朝の爽やかな潮風が吹き抜ける、シャボンディ宮殿の裏庭に設けられた広大な修練場。
昨日、CP10から「たしぎが『妖刀神鬼』の真髄を掴みたがっている」と聞いたマヤは、朝から木刀を片手に修練場の中央へと立っていた。
その向かいでは、道着姿のたしぎが愛刀『神鬼』の柄を握りしめながら、眼鏡の奥の瞳を潤ませて耳の先まで真っ赤に染めていた。
(ま、マヤ聖と二人きりの特別指導……! 昨日、サロンでレイジュさんやステューシーさんと話していた『寵愛による肉体の覚醒』が、まさかこんなに早く実現するなんて……っ! い、一応、朝からお風呂にも入って綺麗にしてきましたけど、どうしましょう、心臓が飛び出そうです……!)
完全に別の覚悟を決めてモジモジと身をよじるたしぎに対し、袖をまくったマヤは爽やかな笑顔で手招きした。
「よし、たしぎ。じゃあ、お前が一番得意な踏み込みから、俺に斬りかかってきてみろ」
「えっ……? あ、はいっ! まずは軽く運動からということですね! 参りますっ!」
たしぎは気合を入れ直し、六式『剃』の鋭い踏み込みから、マヤの胴へ向かって神速の横薙ぎを放った。
だが、マヤは木刀でそれを受け止めることすらしない。たしぎが踏み込んだ瞬間、足元の石畳の上でほんの「半歩」だけ斜め前へと身体の軸をずらし、空を切ったたしぎの刃のすぐ横をすり抜けて、彼女の肩口へ木刀の先をちょんと当てた。
「きゃっ……!?」
「いい踏み込みだ、たしぎ。前よりずっと速くなってるぞ。……だがな、『神鬼』の本当の性能を引き出す真髄ってのは、力任せに振るうことでも、覇気を無理やり練り上げることでもないんだ」
マヤはたしぎのすぐ後ろに立ち、彼女の肩と腕の筋肉にそっと手を添えて、自分の身体の動きを実演してみせた。
「ひゃあっ!? ま、マヤ聖、手が……っ」
「いいか、よく相手の身体を見るんだ。人間でも海賊でも、攻撃を繰り出す直前には必ず『肩の筋肉の収縮』と『骨盤の傾き』が先に動く。俺がこないだカイドウの雷鳴八卦をかわしたのも、未来予知じゃない。筋肉の予備動作を見て、攻撃が放たれる前に軌道から半歩だけ外れてただけなんだよ」
あまりにも真面目で、かつ実戦の極致にある剣術の理論。
たしぎは一瞬だけ(あ……そういう文字通りの『剣の真髄』のお話だったのですね……)とちょっぴり肩透かしを食らったものの、元々が大の刀好きで生真面目な剣士である。マヤの手ほどきを受けるうちに、彼女の瞳はみるみるうちに純粋な求道者の輝きを取り戻していった。
「な、なるほど……! 刀で正面から受け止めず、相手の筋肉の収縮を読んで半歩ずらす……。だからマヤ聖の剣には、一切の無駄な力みがないのですね!」
「そういうことだ。お前はもう見聞色も六式も十分すぎるほど鍛えてある。あとはその『目』の使い方を覚えれば、どんな大男の剛剣だろうと紙一重でいなせるようになるさ。よし、もう一本いくぞ!」
「はいっ! よろしくお願いします、マヤ聖!!」
修練場の端の回廊でその様子を見守っていたCP10は、満足そうに腕を組んで大きく頷いた。
「おう、やっぱり俺が言った通り、たしぎのやつ目をキラキラさせて喜んでるじゃねーか。よかったな、レイジュ」
その隣で書類を抱えていたレイジュは、呆れ果てたように深い溜息をつき、氷のようなジト目でCP10を見上げた。
「……ええ、結果としては大変結構なことですけどね。あなたたち男二人のその救いようのない鈍感さには、専属秘書として頭が下がりますわ……」
稽古を終えて汗を流したマヤたちが本館の大サロンへと戻ると、ほどなくして来客を告げる鐘が鳴り、海軍本部元帥のセンゴクが少数の護衛を伴って宮殿を訪れた。
「おお、マヤ聖、朝からご苦労様ですな。今日は以前よりマヤ聖から直々に手配を頼まれておった『公式書類』の承認がすべて完了したゆえ、私が直接お届けに参りました」
白いコートを揺らしてソファに腰を下ろしたセンゴクは、重厚な革の書類鞄から、世界政府の最高承認印と海軍元帥印が押された『二通の羊皮紙の公文書』を取り出し、テーブルの上に並べて置いた。
「ナミ、ロビン。ちょっとこっちへおいで」
マヤに手招きされ、海図を描いていたナミと、本を読んでいたロビンが不思議そうに顔を見合わせて歩み寄る。サロンにいたヤマトやコアラ、ビビやイワンコフたちも静かに注目した。
マヤはまず一通目の公文書を手に取り、ナミへと手渡した。
「ナミ。こないだココヤシ村へ行った時、ベルメールさんの墓の前には大佐の勲章だけを置いただろ? これはな、その正式な世界政府承認済みの公文書だ」
ナミが震える手で書類を開くと、そこには金文字で『故・ベルメール海軍大佐への特例栄誉昇進、ならびに東の海ココヤシ村一帯を、国のために殉職した英雄の遺族が暮らす【世界政府・最優先保護自治区】として永久指定する』と明記されていた。
「これがあればな、ココヤシ村はただの田舎の村じゃなく、政府と海軍本部が最優先で守る特別管轄地になる。過去の記録もすべて正式に書き換えてあるから、もう二度と悪党や腐敗した役人がお前の故郷に手を出すことはできない」
「マヤ……っ、そんなところまで、私の村のために……」
ナミが胸に書類を抱きしめて瞳を潤ませる横で、マヤはもう一通の公文書をロビンへと差し出した。
「そしてロビン、これはお前の分だ。『オハラに関する特別恩赦・名誉回復、ならびにニコ・ロビンに対する過去の全懸賞金・追跡命令の永久破棄証書』だ」
ロビンはハッと息を呑み、美しい指先でその羊皮紙を受け取った。
「これも世界政府の最高機関と海軍本部で正式に承認を通してある。お前はもう、世界のどこを歩いても追われる身じゃない。もし万が一、事情を知らない地方の役人や海兵に何か言われるようなことがあっても、この証書を突きつければその場で即座に『完全不問』になる。お前が歴史を調べることを、もう誰にも邪魔させない証だ」
「……ありがとう、マヤ。センゴク元帥も……。八歳の時からずっと背負ってきた暗い影が、本当に消えたみたいだわ……」
ロビンが感極まったように微笑み、センゴクに向かって深く頭を下げた。
センゴクは穏やかに顎髭を撫でながら、頷き返した。
「礼には及ばんよ、ニコ・ロビン。もともと二十二年前のオハラの件は、当時の政府の行き過ぎた隠蔽が生んだ悲劇だった。マヤ聖がこうして法と秩序の側から正式に名誉を回復してくれたことで、我々海軍にとっても長年の心のつかえが取れたのだ」
すると、公文書を胸に抱きしめていたナミの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ナミはマヤの隣に座ると、その温かい腕にぎゅっとしがみつき、今まで自分の胸の奥底に閉じ込めていた「本当の記憶」を、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……ね、マヤ。私、この書類を見てたら、二年半前に初めてこのシャボンディ諸島に来た時のことを思い出しちゃったわ……。今まで誰にも言えなかったんだけど……あの時ね、私、本当はすごく怖かったの」
「二年半前のシャボンディ……? ああ、俺が初めてお前たちを見かけて、声をかけたあの時か?」
「ええ……。あの少し前、トビウオライダーズの基地で捕まっていたタコの魚人が、かつてアーロン一味の幹部だった『ハチ』だって分かったの。その時、ルフィやゾロたちは最初『じゃあ助けなくていいや』って言ったわ。……私だって、本当は助けるなんて大反対だった。だって、私の母さん(ベルメール)を目の前で殺して、村を八年間も支配した一味の一人だったんだもの」
サロンの中が静まり返り、全員がナミの言葉に耳を傾ける。
「でも……その時、人魚のケイミーちゃんが『ハチを助けて』って涙を流して頼んできたの。私、目の前で泣いてる無関係な女の子のために、『ハチは比較的無害だったから、過去を恨んだりはしないわ』って言って、自分の八年間の怨みを無理やり横に置いて割り切ったのよ。ハチを心から許したわけじゃなかったのに……」
ナミの肩が、当時の記憶を思い出してかすかに震えた。
「だけど、本当に怖くてたまらなかったのは、その後よ……。このシャボンディでハチが天竜人に撃たれた時、ルフィは私の八年間のトラウマなんてこれっぽっちも考えず、『いま目の前で自分の友達(ハチ)が傷つけられた』っていう怒りだけで、天竜人を殴り飛ばしたの……!」
ナミはマヤのシャツを強く握りしめ、震える声で続けた。
「自分の母さんを殺した一味の男が目の前で撃たれていて、助けるべきなのか、ざまあみろと思うべきなのか、私の感情なんて全然追いついていなかったわ……。それなのにルフィは、そんな男のために、私たち一味全員が破滅する大事件を起こしたの。……あの時、私が怒ることも泣くこともできずにただガタガタと震えていたのは、天竜人が怖かっただけじゃないの。私の八年間の地獄やベルメールさんの死の重さを『今の気まぐれな友情』で簡単に上書きして、私の静止する声も届かずに暴力を振るう……あの『ルフィという制御不能な怪物』そのものが、心の底から怖かったのよ……!」
初めて明かされた、ナミの魂の慟哭だった。
外から見れば「友達のために天竜人を殴った船長の熱い美談」に見えるその裏で、一番の被害者であった少女の心と尊厳がどれほど残酷に置き去りにされていたか。
イワンコフも、たしぎも、コアラも、言葉を失って息を呑んだ。
「だから……あの絶望の直後にマヤが現れて、私たちを守ってくれて……そして今こうして、ベルメールさんの名誉と村の平和を『本物のルールと公文書』で永遠に守ってくれたことが、私にはたまらなく嬉しいの……。マヤ、私をあの日、あの恐怖から救い出してくれて、本当にありがとう……っ」
マヤは何も言わず、涙を流すナミの華奢な背中を大きな手で優しく撫で続けた。
その光景を静かに見つめていたセンゴクが、ふうと深い溜息を吐いて口を開いた。
「……ナミ嬢の言う通りだな。海賊という連中は、口では『仲間』だの『絆』だのと威勢のいいことを言うが、その実態はただの気まぐれな感情の暴走に過ぎん。ひとたび船を降りたり、自分の興味から外れたりすれば、残された家族や周囲の人間がいかに苦しもうと平気で見捨てる……。それは昔、海賊王と呼ばれた男(ロジャー)たちの時代から何ひとつ変わっておらんよ」
センゴクの視線が、壁際に立つサングラスの青年――CP10(エース)へと向けられた。
「……今から二十四年前、ロジャーが不治の病に侵されて政府に自首し、処刑台の上で無責任にも『大海賊時代』の幕を開けたあの時。政府がロジャーの血筋を絶やすためにバテリラ島で妊婦狩りを行った裏で、あいつの子を宿していた女性――ポートガス・D・ルージュは、我が子を守るために二十ヶ月もの間、気合だけで胎内に子を留め続け、出産と同時に極度の衰弱で命を落とした」
サロンにいたマキノやカヤたちが、同じ女性として胸を押さえて息を呑む。
CP10は腕を組んだまま、静かに目を閉じて聞いていた。
「だがな、考えてもみろ。当時ロジャー海賊団は解散していたとはいえ、副船長の『冥王』レイリーやスコッパー・ギャバン、船医のクロッカスなど、政府の軍隊すら返り討ちにできる怪物が世界に何人も生き残っておったのだ。それなのに、あいつらはルージュが二十ヶ月も孤独に苦しみ、難産で死んでいく間、ただの一人もバテリラ島へ助けに来なかった!」
センゴクの声に、長年海軍のトップとして見てきた海賊への強い憤りが滲んだ。
「それどころか、ロジャー本人は死ぬ間際に、宿敵である海軍中将のガープに『生まれる子を頼む』とすべてを丸投げして笑って死んでいったのだ! 現役の海兵であるガープがずっと面倒を見られるはずもなく、結果として残された子供は山賊に預けられ、世間から隠れるように育つしかなかった……。『船の上では最高の仲間だが、船を降りたら船長の妻子すら守る義理のない他人』。それが海賊の薄情な横の繋がりの正体だ」
すると、壁際のCP10がゆっくりと目を開け、マヤの背中を見つめて穏やかに口を開いた。
「……まったくだ。俺も昔は、自分を産んで死んだお袋のことや、俺に鬼の血を流したあの親父(ロジャー)のことで、自分が生まれてきた意味をずっと恨んでたさ。親父の昔の仲間って連中も、俺が処刑されそうになっても誰一人動かなかったしな」
CP10は自分の胸を軽く叩き、ニッと笑った。
「だから、いつもマヤ聖が言ってる『海賊は所詮、船の上だけの横の繋がりだ』って言葉が、俺には誰よりもよくわかる。海賊の親父たちが誰も守らなかった俺の命を、『俺の所持品だ』って言って正面から世界のルールで買い取って、こうして本当の『家族』の居場所をくれたのは、天竜人であるマヤ聖だったんだからな」
マヤは照れくさそうに鼻の下を擦り、ナミの肩を抱いたまま笑った。
「おいおい、俺はただ、目の前で死にそうなやつや泣いてるやつを放っておくのが寝覚め悪いから、使える権限を全部使っただけだぞ? センゴクさん、わざわざ書類を届けてくれて本当にありがとうな。ガープのじいさんにも、よろしく言っておいてくれ」
「うむ。本当に、あなたという人がこの時代にいてくれてよかった。では、私はこれにて本部へ戻るとしよう」
センゴク元帥を見送ったあとの午後の時間。
先日の執務室での決定通り、別棟の最新医療区画では、ステューシーとカヤの主導のもと、宮殿で暮らす女性陣全員と二歳になるマキノの子供を対象とした『定期健康診断』が実施されていた。
「はーい、皆様。エッグヘッドのDr.ベガパンクから届いたばかりの最新鋭の血液検査キットですよ。指先からほんの少し血を採るだけで、体内の栄養状態から潜伏しているあらゆる病気まで、すべて精密に調べられますからね」
白衣を着たステューシーがにこやかに案内し、同じく白衣姿のカヤがテキパキと器具を準備していく。
「へえーっ、すごい機械だな! 僕は毎日元気いっぱいだけど、これも家族の行事ならやるぞ!」
「ヤマトはどちらかというと、マヤの相手をしすぎて寝不足じゃないかしらね。ふふふ」
ヤマトやロビン、ナミ、たしぎ、コアラ、ビビ、ウタ、そしてイワンコフまでが次々と和やかな雰囲気の中で採血を終えていく。
そして、二歳になったばかりの可愛い男の子を抱いたマキノが、カヤの前の椅子へと腰を下ろした。
「マキノさん、坊やも一緒に少しだけチクッとしますからね」
「ええ、よろしくお願いしますね、カヤちゃん。……そういえば私、フーシャ村でマヤ聖に初めてお会いした頃も、なんだか少し身体の疲れが取れなくてだるい時があったのよね。このお屋敷に来てからは美味しいご飯のおかげでずいぶん楽になったけれど、これでしっかり調べてもらえれば安心だわ」
マキノは何の疑いもなく穏やかに微笑み、自分の指先と、腕の中の子供の小さな指先から少量の血液を採取してもらった。
「はい、これで全員分の採取が終わりました! データの解析結果は、今夜エッグヘッドのベガパンク先生から直接送られてくる予定です」
カヤが笑顔で検体ケースをまとめ、サロンは再び平和なお茶会の空気へと戻っていった。
だが――その日の夜、深く静まり返った宮殿の医療研究区画の奥。
マヤとレイジュ、そしてステューシーが待機していた通信室の専用モニターが、緊急を示す赤いランプと共に激しく点滅し、エッグヘッドのDr.ベガパンクから暗号化された直通通信が飛び込んできたのだった。