シャボンディ諸島の穏やかな昼下がり。
海面から湧き上がった七色のシャボン玉が陽光を浴びてキラキラと輝き、宮殿の広大な庭園には色とりどりの花々の甘い香りが漂っていた。
サロンや庭園のあちこちから、ナミやロビン、それにトットランドからやってきたプリンたち三姉妹やシャルリア宮の賑やかな笑い声が響いてくる。
そんな平和な喧騒を背に、マヤは一人、宮殿の正面に広がる白石の前庭へと出て、大きく伸びをしながら澄み切った青空を見上げていた。
「さて、今日もいい天気で平和だな。街のドブの詰まりもねェし……」
マヤが満足そうに呟いた、まさにその瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如として、シャボンディの抜けるような青空に、どこからともなく鉛色の分厚い黒雲が渦を巻いて立ち込めた。
太陽の光が遮られ、周囲が急速に薄暗くなっていく。大気がビリビリと不気味に振動し、庭園の樹々が強い突風に煽られてざわめき始めた。
「な、なに!? 急に天気が……!」
「マヤ聖! 空から、とてつもない覇気と質量が接近しています!」
異変を察知したナミやロビン、そして護衛のたしぎとCP10が庭園から前庭へと飛び出してくる。アマンドも即座に名刀『白魚』の柄に手をかけ、プリンとガレットも顔を引きつらせて空を見上げた。
バキバキッ、ゴォォォォンッ!!
黒雲の中で紫電が閃いた次の瞬間、雲の塊を突き破って、天をも覆うほど長大で巨大な『青龍』が姿を現した。
焔雲(ほむらぐも)を掴みながら空を泳ぐその神話の怪物のような姿に、シャルリア宮が「ひゃあああっ!? りゅ、龍アマスーっ!!」と腰を抜かして悲鳴を上げる。
しかし、その青龍は威厳たっぷりに空を舞っていたかと思うと、途中で「うっぷ……」とでも言いたげに空中で大きく蛇行してバランスを崩し、そのまま宮殿の前庭めがけて真っ逆さまに墜落してきた。
ズシィィィィィンッ!!
大地が激しく揺れ、凄まじい砂煙が舞い上がる。
たしぎが女性陣の前に立ち塞がって砂風を防ぐ中、白煙の中心で青龍の巨体がゴゴッと人型――身長七メートルを超える筋骨隆々の巨漢へと姿を変えた。
頭からは二本の巨大な角が生え、腰には巨大な金棒、片手には「天」と書かれた巨大な瓢箪(ひょうたん)をぶら下げている。
立ち込める砂煙の向こうから、酒の匂いが混じった地響きのようなダミ声が響き渡った。
「うっぷ……お前がよォ〜〜、白ひげの言ってた面白ェ天竜人かァ〜〜?」
千鳥足でフラフラと立ち上がった巨漢が、赤ら顔で目の前の赤髪の青年を見下ろす。
白ひげから「シャボンディに面白い天竜人がいる」という話を聞きつけ、どんな奴なのか自分の目で確かめようと、わざわざ新世界から酒を呷りながら直接飛び込んできた男。
マヤは一歩も後退ることなく、目の前の大男を見上げてぽつりと呟いた。
「……龍が降ってきた」
「ガハハハハ! お前、天竜人のくせに自分でどぶさらいしてんだってなァ!」
「してるぞ?」
「なんでだよォ〜〜!」
「詰まってるからだろ?」
カイドウが世界の強者や黒幕を探るようなつもりで豪快に問いかけたというのに、マヤはいつもの掃除の実務の話しかしていない。
拍子抜けしたカイドウが「ああん?」と眉をひそめた次の瞬間、空からの急降下と深酒が祟ったのか、カイドウの巨体が「うっ……おえっぷ……」と大きく前かがみに揺れ、口元を押さえてえずき始めた。
その様子を見たマヤの顔から、スッと温厚な表情が消えた。
マヤは眉間に深いシワを寄せ、冷ややかな声で言い放った。
「おい、吐くなよ? せっかく朝から綺麗にしてるんだからな」
「……うっぷ、あァ?」
「吐いたらお前も掃除手伝わすぞ」
後ろで構えていたたしぎやCP10、そしてプリンたちが「「「えっ!?」」」と一斉に目を剥いた。
世界政府と白ひげの間を取り持ち、エースの処刑を止め、魚人島を保護し、四皇の勢力図まで変えてしまった男が、空から乱入してきた怪物に放った脅し文句が『吐いたら掃除の手伝い』だったのである。
これには流石のカイドウも青筋を浮かべ、瓢箪を握りしめて怒鳴り声を上げた。
「おれを誰だと思ってやがる!」
「だから、誰だよ。人の家に来たならまず名を名乗れって」
「カイドウだァ!!」
「カイドウ? ……知らんな。で、何しに来たんだ?」
「四皇のカイドウだぞォ〜〜!」
「四皇なのはわかったから、吐くなよ?」
マヤの中では、相手の肩書きの認識と、目の前の人間への対応が完全に別々だった。
マヤは決してカイドウを侮辱しようとしているわけではない。天竜人として生まれ育ち、ただ街の暮らしと目の前の人間だけを見て生きてきたマヤにとって、新世界で四皇がどこで何をしているかなど、普段の生活に必要なければ知らないだけなのだ。
四皇だろうが天竜人だろうが、ここに来たならまず名乗る。酔っているなら吐かない。汚したなら掃除する。マヤにとっては、ただそれだけの当たり前のルールだった。
自分という存在が全く通じていない事実に、カイドウは目を白黒させて声を荒らげた。
「お前なめてるだろ!! 俺はカイドウだぞ!!」
「わかったわかった。街道整理に回してやるから、あとで手配するよ」
「……は?」
カイドウの動きがピタリと止まった。
「俺はあまりそっちはやらないけどな。わざわざここまで飛んできたってことは、職がほしいんだろ? なんとかしてやるからよ」
「え? 職?」
「龍の姿で空を飛び回れるんだろ? 街道の整備とか、山道の障害物の撤去とか、めちゃくちゃ役に立ちそうじゃねぇか」
「おれは四皇だぞォ!!」
「四皇でも仕事はできるだろ?」
「そういう話じゃねぇ!!」
「じゃあ、何の話だよ?」
「……お前、ほんとに天竜人か?」
「そうだぞ?」
カイドウが人生を懸けて築き上げてきた恐怖と威圧感が、マヤの頭の中では完全に「ハローワークの職業紹介」へと変換されていく。
たまらずカイドウは胸を張り、自分の最大の代名詞を叫んだ。
「おれは『世界最強の生物』だぞ!!」
「それなら仕事も早そうだな。お前、部下もいっぱいいるんだろ? 仲間呼んでそこらへんの街道整理してろよ」
カイドウ本人だけでなく、百獣海賊団までまとめて土木作業の労働力として計上された瞬間、世界最強の生物はついに頭を抱えて天を仰ぎ、泣きを入れるような声を上げた。
「お前本気なのそれ!? 頭天竜人すぎてない!? 俺のこと知らないのかよ〜〜〜!」
「たいがい、俺のとこに突然くるやつはよ、何か職探しとか、船の修理手伝いとかのやつが多くてよ。どぶさらいはメインが俺だしな、お前だと身体がでかすぎて、逆に水路に詰まるからな。適材適所ってやつだよ」
「お前、天竜人だよね? なにしてんの?」
「だから、職で困ってるんだろ? 四皇も大変なんだろ? そういうのよく知らないけどよ、海賊はみんな何かしら生活に困ってるんだろ? 最近も、餓死寸前なやつの面倒見させられるし。しかもこっちは20回くらいいきなり殴られてる相手にだぞ」
マヤがやれやれと肩をすくめてぼやくと、カイドウはすっかり毒気を抜かれたように目を瞬かせた。
「え? 自分を殴った相手を救ったの? お前、大丈夫なの? 色々……」
「え? メンツとかそういうの? そんなのは知らんよ、俺の大事なやつの元の仲間だったからな、仕方なくだな。そういう時は黙ってやられるしかない」
「お前それ、頭天竜人すぎだろ……。なんかお前怖いな色々、こっちが納得しそうになったわ!」
「何が? 職だろ?」
「いや、そうじゃなくてよ……お前、なんなの?」
カイドウが「お前の思想や生き方は一体何なんだ」という意味で尋ねると、マヤは「あ!」とポンと手を打った。
「あ、なるほど、俺はマヤだ。そうだったな、自分の名前を名乗ってなかったな」
「え? そこじゃなくない? ……マヤか。まーなんだ、よろしくな。……なんかお前と話してたら、すっかり酔いが醒めて冷静になってきたわ……。どうしよう……」
あれほど猛り狂っていた酔いが完全に吹き飛び、カイドウは前庭の石畳の上にドカッと胡座をかいて座り込んでしまった。
いつの間にかマヤのペースに完全に引き込まれていたカイドウは、ふと遠い目をして、瓢箪の栓を閉めながらぽつりと呟いた。
「……そうだ、な。俺にも息子がいるんだがよ……お前と話してると、なんかあいつと似てるんだよな。無鉄砲でよ……」
「え? 俺は無鉄砲ではないだろ?」
「お前、無自覚なの? 本当に頭天竜人なんだな……。……あー、すまね、息子じゃなくて、本当は娘なんだ。なんだ、凄いお転婆でな……」
カイドウがバツが悪そうに頭を掻く。
ヤマトが自分を「光月おでん」と名乗り、男として生きようとしていることも、親子の長年の確執も、マヤは何一つ知らない。
だからこそ、マヤはそれを責めるでもなく、至って自然に頷いた。
「謝ることじゃないだろ? 自分のことを僕とか俺って言う、いわゆる『僕っ子』ってことだろ。変わった親父だなお前、でも、大事にしてるんだろ? 母親がいないとお前も俺もこの世にいない、命を繋いでくれたってのはそういうことだ」
「お前、その、なんかすごいな……。『そうだな』って、また納得しそうになったわ! あぶないぞおまえ!」
「え? 危ないのはカイドウだろ。空からいきなり降ってきて、人の家の前で吐きそうになって、結局は娘の相談だろ? ……立ち話もなんだし、少し場所変えて聞いてやろうか? 可愛い娘なんだろ? 何歳だ?」
「…………」
カイドウは言葉を失い、呆然とマヤの顔を見つめた。
白ひげから聞いた「面白い天竜人」を見に来たはずが、なぜか今、娘の年齢を聞かれている。
「……お前、本当に俺が誰だかわかってねぇんだな?」
「カイドウだろ? で、娘は何歳だ?」
「……二十八だ……」
カイドウが観念したようにボソリと答えた瞬間、マヤの表情が「パァッ」と明るく輝き、すべてを理解したような顔で大きく頷いた。
「え? 二十八? 年? ……あ〜、なるほどな……。よし、少し移動しようか。全部察したぞ、俺にまかせておけ」
「お前、何か盛大に勘違いしてないか!?」
数分後。
宮殿の一階にある、巨大な柱と高い天井を備えたオープンテラスの応接席へと案内されたカイドウは、特注の巨大なソファにちょこんと座らされていた。
その向かいにはマヤが座り、マヤの背後にはナミ、ロビン、レイジュ、たしぎ、プリンたち三姉妹、そしてCP10がズラリと控えている。
マヤは腕を組み、自信満々の『どや顔』でカイドウに頷きかけた。
「そういう相談はな、俺も嫌いじゃないぞ。『婚期』だろ?」
「はァ!?」
「二十八歳で、僕っ子としてその生き様を貫いてるんだろ? 自分の心があっていいじゃないか。俺が二十五だから、俺より三個上か。姉さん女房だな。ふむ〜、でも俺には今、ナミとかロビンもいるからな、なかなか難しいな」
カイドウは目を白黒させて、自分の娘の事情から突然マヤの恋愛事情へと飛躍した話にツッコミを入れた。
「お前、ヤマトの何を知ってるんだよ……!」
「いや、今お前から聞いたところだぞ?」
「聞いたばかりで何を勝手に納得してんだ!! だから、そういう話じゃねぇんだよ!」
しかし、マヤはカイドウの否定などどこ吹く風で、さらに深いどや顔を浮かべて身を乗り出した。
「つまりだ、わざわざ父親のお前が直談判に来たってことは、俺の元に嫁がせたいのか? 天竜人に四皇海賊の娘か、うーん、俺個人としては悪くないと思うけどね、こればっかりは聖地(うえ)に少し相談って感じだな」
「お前、本当になに!? しかも上に相談って……白ひげが言ってた『おもしろ天竜人』ってこういうことか!」
カイドウが頭を抱える後ろで、ずっと黙って聞いていた黒服の男――CP10のサングラスが、ガタガタと激しく震えていた。
(ま、待て待て待て!! カイドウの娘で、二十八歳で、自分を男だと思ってる『ヤマト』って……俺が前にマヤ聖に相談した、ワノ国のヤマトじゃねぇか!! マヤ聖、あいつを『おでん屋台を開業したい男』だと勘違いしたまま、今度は別人として『俺の姉さん女房候補』として縁談まとめようとしてるぞ!! なんてカオスなすれ違いだ……!!)
CP10が心の中で絶叫し、ナミやロビンたちも「ちょっと、いつの間にかお見合いの話になってるわよ……」と呆気に取られる中、マヤは真剣な眼差しでカイドウを諭した。
「二十八歳で婚期を逃した僕っ子だ。そりゃ親としては、ちゃんとした良いとこに嫁がせたい気持ちもわかるし、心配で島に監視して傍に置いておきたい気持ちもわかる。……でもな、カイドウ。そのヤマトちゃんだっけ? その子の『意志』も尊重してやらないとだな」
マヤは鬼ヶ島の詳細など知らない。だが、親が子を心配する気持ちと、子の人生を親が縛り付けてしまうことは別だという、彼なりの真っ直ぐな正論だった。
「……そうか、意志か。そこはな、うまくなんというかさ、娘の扱いが難しくてな、つい腕っぷしで抑え込んできたからよ……って!? え!? 俺、なに言ってんの!?」
カイドウはハッとして自分の口を両手で塞いだ。
気づけば、世界最強の生物が、初対面の天竜人を相手にガチの育児相談を始めていたのである。
「……お前、やっぱり怖ぇな! お前とヤマトを会わせたら怖いよ、なんか妙に意気投合しそうで、まじで縁談になっちまうじゃねーか! お前、頭天竜人すぎるんだよ!」
「そうか、なら俺から会いに行ってやろうか? お前、どこに住んでるの? 四皇だもんな、娘の嫁ぎ先探すのも大変だと思うよ。白ひげの知り合いなら俺の知り合いだし、行ってもいいぞ。うちの船でカームベルト通っていけばすぐだし、大丈夫じゃないかな? お前の背中に乗って空から落ちるのは嫌だしな」
「お前なに言ってんの!? 俺の縄張りに来る気なの!? しかもカームベルトを近所の川みたいに簡単に使うなよ!」
「いや、うちの船なら普通に使えるし。それとよ、俺、最近も別の縁談がきたばかりで、色々あるんだよ」
「お前、それでうちのヤマトもとか言ってんの!? 頭天竜人すぎだろ!」
「いや、それはお前がここに持ち込んだことだろ? 相談ってやつさ。だから、まずは本人と会ってみないとな? ってな?」
マヤが再び完璧などや顔を決めると、カイドウは「いやいや待てって、え? え? お前本気で言ってんの? お前に飲まれそうになるよ!?」と本気でタジタジになって背もたれにのけぞった。
そこで、マヤはふと表情を引き締め、目の前の巨漢をじっと観察するように見つめた。
「……しかし、お前、酒が抜けてからと、さっき酒飲んでた状態とで態度が変わりすぎじゃね? あれか、絡み酒か? あまりよくないから禁酒しろとまでは言わないがよ、酒に飲まれるなよ?」
「……あァ?」
「酒は毒にも薬にもなるからな。酒で身を滅ぼすなんてのは世の中に多いんだわ。それって、男として情けなくね? 自分の死に方に関係なく、酒のせいで死ぬってクッソダサいだろ? だから、そういうもので心を乱さずに、現実と向き合うことも大事なんじゃねーかな?」
(すげーな……。あの四皇カイドウに向かって、真正面から『酒を控えろ、クッソダサいぞ』って説教してやがる……)
CP10が畏敬の念すら込めて冷や汗を流す中、カイドウは図星を突かれたように顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「お前に何がわかるよ……。俺は、生まれつき強すぎてよ、まともにやり合える相手がいないんだ。かつてのあいつとの決着も、邪魔が入ってつかないまま終わってしまったしな……。だから酒でも飲んでなきゃやってられねェ……って、お前またかよ!! なんなの!?」
「あのよ……『なんなの』って言われても、もう俺たちは知り合いだろ? 知り合いが酒で身をおかしくするのは嫌だろ? ……それになんだ、今のそのしょうもない理由はよ? 『強すぎて相手がいない』……? お前、頭大丈夫か?」
マヤの声が、スッと低く、鋭くなった。
「よく考えてもみろ? 自分は強すぎるって言いながら、たった一人の娘の扱いに困ってここまで相談に来てるんだろ?」
「っ……!」
「当たり前だ、馬鹿者!! 毎日酒飲んで暴れて絡んでるような親の背中を見て育ってるんだろ? 娘がねじ曲がるのも当たり前だろうが! 腕っぷしが強いからって、子育ては別だろ? ……お前は弱いよ。くっそ雑魚だ!」
テラスの空気が、ピシッと凍りついた。
「くっそ雑魚」。その言葉に、カイドウの全身からバチバチッと黒き稲妻のような怒りの覇気が噴き出し、ソファがミシミシと悲鳴を上げた。
「なんだと……! 雑魚じゃねー、俺は世界最強だろうが!! 確かに娘の扱いには悩んでるが、だからって俺が雑魚にはならないだろうが!」
だが、マヤはその覇気のプレッシャーをそよ風のように受け流し、カイドウの怒声に真っ向から被せるように言い放った。
「お前がカイドウだろ? もうそれは何回も聞いたよ。雑魚だろ? 『暴力が強いこと』と『娘に向き合うこと』は別だろ、と言ってるだろうが! それすらわからないのが、酒で頭やられてる証拠だろうが。どれだけ戦闘で強くても、娘の心に向き合う強さは別だと俺は言ってる。子育てにおいてはお前は雑魚だろ?」
一分の隙もない、魂の根底を殴りつけるようなマヤの言葉。
後ろで聞いていたナミ、ロビン、マキノ、レイジュ、たしぎ、プリンたちの瞳が、一斉に熱く潤んだ。
(すごいわ……。世界最強の怪物を前にして、一歩も引かずに『子供と向き合う強さ』を説くなんて……)
(あんな人と授かる子供は、世界で一番幸せになれるわね……。いいかも……)
女性陣がうっとりと頬を染める前で、カイドウの全身から、嘘のようにスッと怒りの覇気が消えていった。
これまで何十年も、誰一人として自分を「一人の不器用な父親」として叱ってくれた者などいなかった。
「……でもよ……娘ってのは、難しいじゃねーか……。……って、くそ、また俺が納得してるって……まあ、そうかもな……」
カイドウがしゅんと肩を落として呟くと、マヤはさらに優しい、しかし力強い声で畳みかけた。
「『でも』も『だって』もないんだよ。子供に向き合うってのはそういうことなんだ。……いいか、お前よ、娘を一人残して死ぬとか、そんなアホなこと優先するなよ? 戦いで死にたい、華々しい戦場で死にたい、大いに結構。でもそれはな、何も背負ってない、娘などがいない奴が勝手にやることだろうが!」
マヤはカイドウの胸元をビシッと指差した。
「お前には、お前を頼って食い扶持を探してる大勢の部下もいるんだろ? それに、可愛い僕っ子の娘もいるわけだよ。それらを全部放り出して、死に向かってガンギマってるって……よっぽど深い事情があったのかと思いきや、『昔の相手と再戦できない、最強でつらい』って、理由がしょうもなさすぎだろうが?」
「……そこまで言うか? 結構、胸にグサグサ刺さるんだぞ……」
「言うね? 当たり前だろ? 死にたがりの友を止めるためだろ? それに、いずれ娘をもらうわけだしよ? お前は俺の義父になるんだろ? ま〜、本当に娘をもらうかは本人と会ってみて、二人次第ってことだけどよ。まずは親として、娘の幸せも一番に考えてみろよ?」
(((なんかもう、娘をもらうのが確定事項になってるけど……マヤ聖、もう大概じゃ……)))
CP10や女性陣が揃って心の中でツッコミを入れて絶句する中、ロビンだけは口元に手を当てて、(ふふ、あの人、目の前の人を救うことしか頭にないと、ああやって暴走しちゃうんだもの……本当にかわいいわね)と愛おしそうに目を細めていた。
一方、勝手に「義父」呼ばわりされたカイドウは、ガバッと身を乗り出して吠えた。
「お前! え? もうヤマトをもらう気なの!? お前の勝手な妄想だろうが! お前なんかに娘はやらねーよ!! 死にたがりってなんだよ……義父ってよ……!」
カイドウが顔を真っ赤にして「娘はやらねーよ!」と叫んだ、その瞬間だった。
マヤの口元が、ニヤリ、と悪戯っぽく吊り上がった。
「……おい、カイドウ。お前、なんで今『娘はやらねー』ってムキになったの?」
「……あっ?」
「お前、本気で死ぬ気があるんだろ? なら、自分が死んだ後に娘が誰のものになろうが、どうでもいいはずじゃねェか? ……それなのに嫌がるってことは、娘がいらないわけじゃないってことだろ? 『娘を一人残して死にたくない』って、今自分で気づいたわけだよ。……な?」
「…………っ!!」
カイドウの巨大な瞳が、雷に打たれたように大きく見開かれた。
最初から、マヤが「娘をもらう」「義父になる」と大袈裟にふっかけていたのは、死に場所を探して自暴自棄になっていたカイドウの心の奥底から、『父親として娘を想う生への執着』を引き出すための誘導だったのである。
カイドウはしばらく口をパクパクさせていたが、やがて背筋を震わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「……お前、本当に怖ェーーーよ!! なんなのお前……! お前に今日ここで会わなければ、俺はこんなこと考えもしないで、ただ破滅に向かって突っ走ってたかもな……」
「そうだな。だから、ここでは酒は出さねェ。いいな? 本当は酒でも酌み交わしてと思ったがよ。まー、まずはそのヤマトちゃんと? 会う感じで、お前も交えて親子で話聞いてやるよ。な?」
「そうだな、それもな……って、だからお前とヤマト会わすのは危険すぎるんだよ!!」
「まー、そのうち行くからよ。今日は、ここで飯でも一緒に食おうや? そうだな、肉とサラダ。栄養バランスよくな?」
マヤが立ち上がって食堂へ誘うと、カイドウは子供のように露骨に嫌そうな顔をした。
「俺は、野菜(サラダ)はよ……」
「かぁ〜! リンリンは甘いもんばかりで大変だったが、お前は酒飲みなのにサラダが嫌って、どこの気難しい食通だよ! 食える時にちゃんと野菜も食っとけ!」
「本当お前……怖ェ……よ……。そうだな、なんか食おうな。……って、おい、今『リンリン』っつったか!? シャーロット・リンリンのことか!?」
カイドウが驚いて後ろに並ぶプリンたち三姉妹に気づくと、マヤは「あー」と頭を掻いた。
「まぁ〜な、色々あるんだよ。俺もつい最近、ナミとロビンと婚約したばかりで、他にもその候補が多いし。全員、いずれ平等に幸せにできればなって思ってるよ」
「え? え? お前、どんだけ性豪なんだよ! そんなハーレム野郎に、うちのヤマトはますますあげれんぞ!」
「おいおい、お前そっちに直結しすぎだろ? 男女の愛はそこも大事だが、それがない愛――家族としての絆や、ただ隣にいて笑い合う愛もあるんだよ。お前の生きてきた暴力の世界では、それがわからなかったんだろ。リンリンとまったく同じだな。……『四皇』っていうのはよ、頂点に立ってるようで、意外と寂しい存在なのかもな……」
マヤが静かに、しかし深い慈愛を込めて呟いたその言葉に、カイドウは完全に毒気を抜かれ、小さく息を吐き出した。
「……お前……本当、すげーよ……」
カイドウのしみじみとした呟きに、後ろにいたマヤ陣営の全員が、誇らしげに深く頷いたのだった。
その後、一行は宮殿の大食堂へと場所を移し、長いテーブルを囲んでの遅めの昼食会が始まった。
テーブルの上には、厨房が腕によりをかけて焼き上げた山盛りの骨付き肉と、マヤ特製の柑橘ドレッシングがたっぷりかかった色鮮やかな大皿の野菜サラダ、そしてカイドウの目の前には、酒の代わりに巨大なジョッキに入った冷たい麦茶が置かれていた。
「ほら、カイドウさん、お肉ばかりじゃなくて、このサラダも食べなさいアマス! マヤお兄様が作ったドレッシングは絶品アマスよ!」
「ふふ、うちのママもこのドレッシングのおかげで、毎日機嫌よくお野菜を食べてるんですからね」
「ほら、赤ちゃんも離乳食を上手に食べてるわよ〜。カイドウさんも、はい、あーん♪」
シャルリア宮やプリン、さらにはナミやマキノたちにまで囲まれ、首に大きな白いナプキンを巻かれた四皇カイドウは、されるがままにフォークでサラダを口へと運んだ。
「……ん? なんだこのドレッシング、さっぱりしてて、脂っこい肉にめちゃくちゃ合うじゃねーか……! むしゃむしゃ……!」
最初は渋っていたカイドウだったが、気づけば肉とサラダを交互にモリモリと平らげ、麦茶を豪快に飲み干していた。
誰一人として自分を恐れず、ただ「少し手のかかる大きな親戚のおじさん」のように和気あいあいと世話を焼いてくる温かい食卓。
そんな穏やかな食事の最中、隣でステーキを切り分けていたマヤが、ふと自然なトーンでカイドウに話しかけた。
「カイドウよ。お前の過去に何があったかは興味がないし、無理に聞くことじゃない。きっちりお前が話をしたくなったらすればいい。……でも、こうして一緒に飯を食ってみてわかったわ。お前、意外と『臆病』なんだな?」
フォークを止めたカイドウが、心外そうに眉を吊り上げた。
「臆病だと!? 俺のどこがだよ!」
「辛い時代に生きて、昔の仲間と笑い合って食事はしたかもしれない。でもな……酷い言い方だけどよ、海賊の中での食事、お前が昔仲間と群れてた時代――ロジャーの時代だろ? そんな時代、こんな風に誰にも警戒せず、穏やかに食事なんてできなかったろ? ってことだよ」
マヤはグラスの水を一口飲み、静かに続けた。
「そこに酒を飲んで、ふんぞり返って、『俺がツエー、あいつがツエー』。ずっとそこばかり見てたんだろ? シラフになると、昔の虚しさや失ったものを思い出す。だから酒に逃げる……そこが臆病だってことだよ。……俺はよ、そのロジャーが生きてた時代に生まれてよ。ロジャーがあんなこと言って死んだおかげで、二十年間、血のどぶさらいの日々だったよ……」
「ロジャーのおかげで……血のどぶさらい?」
「お前たち海賊は、誰が強いだなんだで盛り上がってよかったかもな? でもな、あいつが『大海賊時代』なんて作ったおかげで、世界中で被害が出た村、略奪、女や子供への酷い行いが溢れ返った。人を人とも思わない連中が、ただ自分の名声を上げるために人を殺す……狂ってるってことだよ。お前らの海賊目線なら、力はすべてで正しいのかもだけどな」
マヤの赤い瞳が、静かにカイドウを見据える。
「俺は、ずっとここでどぶさらいをしてるのは話したよな? そしてそれをさっき、お前は馬鹿にして笑ってきたよな? それは海賊目線では、さぞ滑稽に見えただろうよ?」
「……そうだな。酔っ払ってたとはいえ、世界の頂点にいる天竜人が泥さらいなんてしてるのは、おかしいって思ってるしな」
「俺が、何年これやってるかわかるか?」
「……気まぐれだろ? どう見ても、綺麗なドブだしよ?」
カイドウが何気なくそう言った瞬間。
食堂にいたマヤ陣営の全員が、ピタリと動きを止め、ゴクリと固唾を呑んだ。
二十年前、毎日死体と血の川が流れていたシャボンディの暗黒期。それを五歳の頃からたった一人で洗い流し続け、今の「綺麗な街」へと変えたマヤの狂気にも似た歳月を、彼らは知っているからだ。
テーブルの端で、CP10がロビンとレイジュに聞こえるよう、極限まで声を潜めて耳打ちした。
(おい……マヤ聖がマジモードだ……。これ、止めるべきか?)
(確かに……マヤ聖がああなったら、結果的にはいい方向へ転ぶことが多いですが……相手のカイドウさんは、その……ね)
(ええ、あの人の二十年間の『強さの秘密』を教えるようなものね。もしそれを知ったら、戦闘狂のカイドウのことだから、今すぐここで戦えとか言い出しそうね……)
(ならなおさら、止めた方がいいんじゃ……!?)
(大丈夫よ、マヤ聖に任せましょう。……ふふ、それにしてもCP10、最近は場の空気や政治的な流れを色々読めるようになったのね)
(……まあ、昔は俺も、ルフィたちみたいな無鉄砲な海賊でしたし……マヤ聖からああやって海賊の裏側の話をされると、自分の過去を省みて想うことはありますからね)
三人が固唾を呑んで見守る中――マヤは怒りを爆発させるどころか、ふっと穏やかに目元を緩めて微笑んだ。
「……そうだな、綺麗なドブだ。お前の目にそう見えてくれて、嬉しい限りさ」
マヤは自分の苦労をひけらかすことなく、そう言って静かに矛を収めた。
「ま、そこはそう思ってくれてるんなら、それでいいさ。今はこうして、温かい飯を『友』と食ってるんだ。誰がツエーとかの殺伐とした話じゃなくてよ、そんなくだらない日常の話でもいいんじゃねーか? 街の民の話とかでもよ。お前たちはいつも、次はどこを襲うとか、どこを潰すとか、物騒な話ばかりしながら飯を食ってたんだろ?」
そのあまりにも大きく、底知れない器の深さに、カイドウは参ったとばかりに苦笑いを漏らした。
「……うまくはぐらかしたな。血のどぶってなんだよ……。だが、確かに昔の海賊時代はそういう物騒な話ばかりだったし、最近も……商売や軍備が、色々とうまくいってなかったしな」
カイドウがぽつりと漏らした「最近うまくいっていない」という愚痴。
それは実は、マヤが海軍本部を一枚岩にしてフル稼働させた結果、パンクハザードのシーザー・クラウンとドレスローザのドフラミンゴが早期に拿捕され、カイドウの元へ届くはずだった人造悪魔の実(SMILE)や武器の供給が完全にストップしていたから――つまり、間接的に目の前のマヤが引き起こしたバタフライエフェクトだったのだが、当のマヤ本人はそんなこととは露知らず、純粋に同情したように頷いた。
「そこ食いつくかい? そうだな、俺の昔話は、今度ヤマトちゃんをお披露目してもらった時にでも話してやるよ。……そうか、最近仕事がうまくいかなくなってて、それでやけ酒を飲んでここまで飛んできたってことか。なら、今日くらいはよ、全部忘れて楽しい話をしような?」
「だから……ヤマトとお前を会わせるのは本当に危険だから! 嫌だよ! まー、ここで楽しい話をするのはいいけどよ……」
「お前に仕事で会いに行くんじゃないさ。今度は俺から、お前のとこに……そうだ、『友に会いに行く』ってことでいいだろ? 何かお前の国のうまいもん、俺にも食わせろよ?」
一点の曇りもなく、心からの笑顔でそう語りかける赤髪の青年。
カイドウはしばらくの間、呆然とマヤの顔を見つめていたが、やがて大きく息を吐き出すと、憑き物が落ちたような、どこか晴れやかで清々しい笑みを浮かべた。
「……わかったよ。……本当、お前すげーって……完敗だわ」
それから一時間ほど、カイドウは酒を一滴も飲まないまま、マヤや女性陣たちと他愛のない笑い話を交わしながらお腹いっぱいに肉とサラダを平らげた。
食事を終え、前庭へと出たカイドウは、空っぽになった酒の瓢箪を腰に下げたまま、かつてないほどスッキリとした軽い足取りで青空を見上げた。
大暴れするどころか、胸の奥にずっと澱のように溜まっていた「死に場所探し」の焦燥感が消え、代わりに「帰って不器用な娘とちゃんと向き合ってみるか」という不思議な活力が湧いてきている。
「じゃあな、マヤ。美味い飯だったぜ。……ワノ国で、うまいもん用意して待ってるぞ」
「おう! 途中で吐くなよ、カイドウ! またな!」
マヤと宮殿の仲間たちに見送られながら、カイドウは再び巨大な青龍へと姿を変えると、今度は少しもふらつくことなく、力強く澄み切った空へと舞い上がり、新世界の空の彼方へと気持ちよく帰っていったのだった。