エレジアから白銀の超高速船がシャボンディ諸島へと帰還すると、ウタは本館のサロンで、マヤの手によって背中に『Sと龍』が絡み合う特注の刻印を授かった。
痛みも熱さもないまま、マヤの固有波長である『NMER』と温かい覇気が背中から全身へと広がった瞬間、ウタの胸の奥で十二年間ずっと黒く渦巻いていた『トットムジカ』の残滓――孤独と罪悪感が生み出した怨念のような塊が、陽だまりの中の氷のように音もなく溶けて消えていった。
それから数日間、宮殿でマヤや仲間たちと共に過ごすうちに、ウタは少しずつ理解し始めていた。
海賊の略奪や権力者の横暴に苦しむ民衆の悲鳴を聞き、「どうにかして人々を救いたい」と願った自分の出発点は、マヤとまったく同じ場所あったのだということを。ただ、自分は現実から目を背けて人々を眠らせようとし、マヤは苦しい現実のど真ん中に踏みとどまって、人が生きていける場所を実際に作り続けてきた。
その決定的な違いを、ウタが本当の意味で目の当たりにする朝がやってきた。
ヤシの木の梢から幾千ものシャボン玉が昇り、朝の光を浴びて七色に煌めくシャボンディ諸島の無法地帯エリア。
普段は宮殿の奥で静養していたシュリ姫も、今朝はすっかり体調と記憶が安定し、「私もみんなと一緒に外の空気を吸ってみたいわ」と微笑んだことで、今日は屋敷にいるメンバー全員で街へと繰り出すことになった。
袖をまくったラフなシャツ姿のマヤを先頭に、ナミ、ロビン、ヤマト、そして新しく加わったウタ。
その周囲を護衛のたしぎとCP10、秘書のレイジュが固め、さらに後ろからはバスケットを持ったコアラ、日傘を差したステューシー、フード付きのケープで軽く変装した王女ビビ、白衣ではなく可愛らしい私服姿のカヤ、胸に赤ん坊を抱いたマキノ、そして穏やかな足取りのシュリ姫までがずらりと続いていく。
「わあ……っ、すごいシャボン玉! でも、こんな朝早くにみんなで街へ出て、これから何をするの?」
キョロキョロと周囲を見回すウタに、隣を歩くナミとロビンは「見ていればわかるわよ」とだけ言って優しく微笑んだ。
やがて一行は、街の広場を横切る大きな水路のほとりへと辿り着いた。
するとマヤは、水路の脇の倉庫から使い込まれた長い柄の網とバケツ、そしてデッキブラシを取り出すと、何のためらいもなく長靴を履いて水路の中へとジャブジャブと降りていった。
そのまま腰を屈め、水底に溜まった泥や落ち葉、海流で流れ着いた木片を黙々と網ですくい上げ、石積みの壁をブラシでゴシゴシと磨き始めたのである。
「……え? あれ、マヤ……なにやってるの?」
ウタが目を丸くして立ち尽くす。
世界最高権力者であるはずの天竜人が、誰に命じるでもなく、自ら泥水に手を入れて水路の掃除をしている。
ナミやロビン、たしぎ、レイジュ、コアラ、そしてCP10といった古参のメンバーたちは、慣れた様子でバケツを受け取ったり周囲を見守ったりしていたが、その光景を初めて直接目にしたウタ、カヤ、マキノ、そしてシュリ姫の四人は、信じられないものを見るように息を呑んでいた。
水路の縁にしゃがみ込んだヤマトが、マヤの背中をじっと見つめながら、ウタたちにも聞こえる声で静かに言った。
「……これが、ワノ国でマヤが話してくれた『どぶさらい』なんだな」
ロビンがウタの隣に立ち、穏やかな声で教えてくれた。
「ええ。今から二十年前、海賊王ロジャーの言葉で大海賊時代が始まったばかりの頃、このシャボンディ諸島は無法な海賊たちの殺し合いと人攫いで溢れ返っていたわ。当時まだ五歳だったマヤは、毎日この水路に浮かぶ名もなき人々の亡骸を引き上げて弔い、血と汚泥で詰まった水路をたった一人で掃除し続けてきたの。……この島で生きる人たちが、明日も息をして笑えるようにね」
「五歳の時から……二十年間、ずっと……?」
ウタの胸の奥が、ギュッと音を立てて締め付けられた。
カヤが口元を手で覆い、マキノが赤ん坊を強く抱きしめて瞳を潤ませる。
ウタはこれまで、画面越しの歌配信で届く民衆の悲痛な声に絶望し、「誰もこの現実を救ってなんてくれない、だから私が歌の世界へ連れていくしかない」と思い詰めていた。
けれど、自分の知らないこの場所で、天竜人であるはずの青年が二十年間、一日も休まずに泥をすくい、人を助け、現実の街そのものを守り続けていたのだ。
(……そっか。こういう救いもあるんだね……。私は、間違ってたんだ。辛い現実からみんなを眠らせて目を背けるだけじゃ、何も変わらないんだ……)
ウタの大きな瞳から、温かい涙が一筋、ポロリと頬を伝ってこぼれ落ちた。
彼女は袖で涙を拭うと、一歩前へと進み出て、水路の中で汗を流しているマヤのすぐ横の石畳に立った。
そしてウタは、深く息を吸い込むと――『ウタウタの実』の能力を一切使わない、生まれたままの澄み切った生身の歌声で、朝の空へ向かって伸びやかに歌い始めた。
誰かを眠らせるための歌ではない。
今この現実で働き、生きている人の背中をそっと支えるような、明るく力強いメロディがシャボンディの街並みに響き渡る。
水路の中でブラシを動かしていたマヤが、ふと手を止めて顔を上げた。
心地よいウタの歌声を聞きながら、マヤは額の汗を拭い、太陽のように眩しい笑顔を浮かべて言った。
「――幸せってのは、いいもんだな」
その言葉に、バケツを持っていたナミとロビンが顔を見合わせて微笑んだ。
「ええ、今はもう、どぶがこんなに綺麗ですもんね」
水路の澄んだ水面を覗き込んだヤマトも、感極まったように拳を握りしめて叫んだ。
「そうか、これが昔は『血のどぶ』だったんだね……。ここまで綺麗にしたマヤは本当に凄いよ。大好きだ!」
いきなり大声で愛の告白をしたヤマトを見て、隣で手帳を持っていたレイジュが眼鏡をくいっと押し上げた。
「……秘書的に見て、ヤマト様はなかなかの強敵な感じですわね。もうすでに自称『お嫁』となってますし」
その飾らないやり取りと、天竜人がどぶさらいをしながら笑っている光景に、初めて見るカヤやマキノたちは驚きつつも、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。
ウタの歌声に引き寄せられるように、朝市へ向かう街の住民や職人、食堂の店主たちが次々と水路の周りへと集まってきた。
彼らは天竜人であるマヤを見ても怯えるどころか、親しい隣人を見るような笑顔で手を振った。
「おう、マヤ聖! 今朝も精が出ますね!」
「そっちの綺麗な姉ちゃんたち、いつものマヤ聖の大事な人たちかい! 素敵な歌をありがとうよ、今度みんなでうちの店に飯食いに来てくれよな!」
「おう、ありがとうな! また今度、大勢でお邪魔するわ!」
マヤが気さくに手を振り返す。
するとそこへ、白いパラソルを差した金髪縦ロールの天竜人の少女――マヤの幼馴染であるシャルリア宮が、護衛を連れて通りかかった。
シャルリア宮はマヤの周りにいる新しい顔ぶれの美女たちを見るなり、ツンと顎を上げて言った。
「まあ、マヤお兄様ったら、少し見ない間にまたこんなに女性をふやして! ……ま〜いいアマス。どうせ全部、マヤお兄様の所持品なのでしょ?」
マヤは水路から上がって手を洗うと、シャルリア宮の頭をポンと軽く撫でて笑った。
「所持品じゃねえよ、みんな大事な家族だな。……もちろん、シャルリアもな」
「やれやれ、マヤ聖の天然のたらしには、本当にかないませんね」
後ろでCP10が肩をすくめて苦笑する横で、不意打ちを食らったシャルリア宮は、耳の先まで真っ赤に染めて「なっ……! お兄様のバカえ!」と扇子で顔を隠してしまった。
その時だった。
水路の先にある入り江の海面がザパァンと大きく揺れ、そこから巨大なピンク色の髪をした美しい人魚――身長十二メートルのリュウグウ王国王女・しらほしが、ひょっこりと顔を出した。その白い左肩には、みんなと同じ特注の刻印が輝いている。
「マヤ様〜、皆様〜! また朝からお掃除をやってるんですね!」
「「「えええええええっ!? で、でっかい人魚ーーーっ!?」」」
建物ほどもある巨大な人魚姫の登場に、初めて見るヤマトとウタ、そしてカヤとマキノが目を飛び出させて仰天した。ヤマト以外の古参メンバーはすでに魚人島や宮殿のプールで何度も会っているため、「あら、おはようしらほしちゃん」と普通に手を振っているのが、なおさらヤマトたちの驚きを際立たせていた。
賑やかな笑い声が飛び交う中、歌い終えたウタは自分の胸にそっと手を当て、弾けるような笑顔で言った。
「……私、今すごく幸せだ! マヤのこと、ちょっといいかもってわかった気がするよ!」
すると、しらほしの大きさに驚いていたヤマトが、すぐさまウタの方を向いて胸を張った。
「『ちょっと』じゃないぞウタ! マヤは僕のお婿さんだからな!」
張り合う二人の様子を見て、すでに公式な婚約者としてマヤの寵愛を受けているナミとロビンは、正妻ならではの余裕たっぷりの笑顔で声をかけた。
「ふふ、ヤマトもウタちゃんも、これからがんばってね」
「ええ、それにヤマト、最近はもう『おでん』って言わないの、とてもいいわよ」
「うん! 僕は僕だけど、これからは自分の足で、おでんの理想をもとめるってことにしたんだ!」
そんな明るいやり取りから少し離れた水路のほとりで、日傘の下に立っていたシュリ姫が、マヤの泥のついた手を見つめながら、双極の瞳から静かに涙をこぼしていた。
「マヤ……あなたは、こんな泥臭いことを二十年間もずっとしてきたのね……。私たち一族の業まで背負わせて、本当に苦労をかけるわ……」
シュリ姫がマヤの手にそっと触れると、片目だけが赤色である彼女と、両目とも赤色の完全体であるマヤの間で、固有物理法則『NMER』の波長が心地よい音楽のように優しく共振し、彼女の涙を温かく包み込んだ。
マヤはシュリ姫の手を握り返し、穏やかな声で言った。
「苦労なんてしてねえさ。シュリ、本当によかったよ、こうやって太陽の下へ外に出られるようになって。……これからも、明日もともに生きような!」
マヤの言葉に、その場にいた全員が力強く頷いた。
「さあ皆様、お掃除が終わったら冷たいお茶とお菓子にしましょう! 私、朝からたくさん焼いてきたんです!」
コアラがバスケットを掲げて声を上げると、変装のフードを少し上げたビビも笑顔で頷く。
「ええ、マキノさんが淹れてくれた特製のお茶もあるのよね?」
「はい、赤ちゃんもスヤスヤ寝ていますし、皆さんでゆっくりいただきましょう」
マキノが優しく微笑み、カヤとステューシーも「シュリ様も、あまり立ちっぱなしだとお身体に障りますから、あちらのベンチへ参りましょうね」と寄り添う。
「あ、マヤ聖! 水路の向こう側にまだ少しゴミが残っていますので、私とCP10さんで片付けてきます!」
「おいおい、たしぎ、急に走るなよ。転んでまた眼鏡を割るぞ」
どこまでも澄み渡った青空の下、シャボン玉が舞い上がる水路のほとりに、マヤと大切な家族たちの他愛のない笑い声がいつまでも温かく響き渡っていた。