東の海での旅を終えた全長150メートルの白亜の巨艦は、海王類が巣食う『無風帯(カームベルト)』へと再び船首を向け、鏡のように凪いだ海面を滑るように進んでいた。
船内の中央ラウンジには、コアラが淹れたばかりの上質な紅茶の香りがふんわりと漂っている。
カップを並べ終えたコアラが控えめに席に着き、その少し離れた窓際の席では、アラバスタ王女としての顔が割れるのを避けるため、ビビがヴェールを被ったまま静かに微笑んでみんなの会話に耳を傾けていた。
大きな窓から外の海を眺めていたカヤが、感嘆のため息を漏らしながら振り返った。
「それにしても、この大きい船は本当に凄いですね……。帆も張っていないのに、風のない海域をこんなに速く、しかも少しも揺れずに進むなんて、まるで魔法のようです」
純粋に目を輝かせるカヤの言葉に、ソファに座っていたナミは「あ、あはは……」と少しだけ気まずそうに曖昧な笑みを浮かべた。かつて自分たちが乗っていた船や、最先端の科学力を悪用していた者たちの記憶が脳裏をかすめたからだ。
すると、隣で眠る赤ん坊の背中を優しく撫でていたマキノも、ラウンジの高い天井や上品な調度品を見渡しながら、穏やかな声で口を開いた。
「ええ、本当に。私が知っている船とも、かなり大きさが違いますね。この船はとんでもなく大きくて、なんていうか……その、とても豪華だけど、決して下品ではなくて気品があるというか……」
マキノの口から何気なくこぼれた『知っている船』という言葉。
その瞬間、ナミは小首を傾げてマキノへと問いかけた。
「マキノさんも、船について知ってるんですね。港町の酒場の経営者ですものね。それはどんな船だったんですか? お店にはたくさん船乗りとかも来てそうですよね」
「ええ、そうね。なんていうのかしら……『赤い船首』の船なんですけどね。もちろん、この船みたいにこんなに大きくはないわね」
「赤い船首の船、ですか。そうなんですね、そんな船、一度見てみたいわ」
ナミがそう言いながら、ふと隣に座るマヤの方へと視線を向けた。
だが、そこにいたマヤの表情を見た瞬間、ナミの息がわずかに詰まった。
マヤが、赤い瞳をスッと細めていた。
先ほどまでの柔和で温かい空気は消え失せ、あたりの温度が数度下がったかのような、底冷えのする静かな威圧感がその双眸に宿っていた。
『赤い船首の船』。それが誰の船を指し、東の海のあの小さな村に誰が長期滞在していたのか、マヤには痛いほどわかっていたからだ。
壁際で控えていたCP10が、サングラスの奥で冷や汗を滲ませ、唇だけを動かして小声で囁いた。
(……抑えてください、マヤ聖……。目つき、目つきが完全に殺る気の目になってますって……!)
空気が凍りつきかけた、まさにその時だった。
マヤの反対側に座っていたロビンが、ふわりと白い腕を伸ばし、横からマヤの頭と肩を自分の胸元へと優しく抱きしめた。
「……っ」
柔らかな温もりと甘い香りに包まれ、マヤの瞳から険しい光がわずかに和らぐ。
それを見たナミが、ハッとして場の空気を吹き飛ばすように、わざとらしく大袈裟な声を上げた。
「あああ!! ロビン、なにしてんのよ!!! 私もしたいのに! やっと婚約者になれたのよ!? ……まー、あとで私はたっぷりしてもらうからいいけどね!」
ナミがぷうっと頬を膨らませてみせると、張り詰めていた空気が一気に緩み、カヤやコアラたちからくすくすと明るい笑い声が起きた。
「ふふ、本当に仲がよろしいんですね。……この船は本当に凄い豪華ですね、私の家にあったメリー号とは段違いです。……あ、そういえば、ナミさん。ルフィさんと、ウソップさんと、ゾロさんはお元気かしら?」
カヤが悪気なく放ったその質問に、ピシッ、と再びラウンジの空気が張り詰めた。
ウソップたちが今、新世界の入り口でどれほど浅ましい『蛮族』へと成り下がっているかを知っている面々が息を呑む中、ナミは一瞬たりとも動揺を見せず、えっへんと豊満な胸を張って見せた。
「あはは、そうね、そうよね、もともとカヤの船だったんだものね、メリーは! ……でもね、私は色々あって、今は『愛に生きる女』になったのよ!」
(……うまく逸らしたな。さすが、マヤ聖と一番長く一緒にいるだけあるぜ)
CP10が内心で感嘆の息を漏らす中、カヤは「まあ!」と両手を合わせた。
「愛に生きるなんて、すごく素敵ですね! その、あの……ご婚約、本当におめでとうございます」
「ナミさんって、ルフィと知り合いなんですか? それと、婚約って……マヤさんとですか?」
目を丸くするマキノに、ナミは幸せそうに頬を緩めて頷いた。
「そうよ。二年半前くらいかしら、ちょうどその赤ちゃんが生まれる少し前か、そのあとくらいかな? シャボンディでマヤ聖に出会って、愛に生きることに決めてあの船を降りたのよ。だって女だもの、いつまでも海賊ばかりやってられないじゃない?」
「そうなのね……。そういえば、その二年半前の時期は……その、エースが死んだと……黒ひげという海賊に殺されたと、イーストブルーまで新聞は来ましたし……。ちょうどその時期にね、この赤ちゃんの父とまた会えて……それっきりなのよね」
マキノが懐かしむように、しかしどこか寂しげに呟いたその言葉。
それを聞いた瞬間、マヤの赤い瞳が、カッと大きく見開かれた。
(……二年半前の、あの時期だと……!? エースが死んだと報道され、インペルダウンの暴動で世界中がパニックになっていたあのドサクサの裏で……あの野郎、無風帯を越えてこの子の元へ転がり込み、子供だけこさえてから二年以上も放置してやがるのか……!!)
マヤの全身から、怒りによる覇気が今にも噴き出しそうになった。
だが、それよりコンマ一秒早く、ロビンが両腕にぐっと力を込め、マヤの顔面を自分の豊かな胸の谷間へと深く押さえ込んだ。
「むぐっ……!?」
「ロビン、あつあつじゃない、もう……。そうね、エースは、その時死んじゃったみたいね。……その時にさ、マキノさんは知ってるかわからないけど」
ナミはロビンのフォローを受け継ぎながら、少し真剣なトーンでマキノを見つめた。
「なんのことかしら?」
「ルフィさ、インペルダウンっていう世界最大の大監獄があるのね……。あいつ、そこに押し入って大暴動を引き起こした、大悪人になったのよ……」
「……新聞で見たわ……。でも、その時は、あの子は海賊で男の子なんだから、そういう無茶もするんだろうなって思ってたから……。改めてナミさんからそう言われると……そうよね……」
マキノがハッとしたように表情を曇らせる。
すると、壁際でバインダーを抱えていた秘書のレイジュが、冷静で澄んだ声で言葉を継いだ。
「そうですね。客観的に見ても、あれは海軍本部が崩れていなかったからよかったものの、それでも脱獄囚たちによって近隣の村々が受けた被害は甚大だったそうよ。もし同じことが平和なイーストブルーで起きていたら、大変なことだったでしょうね。略奪、放火……そして何より、女性の尊厳が無残に踏みにじられる出来事。その他にも色々な被害が出て、それを鎮圧するための人員、さらには復興費用の捻出……。それは一体、誰が血税から出すのか? ということになりますわ」
「レイジュ、凄いわね。さすがマヤ聖の専属秘書ね」
ロビンが感心したように微笑むと、今度は部屋の入り口付近で護衛として立っていたたしぎが、背筋を伸ばして一歩前へと出た。
「私は海軍所属、マヤ聖の元で女性たちの保護と警護を賜っている、少将のたしぎです。マキノさん、カヤさん、改めてよろしくお願いします。……今レイジュさんが仰った通り、あの時の暴動で被害に遭った村の復興費用などは、すべて我々海軍、ひいては各地域の予算から捻出したようです。これは軍の内部情報ですが、これくらいのことであれば、マヤ聖の御前ではお話ししても大丈夫だと判断しました」
理路整然と語られる「海賊が引き起こした現実の爪痕」に、マキノとカヤは言葉を失い、小さく頷いた。
すると、ロビンの豊かな胸の間に顔を埋められたままのマヤが、くぐもった、しかしどこか威厳のある声で口を開いた。
「……たしぎ、レイジュ、ありがとう。二人の聡明さには、本当に助かる所ばかりだ。……マキノさん、カヤ。これから行く私の宮殿は、少し変わった場所にあるので、着いてからは決して一人で歩かないように。そして、マキノさんとカヤさん二人だけでの移動もしないでください」
顔はロビンの胸に挟まれたまま、声だけが真面目にラウンジへ響く。
「つまり、宮殿の敷地内は絶対に安全で大丈夫ですが、外部の街に出るなら、必ずたしぎか、ナミ、ロビンあたりを連れて買い物なりをしてください。たしぎはうちの女性陣の護衛筆頭なので。あそこは平和なイーストブルーとは違う場所です。そこいらの路地裏を歩いているゴロツキですら、数千万ベリーの懸賞金がかかってますのでね」
「えと……一応、噂では知ってはいます。新世界へ行く海賊たちが集まる場所だと……」
「わかりました、マヤ聖。必ずみんなで行動するようにしますね」
マヤはロビンの胸の間から話すという、なんともおかしな体勢のままで重要な注意事項を言い放ったのであった。
ロビンがふっと吐息を漏らし、耳元で愛おしそうに小声で囁く。
「……少しは、落ち着いた?」
腕の力が緩められ、顔を上げたマヤは、自分を暴発から守ってくれたロビンの瞳を見つめ、そのまま彼女の唇へと優しくキスをした。
「ありがとうな、ロビン」
ガタンッ!!
その瞬間、隣で見ていたナミが勢いよく椅子を倒して立ち上がり、ジト目でマヤへと詰め寄った。
「それは、もう……! 後で私も絶対にやるからね、絶対だからね!! ……ほらみんな、少し船の中を見て回りましょう? カヤ、マキノさん、案内するわよ。コアラもお茶出しがあるから一緒にお願い!」
「は、はいっ!」
「よろしくね、ナミさん」
全員が笑顔で返事をして席を立つ。
たしぎは一度マヤの前へと歩み寄り、「ではマヤ聖、皆様の護衛に行ってまいります!」と凛とした声で忠誠の挨拶を捧げてから、ナミたちの後ろについてラウンジを出ていった。
賑やかな足音が遠ざかり、広いラウンジには、マヤ、ロビン、レイジュ、そしてCP10の四人だけが残された。
マヤはまだ完全には胸のざわつきが収まらないのか、深い溜息をつきながら、隣に座るロビンの胸元へと再び少し手を当て、トクン、トクンと響く彼女の穏やかな心音を確かめるようにして精神の安定を図っていた。
(……よほどのことなんだな、マヤ聖。普段はどんな大物にも動じない人が、ここまで感情を揺さぶられるなんてよ)
CP10が静かに見守る中、ロビンは自分の胸に当てられたマヤの手の上にそっと自分の手を重ね、悪戯っぽく、しかし慈愛に満ちた小声で囁いた。
「……そのまま、揉んでもいいけど?」
「そういうんじゃない。……でも、ありがとう。そしてすまないな、ロビン。お前がいなかったら、せっかくの場を乱しそうになった」
素直に謝るマヤの姿に、隣に立っていたレイジュもたまらずといった様子で歩み寄り、反対側からマヤの赤い髪を優しく撫でてあやし始めた。
「レイジュもすまないな。……ちょっとな、マキノって子の境遇がな、まだ確定じゃないから何とも言えないんだ。すまない」
「ふふ、いつでもどうぞ? 専属秘書として、主の心を癒やすのも大切な務めですから」
「あら、癒やすの意味、少し違くないかしら?」
ロビンとレイジュが視線を交わして微笑み合い、そのやり取りにマヤとCP10もふっと笑みをこぼした。
その時、テーブルの上に置かれていた電伝虫が『プルルル……プルルル……』と鳴り響いた。
マヤはロビンの胸元に半ばうずくまったままの体勢で、片手を伸ばして受話器を取った。
「じじいか、どうした? またお前の孫が何かやらかしたか?」
『うわぁぁん、開口一番にそれは言わないでください! 定期報告ですじゃ! 無事、例の奴がうまくあいつらの船に入ったことがこちらでも観測できましたぞ!』
受話器の向こうから、ガープ中将の涙混じりの豪快な声が響く。
『遠目から双眼鏡で見ておっても、なんかもう大歓迎すぎてびっくりするくらいですじゃ! ローのやつ、少し金銭を持たせたようで、それを渡したらあっさりと仲間扱いしおって……。うちの孫はいったいどうなってしまったんじゃ……』
「そうか。ローのやつ、俺が渡した金を自分の懐にうまく残して、小僧どもに手土産ついでに端金を渡したか。なかなか使えるな」
『そのようで。しかもその後、あやつめ、こちらの軍艦に向かって何か刀の刃を太陽に反射させて、モールス信号のようにメッセージを送ってきましたぞ。そのまま報告しますが、最後が少しあれなんですじゃが……』
「なんだ?」
マヤが聞き返し、ロビン、レイジュ、CP10の三人も「モールス信号?」と首をかしげて耳を傾けた。
『えーとですね……「麦わら、蛮族、酷い。匂いがやばい……。だが、船だけはうまく綺麗にされてる。……マヤ聖、早く会いたいです」だそうですじゃ』
一瞬、ラウンジに奇妙な沈黙が落ちた。
「えーーと……うん、最初の状況報告はわかった。風呂にも入ってねェんだろうな。それに船だけ綺麗ってのも気にはなるが……おい、何最後の? それ、信号の読み取り間違えてないか? アラマキだろ、それ?」
『いえ……間違いなくロー本人ですじゃ……。マヤ聖、あやつに一体何をなさったんですか? アラマキの変装ではないですじゃ、あやつは今ゴア王国におりますゆえ。……という報告です。また近々、わしの方でもルフィたちを追い回しますじゃ……』
「そうだな。その時、ローにうまく金をまた渡してやれ。海軍がうっかり落としていった軍資金だとでも言って、多少の活動資金をな」
『ま、またそのようなことを!! わしの馬鹿孫のために、どこまでもすいませんですじゃー!!』
「わかったわかった、またシャボンディで会ったら愚痴でも話でも聞いてやるからな? 落ち着け。……ああ、それと、たしぎはこっちで元気にやってるとスモーカーにも伝えておいてくれ。なんせあいつ、出立前の手合わせでローに完勝したぞ」
『なんですと!? あのたしぎ少将が、元七武海のローに!? それは朗報! いい話を聞けてなによりですじゃ、今度ゆっくりお話聞いてくださいね!! ではわ〜!』
ガープが上機嫌で通話を切ると、一部始終を聞いていたレイジュが、信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「あの……今のが、かつて海賊王を追い詰めた『伝説の海兵』ですか? 何度かお話には聞いてますが、いまだに信じられませんわ……」
「ふふ、マヤ聖は、何度もルフィに恩赦を与えて生かしてあげてるからね。本当に偉いですよ」
ロビンが優しくマヤの頭を撫でる。
まだロビンの胸元にうずくまっていたマヤは、少し気恥ずかしそうに呟いた。
「あの、この体勢だと、まったく説得力がないんだが……。まー、女のぬくもりってのはいいもんだ。すまんな、ロビン……お前のおかげで、だんだん落ち着いてきたよ」
「私も胸のクッションならなかなかですので、いずれ秘書としてお役に立ちますわね!」
「そうだな……そのうちな。でも、それ秘書の業務と関係なくないか?」
「いいえ。冷静に分析した結果、もしナミさんやロビンさんが不在の時に、マヤ聖の精神を安定させるために必要な処置だと判断しました」
「うわ〜、言い方が事務的だ〜。無理しないでもいいんだぞ……」
苦笑いするマヤに、壁際のCP10が呆れたようにツッコミを入れた。
「あの、だからそういうとこですよ、マヤ聖? いい加減、二人と婚約までしてるんですから、自分がどれだけ女性陣に求められてるか自覚しましょ?」
そんな軽口を叩き合っていると、今度は隣に置かれていた別の電伝虫がけたたましく鳴り出した。
マヤが受話器を取る。
「アラマキだな? ゴア王国の事後報告か?」
『うっ……ううっ……、ひっく……!』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、大の大人がむせび泣く嗚咽だった。
マヤは驚いて身を乗り出した。
「おい! どうしたんだ、アラマキ! 何があったんだ? ゴア王国で何か悪いことでもあったのか!?」
『い、いえっ……! マヤ聖とこうして一対一の直通で話せる喜びが極まってしまいまして……っ! うおおおんっ!』
「……そう……ね。まあ、それがお前だもんな。良いと思うぞ」
一瞬の間のあと、マヤがすべてを受け入れるように優しく肯定した。
その瞬間、周りの三人の胸中にそれぞれのツッコミが駆け巡った。
(そこ、いいんだ!? あの暑苦しいおっさんまで甘やかすんだ!?)とCP10が目を剥き、
(ふふ、どんな相手でも否定しない、それがマヤ聖ですもの)とロビンが微笑み、
(まさに天性のタラシの象徴ですね、いい意味で。……ロビンさん、そろそろ抱きしめる役、私と代わってもいいですけど? ふふふ)とレイジュが視線で火花を散らす。
『ゴ、ゴア王国の方はすべて、もりもりうまくやってますだァ! なんせマヤ聖の顔に泥を塗った連中です、それなりの報いを受けさせてやりましたよ! 魚人島でいただいた大切な万年筆で全部の書類にサインをして、使えるいい貴族だけを残して、腐った連中は全体を綺麗に間引きしました! 全員粛清しては、国の行政が回りませんからな!』
「良い判断だ。大きいとこばかり狙って全部潰しても、下で暮らす小さき者が疲弊してはたまらんからな。よくやったぞ、アラマキ」
『………………』
ピタリと、受話器の向こうから音が消えた。
「アラマキ? おい? どうした?」
『………………』
どれだけ呼びかけても、返ってくるのは幸せそうな微かな寝息だけだった。
CP10がやれやれと肩をすくめる。
「……直々に褒められた衝撃で、気絶したのではないでしょうか? もう切ってもいいかと……」
「そうか。……またな、アラマキ」
ガチャリ、とマヤが受話器を置くと、四人は顔を見合わせ、「「「アラマキだったな……」」」と揃ってしみじみと呟いた。
笑いが収まると、CP10はふと真剣な表情に戻り、腕を組んで口を開いた。
「……しかし、さっきの話を整理すると、マキノさんの子供はつまり……二年半前にインペルダウンの暴動が起きた際、あの『赤い船首の船』の持ち主が父親で、村に立ち寄って子供を作ってから、二年間ずっと放置してる親、ということですね」
「なるほど……そういうことでしたか。まるで私の実家のヴィンスモーク家のように、身勝手で酷い親ですね。それでマヤ聖はあそこまで静かに怒ってらしたと」
レイジュは納得したように頷きながら、内心で冷ややかに思考を巡らせた。
(赤い船首の船……。なるほど、マヤ聖が普段から名前すら聞きたくないほど嫌っている、あの『四皇』の男の落とし胤ってことですね……。もしそれが世間に知れれば、あの母子は世界中から標的になる。これは確かに、最優先で保護するに値しますわ)
ロビンもまた、静かな瞳でグラスの水面を見つめながら言った。
「海賊には、家族に対して無責任な者が多いのでしょうね。……そういえば、シロップ村のウソップの父親も、同じような男だと聞いたわよ? まさにその同じ海賊団の幹部として海へ出て、故郷で母親が重い病気で死にかけているのに、『海賊の旗が自分を呼んでいるから』と一度も帰ってこなかったそうよ」
ロビンが淡々と語ったその事実に、マヤは心底うんざりしたように吐き捨てた。
「……イーストブルーは四つの海で一番平和な海だなんて言われてるようで、なんだその、くそみたいな話のオンパレードは。自由だの冒険だの粋がった海賊どもに、女と子供が捨てられてる場所じゃねーか」
マヤはロビンの胸元からゆっくりと身体を起こし、天井を見上げて呟いた。
「……マキノか……。そうか、あいつもずっと一人で……」
その声音に滲む深い慈愛と熱を感じ取り、ロビンがふっと口元を綻ばせた。
「あら……マキノさんのことも、いずれ私たちの『姉妹』にする気?」
「お前な、まだお前とナミとだって最後までしてないのに、そういうことを今から言うか? 今はまだ、そこまでは考えれないさ」
苦笑いして否定するマヤだったが、それを見つめるCP10は、サングラスの奥で遠い目をしていた。
(マキノさんと、マヤ聖か……。年はマキノさんの方が三つくらい上のお姉さんだから、案外すごくありなんじゃないか? マヤ聖なら絶対に泣かせないし、あの親子を世界一幸せにしてくれそうだしな……。って、おいおい、トットランドのビッグ・マムのとこの娘さん三人も入れると、とんでもない大所帯ハーレムになるんじゃないか? いったいどんだけ世界中の女から慕われてるんだよ、このお方は……!)
やがて数日後。
無風帯を抜け、巨艦はついに懐かしきシャボンディ諸島の港へと到着した。
海面から絶え間なく浮かび上がる七色のシャボン玉と、空を覆うほど巨大なヤルキマン・マングローブの樹冠。
念のため、外を歩くためにヴェールとフードで顔を隠してタラップを降りたカヤとマキノは、東の海では決して見ることのできないその幻想的な光景に、少女のように目をキラキラと輝かせた。
「わあ……! マキノさん、見てください! 街中がシャボン玉でいっぱいで、なんて綺麗な場所なんでしょう……!」
「ええ、本当ね、カヤちゃん……! まるで絵本の中の国に迷い込んだみたいだわ……!」
二人が感動の声を上げながら、マヤやナミたちと一緒に綺麗に舗装された大通りを歩いていると、向こうから歩いてきた街の住民たちがマヤの赤い髪を見つけ、パァッと顔を明るくして駆け寄ってきた。
「あ! マヤ聖に、奥方様たちですかい!? お帰りなさいませ!! 新しいお嬢さん方も、シャボンディへようこそ!! マヤ聖は本当に良い人ですぜ!」
「おいおい、奥方様って……まー、なんだ、そのうちな」
マヤが照れくさそうに鼻の下を擦ると、住民の男はニカッと笑って声を潜めた。
「本当ですかい!? そいつはおめでとうございます! ……あ、じゃあシャルリア様は……」
「あああ、バカ野郎、それは今は言うな? いいな?」
「ハッハッハ! 了解ですぜ、マヤ聖!」
天竜人であるはずの青年と、街の普通の住民たちが、まるで昔からの幼馴染のように肩を並べて気さくに笑い合っている。
東の海から来たばかりのカヤとマキノには、その光景が『世界の常識から見てどれほどあり得ない奇跡なのか』、まだ気づく由もなかった。ただ、マヤという青年がこの街の人々から心の底から愛されていることだけが、温かい風と共に伝わってきていた。
そして、街の喧騒を抜けて高台の門をくぐり抜けた瞬間。
緑豊かな庭園の奥にそびえ立つ、白く巨大なマヤの宮殿がその全貌を現した。
「「えっ……ええええええっ……!?」」
王国の城すら凌駕するほどの圧倒的な壮麗さと規模を前に、マキノとカヤはヴェールの下でぽかんと口を開け、しばらくの間、一歩も動けずに立ち尽くすのだった。