シャボンディ諸島の朝は、巨大なヤルキマン・マングローブの梢からゆっくりと昇っていく無数のシャボン玉が、朝陽を反射して七色に煌めく光景から始まる。
海風が吹き抜けるマヤの宮殿では、これから新世界のワノ国へと出航するための慌ただしい準備が進められていたが、別棟にある医療研究区画だけは、小鳥のさえずりが聞こえるほど静かで穏やかな空気に包まれていた。
白を基調とした清潔な病室のベッドの上には、全身を覆っていた包帯の大部分を外し、柔らかな部屋着に身を包んだシュリ姫が腰掛けていた。
五十数年もの間、イムの冷酷な精神支配によって「神の刃・軍子宮」として縛られていた彼女の顔にはまだ幾分の疲労が残っていたが、その双極の瞳(オッドアイ)からは、かつての狂信的な険しさが完全に消え去っていた。
「はい、シュリ。温かいカモミールのハーブティーよ。少し蜂蜜を多めに入れておいたから、ゆっくり飲んでちょうだい」
白いエプロンを着けたステューシーが、湯気の立つティーカップをソーサーごと差し出す。
同じように世界政府の闇の中で「造られた命」として生きてきたステューシーは、シュリ姫が抱える孤独や痛みを誰よりも深く理解し、つきっきりで彼女の身の回りのケアにあたっていた。
「ありがとうございます、ステューシーさん……。こんな私に、皆様がこれほど優しくしてくださるなんて……」
「焦らなくていいのよ。ここはマヤ聖が守ってくださっている場所だもの。少しずつ、あなたの『今』を取り戻していきましょうね」
その少し離れた大型デスクの前では、白衣を羽織ったカヤがエッグヘッドの研究所と映像電伝虫を繋ぎ、Dr.ベガパンクと熱心に医療データの照合を行っていた。
『うむ、マヤ聖の力が彼女の脳の神経回路を驚くほど綺麗に安定させておるようじゃな。カヤ嬢ちゃんが調合した鎮静薬を併用すれば、悪夢を見ることもじきになくなるじゃろう』
「本当ですか、ベガパンク先生! よかった……引き続きバイタルの経過を観察して、また夕方にデータを送りますね!」
目を輝かせてペンを走らせるカヤの隣では、マキノが腕の中の赤ん坊を優しくあやしながら、その微笑ましい光景を見守っていた。
そこへ、出航の支度を整えたマヤが、コツコツと足音を響かせて部屋の扉を開けた。
「お、朝から頑張ってるな。シュリの具合はどうだ?」
「マヤ聖……!」
シュリ姫がハッとしてベッドから立ち上がろうとするのを、マヤは「そのままでいいよ」と片手を上げて軽く制した。
マキノが柔らかな笑顔でマヤの元へと歩み寄る。
「ええ、すっかり落ち着いているわ。こっちのことは任せて、マヤ。カヤちゃんもステューシーさんもいるし、私たちで彼女をしっかりサポートするから、安心して行ってらっしゃい」
「ああ、頼んだぞ、ビビ、ステューシー、カヤ、マキノ。シュリのことは無理させず、ゆっくり休ませてやってくれ。何かあればすぐに船へ通信を回せよ」
マヤが真っ直ぐな赤い瞳で優しく語りかけると、シュリ姫は胸元をギュッと握りしめ、ほんのりと桜色に染まった頬を伏せて深く頭を下げた。
「い、いってらっしゃいませ、マヤ聖……。どうか、ご武運を……」
「おう、武運なんて大層なもんじゃない、ただ友達の家に飯食いに行くだけだよ。じゃあな!」
ひらひらと手を振って部屋を出ていくマヤの背中を、女性たちは温かい眼差しで見送った。
それから数日後。
天候が激しく乱れ、巨大な渦潮と荒波が絶えず牙を剥く新世界の海域――四皇カイドウが拠点とする『ワノ国』の近海。
本来であれば、巨大な鯉に引かれて滝を登らなければ入国すらままならない険しい海域の奥、黒雲が垂れ込める『鬼ヶ島』の巨大な髑髏岩の入り江へと、一隻の規格外の巨艦が滑り込んできた。
全長百五十メートルを超える白銀の船体が、ベガパンク設計の超出力動力炉を唸らせ、荒れ狂う高波を真っ二つに切り裂きながら、まるで平らな湖の上を滑るかのようにピタリと波止場へ着岸する。
ゴォォォォン……と重厚な錨が下ろされる音が、鬼ヶ島の岩壁に反響した。
「な、なんだあれは!? で、でっけえ船だな!! どうやってあの荒波を無傷で越えてきたんだ!?」
波止場の最前列で、仁王襷(におうだすき)を背負い、巨大な金棒『建(タケル)』を肩に担いだ長身の人物――ヤマトが、子供のようにはしゃぎながら白い巨艦を見上げた。
この世界ではドフラミンゴとシーザーが早期に拿捕されてSMILEの供給が止まり、ワノ国を取り巻く情勢も変化していたため、ヤマトの両手首にあの爆薬入りの手錠は嵌められていない。
一方、ヤマトのすぐ後ろで巨大なマントを羽織り、太い腕を組んで仁王立ちしていた百獣海賊団総督・カイドウは、船の甲板にズラリと並んだ人影を見上げて、露骨に不機嫌そうな渋面を作った。
さらにその後ろには、黒い翼を持つ大看板のキングや、葉巻を咥えた巨漢のクイーンたちも、物々しい空気で控えている。
「チッ……随分と人数が多いじゃねェか、マヤの野郎。今度ワノ国へ遊びに来いとは言ったがよ、女子供まで引き連れてピクニック気分か……?」
ウィィィン、と船腹から長いタラップが波止場へと下ろされた。
潮風になびく赤髪を揺らしながら、先頭を切って軽やかに降りてきたのはマヤだった。そしてその後ろには、黒服の護衛CP10(エース)と海軍少将のたしぎ、さらにナミ、ロビン、レイジュ、コアラという華やかな美女たちが整然と続いている。
マヤは波止場に立つカイドウの渋い顔を見るなり、ニッと笑って片手を上げた。
「よお、カイドウ。約束通り、うまいもんをご馳走になりに来てやったぞ。……なんだよその仏頂面は。せっかく来てやったのに、歓迎してねーならこのまま帰るぞ?」
「バカ言え、わざわざ呼んでおいて入り口で帰すかよ。……ただな、こんなに大所帯で来るとは思ってなかっただけだ」
カイドウが鼻を鳴らすと、マヤの後ろに控えていた女性陣が一歩前へと進み出た。
まず、薄桃色の髪をなびかせたレイジュが、専属秘書としての完璧で優雅な所作で一礼する。
「お初にお目にかかります、カイドウ総督。マヤ聖の専属秘書を務めております、レイジュと申します。本日は突然の大勢での訪問をお許しいただき、感謝いたしますわ」
続いて、ナミとロビンがマヤの両脇に並ぶように立ち、四皇の威圧感にも一切臆することなく、堂々とした笑顔で挨拶を交わした。
「私はナミよ。マヤの公式な婚約者兼、専属の航海士をしてるわ。今日はご招待ありがとう」
「同じく婚約者のニコ・ロビンよ。ワノ国には歴史学者としても興味があったから、こうして来られて嬉しいわ。よろしくね、四皇さん」
さらに、左腰に『妖刀神鬼』を佩いたたしぎが「護衛のたしぎです!」と凛とした声で頭を下げ、コアラも「お茶係兼サポートのコアラです、よろしくお願いします!」と元気に続いた。最後にCP10が、サングラスの奥の瞳を細めて無言で軽く会釈する。
普通の下界の人間であれば、カイドウと大看板たちが並ぶ目の前に立っただけで腰を抜かすか、覇気に当てられて泡を吹いて倒れるところだ。
しかし、マヤが連れてきた女性たちは誰一人として怯える様子もなく、むしろ「私たちのマヤの友達なのね」と言わんばかりの余裕すら漂わせている。
「……ふん。天竜人のくせに、妙に肝の据わったいい女ばかり連れてやがるじゃねェか」
カイドウは呆れたように息を吐くと、隣で目をキラキラさせているヤマトを一瞥し、さらに深く眉間のシワを刻んだ。
「まあいい、こんな潮風の吹きっさらしの波止場で立ち話もなんだ。城の中へ入れ、マヤ。今ちょうど野郎どもに宴の支度をさせてある」
「お、さすが話が早いな。じゃあお邪魔するぜ」
カイドウが踵を返して鬼ヶ島の巨大な城内へと歩き出すと、ヤマトは我慢できないといった様子でトコトコとマヤの隣へと駆け寄ってきた。
「おいカイドウ、そっちの角の生えたでかいのが、こないだシャボンディでお前が言ってた――」
「ああ、そうだ。……言っとくがなマヤ、俺は本音を言えば、てめェとこのバカを一番会わせたくなかったんだよ。絶対に気が合うに決まってるからな」
カイドウが忌々しそうにボヤきながら、一行を城の中層にある、見晴らしの良い広大な和風の客間へと案内した。
客間の障子が大きく開け放たれると、そこからは鬼ヶ島の荒々しい岩肌と、遠くに広がるワノ国の海が一望できた。
畳の上に座布団が並べられ、ナミやロビン、たしぎたちが腰を下ろして、使用人が運んできた温かい緑茶で喉を潤す。
そんな中、縁側の近くに陣取ったヤマトは、座布団に座るのももどかしそうに、マヤの真正面にドスンとあぐらをかいて向き直った。白い髪と美しい顔立ち、そして頭から生えた二本の赤い角。
「君がマヤか!? 父上の言っていた、変な天竜人! 僕は光月おでん! よろしくな!」
屈託のない満面の笑みで胸を張るヤマト。
マヤは湯呑みを手に取ったまま、きょとんとした顔でヤマトの顔を眺め、素直な疑問を口にした。
「……おでん? お前、そのお前は、ヤマトじゃないのか?だとしても、挨拶がおでんってさ。『おでん』になって、何がしたいの?」
「え?」
真っ直ぐな質問に、ヤマトはパチパチと瞬きをして言葉を詰まらせた。
数秒間の沈黙のあと、ヤマトは首を傾げながら指を動かした。
「……えっと、おでんみたいな、こう、自由でかっこよくて、すごいやつに……」
「うん、お前がその人物に憧れてるってのはわかった。でもさ、お前はそいつに似る生き方はできるけど、百パーセント『おでんの具』にはなれないだろ?」
「え? 具?」
目を丸くするヤマトに、マヤは湯呑みを畳に置き、身振り手振りを交えて説明し始めた。
「ようはよ、食べ物の『おでん』だって、大根とかこんにゃくとか玉子とか、色んな具があるわけだよ。大根がいきなり玉子にはなれないだろ? それと同じで、その光月おでんっていう人物の生き様を、お前が今から完全に真似するなんて無理だってことだよ」
「……む、難しいな……」
ヤマトが真剣な顔で腕を組み、うーんと唸り声を上げる。
マヤはそんなヤマトを見て、優しくもハッキリと言い切った。
「そう、難しいことなんだよ! だって、お前はお前なんだからさ。誰かの名前を借りて真似をしても、それは本当のおでんではないってことだよ」
部屋の隅で柱に寄りかかり、巨大な瓢箪(ひょうたん)に入った水を煽っていたカイドウは、出会って数分でヤマトを真剣に考え込ませているマヤの手並みを見て、早くも天を仰いだ。
(まじでか……まじで、相性良くないかこの二人。おでんの具がどうとか微妙に話がズレてるようで、完璧に噛み合ってるしよ……!)
するとヤマトは、自分の理想を証明するように身を乗り出し、熱っぽく語り始めた。
「で、でもなマヤ、おでんは本当に凄いんだよ! ワノ国でたくさん人を助けたし、海へ出て白ひげやロジャーとも旅をした! そして最期は、家臣たちを守るために一時間も釜茹でにされて、笑って死んだんだ!」
目を輝かせて英雄譚を語るヤマト。
しかし、それを聞くマヤの赤い瞳には、海賊のロマンに酔うことのない、二十年間の現実を見てきた者特有の静かな光が宿っていた。
「……でもさ、そのおでんって人は、結局『海賊』なんだろ? 海賊ってのはそういう壮絶な末路になる時もある。ただ『かっこいい』だけじゃないんだよ、ヤマト」
「っ……!」
「おでんという人は、確かにかっこよかったのかもしれない。それは世間で名を残したどの海賊にも言えることだ。……だがな、俺がいつも見るのは、英雄じゃなくて足元の『民』だ。海賊は自由でかっこいい、でもその裏で、守るべき民の生活をないがしろにしてしまう場合もある。そういうのは考えたことあるのか?」
マヤはヤマトの大きな身体と、脇に置かれた金棒に視線を向けた。
「お前がその立派な体格と力で、『おでんはかっこいい!』と言って誰彼かまわず助けるとする。でも、それで相手が救われるのは、助けた『その瞬間』だけなんだよ」
「え……? でも、困ってる人を助けるのはいいことなんだろ? おでんもそうだったぞ!」
「ああ、助けること自体は悪くない。だが、本当に大事なのは『そのあと』なんだよ。助けたそいつらの人生や、その後の混乱までちゃんとお前が背負えるかどうかってな。……じゃあまず聞くが、ヤマト。お前の目の前で誰かが『あいつは悪いやつだ!』って言ったら、お前はそいつをどうする?」
マヤが試すように問いかけると、ヤマトは迷うことなく即答した。
「そんなの決まってる、ぶっとばす! おでんだからな!」
「――ぶっぶぶー。大外れ。それだと、お前はおでんにはなれないな」
マヤが顔の前で両手を交差させて大きなバツ印を作ると、ヤマトは頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「ぶっぶぶって、ひどいな! おでんなら悪党はぶっとばすぞ!」
「じゃあ聞くけど、本物のおでんは、その相手が『本当に悪いやつなのかどうか』自分の目で確かめもしないで殴るのかな? ……いいかヤマト、例えばここにいる俺さ、世間から見ればめちゃくちゃ『悪い天竜人』なんだぜ? 俺は天竜人の権力を使って、背中に俺の刻印を刻んでる女性を七人くらい持ってるんだ」
マヤがわざと悪ぶった口調でそう告げた瞬間、ヤマトの表情がサッと険しく変わり、脇に置いていた金棒『建』をガッと掴んで立ち上がった。
「なんだと!!! お前、本当はそんなに悪いやつだったのかよ!!! なら、ここで俺がぶっとばす!!」
ヤマトが本気で金棒を振り上げかけた瞬間、後ろに控えていたたしぎの左手が『妖刀神鬼』の柄へと伸び、CP10の瞳が鋭く光った。
だが、マヤは座ったまま片手をスッと上げて二人を制し、心底呆れたように肩をすくめて言った。
「――だから、『ぶっぶぶー』なんだよ」
「え?」
振り上げた金棒を止めて固まるヤマト。
すると、マヤの隣でお茶を飲んでいたナミとロビン、そしてレイジュやたしぎたちが、クスクスと楽しそうに笑い声を漏らした。
「ちょっとマヤ、私たちをダシにして変な脅かし方しないでよ」
「ふふ、でもわかりやすいお手本ね」
彼女たちの全く怯えていない、むしろ愛情に満ちた穏やかな笑顔を見て、ヤマトは混乱したように目を白黒させた。
マヤは金棒を下ろせないでいるヤマトを見上げ、ゆっくりと噛み砕くように言葉を継いだ。
「今そこにいるナミもロビンも、みんな自分から望んで俺の刻印をつけてくれてる。そして俺自身、本当はそんな刻印なんてつけたくなかった。でも、彼女たちを世界政府や海賊の無法から守るために、俺がそういう形をとったんだ。……それでも、俺自身は女性に印をつけるなんて悪いことだと思ってるから、俺の自己評価は『悪い天竜人』なんだよ」
「……ど、どういうことだ? 望んでつけてるのに、悪い天竜人……?」
「つまり、『あいつは悪い人だ』っていう表面的な言い回しや肩書きだけで、相手を判断したらだめだということさ。だから、まず『おでんになる』の前に、ヤマト自身の人を見る目を養えってことだよ」
ヤマトはゆっくりと金棒を畳の上に下ろし、まるで初めて見る生き物に出会ったかのように、大きく目を見開いてマヤの顔をまじまじと見つめた。
「……お前は、すごく頭がいいんだな?」
「うーん、頭がいいとかじゃないんだ。誰かの都合のいい言葉に振り回されちゃだめってことだよ、ヤマト! 『あいつが悪だ』と言って、素直なヤマトを騙して利用しようとする本当の悪人だっているんだ。そこを確かめもせず、言葉一つで飛び出して動くのは、お前が憧れてるおでんに対しても失礼だろ?ってことさ」
今まで二十年間、誰からも言われたことのなかった言葉だった。
父のカイドウからは力で押さえつけられ、部下たちからは腫れ物のように扱われ、自分自身はただ日誌の中の「おでん」の言葉をなぞるだけで生きてきた。
しかし目の前の青年は、ヤマトを頭ごなしに否定するのではなく、「ヤマト自身の頭と心で考えろ」と真っ直ぐに向き合ってくれている。
「……つまり、お前はいいやつなんだな!」
「そう判断してくれるのは嬉しいけど、今のだって俺がうまいこと言ってお前を騙してるかもしれないだろ? 誰かの言葉じゃなく、まずお前の心で俺を見て判断しろな?」
ヤマトは一度ギュッと目を閉じ、自分の胸に手を当ててから、パッと目を開いて太陽のような笑顔を咲かせた。
「なら、やっぱりお前はいいやつだ! おでんとは関係なく、僕が自分でそう思った!」
「ははっ、そうだ、それでいいんだ。な、いい笑顔になったぞ。少しは前進だな、一歩一歩だ」
マヤが立ち上がってヤマトの白い頭をポンポンと優しく撫でると、ヤマトは照れくさそうに、けれど嬉しそうに目を細めた。
部屋の隅でその一部始終を見ていたカイドウは、額に手を当てて深くうなだれた。
(あいつ、まじなんなの……。本当、口がうますぎだろ……出会って十分でヤマトが完全に骨抜きじゃねーか。しかもあのバカ娘、自分が懐柔されてることに気づいてすらねェんだろうな……)
その時、後ろで控えていたCP10が、何とも言えない微妙な表情でマヤの背後へと歩み寄り、小声で耳打ちをした。
「……あの、マヤ聖。言いそびれていましたが、先日シャボンディで俺がご相談していた『親と揉めてる知り合いのヤマト』って、この子のことです」
「……え? そうなの? お前が言ってたヤマトって、男じゃなかったのか? どう見ても女だよ?」
マヤは素っ頓狂な声を上げると、そのままヤマトの方へと向き直った。
「おいヤマト! お前、おでん屋やりたいんだろ? こいつ(CP10)から話は聞いてたからよ。お前が店を出すんなら、開業資金くらい俺が全部出してやるぞ?」
「え? どういうこと? おでん屋? ……おでんを煮込んで、おでんの気持ちを確かめるってことか?」
「うーん? ん? まあ、そういうことかも?」
後ろでCP10が、無言のままガクリと天を仰いだ。
(ああああ、やっぱり勘違いしてた……! 俺が『おでんになるって言って親と揉めてる』って話した時、完全に頭天竜人モードで『おでん屋を開業したい男』だと変換してたのか! だから資金を出すとか言ってたのかよ……!)
「でもマヤ、僕おでん屋なんてやったことないぞ? 出汁の取り方もわからないし……」
「うーん、まーやりたくなったらいつでも言えよ? 資金は出すからさ。……なんかおでんおでん言ってたら腹減ってきたな、とりあえず飯食おうや」
「いきなりだね! でも、ちょうどお腹すいてたからいいけど!」
「さっきからおでんおでん、言い過ぎたのかもな……」
「おでん……たしかに! 食べ物の名前だもんな!」
ポンと手を打って頷き合う二人を見て、カイドウは「そこ納得するのかよ……ヤマト……」と、さらなる心労に肩を落とすのだった。
やがて日が傾き始めた頃、一行は鬼ヶ島の中心部にある巨大な宴会場――大広間へと場所を移した。
高い天井からは無数の提灯が吊るされ、大広間の四方で焚かれた篝火がパチパチと爆ぜながら赤々と燃え盛っている。
長い漆塗りの膳の上には、巨大な猛獣の丸焼きや、新鮮な海の幸の舟盛り、湯気を立てるワノ国の鍋料理、そして山のような酒樽が所狭しと並べられていた。
上座の中央にはカイドウがどっしりと胡座をかき、そのすぐ隣に客人のマヤとヤマト、そしてナミやロビンたちマヤ陣営が並んで座っている。
そして向かい側の幹部席には、大看板のキング、クイーン、ジャックをはじめ、百獣海賊団の精鋭『飛び六胞』――うるティ、ページワン、ブラックマリア、ササキ、フーズ・フーたちがズラリと居並んでいた。
カイドウが「今日はこのマヤがわざわざ来てくれたんだ、野郎ども、好きに飲んで食え!!」と号令をかけると、広間中が賑やかな喧騒と食器の触れ合う音に包まれた。
マヤはコアラに取り分けてもらった肉と野菜を美味そうに頬張りながら、ふと向かい側の席で酒を嗜んでいる二人の女性幹部――桃色の髪にマスクを着けたうるティと、見上げるほど長身で艶やかな着物を纏ったブラックマリアに目を留め、感心したように隣のカイドウへ話しかけた。
「しかし、むさ苦しい野郎ばっかりの海賊団かと思えば、こんな綺麗な人たちがいるんだな? カイドウ、お前意外と慕われてるじゃねーか」
ゴクリと水を飲み干したカイドウが、ジロリと横目でマヤを睨んで眉をひそめた。
「……あ? お前それ、あの二人を口説いてんの、それとも俺をけなしてんの、どっちなんだよ?」
「口説くというかよ? ただの正直な感想だな。お前みたいに強面のおっさんが、こんな綺麗な部下たちに慕われてるってのはいいことさ。……まあ、お前は娘の婚姻の話に頭が汚染されすぎて俺を警戒してるみたいだけど、そりゃウルティちゃんとかブラックマリアさんとか、普通に可愛いとは思うよ? でもさ、俺だってそこらの節操なしじゃないんだぞ? ちゃんとヤマトのことも考えてるからよ」
マヤがしみじみとそう言った瞬間、反対側の隣で山盛りの肉を頬張っていたヤマトが、モグモグと口を動かしながらきょとんとして顔を上げた。
「ん? 俺の何を考えてるんだ? マヤとの話はすごく楽しいからな! 好きだぞ!」
屈託のない満面の笑みで放たれたヤマトの好意(無自覚)に、カイドウは巨大な手でバシッと自分の顔を覆い、大広間に響き渡るような深い溜息をついた。
「はぁ〜〜……もう、だから俺は、お前らを会わせたくなかったんだよ……」
一方、向かいの席でそのやり取りを聞いていたうるティとブラックマリアは、思わずハッと目を見開いた。
(な、なんなのあの天竜人……!? あのカイドウ総督を相手に、あんな友達みたいな軽い言い回しができるほど仲が良いっていうの!? しかも総督が全然怒ってないどころか、タジタジになってるわ……!)
困惑したうるティとブラックマリアが、どう反応すべきか迷ってカイドウの方へとチラリと目配せを送る。
するとカイドウは、顔を覆っていた手を下ろし、「ふん、構わん、お前らも好きに発言していいぞ」と面倒くさそうに顎をしゃくった。
許可が出たことで、まずうるティがマスクの上の頬をわずかに赤らめ、ツンと顎を上げて早口に言った。
「わ、私は一応、カイドウさんの圧倒的な強さにですね、なんていうかその……敬意を払ってここにいるだけでありんす! べ、別に可愛いなんて言われても嬉しくなんかありんせん!」
対照的に、隣に座るブラックマリアは、長いキセルからふぅっと紫煙をくゆらせると、豊かな胸元が覗く着物の襟をわずかにゆるめ、とろけるような妖艶な流し目でマヤをじっと見つめた。
「ふふっ……私は、マヤ聖のように優しくて懐の深いお方と、これから個人的にお近づきになるのも……決して嫌いではないですよ?」
大人の女性の色気たっぷりな声と視線で真っ向から迫られた瞬間。
どんな四皇や五老星の前でも動じなかったマヤが、途端に「うっ」と詰まり、あからさまに目を泳がせて自分の頬をポリポリと掻いた。
「い、いやいや、俺はそういう意味で言ったんじゃないんだよ……」
急に歯切れが悪くなったマヤを見て、後ろに控えていたCP10が、やれやれと肩をすくめて苦笑混じりにフォローを入れた。
「えーと、うちの主(マヤ聖)は、意外とそういう色恋の駆け引きには初心(ウブ)なので……ブラックマリアさんみたいに正面から大人の色気で来られると、どうしていいか分からなくなるんですよね」
「ウォロロロロロ!! なんだマヤ、お前そんな感じになっちゃうのかよ!! ははははは、面白いなお前!!」
カイドウがテーブルをバンバンと叩いて豪快に大笑いし、ヤマトも目を丸くしてマヤの顔を覗き込んだ。
「へぇー! そうなのか!? マヤ!」
「あ、え? いや、まーなんだ……お前らがみんなここで仲良くやってれば、それでいいだろってことさ!」
マヤが顔を赤くして強引に話題を打ち切り、逃げるようにお茶を煽る。
そのあまりにも人間味あふれるウブな反応に、ブラックマリアやうるティまで思わず吹き出し、隣に座っていたナミとロビンは、呆れたような、それでいて愛おしそうなジト目で顔を見合わせた。
「……逃げたね」
「ええ、完全に逃げたわね」
大広間がひとしきり和やかな笑いに包まれ、場がすっかり温まった頃。
カイドウがふと笑いを収め、強者特有の獰猛な光を瞳に宿してマヤへと向き直った。
「ところでマヤ、せっかくこうして俺の城に来たんだ。腹ごしらえが済んだら、いっちょ俺とやるか? こないだから腕が鳴って仕方ねェんだがよ」
その一言に、キングやクイーンたち百獣海賊団の幹部たちが「おおっ……!」と色めき立つ。
しかし、マヤは箸を動かす手を止めぬまま、あっさりと首を横に振った。
「やってもいいけどさ、俺とお前が本気で殴り合ったら、周りに被害が出るだろ? ワノ国の民とかによ」
「チッ、ならこの鬼ヶ島の屋上でやればいいだろ? ここなら民はいねェぞ」
「そのうちな? 今日はせっかくの楽しい宴なんだから、今はそういう血生臭い話は置いておこうや。な?」
どこまでも戦いより平穏を優先するマヤに、カイドウは力を抜いて背もたれに寄りかかった。
「……お前のそういうとこだよ……まじでさ……」
すると、マヤはふと手元の箸を置き、目の前の篝火の揺らめきを見つめながら、静かな声で切り出した。
「……なあカイドウ。こないだシャボンディで話した『血のドブ』の話、おぼえてるか?」
「あ? 当たり前だろ。ロジャーの野郎のせいで街が汚れたって話だろうが」
「ああ。……少し、宴の空気が悪くなったらすまんが、まあ大したことじゃないんだよ。ここにいるみんなが聞いてもいい話だしな」
カイドウは大きな杯に注がれた水を煽りながら、軽い調子で促した。
「なんだよ、大したことないのかよ。天竜人のお前があんな綺麗にどぶさらいしてるってんだからよ、気になるじゃねェか。なら話せよ」
この時、カイドウも、そして周囲で耳を傾けていたキングやクイーン、ヤマトたちもまだ、「少し変わった天竜人が、気まぐれに街の美化運動でもしていたのだろう」程度の認識でしかなかった。マヤ本人が「大したことじゃない」と言ったから、その程度の軽い昔話だと思っていたのだ。
ところが――マヤの口から淡々と紡ぎ出されたのは、英雄の武勇伝でもなければ、天竜人としての懺悔でもなかった。
「二十年前……海賊王ロジャーが処刑台の上で『俺の財宝を探せ』と言ったあの日から、俺のいたシャボンディ諸島の地獄の日々が始まったんだ。……当時、俺はまだ五歳だったよ」
マヤの声は、驚くほど静かで平坦だった。まるで昨日の天気でも語るかのように、彼は続けた。
「ロジャーの言葉に浮かされたお前ら海賊が、新世界の入り口であるシャボンディ諸島に世界中から一斉に押し寄せてきてよ。海軍の駐屯も追いつかない無法地帯で、毎日、本当に毎日、目の前で人が死んで、罪のない街の民も虫けらみたいに殺されて、弱い奴らは海賊に捕まって奴隷として売られていった。……他の天竜人は怖がってマリージョアに引きこもったけど、俺は五歳の時から二十年間、そこで海賊から逃げ惑いながら、路地に転がる死者を弔って、鎖を壊して奴隷を逃がして、街に流れる血と泥を自分の手で洗い流し続けてきたんだ」
ピタリ、と。
あれほど騒がしかった鬼ヶ島の大広間から、すべての音が消え失せた。
キングが肉を切ろうとしていたナイフが止まり、クイーンの口から葉巻がポロリと畳へ落ちた。うるティもブラックマリアも、杯を持ったまま石像のように凍りつき、信じられないものを見る目でマヤを見つめていた。
(ご、五歳から……!? 五歳の子供が、あの狂っていた大海賊時代の始まりのシャボンディで……二十年間ずっと死体を弔って、どぶさらいをしてきたですって……!?)
カイドウたちは、二十年前のあの時代を肌で知っている。
ロックスの残党や新興の凶悪海賊たちが群雄割拠し、シャボンディ諸島がどれほどおぞましい無法の魔窟と化していたか。大の大人や熟練の海兵ですら一日で命を落とすようなあの場所で、天竜人の血を引くわずか五歳の幼児が、特権も使わず泥水をすすりながら二十年間も生き延び、名もなき死者を弔い続けていたという事実。
マヤは語り終えると、カイドウの目を真っ直ぐに見て、ふっと小さく笑った。
「――というわけさ。昔のシャボンディ諸島のドブに流れてた血の色、おぼえてるだろ? あの時代を知ってるカイドウならよ」
カイドウは大きく目を見開いたまま、数秒間、言葉を発することができなかった。
過去の記憶の断片――かつてシャボンディを通り過ぎた際、血の匂いが立ち込める路地裏の暗がりで、泥まみれになりながら黙々と死体を運んでいた小さな赤髪のガキの影と、今目の前に座っている青年の姿が、初めて脳内で一つに繋がったのだ。
「……ああ……。まさか、あん時あそこでどぶさらいしてたガキが、お前だったのかよ……」
カイドウの低く掠れた声が、静まり返った広間に響いた。
「よく、生きてやがったな……。しかも、天竜人の身でありながら、あんな地獄の底で二十年もって……。まじで、お前やべーよ……」
百獣海賊団の幹部たちは、乾いた笑いすら出せなかった。
自分たちが「海賊の時代だ!」と暴れ回っていた裏側を突きつけられた衝撃と、五歳からあの地獄を生き抜いてきたこの青年が、一体どれほど底知れない『実力(覇気)』を秘めているのかという本能的な畏怖で、全員の食事の手が完全に止まっていた。
だが、その凍りついた大広間の中で、マヤ陣営のナミ、ロビン、レイジュ、たしぎ、コアラ、そしてCP10だけは、誰一人として手を止めず、いつも通りに穏やかな顔で食事を続けていた。
彼らにとってマヤの二十年はすでに知っている誇りであり、今さら驚いて箸を止めるようなことではなかったからだ。そのあまりにも鮮やかな「食卓の温度差」が、かえって百獣海賊団の面々の背筋を粟立たせた。
そして――その場にいる誰よりも深い衝撃を受け、魂を揺さぶられていたのが、マヤの隣に座るヤマトだった。
カラン、と乾いた音を立てて、ヤマトの手から箸が畳の上へと転がり落ちた。
ヤマトはぽかーんと口を開けたまま、すぐ隣にいるマヤの横顔から、一秒たりとも目を離すことができなかった。
五歳から、二十年間。
それは奇しくも、ヤマト自身が八歳の時に光月おでんの処刑を目撃し、拾った日誌を繰り返し読みながら「おでんに憧れ、おでんのようになろう」と願い続けてきた二十年間と、まったく同じ長さの時間だった。
だが、時間の長さは同じなのに、その中身はあまりにも違っていた。
ヤマトが読んでいたのは、過去の偉大な人物が残した『記録(文字)』だった。しかしマヤが積み重ねてきたのは、誰かに読ませるためでもなく、後世に英雄として名を残すためでもない、毎日目の前で失われていく命と向き合い続けた『現実』そのものだったのだ。
しかも、それほどの壮絶な過去を語り終えたマヤ本人は、誰かに同情を求めるでもなく、海賊たちに罪悪感を植えつけようとするでもなく、ケロッとした顔で自分の皿の焼き魚に箸を伸ばしていた。
「――おいカイドウ、お前またこっそり酒に手を伸ばそうとしてるだろ? 酒飲むなよ? まともに話できなくなるからよ?」
「う、うるせェな! これだけうまいもんが並んでんだ、一杯くらい飲ませろ!」
「だめだ、水にしとけって」
さっきまで二十年間の地獄の話をしていた男が、次の瞬間にはカイドウの飲酒を小言のように注意している。
その光景を見ていたキングやクイーンたち百獣海賊団の面々は、(ああ……だからこの天竜人は、うちの総督を『カイドウ』と呼び捨てにして対等に扱っていたのか……)と、妙な納得感を覚えていた。マヤはカイドウを見下しているのではなく、同じ時代を別の場所から生き抜いた一人の人間として、真正面から扱っているのだ。
そんな二人のやり取りをすぐ隣で聞きながら、ヤマトは自分の胸元を片手でギュッと押さえた。
先ほど客間で、マヤが「僕も悪い天竜人なんだ」「言葉一つで判断するな、一歩一歩だ」と笑って頭を撫でてくれた時の感触が、今になってまったく別の重みを持って蘇ってくる。
トクン、トクン、と。
ヤマトの胸の奥で、これまで二十八年間生きてきて一度も経験したことのないような、熱くて激しい高鳴りが鳴り響いていた。
(なんだ……これ……。なんだ、この胸の高鳴りは……)
おでんのように生きたいと願っていた自分が、おでんになろうとしていないのに、誰よりもその理想を現実の泥の中で体現してきた人間に出会ってしまった。
ヤマトはまだ、自分の胸を焦がすその感情にどんな名前をつければいいのか分からなかった。
ただ、さっきまでと同じ賑やかな食卓に座っているはずなのに、自分の見ている世界が、もうマヤと出会う前には二度と戻れないことだけを、ヤマトは熱くなった頬と共にぼんやりと噛み締めていた。