シャボンディ諸島の宮殿の敷地内には、本館とは別に増設された白亜の別棟――最新鋭の『医療研究区画』が存在している。
消毒薬の清潔な匂いと、静かな空調の音が響く広大なフロア。
壁一面に作り付けられた巨大な書架には、世界中から取り寄せられた希少な医学書や解剖図譜が幾千冊も並び、隣の研究室には、まだ世界のどの大病院にも卸されていない最先端の医療機器が銀色の光を放っていた。
「すごい……本当に、夢みたいです……!」
真新しい白衣に袖を通したカヤが、分厚いファイルを手にしたまま、感極まったように胸元を押さえた。
その後ろでは、様子を見に来たマヤと、ナミ、ロビン、レイジュ、そして黒服のCP10が穏やかな表情で彼女を見守っていた。
「気に入ったか、カヤ。ここにある機材も本も、全部お前が自由に使っていい。わからないことがあれば、専属の医者たちになんでも聞け」
「はいっ、マヤ聖! シロップ村のお屋敷で読んでいた本では名前しか知らなかったような最新の治療法まで、こんなに詳しくデータ化されているなんて……。私、一生かけても読み切れないかもしれません!」
目をキラキラと輝かせるカヤの純粋な喜びに、ナミとロビンも顔を見合わせて微笑んだ。
その時、研究室の壁面に設置されていた大型の映像電伝虫が『プルルル……ガチャ』と音を立てて起動した。
スクリーンに光の幕が投影され、そこに映し出されたのは、頭部が巨大なリンゴのような形をした、長い舌を出した陽気な老科学者――海軍特殊科学班(SSG)のトップであり、世界最大の頭脳と称されるDr.ベガパンクの姿だった。
『おお、繋がったか! マヤ聖、東の海への船旅から無事に帰還されたそうじゃな! どうじゃ、わしが設計したあの150メートル巨艦の調子は!』
「ああ、じじいか。相変わらず元気そうだな。船は最高だったぞ、無風帯(カームベルト)を突っ切ってもコップの水すら揺れやしねェ」
マヤが気さくに手を挙げて応じると、画面の中のベガパンクは満足そうに鼻息を荒くした。
『フォッフォッフォ! 当然じゃ! 普通の海軍の軍艦なら無風帯を抜けてアラバスタ海域へ行くのに七日はかかる。他の天竜人どもが乗る、無駄に金銀の装飾をゴテゴテと貼り付けた悪趣味な船でも五日から六日はかかる距離じゃ。じゃが、マヤ聖の船は余計な装飾を一切省いて船室をシンプルにまとめ、極限まで軽量化した車体に、わしの最新鋭の動力炉を積んでおる! 150メートルの巨体でありながら、わずか四日で走破できるわしの最高傑作じゃぞ!』
「おかげで助かってるよ。それにな、CP10に作ってくれたこの『特注グローブ』も重宝してる」
マヤが隣に立つCP10に目をやると、CP10は黒い革手袋を嵌めた自分の右手を軽く握りしめて見せた。
「ええ。悪魔の実の能力者である俺が、海楼石の手錠や檻に直接触れても全く力が抜けないこの特殊繊維のグローブ……護衛や捕縛の実務において、これ以上頼もしい装備はありません。感謝します、ドクター」
『うむうむ、マヤ聖からはいつも、兵器開発ではなく「民のインフラ整備や平和利用」という名目で莫大な研究資金を投資してもらっておるからのう! その程度の技術提供、お安い御用じゃ!』
ベガパンクが豪快に笑ったところで、マヤは隣に立つカヤの背中を軽く押して画面の前へと進ませた。
「じじい、今日からこの医療区画で勉強することになったカヤだ。お前から送ってもらってる基礎医療データ、この子にも閲覧させてやってくれ」
「は、はじめまして、Dr.ベガパンク様! カヤと申します! 先生の書かれた論文、いつも拝読しております……!」
緊張で声を上ずらせながら深々と頭を下げるカヤに、ベガパンクは目を細めて頷いた。
『おお、医療を志す若き学徒か! よい心がけじゃ、わしのデータでよければ好きなだけ持っていくがよい!』
すると、画面の奥――エッグヘッドの研究所の扉が開き、一人のとてつもなく巨大な体躯の男が、大きなトレイにお茶とお菓子を乗せてゆっくりと歩いてきた。
くまの耳のような帽子を被り、首から下げたエプロンを着けたその男――元王下七武海、バーソロミュー・くまの姿を見た瞬間、ナミとロビンがハッとして息を呑んだ。
さらに、くまの分厚い肩の上には、ピンク色の長い髪をした十歳ほどの少女がちょこんと座っており、両手に持った大きなピザを豪快に頬張っていた。
そしてくまの隣には、美しいブロンドの髪を揺らした気品あふれる女性――研究所の護衛兼秘書を務めるステューシーが、柔和な笑みを浮かべて寄り添っていた。
『むぐっ、んんーっ! あ、博士、通信繋がってるのか? ……って、あーっ! シャボンディの赤い髪のお兄ちゃんに、ナミとロビンだ!!』
ピザを飲み込んだ少女――ジュエリー・ボニーが、くまの肩の上でパァッと笑顔を咲かせて大きく手を振った。
「ボニーちゃん……! それに、くま……!」
ナミが驚きの声を上げる中、エプロン姿のくまはトレイを机に置くと、画面の向こうからマヤに向かって、床に額がつくほど深く、静かに頭を下げた。
『……マヤ聖。あの日、シャボンディ諸島で私の暴走を止め、こうして私に大きな恩赦を与えてくださったこと……。あのお言葉がなければ、今の私と娘の平穏はありませんでした。どれほど感謝しても、し尽くせません……』
重く、心からの感謝が込められたくまの言葉。
しかし、それを受けたマヤ本人は、きょとんとした顔で目を瞬かせ、自分の首を傾げた。
「……え? 恩赦? 俺、お前にそんな大層なことしたか? ……おい、じじい、なにがあったんだ?」
マヤが素で聞き返すと、画面の中のベガパンクとステューシー、そしてくま自身が「えっ?」と目を丸くした。
『な、なにがあったって……マヤ聖、ご存じなかったのですか!?』
一歩前に出たステューシーが、信じられないというように美しい眉を寄せた。
「知らねェよ。俺は二年半前、あいつがシャボンディの俺の庭先で、あの麦わらの小僧どもをどこかへ飛ばそうと暴れてたから、『なんかこいつの動きと心の声はおかしいぞ、海軍でしっかり調べて処理しておけ』ってセンゴクたちに丸投げしただけだぞ?」
マヤがあっけらかんと言い放つと、ベガパンクは顎が外れそうなほど口を開け、やがてポンと膝を打った。
『な、なるほど……! そうじゃったのか……! いやはや、マヤ聖、実はあの裏では、とんでもないことが起きておったのじゃよ』
ベガパンクは少し声を落とし、真面目な顔つきで経緯を語り始めた。
『実はな、ここにいるボニーは幼い頃、太陽の光を浴びると身体が石のように硬化していく不治の病――「青玉鱗(せいいんりん)」を患っておったのじゃ。それを根治するには、まだ一般の医療現場には下ろしていないわしの最新技術「幹細胞の移植手術」しかなかった。じゃが、その手術には改造人間(サイボーグ)を一体ゼロから製造するのと同等の、莫大なコストと手間がかかったのじゃよ』
カヤがゴクリと唾を飲み込み、ナミとロビンも真剣な眼差しで画面を見つめる。
『くまは娘を救うためなら何でもすると頭を下げた。……じゃが、そこに目をつけたのが、五老星の一人、科学防衛武神のジェイガルシア・サターン聖じゃった。あやつはボニーの治療と命を人質に取る形で、くまに「王下七武海への加盟」、そして最終的には「人間兵器への完全改造と、自我の完全な抹消」という悪魔のような取引を突きつけたのじゃ……』
「なっ……! む、娘さんの命を人質に、心を消せですって……!?」
カヤがショックのあまり両手で口元を覆った。
隣で聞いていたレイジュも、かつて自分の感情を消そうとした父ジャッジの所業と重なり、冷たい怒りで目を細めた。
そこで、ステューシーが穏やかな声で言葉を継いだ。
『ええ。くまさんはボニーちゃんを救うため、その過酷な条件をすべて呑み込み、あの日シャボンディへ向かわされたのです。……ですが、そこでマヤ聖がくまさんの心の奥底の叫びに気づき、「しっかり調べて処理しろ」と海軍本部へ引き渡してくださった。……それを受け取ったセンゴク元帥が、くまさんとベガパンク博士からすべての事情を聴取なさったのですわ』
「……センゴクが?」
『はい。事情を知ったセンゴク元帥は、深く溜息をついてこう仰いました。「もしこのまま、くまの自我を消して人間兵器になどしてみろ。あとでそれを知ったマヤ聖がどれほど激怒し、わしらと政府がどれほど大きな『借り』を背負うことになるか分からん。マヤ聖なら絶対にこんな胸糞悪い取引は許さんぞ」と』
ベガパンクが感慨深そうに頷きながら続けた。
『そしてセンゴク元帥は、マヤ聖が日頃から海軍に預けておられる「特別予算」の中から、サイボーグ一体分に相当するボニーの手術費用を、わしの研究所へ全額一括で支払ってくれたのじゃよ!「金はマヤ聖のポケットマネーから全額払った! よってサターン聖との取引は白紙、くまの自我を消す必要はなくなった! あとは研究所の助手として保護しておけ!」とな!』
研究室の中に、一瞬の静寂が落ちた。
つまり、マヤが日頃から積み上げてきた「人を泣かせない」という圧倒的な実績と恐怖(貸し)が、マヤ本人の知らないところでセンゴクを動かし、一人の父親と娘を最悪の悲劇から救い出していたのだ。
「……ぷっ、はははははっ!!」
マヤは堪えきれずに吹き出し、お腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。
「あの野郎、俺に断りもなく勝手に俺の金使いやがって……! ははは! でも、俺の行動パターンを本当によくわかってるじゃねーか、あのタヌキじじい! 最高の金の使い方だ!」
マヤが嬉しそうに笑うと、画面の中のくまは、大きな瞳からポロポロと大粒の涙をこぼしながら、再び深く頭を下げた。
『マヤ聖の平素からの気高いお心がなければ、センゴク元帥もそうは動かれなかったはずです……。本当に、ありがとうございました……!』
『ね、ねえ、お兄ちゃん!』
くまの肩の上から、ボニーが身を乗り出して画面に顔を近づけた。
その頬にはかつての病の痕跡など微塵もなく、健康的なツヤに満ちている。
『お父ちゃんやベガパンクから聞いたよ! 私の病気、お兄ちゃんのお金で治してくれたんだって? お兄ちゃんが私を治してくれたの?』
無邪気に尋ねるボニーに対し、マヤは笑みを収め、真っ直ぐで優しい赤い瞳で画面の中の少女を見つめた。
「違うぞ、ボニー? 俺は何もしちゃいねェよ」
『え?』
「お前を治したのはな、どんな理不尽な条件を突きつけられても、自分の命や心を差し出してでもお前を助けようと諦めなかった、そのお父ちゃん(くま)だよ。……お前は、世界一かっこいい父親を持ったな」
『……っ!! お、お父ちゃん……っ!』
ボニーが顔をくしゃくしゃにして、くまの太い首筋にギュッと抱きついた。くまもまた、自分の大きな手で娘の小さな背中を優しく撫でながら、声を殺して泣いていた。
「病気が治って元気になったなら、今度お父ちゃんと一緒にシャボンディへ遊びに来いよ? うまいお菓子とピザ、山ほど用意して待ってるからな」
『うんっ!! 絶対行く!! 約束だからな、お兄ちゃん!!』
涙を拭いてニカッと笑うボニー。
その横で、一部始終を見つめていたステューシーは、自分の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(造られた命である私や、兵器にされかけたくまさん……普通の天竜人なら道具としか見ない私たちの『心』を、このお方はこんなにも温かく肯定してくださるなんて……)
「あ、そうだ。そっちの綺麗な姉ちゃんは、じじいの秘書か?」
『おお、紹介が遅れたな! 彼女はステューシー、わしの研究所のボディガード兼、裏社会の窓口をしてくれておる頼もしい味方じゃ!』
「ステューシーと申します、マヤ聖。お噂はかねがね伺っておりましたが……想像以上に素敵なお方で、胸が震えておりますわ」
艶やかに一礼するステューシーに、マヤは「そうか? じじいとくま親子を頼むな、ステューシー」と気さくに手を振り、温かい空気の中で通信は終了した。
プツン、と映像電伝虫のスクリーンが消える。
ナミやカヤたちが「よかったわね、ボニーちゃんたち……」と安堵の息を漏らす中、ひとり、マヤの顔からスッと笑みが消えていた。
「……CP10」
「はっ。……やはり、行かれますか」
マヤの静かだが底冷えのする声に、CP10はすぐさま意図を察して頷いた。
「ああ。センゴクが未然に防いでくれたからよかったものの……あのサターンの野郎、俺の見てないところで、俺とイムが作った『秩序』をぶち壊すような真似をしてやがったな。……ナミ、ロビン。ちょっと聖地(うえ)に行って、悪友に文句言ってくる。夕飯までには戻るから、先に食べててくれ」
「ええ、行ってらっしゃい、マヤ。……あまり手を痛めないようにね」
「ガツンと言ってやってちょうだい、マヤ聖!」
二人に送り出され、マヤはCP10だけを伴って宮殿を出ると、専用の高速リフトでレッドラインの頂上――聖地マリージョアの『パンゲア城』へと直行した。
パンゲア城の最奥、『権力の間』。
重厚な扉をノックもせずに蹴り開けるようにして入ってきたマヤの姿に、ソファに並んでいた五人の老星――五老星たちは一斉に立ち上がった。
「なっ、マヤ聖!? 連絡もなしに一体どうされたというのだ!?」
長い髭を蓄え、杖をついた男――ジェイガルシア・サターン聖が驚きの声を上げる。
マヤは無言でズカズカと歩み寄ると、サターン聖の胸ぐらを片手でガッと掴み上げ、そのまま部屋のさらに奥――胡蝶が舞う『花の部屋』へと続く階段を強引に引きずって上がった。
「ぐおっ!? な、何をなさるマヤ聖! 離せ、無礼であろう!!」
「おい待てマヤ聖! そこはイム様の御座所だぞ!!」
他の四人の五老星たちが慌てて後を追う。
緑と花々に囲まれた神秘的な『花の部屋』の中央には、長い冠を被った黒い影――世界の隠された王であるイムが静かに佇んでいた。
マヤはイムの目の前の床に、サターン聖をドサッと無造作に突き飛ばした。
「ゴホッ、ゲホッ……! き、貴様、いきなり何を……!」
「おい、イム。このジジイに確認したぞ。二年半前、バーソロミュー・くまの娘の病気を人質に取って、あいつを脅して『人間兵器』に改造しようとしたそうだな」
サターンは床に手をついたまま、脂汗を浮かべて必死に言い訳を並べ立てた。
「や、やろうとしただけで、実際にはまだ自我は消しておらん! あれは海賊を従わせるために少し脅しただけだ! 海軍から治療費が支払われたゆえ、処置は止めておるわ!」
見苦しい弁明に、マヤの赤い瞳が氷のように冷たく細められた。
マヤはサターンを見下ろしたまま、その奥にいるイムへと真っ直ぐに声を叩きつけた。
「おい、イム。俺はこれまで、お前たちの作った『世界の秩序』に則って、下界で二十年間ドブさらいをして実務を回してきたが……これはねーんじゃねーか? おい!」
部屋全体の空気がビリビリと震え、五老星たちが息を呑む。
「なんだよ、『人間兵器化』だの『自我の完全な抹消』って。親が子を想う一番綺麗な心を人質に取って、人間の心を消して鉄屑にする……これやって、何か強くなるの? そこんとこ、俺にわかるように教えてくれよ?」
「そ、それは……自我や感情があれば、命令に背く危険があるからだ! 絶対に従う兵士を作るには……」
「馬鹿かお前は!!」
マヤの一喝が、花の部屋に雷鳴のように轟いた。
「覇気ってのは『心の強さ』そのものだろ! 心を消したら、そいつは覇気も使えねェただの人形になるだけじゃねェか! わざわざサイボーグ一体分の莫大な金をかけて心を消した人間兵器なんか作る暇があるならよ、その金で娘を救ってやって、そいつから『信用』を勝ち取ればいいだろうが! そうすりゃ、いざって時に自分の強い意志で、命懸けでこっちのために戦ってくれるだろうがよ! そっちの方がよっぽど安くつくし、世界の秩序が保たれるだろうが! ……なにやってんだ、イムよ……」
ぐうの音も出ないほどの、あまりにも的確で圧倒的なド正論。
「恐怖と支配」でしか人を動かせないサターンと、「実務と信用」で四皇すら手懐けてきたマヤの、為政者としての器の差が残酷なまでに浮き彫りになった瞬間だった。
静まり返る部屋の中で、イムがゆっくりと口を開いた。
「……そうか。サターン……お前、わしに断りもなく、そのような愚かなことを……」
「い、イム様! これには深い訳が……! いずれ現れるであろう宿敵『ジョイボーイ』の再来に備え、それを確実に倒すための絶対的な戦力として……」
「――またそれか?」
サターンの言葉を、マヤが心底うんざりしたような声で遮った。
「前に話したよな? 過去は過去だと。何百年前の亡霊に怯えてんのか知らねェが、今の世の中を自分の目で見てみろよ。白ひげもビッグ・マムも、四皇はそのままでも、俺が話をつけて平和に秩序は守られてるよな? 海賊の暴動だって減ってる。……それともなにかい? お前たちは、本当は世界をわざと混乱させたいのか? え? イム」
マヤがジロリとイムを睨みつける。
イムの赤い瞳がわずかに揺れ、やがて深い溜息と共に静かに首を横に振った。
「……そうではない。わしは、マヤとは敵対しないと決めたろ? お前が作る平穏を壊す気はない」
イムがスッと細い指先を床のサターンへと向けた。
「よって、今回の独断の罰として、サターンは『不老不死』の力を解く。……マヤ、これでけじめとさせてくれ」
「なっ……!? イ、イム様、それだけは……お許しを……っ、ぐあああああっ!?」
パチン、とイムが指を鳴らした瞬間、サターンの身体から黒い靄のような力が抜け出し、その場で皮膚が急速に萎び、髪が抜け落ち、背中が丸まって、ただのヨボヨボの老いぼれへと変わり果てた。命までは取らないが、五老星として永きにわたり享受してきた最大の特権を奪い去る処罰。
後ろで見ていた他の四人の五老星たちは、顔面から血の気を失い、ガタガタと震えながら一歩後ずさった。
マヤは床で喘ぐサターンを一瞥し、軽く肩をすくめた。
「へえ、お前そんなこともできるのか。……まあ、命を取らずに力を落とすならそれでいい、俺のやり方と条件は同じようなもんだ。あと、くまの娘の手術代に俺のポケットマネーを使ったから、その分の資金に色をつけてこっちに回せ。詫び資金だ」
「よかろう。すぐに手配させる。……ふふ、やはりマヤ、お前という男は本当に愛しいよ……」
イムがどこか熱を帯びた、うっとりとした声で呟きながら、マヤの元へと一歩近づいた。
マヤは露骨に微妙な顔をして半眼になった。
「……お前、男だろ? まー、誰かに好かれるのは悪い気はしねェがな、そこは『友愛』としておくよ」
「ふふ、私はとうの昔に性別など超越してるさ……」
「そうかい。なら、そのうちうちの嫁にでもなるか? なんてな」
マヤが完全に冗談のつもりで軽口を叩いた、その瞬間だった。
「ふ……それも悪くない」
「……は?」
「だが、今のお前の宮殿には、ネフェルタリ・ビビもいるであろう? あの一族とは少し色々あるのでな、今すぐ同じ屋根の下というのは遠慮しておこう」
「『悪くない』ってお前は……。まーいい、言っとくがビビには指一本触れさせねェからな。今回の件の後始末と詫び資金、しっかり頼むぞ」
マヤは呆れたようにひらりと片手を振ると、くるりと踵を返し、後ろで石化しているCP10を連れて、さっさと花の部屋から立ち去っていった。
嵐のように去っていったマヤの足音が完全に消えるまで、部屋の中には絶対的な沈黙が支配していた。
やがて、イムはマヤが去っていった扉を愛おしそうに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……本当にいい男だよ。八百年前の過去も知らんか……ただ『明日』だけを見て生きておるか。本当に、いい……。……さて、サターン。……というわけだ。しばらく隠居して頭を冷やすがいい」
世界の最高権力者であるはずのイムが、一人の若き天竜人にやり込められた挙句、「嫁になるか」と言われて本気で満更でもなさそうにしている。
そのあまりにも常軌を逸した光景と、床で老いさらばえているサターンの姿を見比べ、残された四人の五老星たちは、ただただ声も出せずに絶句して立ち尽くすしかなかった。
マリージョアからシャボンディ諸島の宮殿へと戻ったマヤが、中庭に面した回廊を歩いていると、緑豊かな庭園の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「ふん! あんたがマヤお兄様が東の海から連れてきたっていう親子アマスね? 言っておくけど、わたくしはお兄様みたいに誰にでも優しくないアマスよ!」
見れば、庭園のベンチで赤ん坊を抱いているマキノと、護衛のたしぎ・コアラの前に、豪華なドレスを着た金髪の女性――マヤの妹分であるシャルリア宮が腕を組んで立っていた。
「天竜人」と聞いて少し緊張していたマキノだったが、彼女の腕の中にいた赤ん坊は物怖じするどころか、キャッキャと無邪気に笑いながら、シャルリアに向かって小さな手を伸ばした。
「あ、こら、ダメよ……!」
マキノが慌てるよりも早く、赤ん坊のぷにぷにとした小さな手が、シャルリアの細い人差し指をぎゅっと握りしめた。
その瞬間、シャルリアの顔がみるみるうちに耳まで真っ赤に染まった。
「な、なな、なによこの子……わたくしの指を勝手に握ってきたアマス……! べ、別にこんなぷにぷにの手、可愛いなんてこれっぽっちも思ってないアマスからね!! ……で、でも! マヤお兄様の宮殿にいる以上、子供が栄養不足で泣くなんて絶対に許さないアマス! 今すぐ料理長に言って、最高級の食材で離乳食を作らせるアマスよ! あんたも母親なら、お兄様に恥をかかせないようしっかり栄養を摂るアマス!」
ツンケンした口調とは裏腹に、赤ん坊に握られた指を振り払うこともせず、一生懸命に世話を焼こうとするシャルリア。
その不器用な優しさに、マキノはぽかんと目を瞬かせ、やがて「ふふっ……ありがとうございます、シャルリア様」と花の咲くような笑顔を浮かべた。
「おいおい、相変わらず素直じゃねェな、シャルリア」
「ひゃっ!? マ、マヤお兄様! いつの間にそこにいたアマスか!? 今のはその、お兄様の宮殿の規律を教えてやっていただけアマスよ!」
マヤが苦笑いしながら歩み寄ると、シャルリアは慌てて言い訳をしながらも、嬉しそうにマヤの隣へと並んだ。
さらにそこへ、宮殿の正面ゲートの方から、華やかな三人の女性たちが歩いてくるのが見えた。
定期連絡船でトットランドからやってきた、四皇ビッグ・マムの娘たち――三つ目の美少女プリンと、大人びたドレス姿のガレット、そして長身で大きな帽子を被った女剣士アマンドの三姉妹だった。
「マヤ聖〜っ! 会いたかったですぅ……!」
プリンが頬を染めて駆け寄ってくるが、その途中で出迎えに出てきたナミとロビンの姿を見るなり、ピタリと足を止めた。
マヤの言葉によってコンプレックスを克服し、相手の「心の声(感情のオーラ)」を感じ取る力が磨かれていたプリンは、ナミとロビンから溢れ出ている『特大の幸福感と、深く結ばれた後の色気』を瞬時に察知し、カッと目を見開いた。
「えっ……!? ちょ、ちょっと待ってください! な、なんかナミさんとロビンさんから、マヤ聖と深く結ばれた後の幸せすぎるオーラが見えるんですけどぉぉ!? ずるいですっ、抜け駆けですっ!!」
「なんですって!? ちょっとナミ、ロビン、私たちがトットランドで交易の書類仕事を一生懸命頑張っている間に、本当に先に行ったの!?」
ガレットが目を吊り上げて詰め寄り、長身のアマンドも、タバコの代わりに口に咥えていたキャンディをカリッと噛み砕いて溜息をついた。
「……ふぅ。私もマヤ聖のお眼鏡にかなうよう、あれほど好きだったタバコを完全に断って禁煙したというのに……見事に先を越されたわね」
「ふふっ、ごめんなさいね三姉妹ちゃんたち。でも、まだ『正妻の座』は空いてるみたいだから、せいぜい頑張ることね♪」
「ええ、マヤ聖の愛は海のように深いから、きっと受け止めてくださるわよ」
余裕たっぷりに微笑むナミとロビンに、プリンたちが「キーッ! 次は絶対私たちの番ですからね、マヤ聖!」とマヤの腕に左右からしがみつく。
天竜人の妹に、四皇の娘たち、そして元海賊や海軍の少女たちが、一人の青年を中心に笑い転げている。
赤ん坊を抱いたマキノと、白衣姿のカヤは、そのあまりにも規格外で温かい光景を見つめながら、自分たちが世界で一番優しくて不思議な箱庭に迎え入れられたのだと、改めて胸を撫で下ろしていた。