずだ)。
その薄っぺらい自己陶酔と未練が、彼を支える唯一の精神安定剤だった。一味が崩壊し、精神的に追い詰められている今のサンジには、目の前のプリンという一人の人間を「ちゃんと見る」余裕など全くなかった。
対面に座るプリンは、その前髪で隠された『第三の目』の力と生来の鋭い観察眼で、サンジの抱えている「どうしようもない空回りの自己犠牲感」を完全に見抜いていた。
(……優しい言葉を並べてるけど、この人の目には私なんて映ってない。ただ『身代わりになっている自分が可哀想』なだけ。痛々しいわね)
プリンは、紅茶のカップを持ち上げながら、内心で冷ややかに笑った。
(マヤ聖様は、私の三つ目も、心の弱さも、全部ちゃんと見て、ありのままを肯定してくれたのに。……マヤ聖様の言葉の足元にも及ばないわね。ちょろい男)
「君のその瞳、とても綺麗だ……吸い込まれそうだ」
サンジが悲劇の騎士として甘い言葉を紡いでも、プリンは「ふふ、ありがとうございます」と適当な愛想笑いを浮かべて受け流すだけだった。彼女にとって、目の前の男は親が勝手に連れてきた見合い相手Aであり、大好きなマヤ聖を怒らせた最低の海賊でしかない。
サンジがさらに、自らの犠牲を正当化するような言葉を紡ごうとした、その時。
ドゴォォォン!!!
客室の分厚い壁が、外側から凄まじい衝撃でぶち破られた。
舞い散る瓦礫と土煙の中から現れたのは、見慣れた麦わら帽子。
ルフィだった。
マヤの残した金貨を使って街の店を巡り、大量の肉やスイーツを両手いっぱいに抱え、モグモグと呑気に飯を食いながらの登場である。
「モグモグ……! サンジィ〜! 迎えに来たぞ〜! むぐむぐ……ここのお菓子、美味ェな!」
ルフィは、口の周りをクリームだらけにして、無邪気に笑った。
その後ろからは、同じく菓子を頬張るウソップやチョッパー。そして、呆れ果てたような、あるいは絶望しきったような目で彼らの背中を見つめる、ナミとロビンの姿があった。
「…………は?」
サンジは、開いた口が塞がらなかった。
自分がゼフの命と引き換えに全てを捨てて「生贄」になったというのに、助けたはずの仲間は、海軍の包囲網をあっさりと抜け、四皇の領土で緊張感ゼロで飯を食いながら乱入してきたのだ。
「(……何このバカみたいな海賊たち)」
プリンは、ゴミでも見るような冷たい目でルフィたちを一瞥した。
サンジの悲壮な自己犠牲が、物理的にも精神的にも完全に無意味なピエロへと堕ちた瞬間だった。
そして時を同じくして、トットランドの港には、マヤの巨大な船が音もなく接岸しようとしていた――。