巨大な海王類が海面下で蠢く絶対的な静寂の海、カームベルト。
波一つ立たない淀んだ海域を、海軍本部の大型軍艦が切り裂くように進んでいる。
甲板の端には、マヤから与えられた世界最高級の画板を広げ、一心不乱に未知の海域のデータを書き込んでいるナミの姿があった。その横では、ロビンが静かに海風を避けながら、マヤたちの会話に耳を傾けていた。
「で、エースよ」
マヤは船の手すりに寄りかかり、両手首に分厚い海楼石の手錠を嵌められたまま甲板に座り込む青年に声をかけた。
「お前のシャボンディ諸島での処遇だが、俺の『護衛』ってことにしておく。まずは、その服装を変えてもらうぞ。いくらなんでも、街中を上半身裸で歩くのは目立ちすぎだろ。変態かお前」
「その、なんだ……俺はメラメラの能力者だからよ、服を着てもどうせ燃えちまうんだ」
エースがバツの悪そうな顔で頭を掻いた。だが、マヤは心底呆れたようにため息をつく。
「いやいや、無理あるだろそれ。だったらなんでお前のズボンは燃えてないんだよ。下半身だけ能力の影響を受けないのか? 全身真っ裸じゃないと物理的な筋が通らないだろ。、ようは、お前の能力?への扱いが未熟ってことだろ?」
「うっ……!」
エースは言葉に詰まり、自分のズボンを見下ろした。言われてみれば、その通りである。
「むこうに着いたら海楼石は外してやるが、街中で火を使うのも禁止な。時期を見て親父とやらに会わせてやる。だが逃げたら、お前は確実に殺されるぞ。俺の保護下にあるから、政府も手を出せないだけだ。俺のメンツを潰したらどうなるか、自覚しろよ」
「……親父に、最後の挨拶だけさせてくれ。いつかでいい。あとは、お前の言うことを聞くよ」
「一応、天竜人のルール上、お前も俺の『所持品』って扱いになる。そこは徹底してくれ。基本的には自由にしていいが、あまり目立つな。それと……他の天竜人が奴隷に対して理不尽に振る舞っていても、元はどこから来たのか、誰が連れてきた奴隷かを考えて行動してくれ」
その言葉に、エースの顔つきが険しくなった。
「それはつまり……目の前で人が虐げられていても、見過ごせってことか?」
「かぁ〜、もうどうしてこうなの? 海賊ってのは。……ロビン、説明してやって」
マヤが手で促すと、一八八センチというエースよりもさらに長身のロビンが、静かに本を閉じ、彼を見下ろすように見据えた。
「……エース。マヤ聖の考えはね、『売り手と買い手』の構造よ。シャボンディのオークションに奴隷を降ろしているのは、天竜人ではないわ。じゃあ、誰が攫ってきて、売っているの?」
「……海賊、だ」
「そういうこと。天竜人憎しで物事を見るなってことよ。じゃあ聞くけれど、なんで他の奴隷がいる街では助けないのかしら? あなたはティーチを追って世界中を旅してきたわよね。そのすべての場所で、海賊に攫われた奴隷を解放してきたの? もしそうなら、大ニュースになっているはずよ。ルフィにも言えることなんだけどね。何故ハチだけなのか。」
「…………ッ」
「たまたま目の前で見た悲劇だけを救って、あとは見過ごす。それが海賊の正義よ。マヤ聖は、そういう無責任な感情で動くなと言っているの」
ロビンの冷徹な代弁に、エースはぐうの音も出なかった。
マヤは一つ頷き、ゆっくりと口を開いた。
「そういうことだ。知り合いだから助けたい。感情はわかる。だが、海賊のやり方ではそれは無理だということだ。天竜人相手ならなおさらだ。だから、ここではロビンが言ったように、まずは無責任に動くな。その後の責任問題を考えろ。そして、何かあるなら俺に相談しろ」
エースは、深く頭を下げた。マヤの言葉には、善悪を超えた冷酷なまでのリアリズムと、その奥底にある確かな血が通っていた。
その時、マヤの懐で専用の電伝虫がけたたましく鳴り響いた。
マヤはエースたちの目の前で、無造作に受話器を取る。
「おう。マヤだ」
『マヤ聖。海軍本部のセンゴクです。……ご報告があります』
電伝虫のセンゴクの顔は、どこか張り詰めた、だが奇妙に高揚した表情を作っていた。甲板にいるエース、ナミ、ロビンも、その声に息を呑んで耳を傾ける。
『戦争に向けての警戒配備を解き、周辺海域の哨戒任務に当たっていた部隊が……インペルダウン方面に潜伏・接近していた王下七武海、マーシャル・D・ティーチを発見しました。私と三大将……海軍の最高戦力総出で包囲し、拿捕いたしました。現在、インペルダウンにて尋問中です』
マヤは、ふっと息を吐いた。
「うまく拿捕できたお前らが凄いんだろ。しかし、そいつのこのこ何をしてたのかね」
『エースを生贄に海軍に差し出し、白ひげとの戦争で海軍が弱ったところで、何かを仕掛けるつもりだった……とかでしょうか。私の首を狙っていたのかもしれませんな』
「センゴクの首? なるほどな。意外とそうなのかもな?でも、貰って嬉しいかね?」
『……手厳しいですな』
センゴクの苦笑が漏れる。マヤは夜空を見上げ、淡々と言い放った。
「あいつ、七武海になってたんだろ? ならさ、エースの代わりにそいつを公開処刑でもしたら?」
『なっ……!?』
「お前ら海軍も、エースの処刑を取りやめたことで、世間への『面子』が潰れて困ってたんだろ?」
マヤの悪魔的な提案に、エースはハッと息を呑んだ。
「世間にはこう発表しろ。『元七武海マーシャル・D・ティーチが、虚偽のエース(偽物)を海軍に引き渡し、世界を混乱に陥れた。さらに海軍へのスパイ行為、及び、白ひげのところでの仲間殺しをはじめとする多数の大罪が発覚。海軍は奴を処刑する』……とな」
『…………!!』
「仲間殺しをした極悪人だ。他の海賊にも受けがいい謳い文句だと思うがね? そうすりゃあ白ひげもニッコリだ。海軍も、偽物を持ち込まれて踊らされたことにしておけば、辻褄が合う。あんな得体の知れない奴を七武海に任命した失態もチャラにできるだろ」
電伝虫の向こう側で、センゴクが言葉を失う気配が伝わってくる。
海軍の抱える政治的痛手を、これ以上ない形で利益に転換する完璧なシナリオ。
『……マヤ聖は、さすがですな。それは海軍にとっても、メリットしかありません』
「そういうことだ。お互い上手くやろうぜ」
『この件に関しては、また近々、直接お礼を……』
「美味い言い方だね。エースの管理がちゃんとできてるか、監視しに来るだけだろうに」
マヤはあっさりと通信を切った。
静まり返る甲板。
エースの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。
目の前の天竜人は、海軍元帥を相手に、たった一人の海賊を救うために全ての泥を被り、完璧な逃げ道と政治的カモフラージュを用意してくれたのだ。
エースは、マヤの背中を見つめた。
その小柄で細身の背中に、かつて自分が全てを懸けて命を預けた『白ひげ』以上の、とてつもなく巨大で絶対的な庇護者の姿を幻視していた。
「……すまねェ。あんたに、こんな泥を被せちまって……っ」
「泣くな。汚い顔になるだろ」
マヤは振り向きもせず、ぽつりと呟いた。
ナミとロビンもまた、この歪で優しい主の背中に、声にならない深い感謝の祈りを捧げていた。
「もうすぐシャボンディに着く。俺は五老星に用があるから、お前らは先に俺の屋敷に向かえ。ナミ、ロビン。こいつを案内してやってくれ」
「はい……!」
「ええ、任せてちょうだい」
同じ頃。
凪の帯に囲まれた女ヶ島、アマゾン・リリーの海岸で、全身を包帯で巻かれた麦わらのルフィが、震える手で一枚の新聞を握りしめていた。
『元七武海ティーチ、虚偽のエースを海軍に引き渡し混乱を招く!』
『ティーチの大罪多数発覚。海軍は調査に乗り出し、詳しい余罪を調査中。エースの処刑は誤報』
ハンコックが手配してくれた新聞には、無情な事実が並んでいた。
エースは偽物だった。初めから、海軍に捕まってなどいなかったのだ。
「エースが……偽物……?」
ルフィの目から、涙がこぼれ落ちる。
だが、その後に押し寄せてきたのは、かつて経験したことのない真っ黒な虚無だった。
新聞の片隅には、小さく、だが絶望的な記事が載っていた。
『インペルダウンにて暴動。凶悪囚人数百名が脱獄。周辺海域の村々で略奪被害相次ぐ。主犯は麦わらのルフィ』
「……じゃあ」
ルフィは、自分の両手を見つめた。
インペルダウンの壁を殴り壊し、看守たちを叩きのめし、牢獄の鍵を開け放った自分の手。
「俺は……何のために、インペルダウンに入って……何が、したかったんだ……?」
横に立つハンコックは、あまりの事態に声にならない声を上げ、ただ口元を覆って立ち尽くすことしかできなかった。
自分の手で解き放ってしまった極悪人たちの高笑いが、ルフィの脳裏にフラッシュバックする。
自分は、エースを救うことすらできず、ただ関係ない人々を地獄に突き落とす引き金を引いただけだった。海賊としての純粋な想いが、ただの無意味なテロ行為に成り下がった瞬間。ルフィは砂浜に崩れ落ち、虚空を見つめたまま動けなくなった。
そして、海底大監獄インペルダウンの最下層、LEVEL6。
永遠の暗闇の中、幾重にも巻かれた海楼石の太い鎖に全身を固定され、マーシャル・D・ティーチは血まみれで壁に繋がれていた。
「ゼェ……ハァ……! くそっ……どうなってやがる……!」
全身の骨が砕けるような激痛の中、ティーチはギリッと歯を噛み締めた。
七武海になり、インペルダウンの戦力を削ぎ、囚人を仲間に引き入れ、頂上戦争の混乱に乗じて白ひげの能力を奪う。長年思い描いた、世界を獲るための完璧な計画だった。
それが何故、潜伏していただけの海域で、突然現れた海軍の最高戦力全員に包囲され、手も足も出ずに叩き潰されたのか。
「俺は……どこで、しくじった……!?」
何も間違えていなかったはずだ。計画は完璧だった。
だが、現実は全てが終わっていた。
「ゼハハハ……ハハハ……ッ!」
血を吐きながら、ティーチは狂ったように笑い声を上げた。まだだ。まだ俺の野望は潰えていない。
だが、その笑い声に応える者は誰もいない。
絶望の底で響く「ゼハハハ」という声だけが、永遠の暗闇と冷たい石壁の中に、ただ虚しく吸い込まれていった。