どぶさらいと天竜人と海賊   作:マイナーチョコ

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第54話:ぞうさん

 

トットランドからシャボンディ諸島の宮殿へと戻ったマヤは、旅装を解くよりも先に、別棟の医療研究区画へと足を運んだ。

 

陽光の差し込む明るい病室では、カヤ、マキノ、ビビ、そしてステューシーの四人が、ベッドの上のシュリ姫を囲んで穏やかに談笑していた。

五十数年間に及ぶイムの精神支配から解放されたシュリ姫は、ここ数日の手厚いケアによって記憶の混濁もすっかり薄れ、宮殿の温かい空気にだんだんと馴染んできていた。

 

「お帰りなさいませ、マヤ聖」

 

扉を開けて入ってきたマヤの姿を認めた瞬間、シュリ姫の双極の瞳(オッドアイ)がふっと柔らかに細められ、緊張していた肩の力が抜けていく。自分の乱れた波長を鎮めてくれるマヤの顔を見るだけで、彼女の心は深い安堵に包まれるようだった。

 

「おう、ただいま。シュリ、顔色がずいぶん良くなったな。みんなもいつもありがとうな」

 

マヤは丸椅子を引き寄せてベッドの脇に腰を下ろすと、部屋にいるカヤとマキノの顔を見渡した。

これまで東の海出身の二人がショックを受けないようにと伏せていたが、ワノ国での一件もあり、そろそろ現状を話しておくべきだと判断したマヤは、少しだけ声を落として口を開いた。

 

「……それとな、カヤ、マキノ。お前たちの故郷から海へ出た、あの麦わらの一味のことなんだが……正直に言うと今、あいつらは少しおかしなことになってる」

 

「えっ……? おかしなこと、ですか?」

 

白衣の胸元に手を当てて目を丸くするカヤと、赤ん坊を抱き直して息を呑むマキノ。

マヤはワノ国で起きた出来事――ルフィたちが計画性もなく資金を食い潰して荒れ果て、逆恨みと誤解からオロチに利用されて暴走した現状を、飾り気のない言葉で淡々と説明した。

 

「そ、そんな……ルフィが……? あのウソップくんたちも、ですか……?」

 

信じられないといった様子で言葉を失うマキノとカヤの隣で、すでに魚人島で彼らの変貌を目の当たりにし、手切れ金まで渡して決別していたビビは、マヤと婚姻を結びたいとすら思っている今の吹っ切れた心境のまま、あっけらかんと言った。

 

「まあ、無理もないと思いますわ。今のあの船には、ナミさんのような航海士も、生活やお金を管理できる人も不在ですからね」

 

「ええ、ビビ様の仰る通りね。自由と無秩序を履き違えた海賊が行き着く、ごく当然の末路だわ」

 

ステューシーも涼しい顔でビビに同調する。

マヤは少し沈んだ空気を振り払うように立ち上がると、女性陣に優しく声をかけた。

 

「まあ、向こうにはローもついてるし、死なない程度にはなんとかしてやるさ。お前たちはこっちで、今まで通りうまくやっててくれな。俺はロビンの付き添いで、また少し旅に出ないとなんだ。……しかし、最近は忙しくて、朝のどぶさらいをする暇がなくてな」

 

マヤが残念そうに頭を掻くと、ステューシーがふふっと微笑んで言った。

 

「あら、それならご安心くださいな。マヤ聖がお留守の間、シャボンディの街の方々が自分たちで掃除道具を持ち寄って、水路の掃除をやっておいででしたよ」

 

「……え? 街のあいつらがか……」

 

マヤは一瞬目を瞬かせたあと、これまで二十年間流してきた汗が報われたかのように、雲間から差す太陽のような眩しい笑顔を浮かべた。

 

「……そっか。いいやつらだよ、ほんとに」

 

そのあまりにも無防備で温かい笑顔に、シュリ姫も、カヤも、マキノも、ビビも、そしてステューシーまでもが、一斉に胸の奥を撃ち抜かれたようにドキッと息を呑んで頬を赤らめた。

 

その後、本館の大サロンへと戻ったマヤは、ナミ、ロビン、たしぎ、レイジュ、ヤマト、そしてCP10を交えて、次なる目的地についての会議を開いた。

 

先日、ワノ国の地下で光月スキヤキから赤い石の説明を受けた際、スキヤキは白髭を撫でながらこう語っていたのだ。

『光月家と古くから兄弟の契りを結んでおるミンク族の地――幻の島「ゾウ」にも、もう一つのロードポーネグリフが保管されておる。ロビン殿が歴史を紐解くのであれば、ぜひ訪れてみるとよいじゃろう』

 

テーブルの上に広げられた新世界の海図を覗き込みながら、マヤがロビンに確認する。

 

「そういえば、ワノ国のあのじいさんが言ってたろ? 次はその場所へ行くんだよな」

 

「ええ、そうね。『ゾウ』っていう場所にあるみたいね。獣人のミンク族という種族が暮らしているらしいけれど」

 

「へぇ〜、ゾウさんってなんだろうな? そういう名前の島か?」

 

首を傾げるマヤに、ロビンは呆れたように微笑んだ。

 

「ふふ、そういう事じゃないと思うわよ? マヤ。……まあそうね、貴方はそういう世界の謎には興味がないものね」

 

「それよりさ、ワノ国を出る前にローのやつにまたうまいこと金を渡したけどよ、あいつらあの船でどこに行くんだろうな。サニー号だっけか、外装は綺麗なのに中身はだいぶボロボロだったろ」

 

マヤが腕を組んで呟くと、眼鏡をかけたレイジュが手元の資料をめくりながら答えた。

 

「そうですね、彼らの行動は計画性がないため予測ができません。ただ、ワノ国近辺の海域から移動するとなれば、一度ドレスローザ方面へ戻って船を修理するか、あるいは近くの島で職人を雇って修理をしないといけないと思います。……秘書としての発言ですけど」

 

「そうだよな、あの時渡した金で船の修理代まで足りるかね。財宝も少し混ぜて渡しておいたけど、ワノ国でのローのあの胃を押さえてた顔、悲惨すぎたからな……」

 

スパイの過酷な労働環境に同情しつつ、マヤたちは準備を整え、再び全長百五十メートルの超高速船でシャボンディ諸島から出航した。

 

新世界の深い霧が立ち込める海域。

マヤの巨艦の周囲には、海面から顔を覗かせる高さ十二メートルの人魚姫・しらほしの姿もあった。「宮殿のプールで留守番しているより、俺の目の届く船の周りにいる方が安全だろ?」というマヤの言葉で、彼女も海中の散歩がてら同行していたのである。

 

やがて霧の向こうから、海面を揺るがすような重低音と共に、信じがたいほど巨大な「影」が姿を現した。

それは島ではなかった。海底から海面を突き抜け、上空一万メートルの空島すら遥かに凌駕する『全長二万メートル以上、体長三万五千メートル以上』の超巨大な象――およそ八百年前の「空白の百年」に犯した罪の罰として、千年間ただ海を歩き続けることしか許されない幻の巨象『象主(ズニーシャ)』だった。

 

ズニーシャが一歩足を踏み出すたびに、海面には巨大な引き波と渦潮が発生する。普通の帆船であれば近づくことすらできず木の葉のように転覆してしまう海域だったが、ナミの完璧な操舵指示を受けた超高速船は、荒れ狂う波をいとも容易くいなしながら巨象の足元へと接近していった。

 

甲板の手すりから雲の上まで続く柱のような脚を見上げ、CP10が思わず声を漏らした。

 

「でけー……なんだありゃ……」

 

「でも、この船だと引き波の中でも意外と安定してるわね。ベガパンクのエンジンに、私の航海士の腕を教えてあるからね!」

 

ナミが胸を張ると、隣で潮風に吹かれていたたしぎも、ずり落ちそうになる眼鏡を指で押さえながら目を丸くした。

 

「はい、本当に大きいですね……見上げているだけで首が痛くなりそうです」

 

「しかし、あのでかさだと、お前らの『月歩』で背中まで上がっていくのも相当きついな」

 

マヤの言葉に、CP10は苦笑して顎を摩った。

 

「まー、二万メートルを月歩だけで上がるのはどうなんでしょうね。俺ならメラメラの推進力でたぶん飛んでいけるかな? とは思いますが」

 

「しかし、ゾウって何だこれ、島全部が本物のゾウってことなの? 不思議だね」

 

その時、見聞色を広げていたマヤとCP10が、巨象の遥か上空――背中に広がる『モコモ公国』の端の方に、見覚えのあるライオンの船首像を持つ海賊船が引っかかるように停泊しているのに気づいた。

実は麦わらの一味のサウザンド・サニー号は、マヤたちより一足先にこの海域へ迷い込み、上陸手段がない中で無茶苦茶な『クード・バースト』をぶっ放した結果、船の精霊の執念とご都合主義的な強運によって二万メートルの上空まで飛び上がり、奇跡的に背中へと不時着していたのである。

 

そして今、巨象の足元にマヤの百五十メートル級の白銀の巨艦が姿を現したことで、上から見下ろしていたミンク族の哨戒兵たちが「な、なんだあの巨大な船は!?」と警戒を強め、船の修理をしていたルフィたちもその存在に気づいた。

 

「あっ!! あのデケェ船、ワノ国にいた悪い天竜人の船じゃねェか!! あの野郎、俺たちを追いかけてきやがったな!!」

 

ルフィが拳を握って騒ぎ出すと、すぐ隣にいたローが、血相を変えてルフィの肩を掴んだ。

 

「おい待て麦わら屋、今は戦わないほうがいいだろ!? ワノ国でのあの恥を、またここで晒す気か? 今はボロボロの船の修理が先だろうが!!」

 

「ぐっ……た、たしかに、ここで船が壊れたら海に出られねェな……」

 

ゾロやサンジ、ウソップたちも全員ローの意見に賛同し、一味は武器を収めて様子を窺うことにした。

だが、冷静に制止したロー自身の内心は、まったく別の感情で渦巻いていた。

(――マヤ聖、俺を追ってきてくれたんですね!! ありがたい、本当にありがたい……! ワノ国でいただいた資金も、サニー号の修理費とルフィたちの暴飲暴食でもうすっからかんなんです……! すいません、すいませんマヤ聖……!)

 

一方、下から極限の見聞色でその様子を察知していたマヤは、呆れたように呟いた。

 

「おい、上を見ろよ。ローのやつ、なんでまたあんなに胃を押さえてんだよって」

 

隣に立つレイジュが、涼しい顔で即座に分析を述べる。

 

「早くも金が尽きたのでしょうね。あの船は五十メートル級ですから、大破した船体の修理代だけでも莫大です。おそらく食費ももう残っていないのでしょう。……秘書としての判断です」

 

すると、操舵席から降りてきたナミが、ジト目でレイジュを睨んで腰に手を当てた。

 

「ちょっとレイジュ、さっきから『秘書押し』がすごいわよ? あなたがマヤのこと狙ってるのはわかるけど、いくらなんでも露骨よ?」

 

その横で、今日から同行しているヤマトが、上のサニー号を指さしながらきょとんとして言った。

 

「お、ほんとだ、ワノ国にいたあいつらもいるじゃないか! ……ところでナミ、『露骨』ってなんだ? レイジュが秘書を頑張るのはいいんじゃないか?」

 

「……まー、なんでもいいけど、これじゃローにまた金を渡すことになるのか? あとでガープのじいさんに連絡しとくわ」

 

マヤはやれやれと肩をすくめると、船首のすぐ目の前にそびえ立つ、岩山のようにゴツゴツとしたズニーシャの巨大な左前脚へと視線を戻した。

 

その瞬間だった。

六歳の頃からシャボンディの死線で「泣いている者の声」を拾い続けてきたマヤの極限の見聞色と天性の『万物の声』が、目の前の巨象の奥底から響いてくる、声なき慟哭を捉えた。

それは、八百年以上前の時代に課せられた「罰のプログラミング」によって、死ぬことも立ち止まることも許されず、千年間ただ孤独に暗い海を歩き続けてきた生き物の、限界を超えた疲弊と悲鳴だった。

 

マヤは難しい歴史の理由など考えなかった。ただ、目の前で苦しんでいるでかい生き物がいたから、船首から身を乗り出し、仲間たちに軽く言った。

 

「でけー、ぞうさんじゃねーか。せっかく来たんだ、ちょっと触っていかない?」

 

そう言ってマヤは、船首の近くを通りかかったズニーシャの巨大な脚の皮膚へと、自分の右手をそっと重ねた。

 

――トクン、と。

マヤの手のひらから、無意識のうちに固有物理法則『NMER(核磁気電気共鳴)』の波長と、どこまでも温かく広大な『包容の覇王色の覇気』が静かに流れ出した。

千年の間、強制的な原子運動スピンによって「歩き続けろ」とロックされ、ひび割れて悲鳴を上げていたズニーシャの脚の細胞・分子結合が、マヤの共鳴波長によって瞬時に修復・解放されていく。それと同時に、太陽のような慈愛の覇気が、千年間積み重なってきた巨象の孤独と痛みを丸ごと包み込んで溶かしていった。

 

ズズズズズ……ッ!!

次の瞬間、世界の常識を覆す奇跡が起きた。

光月モモの助の命令を受けたわけでも、誰かに武力で制圧されたわけでもない。生まれて初めて「罰の痛みが消え、心が救われる」という衝撃を味わった象主ズニーシャが、自らの意志によって、千年ぶりにその巨大な歩みをピタリと静止させたのである。

 

「「「な、なんだァァーーーッ!? 島が、象主(ズニーシャ)様の足が止まったぞォォーーーッ!?」」」

 

背中のモコモ公国中で、ミンク族たちの驚愕の叫び声がこだました。千年もの間、一度たりとも止まることのなかった大地が静止したのだ。船を修理していたルフィたちも「うわああ、地面が止まったぞ!?」と尻餅をつく。

 

さらに、静かに足を止めたズニーシャは、嬉しそうに目を細めると、雲の上から長さ数万メートルにも及ぶ巨大な鼻を海面のマヤたちの船へとゆっくりと差し出し、まるでエレベーターのように船の上の一行を乗せて、背中にあるモコモ公国の入り口へと安全に送り届けたのだった。

 

モコモ公国の広場へと降り立ったマヤ、ナミ、ロビン、たしぎ、レイジュ、ヤマト、CP10の七人は、集まってきた大勢のミンク族たちの真ん中で周囲を見渡した。

少し離れた造船所では、ルフィたちがピリピリした空気でこちらを睨んでいる。

マヤはそんなルフィたちを一瞥もせず、ミンク族の群衆に向かって気軽に声をかけた。

 

「なあ、ミンク族の偉い奴と話がしたいんだが、誰だ?」

 

すると群衆が左右に割れ、そこから二人の巨大なミンク族――昼の王・イヌアラシ公爵と、夜の王・ネコマムシの旦那が、武器を持たずに進み出てマヤの前に並び立った。

 

この世界では、ドフラミンゴとシーザーが早期に排除されてSMILEが存在せず、百獣海賊団のジャックが雷ぞうを探してゾウを襲撃するという悲劇も起きていなかった。

それどころか、光月家と深い契りを結ぶ二人の王の元には、すでにワノ国のモモの助とスキヤキ、さらにはカイドウ側からも『天竜人のマヤ聖がオロチを倒してワノ国を救ってくれた。近くロビン殿を連れてゾウへ向かうゆえ、失礼のないように』という連絡が事前に届いていたのである。

そのうえ今、マヤが千年歩き続けていた象主(ズニーシャ)の苦しみを癒やして足を止めさせ、ズニーシャ自身が鼻を下ろしてマヤたちを迎え入れた光景を目の当たりにした二人の王にとって、マヤは警戒すべき相手どころか、国を挙げて歓迎すべき最大の恩人だった。

 

イヌアラシが帽子を胸に当て、深々と頭を下げて口を開いた。

 

「……お前さんがマヤ聖か。ワノ国にてモモの助様を導き、国を救ってくれたこと、我らミンク族も言葉では言い尽くせぬ恩義を感じている」

 

「いや、俺は別に大したことはしてねェよ。それより、あっちにいるあいつ(ルフィ)らの船、ボロボロでな。俺が直接近づくとあいつら無駄に荒れるから、連れのローって男に資金を渡して、ミンク族の職人に修理を手伝ってもらうよう頼んである。時間をかけてしっかり直してやってくれ」

 

それを聞いたネコマムシが、腹を抱えて豪快に大笑いした。

 

「ガハハハハ! 天竜人でありながら、自分を敵視するあやつらの尻拭いまでして裏から資金を出すとは、噂通りつくづく規格外の男じゃのう! 船の職人の手配などお安い御用ぜよ!」

 

「おう、助かる。あと、ここに赤い石(ロードポーネグリフ)があるんだろ? ロビンがそれを見たいって言うから付き添ってきた。……俺は、その『うつし』が欲しいだけなんだが、構わないか?」

 

マヤが単刀直入に尋ねると、イヌアラシは感服したように頷いた。

 

「……ただの『うつし』か。世界の覇権を握ろうとする海賊たちなら、石そのものを奪おうとするか、我らを力で脅すところだが……。今しがた象主様をも癒やしてくれたお前さんのような慈愛の塊の男に、拒む理由など何一つない。ロビン殿と共に、クジラの樹の奥へ案内しよう」

 

本来なら顔を合わせるだけで喧嘩を始めるはずのイヌアラシとネコマムシが、揃ってマヤに頭を下げる。

マヤは二人の王と、そして遠くでこちらを見ているルフィたちの耳にも届くような声で、静かに言った。

 

「お前らは、なるべく仲良くしろよ? 民なくして人はなしだ」

 

その言葉を残し、マヤはナミ、ロビン、ヤマト、レイジュ、たしぎ、CP10を連れて、二人の王の案内でクジラの樹の奥へと歩いていった。

造船所の前にいたルフィは、かつての仲間であるナミとロビン、そしてワノ国で出会ったヤマトやレイジュたちが、マヤの隣で楽しそうに笑いながら遠ざかっていく背中を、ただ悔しそうに突っ立って見ていることしかできなかった。そしてその隣で、ローだけはマヤの気遣いに胸を打たれ、なぜか今にも泣きそうな顔で目頭を押さえていた。

 

クジラの形をした巨大な樹の内部へと入り、厳重に守られた秘密の部屋へと辿り着くと、ロビンは早速そこにあるロードポーネグリフの拓本を取り始めた。

 

作業を見守るイヌアラシが、改めてマヤに尋ねる。

 

「マヤ聖、本当にこの写しだけでいいんですかい? 我らに何か他に求めることはないのか?」

 

「そうだな、これだけの為に来たからな。それに、下ででっかいゾウさんにも直接触れられてうれしかったからな」

 

「ぞうさんって……あの象主様をそう呼ぶとは、本当に凄いお方ですな」

 

ネコマムシが目を丸くすると、隣に立つレイジュが微笑みながら補足した。

 

「マヤ聖は、普段は少し頭天竜人なところがあるのですが、誰に対しても優しいお方です。……秘書として見た限り」

 

すると、横で聞いていたヤマトがパッと顔を輝かせ、胸を張って大きく頷いた。

 

「そうだぞ! マヤは優しい! 秘書として!」

 

ヤマトの自信満々な謎の活用に、ナミがガクリと肩を落としてツッコミを入れる。

 

「ほらレイジュ、ヤマトが変な言葉おぼえちゃったじゃない……。全然違う変な使い方になってるし……」

 

石碑の前で墨を動かしていたロビンも、手が止まりそうになるのを堪えながら、苦笑混じりに呟いた。

 

「ちょっと、私今、すごく大事な歴史に触れてるんだけど……もう……」

 

そんな女性陣のやり取りの横で、マヤはしみじみと頷いて続けた。

 

「いやあ、俺はぞうさんに触れられて本当に嬉しかったしな。触ったら、ゾウもなんか軽くなったって喜んでたよ」

 

その何気ない一言に、イヌアラシとネコマムシの二人が同時にハッと息を呑み、信じられないものを見る目でマヤを振り返った。

 

「「なんですと!? マヤ聖、今、象主(ズニーシャ)様の声が聞こえたのですか!?」」

 

「ん? 何が? 聞こえたっていうか、感じた感じかな? ああ、でもさっき下で『乗っていいよ』とは言われたな? 誰の声かはわからないけど、あれって上から見てたお前らの誰かが言ったんじゃないの? そうしたら長い鼻が降りてきて、ここまで上がってきたわけだしな」

 

あっけらかんと語るマヤの言葉に、イヌアラシとネコマムシの瞳から、みるみるうちに熱い涙が盛り上がった。

千年もの間、誰とも言葉を交わせず、ただ罰に従って歩き続けていた主(ズニーシャ)が、この青年の慈愛に触れて自ら足を止め、『乗っていいよ』と語りかけて鼻を差し出したというのだ。しかもマヤ本人は、それを特別な奇跡だと誇るつもりすら微塵もない。

 

大粒の涙をこぼしそうになる二人の巨漢を見て、マヤは慌てて両手を振った。

 

「えーーーっ、うそ……俺、なんか言っちゃだめなこと言った? 触っちゃだめだった?」

 

「ち、違うのですマヤ聖、違うのです……っ!」

 

イヌアラシが目頭を拭い、ネコマムシもグスッと鼻をすすってイヌアラシと顔を見合わせた。

 

「ただ、象主様のお気持ちを知って……わしら二人も、昔の確執など捨てて、これからはマヤ聖の言う通り仲良くやっていこうと思った次第ですぜよ!」

 

長年いがみ合っていた昼と夜の王が、マヤの言葉を通じて完全に和解した瞬間だった。

レイジュがすかさず、困惑しているマヤに向かって涼しい顔で解説を入れる。

 

「お二人の長年の和解、ということですね。その『ぞうさん』を通じてですね。マヤ聖に歴史的背景から説明するのには少し難しいので、そういう解釈でいいかと……秘書として」

 

「おお、二人が仲良くなったのはいいな! 秘書だ!」

 

ヤマトが再び満面の笑みで親指を立て、ナミは無言で天を仰いだ。石碑の前のロビンは「…………」ともう何も言わずに拓本作業へと集中した。

 

ロビンの作業が終盤に差し掛かったところで、マヤはふと思い出したようにイヌアラシとネコマムシを手招きし、懐からずっしりと重い資金袋を取り出して二人に押し付けた。

 

「そうだ、お前らに一つ頼みがある。あっちの麦わらの連中の中に、白い斑模様の帽子を被った男(ロー)がいたろ? あいつにさ、この金と資金をうまいこと渡してくれないか?」

 

「む? 先ほども修理代を渡したとおっしゃっていましたが、さらにですかな?」

 

「ああ、あいついつも胃が悪そうでよ、見ててかわいそうだろ? 船の修理代はすでにもらってるだろうけど、これはしばらくの航海費用なんだ。俺からだって言うとあの船長が騒ぐから、お前たちミンク族からの『見舞金』って形でな、お前たちがあいつの胃痛を見てられなかったってことにして渡してくれな?」

 

その言葉を聞いた瞬間、イヌアラシとネコマムシは再び雷に打たれたように震え上がった。

 

「えっと……なるほど、確かに先ほどあの船長には一方的に嫌われている感じでしたものね……。それなのに、敵の海賊船にいる男の胃痛まで見抜いて、相手の立場を傷つけぬよう遠回しに見舞金を渡すなど……なんと高潔なお方か……!」

 

「そうですな、その底なしの慈愛があったからこそ、ズニーシャ様にも通じたのですな……うっ、うおおおんっ!!」

 

ネコマムシが感動のあまり号泣し始め、マヤはポカンとした顔で固まった。

(……さっきから言ってる、ズニーシャってだれだよ)

 

「マヤ聖、お顔にそのまま『誰だよ』って出てますよ……その、秘書として」

 

レイジュが小声でツッコむと、ヤマトが「ん? マヤの顔に何か出てるのか? どうした?」と覗き込んでくる。

ナミは呆れたように笑いながら、ヤマトの腕を引いた。

 

「いいのよ、ヤマト。いつものように、マヤが困ってる人を見過ごせないってだけよ」

(まあ、本当はあのローくん、マヤが送り込んだ潜入スパイなんだけどね)

 

そして、すっかり学者モードに切り替わっていたロビンが「マヤ、写しが綺麗に取れたわよ」と笑顔で戻ってきたことで、一行はモコモ公国から帰路につくことになった。

 

再びズニーシャの巨大な鼻に乗せてもらい、海面に停泊する白銀の超高速船の甲板へと降り立った時だった。

穏やかに再び自分の意志で歩き始めたズニーシャの奥底から、マヤの心へと『……ありがとう、優しい人よ……』という温かな感謝の波動が響いてきた。

 

マヤはそれを、上から見送ってくれているミンク族たちの誰かの声だと勘違いし、甲板からモコモ公国の上空に向かって大きく手を振って叫んだ。

 

「なんかわからないけど、ありがとうよー! ミンク族のみんなー!」

 

「「「え?」」」

 

上から見送っていたミンク族の戦士や住民たちは、自分たちの誰も何も叫んでいないのにマヤが「ありがとう」と返事をしたことに、きょとんとして顔を見合わせた。

「おい、今誰かマヤ聖に声をかけたか?」「いや、誰も何も言ってないぞ……?」「じゃあマヤ聖は、誰のお礼に返事をしたんだ……?」と不思議なざわめきが広がっていく。

 

離れた造船所からそれを見ていたルフィは、鼻をほじりながら吐き捨てた。

 

「なんだあいつ、誰も喋ってねェのに一人で返事してやがる。あいつ、やっぱり頭おかしいな! 悪い天竜人だしな!」

 

その瞬間、隣にいたローの額に太い青筋が浮かび上がり、ルフィの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで吠えた。

 

「お前がいうなよ!? まじでさ!! この世で一番お前がそれ言うなよ!!」

 

「まったくだ、ルフィ。今のはどう考えてもお前が言うセリフじゃねェぞ」

「完全に同意だ、トラ男の言う通りだぜ」

「そうですよルフィ、お前が一番頭おかしいぞ!」

「ヨホホホ、耳が痛いお話ですねぇ!」

 

ゾロ、サンジ、チョッパー、そしてブルックまでもが一斉にローへ深く同調し、ルフィに冷ややかな視線を浴びせた。

 

やがてマヤの超高速船が白い航跡を残して水平線の彼方へと去っていったあと、イヌアラシとネコマムシの二人が、造船所にいるローの元へと歩み寄ってきた。

 

「あの、その……トラファルガー・ローって方ですね。先ほどから拝見していると、ずいぶんと胃を悪くなさってますよね。これは我らからのせめてもの餞別です。どうかこちらを受け取ってください。この良き日の贈り物です」

 

イヌアラシが差し出したのは、ずっしりと金貨が詰まった大きな革袋だった。

さらにネコマムシがニコリと笑い、「あとはみなさんにも、あとで温かい食事でも用意しますよ」と言ったあと、ローの耳元へ顔を近づけて、他の仲間には聞こえない極小の声でそっと囁いた。

 

「(……あの方からですぜよ)」

 

「…………っ!!」

 

ローの息が詰まった。

革袋を受け取ったローの手がわなわなと震え、自分が資金繰りの地獄で苦しんでいることをすべて見抜いたうえで、スパイとしての立場を一切傷つけない「ミンク族からの胃痛の見舞金」という完璧な形で救いの手を差し伸べてくれたマヤ聖の深い慈愛に、ローは片手で胃を押さえたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼした。

 

急に泣き出したローを見て、チョッパーが慌てて駆け寄る。

 

「ええっ!? そんなに胃が痛かったのかロー!? おれが診てやろうか? ……って、ローも医者だったな! でも、そのお見舞いのお金があれば薬も買えるし平気だな!」

 

すると、隣で革袋の中の金貨を見たルフィが、パッと目を輝かせてよだれを垂らした。

 

「おおっ、すげェ金だ!! これだけありゃ、また腹いっぱい肉が食えるな! その金もあるし、ミンクの奴らが宴もしてくれるみたいだしな! しししし!」

 

ローにとってはまさに命綱であり、マヤ聖の涙ぐましい配慮が詰まったその資金を、ただの自分の「肉代」としてしか見ていないルフィの言葉に、涙を拭っていたローも、そしてゾロやサンジたち一味の全員も、(……こいつ、まじか……)という氷のように冷めきった目でルフィを見つめるのだった。

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