風が死んだ海、カームベルト(凪の帯)。
海王類と呼ばれる巨大な化け物たちの巣窟であり、一切の気流が存在しないこの絶対的な静寂の海域を、海軍本部の大型軍艦が波を立てて進んでいた。
船底に敷き詰められた海楼石が放つ特殊な磁場が海王類の感知を逸らし、軍艦は深い霧を切り裂いていく。
その甲板の舳先で、マヤは潮風の吹かない淀んだ空気を肺に吸い込み、面倒くさそうに首を鳴らした。
「……気持ちの悪い海だな。空気が死んでる」
マヤの背後には、ナミとロビンが固唾を呑んで控えていた。
彼女たちの視線の先、濃霧の向こう側にそびえ立つのは、世界政府が誇る難攻不落の海底大監獄『インペルダウン』の海上施設。海面から突き出た巨大な要塞は、見る者に本能的な絶望を抱かせる威容を誇っていた。
数時間前、マヤは海軍元帥センゴクとの電伝虫での交渉において、完璧な理詰めを展開した。
『エースを処刑すれば白ひげと全面戦争になる。海軍にも甚大な被害が出る。だが、俺が天竜人の特権でエースを「所有」する形にすれば、政府の顔も立ち、白ひげも動けない。誰も死なない』
この絶対的な政治的取引に、センゴクも五老星も首を縦に振るしかなかった。
マヤは流血を一切伴わずに、世界規模の戦争を未然に防ぎ、エースの命を救ったのだ。ナミとロビンは、その底知れない手腕にただ圧倒されるばかりだった。
軍艦がインペルダウンの港に接舷する。
重々しい鉄格子の門が開き、海軍の将校たちに両脇を固められ、一人の男が引きずり出されてきた。
「離せ! 俺は歩ける!!」
怒号と共に現れたのは、上半身裸で、両手首に分厚い海楼石の手錠を嵌められた青年――火拳のエースだった。
体中には拷問の生々しい傷跡が刻まれているが、その眼光は少しも死んでいない。彼は甲板に引き据えられると、目の前に立つ赤い髪の天竜人を鋭く睨みつけた。
「センゴクから、ロジャーの息子だなんだって面倒な理由は聞いた」
マヤはポケットに両手を突っ込んだまま、エースを見下ろして淡々と告げた。
「だが、んなもん俺には関係ないし、知らん。今日からお前は俺のところで働け。以上だ」
「ふざけるな!!」
エースが血を吐くような声で吼えた。
「俺は白ひげ海賊団二番隊隊長だ! 親父の海賊旗を背負ってるんだ! それを天竜人なんぞの下につくくらいなら、ここで舌を噛み切って死んでやる!! 海賊の絆をなんだと思ってやがる!!」
「……絆ね」
マヤは心底くだらないというように、目を細めた。
「お前ら、それ本当に好きだな。じゃあ聞くが、その『絆』とやらを守るために、何人の一般市民が巻き添えになって死ぬか考えたことあるか? 海賊が人を攫わなきゃ、天竜人も奴隷なんて使わない。原因はお前らなのに『天竜人憎し』、そればかりだな」
「黙れ! 俺の兄弟は、昔、天竜人に殺されたんだ!!」
サボという義兄弟を理不尽に奪われた過去。それがエースの天竜人への憎悪の根源だった。
だが、マヤは微動だにしなかった。
「へえ。で? 俺の知り合いは、お前の弟が暴れたせいで巻き添え食って倒れたし、俺もあいつにボコボコに殴られたぞ? 帽子を取って、話を聞こうとしただけなのにな。なんで俺が殴られたのか、今でも意味がわからんよ」
「……は?」
「事実よ、エース」
マヤの背後から、ナミが一歩前に出た。その顔には、深い悲哀と諦念が浮かんでいる。
「マヤ聖は、海軍大将と七武海の包囲網から、私たちを安全に逃がそうと交渉してくれた恩人なの。なのにルフィは、その恩人を無抵抗なまま何発も殴り続けたのよ」
「ルフィが……恩人を、殴った……?」
エースの瞳が大きく見開かれた。
ロビンが静かに言葉を継ぐ。
「ええ。マヤ聖は、街の被害をこれ以上広げないために、ただルフィの拳を受け止めてくれた。帽子を取られただけで、自分の周りの状況も、助けようとしてくれている人間の意図も一切見ようとせずに、ただ感情のままに殴り続けたのよ。彼がやったのは、そういうこと」
エースは言葉を失った。
『殴る』という行為の重さ。自分たちの感情の暴走が、どれほど周囲の人間をないがしろにしているか。それを第三者の口から突きつけられ、海賊としての反発の言葉が喉の奥で詰まった。
「まじかよ……あいつ。でも、俺は、白ひげの親父と……!」
「あー、それもさ。結局はお前個人の都合じゃん?」
マヤが冷徹な声で切り捨てる。
「お前が意地を張って処刑台に乗れば、世界規模で見たら何万人の海軍兵士や関係ない市民が殺し合うんだよ。俺は、その無駄な血を流すのをやめてくれって言ってるんだよ」
「…………一般の、犠牲か……」
エースはうなだれた。己の命一つに、どれほどの血が流れるか。それを突きつけられれば、誇り高い彼であっても黙るしかなかった。
マヤは懐から小さな電伝虫を取り出し、エースの足元に無造作に放り投げた。
「お前の親父とやらに連絡しろ。世界規模で何万という血を流す前に、兵を引けと伝えろ」
エースは震える手で受話器を取った。
数回のコールの後、ガチャリと重い音が響き、電伝虫が特徴的な三日月髭の顔に変わった。
『……エースか。無事なのか、息子よ』
その深く、海のように広い声を聞いた瞬間、エースの目から大粒の涙が溢れ出した。
「親父……! 俺だ。俺は、無事だ……っ!」
『そうか。海軍から、処刑は中止だと連絡が来た。グラントラインのどこかに匿われたと聞いたが……』
「天竜人に引き取られた。だが、こいつは俺を殺す気はない。むしろ、戦争を止めるために動いてくれた……だから、みんなを止めてくれ! 俺のために、これ以上誰も命を落とさないでくれ!!」
電伝虫の向こう側で、長い沈黙が落ちた。
やがて、白ひげの低く穏やかな声が響く。
『……わかった。お前が生きているなら、それでいい。必ず迎えに行く、それまで死ぬなよ、エース』
「親父……っ! ごめんな、俺のせいで……っ」
通話が切れ、エースはその場に突っ伏して泣き崩れた。
これで、頂上戦争という世界最悪の流血沙汰は、マヤの政治的な理詰めによって完全に回避されたのだ。
ナミとロビンも、安堵のあまり深く息を吐き出した。誰も死なない。ルフィの兄も助かった。すべてが平和的に解決したのだと、誰もが信じて疑わなかった。
その時だった。
『――緊急事態!! 緊急事態!! 元帥殿ッ!!』
軍艦の甲板に備え付けられていた大型の通信用電伝虫が、けたたましい悲鳴を上げた。
マヤが眉をひそめ、通信兵が慌てて受話器を取る。
「こちら海軍軍艦! どうしたインペルダウン!」
『内部で大規模な暴動が発生!! 主犯は……侵入者、麦わらのルフィ!!』
その名が出た瞬間、エースが弾かれたように顔を上げ、ナミとロビンの全身が硬直した。
『奴は下の階層へ突き進む過程で、各階層の凶悪囚人たちを次々と解放している! 現在、クロコダイルをはじめとする過去の凶悪犯数十名が牢を破り、大暴動へと発展! マゼラン署長が迎撃に向かうも、被害は拡大中!!』
絶叫のような報告が、カームベルトの静寂の海に響き渡る。
ルフィは知らないのだ。
自分の兄がすでに救われ、戦争が回避されたことを。外部からの情報が完全に遮断された海底監獄の中で、彼はただ「自分の目的」のためだけに、世界最悪の監獄を内側から破壊して回っている。
「…………」
マヤの表情から、一切の感情が消え失せた。
「やっちまったな。……あいつをシャボンディで見逃してやったの、俺なんだよね。これ、俺のせいかね」
「……すまねェ……っ! ルフィの奴、俺のために……っ!!」
エースが青ざめた顔で甲板に額を擦りつけ、声を震わせた。
だが、マヤはそんなエースを一瞥し、底冷えのする声で淡々と現実を突きつけた。
「こうやって外側から見ると、いかにお前ら海賊がいかれたことしてるかわかるだろ?」
「……え?」
「俺が戦争を回避してやったのに、あいつのせいで、世界中に極悪人がばら撒かれた。何百人逃げたんだよ。こいつらが監獄を出て、周辺の村々で、略奪、強姦、殺人……どんだけ人が死ぬんだよ」
マヤの静かな言葉が、重い鉛のように甲板の空気を押し潰す。
「俺は、それを回避するために、わざわざここまで来たってのによ……」
その言葉を聞いたナミとロビンは、全身の血が完全に凍りついていた。
アーロンに故郷を支配され、搾取され続けたナミ。
クロコダイルの非道を知り、国一つが砂に沈む様を見てきたロビン。
彼女たちにとって、「極悪人を野に放つ」というルフィの行為は、ただの暴走ではない。世界の市民を無差別に地獄へ突き落とす、テロ行為に他ならなかった。
(極悪人が……世界中に放たれる……?)
ナミの脳裏に、ココヤシ村のベルメールの死がフラッシュバックする。
あの時のような理不尽な悲劇が、ルフィの手によって世界中にばら撒かれるのだ。
(自分の大切なものを守るためなら……世界中の見知らぬ人たちがどうなっても構わない。それが、彼の選んだ『海賊の道』……)
ロビンは、ガタガタと震える自分の両手を見つめた。
麦わらの一味との冒険は楽しかった。あの船には、確かな暖かさがあった。
だが、その純粋さは、時として圧倒的な暴力となって無関係な弱者を蹂躙する。その残酷なエゴイズムを、彼女たちは今、骨の髄まで理解してしまった。
「ルフィ……あなた、自分の目的のためなら……世界中の人がどうなってもいいの……?」
ナミの口から、絶望に満ちた呟きがこぼれ落ちる。
海賊の絆。仲間のための自己犠牲。そんな美辞麗句で飾られたルフィの純粋さを、二人は完全に『見限った』。
もはや、あの船に戻る理由など、どこにも存在しなかった。
「……出航しろ。シャボンディへ帰るぞ」
マヤが、通信兵に向かって短く命じた。
「マ、マヤ聖!? インペルダウンの鎮圧には向かわれないので!?」
「なんで俺が行かなきゃならないんだ。海軍の施設だろ、自分たちでなんとかしろ。俺はエースを引き取るって約束しかしてない」
マヤはインペルダウンの海上施設に背を向けた。
彼はルフィの尻拭いをする気など毛頭なかった。逃がしたのは自分だが、その結果起きた凶行は、ルフィ自身が背負うべき罪だ。
「これ以上、あいつを海賊の枠で語るな」
マヤは冷たく光る赤い瞳で、水平線の彼方を見据えた。
「あいつはもう、世界への害悪……ただのテロリストだ」
海王類の潜む暗い海に、マヤの冷徹な宣告が静かに溶けていった。
海王類の潜む暗い海に、マヤの冷徹な宣告が静かに溶けていった。
甲板には、弟の凶行に打ちのめされたエースと、己の船長への絶望に顔を青ざめさせるナミとロビンの重苦しい沈黙だけが降り積もっている。
だが、軍艦がゆっくりと反転し、カームベルトの濃霧を再び進み始めたその時だった。
「よし、重たい話はこれまでだ」
マヤが、何事もなかったかのように両手をパンと叩き、空気を切り替えた。
「ナミ。よかったな」
「……え?」
絶望の底にいたナミは、急な話題転換に目を白黒させた。
ロビンもエースも、今さっきまであんなに重いテロリストの話をしていたのに、何を言い出すのだと困惑の目を向ける。
「急に何を……」
「ここ、いまどこよ? ナミ」
「え……カームベルト、ですけど……」
「そう。ここはカームベルト。海賊船じゃあ、海王類に襲われて絶対に通れない航路だ」
マヤはニヤリと笑い、ナミを指差した。
「つまり、海軍の軍艦に乗ってる今のお前しか描けない、海賊じゃ絶対に得られない未知の航路だ。正解だろ? よかったな」
「はっ……!!」
ナミの表情が、ハッと明るくなった。
航海士として、世界地図を描くという夢。海賊として海を渡るだけでは決して描ききれないこの特異な海域のデータが、今、安全に手に入るのだ。
「でも……! 今、こんな大変な時に、喜んでる場合じゃ……!」
「もう起きてしまったもんは仕方ない」
マヤは無造作に肩をすくめた。
「こっからどう被害を減らすかが、海軍の仕事だ。俺がエースを引き取ったことで、戦争は回避できたんだ。脱走した奴らも、海軍が総力挙げりゃあすぐ捕まるだろうさ」
その切り替えの早さと、どこまでも合理的な割り切り方に、ナミは毒気を抜かれたように脱力した。
同時に、この男の側にいれば、何が起きても自分の心は守られるのだという奇妙な安心感が胸に広がっていく。
「エースがこのまま処刑台に乗って、世界中で戦争してたらと思うと、ぞっとする被害だったろうがな」
「…………」
「でも、あのテロリストになったルフィは、脱獄させた凶悪犯どもを『いい奴らだ』とか都合よく思ってそうだけどな。海賊ってのはそういうもんだろ? エース」
「……そういうことは、あるかもしれない」
エースは重い口調で肯定した。ルフィなら、一瞬の意気投合で極悪人だろうが「友達」として連れ出し兼ねない。
「こうやって、離れて見てみるとわかるわね……」
ロビンが、静かに、だが確信を持って呟いた。
「ルフィは少し……いえ、かなり異常よ。いくら自分の目的のためとはいえ、罪のない人々を脅かす囚人を無差別に脱走させるなんて」
「んー。俺の見立てでは、エースもそうだが、海賊ってのは『横の繋がり』に弱すぎるんだよ」
マヤは船の手すりに寄りかかり、分析するように言った。
「一瞬でも意気投合すればみんな『仲間』。で、目的が終わって都合が悪くなれば、またバラバラになる。その都合のいい感情のせいで、周りが全く見えなくなるんだろうさ」
「…………」
「そもそも、お前なんで捕まったの?」
マヤの唐突な問いに、エースはビクッと肩を揺らした。
「……ティーチって野郎がよ、俺の部下にいたんだが……そいつが『悪魔の実』を奪うために、仲間を殺して逃げたんだ。俺は隊長としてそいつを追って、逆にやられた……」
「出たな、悪魔の実。……で?」
「え?」
「え? じゃないよ。くっそしょうもない理由だな!」
マヤは心底呆れたように天を仰いだ。
「仲間を殺されて許せないのはわかるけど、お前、なんで『単独』で行ったの?」
「なっ……」
「そういう時こそ、お前らの大好きなその『仲間』を使えよ。親父なり隊長なり総出で潰しに行けば、お前一人捕まって世界を巻き込む大騒動になることもなかっただろ? なんで一人で勝手に突っ走って捕まってんだよ」
「……面目、ねェ……」
ぐうの音も出ない正論の連続打撃に、白ひげ海賊団二番隊隊長は、甲板の上で膝を抱えて小さくなるしかなかった。
その時だった。
通信兵が、慌ただしい足音を立てて駆け寄ってきた。
「報告!! 海軍本部より緊急の報せです!」
「どうした。インペルダウンの暴動が街に広がったか?」
「いえ! 頂上戦争に向けての警戒配備が解除され、周辺海域の哨戒任務に回っていた部隊が……王下七武海、マーシャル・D・ティーチの船を発見したとのことです!」
「ティーチが!?」
エースが弾かれたように顔を上げた。
「奴ら、なぜかインペルダウン方面へ向かって潜伏・接近していた模様で……! 現在、哨戒部隊数隻で包囲し、大将クラスの派遣を要請しているとのことです!」
その報告を聞き、マヤは「そうか」
ティーチが何を企んでインペルダウンに向かっていたのか、マヤには知る由もない。
だが結果的に、マヤがエースを引き取って「頂上戦争」という海軍の最大任務を消滅させたことで、本来なら手薄になるはずだった海軍の戦力が余り、哨戒網が厚くなったのだ。
漁夫の利を狙っていたであろう黒ひげは、マヤの政治的判断が起こしたバタフライエフェクトによって、海軍の厳重なパトロールにあっさりと引っかかったのである。
「戦争がなくなったから、暇になった海軍の網に引っかかったわけか。運のねェ奴らだな」
マヤはそう言って、海王類がうごめく暗い海に視線を投げた。
「さて。海軍は忙しそうだが、俺たちの仕事は終わりだ。帰って、シャボンディのどぶ掃除の続きでもするか」
常識も、因果も、すべてを無自覚に書き換えながら。
異端の天竜人を乗せた軍艦は、世界を大きく狂わせたまま、静かな海を進んでいった。