深海からの浮上を経て、マヤ一行を乗せた白亜の巨艦は、無事にシャボンディ諸島の港へと帰還した。
海面から湧き上がる無数のシャボン玉が陽光を乱反射し、見慣れたヤルキマン・マングローブの巨大な樹冠が風に揺れている。数日ぶりの我が家へ戻ってきた一行は、それぞれの役目に戻るべく宮殿へと足を踏み入れた。
その足で、マヤは真っ直ぐに宮殿の地下牢へと向かった。
同行するのは、CP10とレイジュ。そして、ナミ、ロビン、ビビ、コアラ、たしぎの女性陣たちだった。彼女たちは皆、以前この広場でトラファルガー・ローに手酷く敗北し、悔し涙を流したたしぎの姿を痛いほど覚えている。だからこそ、今日のこの「決着」と「儀式」を、全員で見届けるために集まっていた。
薄暗い松明の火が揺れる石造りの廊下を抜け、鉄格子の前に立つ。
牢の中では、ローが静かに胡座をかいて座っていた。以前のような復讐の呪縛に囚われた暗い瞳や、強者の虚勢は微塵もない。憑き物が落ちたような、清らかで澄み切った武人の顔がそこにあった。
「マヤ聖」
マヤの姿を認めるなり、ローは静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
「約束通り、刻印を刻んでやる。……だが、男の背中に俺の印ってのも趣味じゃねェからな。肩とか、見えないところでいいだろ?」
マヤが苦笑いしながら牢の中へと入ると、ローは無言で海楼石の手錠を外してもらい、自ら上着を脱ぎ捨てた。
露わになった上半身。ローは迷いなく、自分の『心臓の真上』――胸の中央に刻まれた、恩人コラソンのスマイルマークのタトゥーのすぐ隣を指差した。
「いえ……俺の命を救ってくれた恩人の証の隣に、マヤ聖の印を刻んでください。俺の心臓は、あなたに預けます」
あまりにも真っ直ぐで、純度が高すぎる狂信者の瞳。
マヤは露骨に顔を引きつらせ、本気でドン引きしたように一歩後ずさった。
「……お前、マジで重いな。俺はお前の心臓なんていらねェよ……」
(わかるぞ、ロー。ナミやロビンは見せびらかしたいタイプだが、男は見えない胸の奥に刻んで、たった一人への忠誠を誓いたいもんだよな……!)
マヤが素で引いている後ろで、CP10だけは深く頷いて内心で激しく共感していた。
女性陣たちも、かつての残忍な「死の外科医」が、自ら胸を差し出して絶対の忠誠を誓う姿に息を呑んで見入っている。
「……まあいい。動くなよ」
マヤがため息をつきながら、特注の器具をローの胸へと押し当てる。
マヤの『医療の念』が流れ込み、痛みは一切なく、ただ温かい光と共に、心臓の鼓動と重なるように『Sと龍』の美しい紋章が浮かび上がった。
己の胸に刻まれたその印を指先でなぞり、ローはまるで聖遺物を授かったかのような恍惚の表情を浮かべ、深く、深く頭を垂れた。
刻印の儀式を終え、一行は宮殿の広大な中庭――戦闘訓練場へと場所を移した。
シャボンディの明るい太陽の下、芝生を揺らす風が吹き抜ける。
広場の中央で対峙するのは、名刀『鬼哭』を腰に差したローと、愛刀『時雨』、そしてマヤから賜った『妖刀神鬼』の二振りを帯刀したたしぎ少将だった。
「よし。出立の前に、約束の手合わせだ。互いに思い切りやってこい」
テラスから見下ろすマヤの合図に、二人の間にピリッとした剣気が走る。
しかし、抜刀しようと身構えるたしぎに対し、マヤがふと思い出したように声をかけた。
「おい、たしぎ。やるのはいいが、『月歩落とし』はやめておけよ? 庭の地盤ごと沈んで、そいつがミンチになっちまうからな」
「はいっ! 封印しておきます!」
たしぎが元気よく頷く。
それを聞いたローは、鬼哭の柄に手をかけたまま怪訝な顔をした。
「……月歩落とし? 一体何の話だ……?」
ローの疑問をよそに、たしぎは腰の『神鬼』の柄に手を添え、静かに、しかし強い意志を込めた瞳でローを見据えた。
かつて広場で敗北したあの日、ローはこの刀を鼻で笑い、「それなりの刀」と評して彼女の心をへし折ったのだ。
「本来なら、私はこの刀を味方同士の手合わせで抜きたくはありません。これは、マヤ聖から賜ったあまりにも大切で、神聖な刀ですから」
「……」
「ですが……あの時、貴方がこの刀を『それなりの刀』と揶揄したことだけは、いまだに許せません。いくら貴方がマヤ聖の刻印を賜り、悔い改めたのだとしても、私の『正義』がそれを認めることはできない。……ですから、この刀で、貴方の思い上がりを正します」
たしぎが静かに、シャーッ……とゆっくり『神鬼』を鞘から抜いた。
その瞬間だった。
ポンッ!! と、抜き放たれた神鬼の刀身から、不思議な光――さながら、聖剣を抜いたときのような、淡い光の粒 が自動追尾でとび出し、ローの顔面で弾けた。
「なっ……なんだこれ!? 目が……!」
殺傷力はないものの、不意を突かれて視界を奪われたローは、『ROOM』の展開に一瞬出遅れてしまった。
たしぎはその隙を見逃さない。
「剃(ソル)!!」
ドンッ! と空気を爆発させたような音と共に、たしぎの姿がローの視界から完全に消え失せた。
(消えた!? いや、速すぎる……!!)
ローは慌てて『ROOM』を展開し、全方位に神経を尖らせる。
CP10による血の滲むような特訓。それは単なる筋力トレーニングではなく、マヤという絶対的な主を守るための「心の強さ(意志)」が、そのまま彼女の身体能力と覇気の底上げに直結していた。
能力に頼り切り、新世界での強者――純粋な覇気使い――との実戦経験が足りていなかったローの反応速度を、今のたしぎは完全に凌駕していた。
「タクト!」
周囲の石畳が浮き上がり、たしぎへと降り注ぐが、たしぎは瞬時にそれを躱し、避けきれない死角からの奇襲も、見聞色で読み切って『神鬼』で軽く弾き落とす。
「上かッ! シャンブルズ!!」
ローが上空の小石と自分の位置を入れ替え、死角からの『アンピュテ(切断)』の斬撃を放つ。
「遅いです!」
ガァァァァンッ!!
ローの鬼哭と、たしぎの神鬼が激突する。
空間を切断するはずのローの能力だが、覇気を限界まで纏ったたしぎの剣圧と、どれほどの覇気をぶつけても1ミリの刃こぼれも生じない絶対不壊の妖刀『神鬼』の前には、空間操作ごと強引に弾き返されてしまう。
さらに、使用者には重さを感じさせない神鬼を、たしぎは羽のように軽く、絶大な威力で振り下ろしてくる。
「くっ……! 俺の能力の切断が、空間ごと弾かれた!? ただの武装色じゃねェ……どれだけの覇気を注ぎ込んでも刃こぼれ一つしねェ、常軌を逸した刀だ……!!」
ローは鬼哭を両手で支えながら、その圧倒的な剣圧に耐えきれず後退する。
たしぎはローを斬らず、ひたすらに彼の剣を弾き、いなし続けた。能力を展開し続けるローの息が徐々に上がり、体力が限界まで削られていく。
肩で息をするロー。これ以上能力を使えば体力が持たないと悟り、最後の一撃に賭ける。
「ハァ……ハァ……! まだだッ!」
しかし、たしぎはすでに刀を中段に構え、その刀身の「龍の波紋」を漆黒の武装色で染め上げていた。マヤの正義を背負い、極限まで圧縮された迷いなき覇気。
「マヤ聖の正義と、この刀に誓って……! 『聖鬼神(せいきしん)』!!」
ドンッ!! と石畳が爆ぜる音と共に、たしぎが神速の踏み込みで間合いを詰める。
重量ゼロの神鬼が音速を超えた。ローが鬼哭で防御しようとした瞬間、凄まじい剣圧が鬼哭を軽々と弾き飛ばした。
ピタリ。
風が止む。ローの首筋、あと数ミリのところで、刃こぼれ一つない美しい『神鬼』の切っ先が、寸分の狂いもなく停止していた。
冷や汗を流して固まるローを見据え、たしぎは静かに告げる。
「力任せに振るうだけが剣ではありません。……これが、この刀の美しさです」
その気高く美しい剣の軌跡と、一切の迷いがない瞳。
ローは完全に負けを認め、ゆっくりと両手を下げた。
「……完敗だ。俺の負けだ」
たしぎが静かに『神鬼』を鞘に収めると、テラスから見ていたビビやコアラたちが一斉に歓声を上げて中庭に駆け寄ってきた。
「たしぎちゃん、凄い……! 息をするのも忘れるくらい、綺麗で真っ直ぐな剣だったわ!」
「うんうんっ! 本当にかっこよかった! これなら、私たちのお出かけの護衛も安心して任せられるね!」
女性たちから口々に褒め称えられ、先ほどまでの凛とした武人の顔から一転、たしぎは顔を真っ赤にして照れくさそうに笑った。
「あ、ありがとうございます……! マヤ聖の護衛筆頭として、皆様に指一本触れさせないよう、これからも精進します!」
そんなたしぎの姿を見ながら、少し離れたところでナミがロビンにこっそりと耳打ちをした。
「ねえ、ロビン……。今のたしぎちゃんの動きと剣の重さ、正直言って……あのゾロ以上じゃない?」
「ええ。剣士としての地力もそうだけれど……何より彼女の剣には『迷い』が一切ないわ。自分のためではなく、私たちを守るために振るう剣。……今の彼女と本気で打ち合えば、あの剣士さんでも押し負けるかもしれないわね」
小声のつもりだったが、見聞色の覇気が研ぎ澄まされているたしぎの耳にははっきりと届いていた。
たしぎは少し姿勢を正し、ナミとロビンに向けて真剣な眼差しで答えた。
「……ロロノア・ゾロ。あの方は確かに、恐ろしいほどの執念を持つ凄腕の剣士です。……ですが、今の私にとって、超えるべき壁は海賊ではありません」
たしぎはチラリと、腕を組んで立っている黒服の男――CP10へと視線を向けた。
「私の今の目標は、私に覇気と戦いのイロハを叩き込んでくださった、CP10さんです。いつかあの人の背中に追いつき、真の意味でマヤ聖の盾となることが、私のなすべきことです」
その真っ直ぐな宣言に、女性陣が「おぉ〜!」と感嘆の声を上げる。
名指しされたCP10は、フンと鼻を鳴らし、わざとらしく厳格な声を出した。
「身の程を知れ、たしぎ。たかが海賊一人をいなした程度でいい気になるな。俺の背中に追いつくなど、あと100年は早いぞ」
「は、はいっ! さらに厳しい特訓をよろしくお願いします、CP10さん!」
厳しく突き放しながらも、どこか誇らしげに口角を上げているCP10。
その温かい師弟のやり取りと、マヤ陣営の底知れない絆の強さを目の当たりにしたローは、深く息を吐き出し、自らもスパイとしての覚悟を完了させていた。
そこへマヤが歩み寄り、ローの前に立った。
「マヤ聖……。俺はかつて、貴方が、たしぎ少将に下賜したこの神聖な刀を『それなりの刀』と笑った。自分がどれほど井の中の蛙だったか、思い知らされました。今の俺の腕じゃ、この刀を使う、たしぎ少将の足元にも及ばない」
「まあ、気にするな。……ちなみにさっき言ってた『月歩落とし』ってのはな」
マヤが苦笑しながら種明かしをする。
「たしぎが月歩で上空150メートルに逃げて、そこからその刀をただ真下に手放して落とす技だ」
「落とす……?」
「ああ。あいつが手を離した瞬間、あの刀は『島並みのあり得ねェ重さ』に化ける。イッショウの隕石落としと同じ威力がピンポイントで落ちてきて、終わったら自動でたしぎの手元にシュンッと戻る便利機能付きだ。……もしお前がアレを食らってたら、今頃跡形もなく消し飛んでたぞ?」
「……っ!!」
その常軌を逸したスペックと、あわや自分がミンチになっていた事実に、ローはゾッと冷や汗を流し、顔面を蒼白にさせた。(なんて恐ろしい代物を小馬鹿にしてしまったんだ……! と心底後悔するロー)。
完全に己の未熟さを悟ったローに、マヤはずっしりと重い皮袋――潜入用の航海資金――を手渡した。
「潜入の仕方は、自分でなんとかしてあいつらに追いついて口実を作れ。海軍には話をつけてあるから、航海中に追われることはない。お前がうまく潜入できたら、ガープからこっちに連絡が入る手筈になってる」
「……了解しました」
マヤはローの胸に刻まれた刻印を見つめて言った。
「おい、ロー。お前、もうちょい強くなれよ? その胸の刻印に恥じないようにな。能力に頼りきりじゃダメだぞ。……今のお前なら、あの蛮族化した麦わら一味の相手は簡単だろうが、俺の『護衛』はできねェぞ? がんばれよ、な?」
それは、ただのスパイとして使い捨てるのではなく、『お前がもっと強くなれば、俺の隣に立つ資格がある』という、マヤなりの最大限の信頼と期待の言葉だった。
「あと言わないでもわかるだろ? ……死ぬなよ。何かあったら、いつでも戻ってこい」
帰る場所の提示。
13年間ずっと一人で復讐の闇の中を彷徨い続けてきたローにとって、その言葉は何よりも温かく、心を救う光だった。
「……っ!! 行ってまいります!! マヤ聖!!」
トラファルガー・ローは、胸の刻印に深く右手を当て、これ以上ないほど深い一礼をした。
その瞳には、もはや過去の迷いはない。ただ一人の主を守るため、影から世界を支える『スパイ』としての孤独で誇り高き旅路。彼は宮殿の門をくぐり、振り返ることなくシャボンディの海へと力強く歩き出していった。