シャボンディ諸島のヤルキマン・マングローブが作り出す巨大な木陰と、空へと舞い上がるシャボン玉の群れ。
マヤの全長150メートルを超える白亜の船が、馴染みの造船ドックがある港へとゆっくりと接岸した。
これからハックやイッショウたちを魚人島へ送り届けるにあたり、船体にヤルキマン・マングローブの樹脂による『コーティング』を施すためである。
実のところ、ベガパンクが設計したこの船は、特殊な海楼石の加工と気密構造によって、コーティングなしでも海底一万メートルまで潜航できる性能を持っていた。だが、マヤはあえてそれを使わず、毎回こうしてシャボンディの職人たちにコーティングを依頼している。
「マヤ聖の船なら、そのまま潜れるんじゃなかったかしら?」
タラップを降りながら不思議そうに尋ねるレイジュに、ナミが誇らしげに微笑んで答えた。
「マヤ聖の船がコーティングなしで潜っちゃったら、ここの職人さんたちの仕事が減っちゃうでしょ? だから、いつもちゃんとお金を払ってお願いしてるのよ」
「……まあ。現地の民の食い扶持を奪わないために、わざわざ時間をかけて?」
レイジュが目を丸くした、その時だった。
「おーい! マヤ聖! おかえりなさーい!!」
「ナミ姉ちゃんもロビン姉ちゃんも、無事でよかったァ!!」
ドックで作業していた船大工やコーティング職人たち、さらには通りがかりの街の住人や巡回中の海兵たちまでもが、マヤの姿を見つけるなり、笑顔で手を振りながら一斉に駆け寄ってきた。
その光景に、船から降りてきたハックは「ひっ……!」と息を呑み、巨体をガタガタと震わせて立ちすくんだ。
ここシャボンディ諸島は、聖地マリージョアのすぐお膝元。かつて恩人であるフィッシャー・タイガーが命懸けで逃げ出し、人間が魚人を奴隷として売買していた悪夢のような場所のはずだ。天竜人が歩けば、民衆は恐怖で道を開け、額を地面に擦りつけて震えるのがこの島の常識だった。
しかし、目の前の光景はどうだ。
「おう、ただいま! 親方、悪いがまた魚人島まで行くから、コーティングを頼むよ。代金はいつもの倍置いとくから、若手にも美味いもん食わせてやれ」
「へへっ、毎度あり! あ、そうだマヤ聖、手が空いた時でいいんで、またうちの造船所で竜骨の据え付け手伝ってくださいよ! マヤ聖に手伝ってもらうと、歪みが一切出なくて作業が倍早く終わるんで!」
「なんだよ、またか? お前らも少しは腕を上げろよな。……よし、魚人島から戻ったら顔を出す。昼飯は駅前の大衆食堂の肉うどんでいいぞ」
「やったぜ! 約束ですからね!」
職人たちと肩を叩き合い、気さくに笑い合うマヤ。
普段、マヤはこの巨大船をほとんど動かさず、ドックに預けて職人たちに定期メンテナンスという『仕事』を与え続けていた。そしてそのお返しとばかりに、時間があれば自ら作業着を着て民の船の修理を手伝い、壊れた家の屋根を直し、普通の飯屋で民衆と同じ釜の飯を食ってきたのだ。
2年前、マヤが初めてナミとロビンを『自分の所有物(奴隷)』として連れてきた時も、彼はこの街の民衆の前で堂々と宣言した。すると街の人々は怯えるどころか、「あの働き者で独り身だったマヤ聖が、ついに大切な伴侶を持ったぞ!」とお祭り騒ぎで祝福し、それ以来、ナミとロビンのことも街を挙げて温かく見守ってくれているのである。
「……信じられん……。巡回の海兵までが、天竜人を見て心から安堵して笑っておる……!」
ハックが驚愕に目を見開き、隣に立つコアラとレイジュも、あまりの温かい空気感に呆然と周囲を見渡していた。
たしぎもまた、メガネの奥の瞳を大きく揺らしていた。
(これが、マヤ聖が20年間、自ら泥にまみれて作ってきた街の空気……! 恐怖ではなく、本物の信頼で人が繋がっている……!)
職人たちに船を預け、一行がシャボンディ諸島にあるマヤの広大な宮殿へと向かう道中。
前方から、豪華な衣装を身に纏い、数名の護衛を連れた一人の女性天竜人が歩いてくるのが見えた。
頭に特有のドームを被り、サングラスをかけた高飛車な美女――シャルリア宮である。
ハックとコアラの体に、瞬間的に緊張が走った。だが、シャルリア宮はマヤの姿を見つけると、ピタリと足を止め、少し頬を染めてツンと顎を上げた。
「……あら、マヤ。ずいぶん騒がしいと思ったら、やっと帰ってきたアマス」
「おう、シャルリアか。久しぶりだな、元気にしてたか?」
マヤが近所の幼馴染に声をかけるような軽い調子で手を挙げると、シャルリア宮はマヤの後ろにいるナミとロビン、そして見慣れないレイジュ、コアラ、たしぎの姿を順番に睨みつけ、不機嫌そうに眉をひそめた。
「ちょっとマヤ、あんたこの前の二人(ナミとロビン)だけじゃ飽き足らず、また女を増やしたアマスか?!? いくら今まで一度も奴隷を持たなかったからって、急に節操がなさすぎるんじゃないアマス!?」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。今回の子たちは、大事な仕事の手伝いと、ナミたちの護衛の海兵だよ」
「ふん! どうだか! ……私という幼馴染がいながら、下々民の女ばかり構って、どういうつもりアマス!……」
後半はブツブツと小声で呟き、プイッとそっぽを向くシャルリア宮。
天竜人の社会には、互いの所有物や行動には口を出さないという暗黙の不干渉ルールが存在する。ましてやシャルリア宮は、幼い頃から他の天竜人とは違い、自分にも真っ直ぐ接してくれるマヤに対して、幼馴染以上の特別な好意を抱いていた。
マヤが初めてナミとロビンを所有物にした時も、彼女はショックを受けつつも、マヤに嫌われたくない一心でナミたちに危害を加えるような真似は一切せず、こうして時折やってきては小言を言うだけに留まっていたのだ。
「お前も、あんまり外の連中に無理難題を吹っかけるなよ、シャルリア。チャルロスにも言っといたが、むやみに人をいたぶると、いざという時に足元を掬われるからな。……ほら、これトットランドの土産のお菓子だ。あとで茶でも飲む時に食えよ」
マヤが懐から、綺麗に包装された高級お菓子の小箱を取り出して手渡すと、シャルリア宮は「えっ……!」と目を瞬かせ、耳まで真っ赤にしてそれを受け取った。
「べ、別にアンタのお土産なんかで喜ばないわよえ! ……でも、もらってあげるアマス! またアマス、マヤ!」
シャルリア宮は箱を大事そうに胸に抱え、逃げるように足早に去っていった。
イムが作った『箱庭』の中で、世界の憎悪を集める役割を知らず知らずのうちに背負わされている幼馴染の背中を、マヤは少しだけ優しい目で見送った。
「……あ、あの悪名高きシャルリア宮が、ただの恋する女の子みたいに赤くなって帰っていった……!?」
コアラが信じられないものを見たように呟き、ナミとロビンは「ふふ、相変わらず素直じゃないわね」と余裕の笑みを浮かべていた。
一行がマヤの宮殿へと足を踏み入れると、そこには外の世界の喧騒を忘れさせるような、美しく穏やかな空間が広がっていた。
宮殿の奥、外海と巨大な水路で直結している特設の屋内プールへと向かうと、水しぶきと共に明るい笑い声が聞こえてきた。
「マヤ聖様! ナミ様、ロビン様! おかえりなさいませーーっ!!」
プールの中から顔を出し、大きく手を振ったのは、全長12メートルにも及ぶ巨大な人魚姫――リュウグウ王国のしらほしだった。その白く美しい肩口には、ナミたちと同じマヤの特注の刻印が小さく刻まれている。
そして、そのプールサイドのテラス席では、アラバスタ王国の王女・ビビが、穏やかな笑顔で立ち上がって出迎えていた。
「おかえりなさい、ナミさん、ロビンさん! 本当に無事でよかったわ……!」
「ただいま、ビビ、しらほし! 心配かけたわね!」
ナミが駆け寄ってビビと抱き合い、ロビンも優しく微笑んでしらほしに手を振った。
一方、初めてこの宮殿に足を踏み入れたレイジュとコアラは、巨大な人魚姫と一国の王女が当たり前のように談笑している光景に、完全に言葉を失っていた。
「……ねえ、コアラさん。私、本当にこんな凄い場所に来てしまってよかったのかしら……?」
「わ、私に聞かないでくださいレイジュさん……! 私も今、頭が追いつかなくてクラクラしてるところです……!」
二人が部屋の隅で小さく身を寄せ合う中、テラス席では、ナミとロビンがビビとしらほしに向けて、トットランドで起きた出来事を包み隠さず語り始めていた。
ルフィたちがドレスローザでドフラミンゴや革命軍と手を組んで自分たちを拉致したこと。
マヤが渡した船の修理代や逃走資金をすべて無視してここまで逃げ延びてきたこと。
そして、プリンの客室でルフィが放った、『俺が先に出会って、俺が見つけた航海士と学者だ!』という身勝手極まりない言葉。
それを静かに聞いていたビビの瞳から、かつての仲間に対する最後の迷いが、すっと消え去っていくのが分かった。
「……そう。結局ルフィさんは、ナミさんやロビンさんの心なんて見ていなかったのね。自分が海賊を続けるための『便利な道具』を手放したくなかっただけ……」
ビビは胸の前で強く手を握りしめ、そして晴れやかな顔でマヤとナミたちを見つめた。
「私の中にも、かつてアラバスタを救ってくれたあの人たちへの情が、まだ少しだけくすぶっていたわ。……でも、今のお話で完全に目が覚めた。私、もうあの人たちとは完全に決別するわ。私が守るべき国と、信じるべき本当の強さは、ここにあるもの」
「ビビ……。ええ、そうね。それでいいのよ」
ロビンが優しくビビの肩を抱き、しらほしも「ビビ様、わたくしがついておりますます!」と大きな瞳を潤ませて頷いた。
その後、宮殿の広大な中庭では、CP10(エース)による、たしぎへの特別指南が行われていた。
「いいか、たしぎ少将。マヤ聖の大切な人たちを守るなら、自分が前に出て敵を斬り伏せることより、いかに早く対象と敵の間に入って『盾』になるかが重要だ。そのために一番必要なのが、空中を蹴って移動する六式の『月歩』と、気配を読む『見聞色の覇気』だ」
黒服を脱いで動きやすいシャツ姿になったCP10が、ダッ、タッ、と軽やかに何もない空間を蹴り、まるで重力がないかのように中庭の上空へと舞い上がってみせる。
「す、凄いです……! これがCPの体技『月歩』……! そして、先ほど打ち合わせた時の、あの燃えるような武装色の覇気の練度……!」
たしぎは汗だくになりながら、CP10に教わった通りの呼吸法と体重移動で、必死に地面を蹴り上げていた。
もともと剣士として鍛え抜かれた足腰を持っていた彼女は、CP10の的確な指導と、少し前にマヤが「ほら、準備運動代わりに血行良くしといてやるよ」と軽く肩に触れて流し込んだ『医療の念』による身体の活性化も相まって、驚くべき速度でコツを掴み始めていた。
タンッ、タンッ!
たしぎの足が空を捉え、地上から数メートルの高さを二度、三度と跳躍する。
「おっ、もう二段跳びができたか! 筋がいいな、たしぎ少将! あとは覇気の込め方だ、自分の刀に意識を集中させろ!」
「はいっ! ありがとうございます、CP10さん!」
たしぎが着地して息を整えていると、テラスの方からマヤが、細長い古びた木箱を小脇に抱えてフラリと歩いてきた。後ろには、興味津々な顔をしたナミ、ロビン、ビビ、レイジュ、コアラたちもついてきている。
「おう、やってるな。CP10の教え方が上手いのか、たしぎの呑み込みが早いのか、もう空を飛べてるじゃないか」
「マヤ聖! おかげさまで、少しずつですが感覚が掴めてまいりました!」
たしぎが背筋を伸ばして礼を言うと、マヤは「そりゃよかった」と笑い、抱えていた古い木箱から、白と桃色の柄巻きが施された一振りの刀を引っ張り出した。
「……あー、これこれ。なんか俺の昔の荷物の中にあったわ。名前は……『神鬼(しんき)』だったっけな? 詳しいことはよく覚えてねェけど、これ、少将への昇進祝いにやるよ」
マヤが何気なく差し出したその刀を見た瞬間、たしぎとCP10の背筋に、電流のような衝撃が走った。
「えっ……!? あ、あの、マヤ聖……これ、大業物、いえ、最上大業物ですら比にならないほどの、見たこともない底知れない気配がしますが……本当に私にですか!?」
刀マニアであるたしぎには、鞘に収まった状態のそれを見るだけで、この世の理から外れたとんでもない代物であることが肌で理解できた。
「おう。これさ、お前以外の奴が持とうとすると、カイドウの金棒より重くなって、地面からピクリとも動かなくなるみたいなんだよ。だから誰かに盗まれる心配はねェ。あ、でも、普通に家の床に置いた時は、なぜか床は抜けない不思議なマナー仕様になってるから安心しろ。……なんでかは俺も知らねェけどな」
「は、はあ……?」
たしぎがおそるおそる両手でその刀を受け取ると、先ほどまでの威圧感が嘘のように、まるで羽のように軽々と手に馴染んだ。
「あとこれ、ちょっと呪われてるみたいでさ。どこに捨てても、落としても、気づいたら必ずお前の腰の鞘にシュンッて戻ってんだよ。お前が風呂に入ってても、脱衣所に鞘ごと勝手に置いてあるから、最初はちょっとビビるかもしれねェけど実害はねェぞ」
マヤは頬を掻きながら、悪戯っぽく笑って続けた。
「だからさ、たしぎ。もし次の戦闘でヤバい奴らに囲まれたら、絶対に無茶して一人で戦うなよ? 今覚えた『月歩』で上空に逃げて、そこからその刀をただ下に落とせ。お前の手を離した瞬間にあり得ねェ重さに化けて、地面ごと相手を押し潰すから。で、終わったら勝手に手元に戻ってくる。便利だろ?」
(妖刀……いえ、これはマヤ聖の、人を死なせないための底知れない優しさそのもの……!)
たしぎは胸の奥が熱くなり、刀を強く抱きしめて頷いた。
「マヤ聖……! はい、この『神鬼』と共に、必ず生き残って皆様のお側をお守りします……!!」
「おう。……あ、あとこれ、抜くときはちょっとしたコツがあってな。普通に抜いてもただの折れない刀なんだが、なんか『ゆっくり抜く』と、自動で相手の顔面に痛くない目眩ましが飛ぶようになってるから。まぁ、危ない奴に襲われたら、CP10の後ろに隠れてゆっくり抜け。……とりあえず、ここで抜いてみな」
マヤに促され、たしぎはゴクリと唾を飲み込んだ。
左手で鞘を握り、白と桃色の糸できめ細やかに編み込まれた柄に右手を添える。
そして、教えられた通り、時間をかけてゆっくりと刀身を引き抜いた。
シャーーー……。
静かな金属音と共に現れたその刀身に、中庭にいた全員が息を呑んだ。
それは、黒刀のような漆黒でも、一般的な鋼の白銀でもなかった。
どこまでも深く、海の底のように透き通る『蒼い刀身』。その刃には、まるで生きているかのように美しくうねる龍の波紋が浮かび上がっていた。手元の鍔(つば)には可憐な桜の花びらが舞う彫刻が施されており、妖刀という言葉からは程遠い、神々しいまでの美しさを放っていた。
「……綺麗……」
たしぎのメガネの奥の瞳が、これまでに見たどんな名刀よりも美しく、そして温かい一振りに、純粋な感動で潤んでいく。
同時に、ゆっくりと抜かれた蒼い刀身から、淡く輝く光の粒――痛くない目眩ましの斬撃が、まるで春の桜吹雪かシャボン玉のようにフワフワと宙へと舞い上がり、中庭を幻想的に彩った。
「気に入ったか? 詳しいことは覚えてねェけど、そいつはお前が無理をして『今』を失わねェためのリミッターだ。大切にしろよ、たしぎ」
光の粒が舞う中、マヤが不器用で、しかし太陽のように暖かい笑顔を向けた。
自分の命を削ってでも戦えと命じるのではなく、何よりもまず『お前が傷つかず、笑って生き残ること』を第一に考えてくれる主君。
たしぎの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は『神鬼』を静かに鞘へと納めると、その場で芝生の上に膝をつき、マヤに向かって真っ直ぐに頭を下げた。
「マヤ聖……! 私、先ほどはゆっくり考えると言いましたが、もう迷いはありません!」
たしぎは顔を上げ、涙に濡れた瞳に強い決意を宿して叫んだ。
「この『神鬼』に恥じぬよう、そしてあなた様と皆様の笑顔を一生お守りする盾となるために……どうかこの私の背中にも、マヤ聖の『刻印』を刻んでください!!」
その真っ直ぐな言葉に、ナミとロビン、そしてビビとしらほしが嬉しそうに微笑み合い、マヤは「……そうか。よろしく頼むな、たしぎ」と、優しく彼女の頭に手を置いたのだった。