今から三十八年前、西の海(ウエストブルー)に存在した『ゴッドバレー』という島が地図から消滅した。
世間や海軍の歴史において、それは天竜人たちが下界の民を獲物として弄んだ悪逆非道の事件として語り継がれている。だが、その歪んだ歴史の裏には、八百年の孤独に怯える世界の王・イムの冷徹な計算があった。下界に渦巻く不満や憎しみの矛先を、すべて「愚かで傲慢な天竜人」という分かりやすい悪役(サンドバッグ)へと向けさせることで、世界全体の均衡を保つという箱庭のシステムである。
そんな欺瞞に満ちた聖地マリージョアの片隅で、今から二十六年前――一つの小さな命が、ひっそりと産声を上げた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
天竜人『シンキ(神鬼)家』の静かな屋敷の奥の間。
生まれたばかりの赤子を抱き上げた母親――『マンマイヤー家』から嫁いできた、左右で瞳の色が異なる双極の瞳(オッドアイ)を持つ美しい女性が、汗ばんだ額のまま愛おしそうに微笑んだ。
その隣から、燃えるような赤髪を持つ父親――シンキ家の男が、優しく赤子の顔を覗き込む。
「君に似て、優しい顔をしているね」
「そうかしら? 貴方の赤髪にも合ってるわよ? ……そして、私のオッドアイではない、真っ赤な赤い両目……。この子に幸があらんことを祈るしかないわ。この子は、私たち天竜人の未来を変えるかもしれない」
赤子がゆっくりと瞼を開けると、そこには母親の片目だけにあった赤色ではなく、澄み切ったルビーのように輝く『真っ赤な両目』があった。
父親は赤子の小さな指をそっと握り、穏やかに頷いた。
「そうだな。でも、君の優しさに似るさ。他の天竜人とは違ってね、僕たちの子供だ。未来で必ずそれは紡がれる」
「シンキの姓に、私のマンマイヤー(MANMAYER)から……『マヤ(MAYA)』なんてどうかしら?」
「シンキ・マヤ聖! うん、いいと思う!! お前はマヤだ!! 我が息子、マヤよ!」
「ふふ、大袈裟ですよ。でも、愛しい我が子……ここでひっそりと暮らせたらいいのですけど」
「今の世も、一部の天竜人はおかしい奴ばかりだけど。この子は、そうはならないさ。なんせ――」
「『私たちの子』? でしょ?」
父親と母親は顔を見合わせ、幸せそうに笑い合った。
しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
二年後の二十四年前。ゴール・D・ロジャー率いるロジャー海賊団が最後の島『ラフテル』へと到達して「海賊王」と呼ばれ、その直後にロジャー自身が海軍へ自首し、公開処刑が発表されたのである。
ロジャーの処刑を前に、新世界の「白ひげ」エドワード・ニューゲート、「金獅子」のシキ、シャーロット・リンリン、カイドウといった旧ロックス海賊団の怪物たちがそれぞれの思惑で不穏に動き出し、世界政府とマリージョアの警戒態勢も極限まで引き上げられた。
そんな中、シンキ家とマンマイヤー家の血が完全に交わって生まれた『赤髪・赤目』の幼児――イムが最も恐れる完全覚醒の兆候を持ったマヤの存在が、聖地の上層部に察知されそうになったのだ。
嵐の夜、二歳になったばかりで眠るマヤの揺り籠の前で、両親は深い覚悟を決めてその小さな額に口づけを落とした。
「すまない、マヤ。君を安全に育てるには、僕たちはいなくならねばいけない事情ができた……。いつか、いつか天の世界でもお前を想うよ。すまない……」
その夜を境に、両親はマヤの記録を「シンキ家の嫡男」としてだけ残し、聖地の目を逸らすための囮となって自ら行方をくらました。
周囲の天竜人たちは「マンマイヤー家の女とシンキ家の男が二人で消えた」とだけ認識し、まさかその二人の間に完全体の子供が生まれていたとは夢にも思わなかった。
こうしてマヤは、自分の両親の顔も、自分が何の血を引いているのかも全く知らぬまま、屋敷の老メイドと二人きりで暮らすことになった。
それでも四歳になるまでのマヤは、両親が祈った通り、驚くほど優しい子供に育っていた。
当時のシャボンディ諸島はまだ平和で、幼いマヤはこっそり下界の街へと降りては、首輪をつけられて徘徊する奴隷たちの姿に「なんで同じ人間なのにあんなことをするんだろう?」と胸を痛め、街で働く普通の民の暮らしを静かに見て回る、少し変わった天竜人の子供として日々を過ごしていた。
だが、マヤが五歳になった年。
東の海のローグタウンの処刑台の上で、海賊王ゴール・D・ロジャーが死の間際に放った一言が、世界のすべてを狂わせた。
『おれの財宝か? 欲しけりゃくれてやる、探してみろ! この世の全てをそこに置いてきた!』
――この世はまさに、大海賊時代!!
世界中の海賊やならず者たちが、その言葉に歓喜の雄叫びを上げて海へと飛び出した。
海賊に憧れていた者たちは目を輝かせ、それを「ロマン」や「冒険の始まり」と呼んで浮かれている。
だが――偉大なる航路(グランドライン)の前半の終着点であり、『新世界への唯一の入り口』であったシャボンディ諸島は、まったく違った。
ロジャーの言葉に煽られた世界中の凶悪な海賊たちが、新世界へ入るためのコーティングを求めてシャボンディ諸島へと一斉になだれ込んできたのだ。
白ひげやリンリン、カイドウ、シキといった大海賊たちの縄張り争いの余波に加え、一攫千金と名声を狙う血に飢えた上澄み海賊たちが街中で殺し合い、略奪し、火を放ち、力のない住民や負けた海賊を捕らえては人間オークションへと売り飛ばしていく。
海軍の駐屯などあってないような完全な無法地帯。昨日までマヤが微笑みながら眺めていた美しいシャボン玉の街は、一夜にして死体と汚物が浮かぶ『血のどぶ』へと変貌した。
燃え上がる街の片隅で、海賊に斬り殺された住民たちの亡骸を前に、五歳のマヤは小さな膝を泥につけて血の涙を流しながら叫んだ。
「何が海賊王だ……そんなものは認めない! ロジャー……お前が、お前が曖昧にするから、シャボンディ諸島が、民が、俺の大事な場所が狂っただろうが!!」
それが、五歳のマヤの魂の慟哭だった。
他の天竜人たちは、下界の海賊たちの凶暴さに怯え、聖地マリージョアの安全な箱庭へと完全に引きこもった。
しかし、マヤだけは逃げなかった。いや、無法地帯と化したシャボンディでは、自分が「天竜人(シンキ・マヤ聖)」だとバレれば、狂った海賊たちに人質にされるかその場で八つ裂きにされるだけだった。
六歳になったマヤは、天竜人の肩書きと綺麗な服を捨て、ボロボロの布を纏って泥の中を這いずり回った。
大人の海賊とまともに戦えば死ぬ。だからマヤは、徹底して「戦わずに逃げる」ことを選んだ。海賊たちの殺気から逃げ惑いながらも、夜の路地裏で放置された遺体を自分の小さな手で弔い、鎖に繋がれた奴隷の鍵を壊して逃がし、飢えて泣いている子供がいれば自分の食べ物を分け与えた。
「民が無駄に殺され、海賊が殺し合ってやがる……。なんでこんなことになってるんだ。天竜人は上に引きこもってやがるし、これが生きる場所の違いなのか!? 民なくして、俺たちの生活はできないのに!」
ある日、暴動の視察と鎮圧にやってきた当時の海軍本部元帥コングや、大将だったセンゴクが、路地裏で泥まみれになって倒れた民を介抱しているマヤの姿を見つけ、目を丸くして声をかけた。
「おい少年、こんな危険なところで一人、何をしている?」
「……っ!」
マヤは答えず、野良犬のように鋭い目でコングたちを警戒すると、風のように路地裏の闇へと逃げ去った。
誰も信じられない極限のサバイバルの中で、相手の足音、呼吸、殺気、そして街のどこで誰が泣いているかを瞬時に察知するマヤの『見聞色の覇気』は、戦うためではなく「生き延びて人を救うため」に異常な精度で開花していった。
――奇しくも同じ頃、西の海では八歳になった少女・ニコ・ロビンが、バスターコールによって故郷オハラと母を失い、世界中の大人に裏切られながら孤独に逃げ惑う日々を送っていた。
やがてマヤが七歳になる頃。
東の海ではモンキー・D・ルフィという赤ん坊が生まれ、四歳のエースがゴア王国の山賊ダダンの元で暴れ回り、ココヤシ村では戦災孤児だった二歳のナミが、養母ベルメールの温かい腕の中で無邪気に笑っていた時代。
シャボンディ諸島では、実力のある上澄み海賊たちが新世界へと抜けた代わりに、新世界の怪物たちに敗れ去り、夢破れて逆上した凶悪な海賊たちが逆流して溢れかえっていた。
彼らは自分たちの挫折の八つ当たりとして、シャボンディの罪のない民を襲い、店を壊して回った。
逃げ遅れた少女の前に立ち塞がった七歳のマヤは、迫り来る海賊たちの群れを真っ赤な両目で睨みつけ、腹の底から吠えた。
「なんでこんなことになる!? 自分たちが夢破れたからって、ここで民に悪さする必要はないだろうが! 俺は、民の笑顔を守り取り戻すんだよ! 邪魔だ!!」
ズゥンッ……!!
小さな身体から爆発した『覇王色の覇気』の衝撃波が、路地裏の空気を震わせ、取り囲んでいた海賊たちを一瞬にして白目を剥かせて気絶させた。
そして、マヤが八歳になったある嵐の夜。
マヤの前に立ちはだかったのは、新世界で夢破れたとはいえ、かつて懸賞金一億ベリーを超えていた巨漢の海賊船長だった。
七歳で覚えた覇王色の威圧だけでは倒れず、マヤが急所を突いて死にかけに追い込んでもなお、巨漢は血走った目で執念深くマヤへと巨大な斧を振り下ろしてきた。
全身傷だらけになり、泥水の中に膝をつきかけた八歳のマヤ。
だが、その赤い瞳から光が消えることはなかった。
「あきらめない……最高のみんなの笑顔を戻すために! お前、海賊なら殺される覚悟もあるんだろ? なら、子供だからってなめんな!!」
バチバチバチィッ!!
マヤが強く握りしめた小さな拳に、空間を裂くような『黒と赤の雷(覇王色纏い)』がバリバリと激しく宿った。
そのまま地面を蹴って放った渾身の一撃が、巨漢海賊の斧を粉々に砕き、大人と子供の肉体の差を完全に無視して、五メートルを超える巨体を路地の果てまで吹き飛ばしたのだった。
九歳になる頃には、シャボンディの暗黒街でマヤを殺せる者は誰一人としていなくなっていた。
それでも、他の天竜人たちがまだ海賊の残党を恐れてマリージョアに引きこもっている中、マヤだけは毎日下界へ降りては、泥と血にまみれて聖地の屋敷へと帰ってきた。
「お前、またそんな汚れたんかぇ〜」
同じ年頃の幼馴染であるチャルロス聖が、鼻水を垂らしながら無邪気に声をかけてくる。
その父であり、マヤを昔から気にかけてくれていたロズワード聖も、傷だらけで帰ってくるマヤの身を本気で案じて、何度も足を止めさせた。
「マヤよ、下界はもう海軍の駐屯も増えてきた。お前がわざわざ降りて、どぶさらいをする必要はないだろう? 危険すぎる」
「ありがとうございます、ロズワードのおじさん。……でも、まだ俺にやれることはあります」
どんなに止めても、誰よりも澄んだ目でそう答えて下界へ降りていくマヤに、ロズワード聖も「まったく、あいつには敵わんな」と苦笑して見守るしかなかった。
十歳の時には、聖地で起きたフィッシャー・タイガーの奴隷解放事件の裏で、シャボンディへと逃げ落ちてきた数多くの奴隷たちを秘密裏に匿い、船を手配して海へと逃がした。
その数年後――東の海で七歳のルフィが赤髪のシャンクスと出会って「海賊王になる!」と叫び、十歳のナミがアーロンに養母ベルメールを殺されて血の涙を流していた頃。
ロズワード家に生まれた幼い妹・シャルリア宮は、聖地の男たちがどいつもこいつも権威にふんぞり返っている中で、いつも泥だらけなのに一番優しい笑顔で頭を撫でてくれる「マヤお兄様」の背中をずっと見つめ続け、生涯消えない初恋に落ちていた。
それから二十二歳になるまで、マヤは一度たりとも世界の政治の表舞台には出てこなかった。
彼が守っていたのは、どこかの一つの街ではない。新世界の入り口である『シャボンディ諸島』そのものだった。毎日どぶをさらい、造船所で職人たちと一緒に船の修理を手伝い、腹が減れば民の普通の食事処にふらりと入って「おいちゃん、いつもの頼むわ」と笑い合う。
下界の民からの絶大な人気と、センゴクたち海軍からの厚い信頼。マヤがただ民の安寧だけを願って現場で汗を流していたからこそ、イムもまた彼に干渉することなく静観を続けていたのだ。
その「街の変わった兄ちゃん」だったマヤの運命が大きく動いたのが、二十三歳の時――今から二年半前のあの日だった。
シャボンディ諸島の人間オークション会場。
ルフィがチャルロス聖を殴り飛ばし、シルバーズ・レイリーが放った覇王色の覇気によって、マヤの大切な幼馴染であるシャルリア宮が意識を刈り取られて倒れた。
駆けつけたマヤは、会場で「俺は悪さはしてねェ!」と怒鳴り散らすルフィの元へと無造作に歩み寄り、その頭から麦わら帽子を奪い取って黒髪を鷲掴みにした。
『人の前で帽子つけたまま話してんじゃねーよ』
マヤにとっては、対話をするためのごく当たり前の制止だった。
だが、ルフィにとってその麦わら帽子は命よりも重い宝物だった。激昂したルフィは、「帽子を取られた」というただそれだけの理由で、無抵抗のまま立つマヤの顔面を何十発も全力で殴り続けたのだ。
海賊の目線で見れば、それは「大切な宝と仲間のために天竜人を殴ったカッコいい姿」なのかもしれない。
しかし、二十年間このシャボンディ諸島で民に寄り添ってきたマヤの目(第三者の現実の目線)から見れば、たかが帽子に手を触れられたくらいで逆上して人を何十発も殴り、外で逃げ惑う街の住民に死傷者が出るかもしれないパニックを引き起こして平然としているその姿は、あまりにも身勝手で狂った暴漢でしかなかった。
『お前のせいで、海軍に何名も負傷者が出て、住民に死んだ人がいたらどうする? 考えたこともないのか! お前ら海賊はよ!』
マヤの魂の喝破に、ルフィもレイリーも黄猿も凍りついた。
マヤはその場でナミとロビンの二人を担保として保護し、暴走しかけていたバーソロミュー・くまを止めて海軍へと引き渡した。そのマヤの意図を汲んだセンゴク元帥の判断によってくまはベガパンクの元へと送られ、ボニーと共に救われることとなった。
さらにその直後、マヤは保護したナミやロビンのため、そして世界が戦争で荒れるのを防ぐため、初めて自らの権力を政治的に行使した。
イムの許可を取り付け、白ひげとセンゴク元帥の双方のメンツを完璧に保つ形で、インペルダウンから処刑場へ出る直前の『火拳のエース』を極秘裏に救出し、背中に特別製の刻印を授けて直属護衛『CP10』としたのである。戦争を回避し、愛する息子を生かしてくれたマヤへの深い恩義から、白ひげとセンゴクはマヤと固い同盟のような関係で結ばれた。
ところが、その裏で起きたのが、ルフィによるインペルダウンの大脱獄事件だった。
すでにエースが救われているとも知らず、ただ自分の感情だけで数多くの凶悪犯を世に解き放ったルフィの行動を、安全な宮殿から「第三者の冷静な目」で見たナミ、ロビン、そしてエースの三人は、自分たちが身を置いていた『海賊』という存在の身勝手さに心底絶望した。
同時に、戦争が起きず無傷だった海軍本部の網にかかったインペルダウン近海の黒ひげ海賊団は、政治的に処理されて『ヤミヤミの実』の黒ひげ以外のメンバーは全員死亡。生き残った黒ひげ一人がインペルダウン最下層へと放り込まれ、「世界中のすべての悪さをあいつのせいにする永久サンドバッグ」が完成したのだった。
そして『3D2Y』の二年半が経ち、マヤが二十五歳となった今年。
再びシャボンディ諸島に現れたルフィは、ナミとロビンを連れて旅に出ようとしたが、二人はそれを明確に拒絶した。激怒したルフィはまたしてもマヤを殴りつけたが、その日初めて、ナミとロビンは自らの意志で受け入れ、その背中にマヤの『特別製の刻印(Sと龍)』を刻まれた。
二十年間、ただ一人でシャボンディ諸島のドブをさらっていた青年が、ナミ、ロビン、エースという守るべき家族に関与したこと。
それが、世界を揺るがす『為政者マヤ』が本格的に動き出した瞬間だった。
――そして、現在。
シャボンディ諸島の宮殿の大サロンには、静かな時間が流れていた。
たしぎの腕の中で泣き続けていた元・神の騎士団の軍子宮――エスペリア王国の王女シュリ姫は、五十数年前の父王殺しとブルックを傷つけた記憶の重さに、まだ小刻みに華奢な肩を震わせていた。
その姿を、ナミ、ロビン、シャルリア宮、たしぎ、赤ん坊を抱いたマキノ、そしてCP10(エース)が静かに見守っている。
マヤはゆっくりと歩み寄ると、たしぎに代わってシュリ姫の前にしゃがみ込み、震える彼女の身体を正面からそっと、しかし力強く抱きしめた。
「……お前のつらさは、俺にはわからない。でも、一緒に背負うことはできる」
シュリ姫がハッとして顔を上げる。
マヤは少しだけ身を引き、彼女の涙に濡れた双極の瞳(オッドアイ)――その片方に宿る『赤い瞳』を、自身の澄み切った『真っ赤な両目』で真っ直ぐに捉えた。
至近距離で、二つの赤い瞳が交差する。
すると不思議なことに、あれほど激しく乱れていたシュリ姫の呼吸と動悸が、まるで凪いだ海のようにだんだんと落ち着きを取り戻していった。
「大丈夫だ、大丈夫だ。お前のやったことは消えない。人も殺しただろう。……だけどな、そんなのこの世界じゃいくらでも起きてる。このシャボンディの街でも、毎日起きてた。それをこうして気にして泣いてるだけでも、お前は偉いさ」
マヤの低く温かい声が、シュリ姫の耳から心の奥底へと染み渡っていく。
彼を見つめているうちに、シュリ姫の胸の奥で、失われていた何かが決定的に繋がり、目の前の青年がたまらなく愛しい存在に思えてくる不思議な感覚――まさに魂の『共鳴』が起きていた。
ポロポロと止めどなく涙をこぼしながら、シュリ姫はうっとりと熱を帯びた声で呟いた。
「……貴方を見ていると、なぜかとても懐かしいの……。そして……愛しいわ」
「「「えっ!?」」」
さっきまで命を奪い合う敵だった女性からのあまりにも急な愛の告白に、ナミやロビン、シャルリア宮たち全員が目を丸くして声を上げた。
だが、彼女がそう感じたのには、明確な理由があった。
二十六年前、マヤの母が自らの家名『MANMAYER(マンマイヤー)』から『MAYA(マヤ)』という名前を抜き出して我が子に授けた時、そこに残された四つの文字――『N M E R』。
シンキ家(ONI of GOD)とマンマイヤー家の血が交わり、完全体として生まれたマヤの中には、『GOD(神)』『ONI(鬼)』『D(神の天敵)』という三つの要素と共に、空間の水素原子核(プロトン)のスピンと磁気・電気的共鳴を支配し、古代兵器プルトンやウラヌスすら手足のように動かせる固有の物理法則『NMER(核磁気電気共鳴)』が宿っていたのだ。
イムがマンマイヤーの完全覚醒を恐れてシュリ姫を支配下に置いていたその力が今、マヤの赤い両目から無意識の優しい共鳴波長となって放たれ、同じマンマイヤーの血を引くシュリ姫の乱れた脳内ニューロンを物理的に包み込んで癒やしたのである。
もっとも、そんな超科学の物理法則など微塵も気づいていないマヤ本人は、少し照れくさそうに頬を掻いて笑った。
「そうか? まあ、俺もなんだか、お前をほっとけないしな」
その一言を聞いた瞬間、驚いていたナミ、ロビン、シャルリア宮、たしぎ、マキノたち女性陣の目が、一斉に温かいジト目へと変わった。
「「「マヤ聖(マヤ/お兄様)は、いつもそうじゃないですか(アマス)!!」」」
見事に揃った女性陣の総ツッコミに、後ろで腕を組んでいたCP10も吹き出して肩をすくめた。
「ふっ、違いない。血筋がどうこうじゃなく、目の前で泣いてる女を見たら絶対に放っておけない……それが俺たちのマヤ聖ですよ」
『NMER』の共鳴だけではない、マヤが二十年間積み上げてきた本物の優しさを誰よりも知っている仲間たちの言葉に、サロン中が明るく温かい笑い声に包まれた。
その心地よい笑い声の中で。
マヤはふと、自分の周りにいるナミ、ロビン、シャルリア、たしぎ、マキノ、シュリ姫、そしてCP10の笑顔を一人ずつゆっくりと見渡した。
五歳のあの日、燃えるシャボンディの泥の中でたった一人で泣き叫んでいた記憶。誰も信じられず逃げ惑い、血反吐を吐きながら拳を振るい続けた二十年間の長い歳月。
そのすべてに静かに思いを馳せながら、マヤは胸の奥から込み上げてくる温かいものを噛み締め、これまでで一番穏やかな笑顔でぽつりと呟いた。
「……俺は今、最高に幸せだよ」
サロンの笑い声が、ピタリと止まった。
マヤがなぜ今、その言葉を口にしたのか。この場所に辿り着くまでに、彼がどれほど気の遠くなるような孤独と痛みをたった一人で背負ってきたのかを、そこにいる全員が痛いほど察したからだ。
「……マヤ……」
「マヤ聖……っ」
ナミとロビンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。シャルリア宮も、たしぎも、マキノも、溢れ出る涙を拭おうともせず、「私たちも同じ気持ちよ」と伝えるように、マヤを見つめて何度も深く頷いた。CP10もまた、サングラスの奥で静かに目頭を押さえていた。
そして、マヤの腕の中にいたシュリ姫もまた、共鳴した心を通して、この青年が歩んできた途方もない苦労と果てしない優しさを肌で感じ取っていた。
(……なんて温かくて、大きなお方なの……。私が聖地へ連れ戻されたのは五十年以上前……マンマイヤーの家系から考えれば、私とこのお方は叔母か従姉、あるいは『はとこ』くらいの遠い血縁になるはず……。なら、私もこの場所で、このお方を一人の男性として愛しても……結婚することだって、できるのかしら……)
涙に濡れたシュリ姫の頬がほんのりと桜色に染まり、彼女はマヤの胸元にそっと自分の手を重ねて、五十年ぶりとなる心からの柔らかな笑みを浮かべた。