風のない海、カームベルトに守られた女人国・アマゾン・リリー。
切り立った岩場に波が打ち付ける音が、重苦しい静寂を何度も撫でては消えていく。
全身に痛々しい包帯を巻かれたルフィは、固い岩の上に座り込み、うつむいたまま両手を握りしめていた。
世界を震撼させた、マーシャル・D・ティーチによる火拳のエース殺害の報せ。
そして、己自身がインペルダウンで引き起こした、無数の凶悪犯の脱走という取り返しのつかない大罪。
エースを救えず、ただ世界に災厄をばら撒いただけで終わった自分の無力さに、ルフィの心は完全に折れかけていた。
「インペルダウンの件は、取り返しがつかない」
傍らに立つ白髪の老兵――シルバーズ・レイリーが、静かな、だが厳しい声で諭した。
「だが、君にはまだ残っているものがあるのではないか? 今の君たちでは、新世界は生き残れない。立ち止まらずに前を向き、力をつけろ」
ルフィは、ギリッと歯を食いしばった。
頭に浮かぶのは、シャボンディ諸島で散り散りになった仲間たちの顔だ。自分が弱かったせいで、大切な仲間を失い、兄を失った。
「……残っているもの……仲間だ。俺にはまだ、仲間がいる……!」
ルフィは顔を上げ、血のにじむような声で叫んだ。
「俺はもっと強くなる! 仲間を守るために!!」
その悲痛な、しかし確かな決意の叫びに、少し離れた場所で見守っていた海賊女帝ボア・ハンコックが、頬を染めて両手を胸の前で組んだ。
「ああ……ルフィ! 妾も手伝うぞ!」
「それにな、ルフィ。言いにくいのだが……」
レイリーが、ふと険しい表情を作って海を見つめた。
「どうやら、ナミとロビンは、天竜人に何か弱みを握られているかもしれない。海軍の包囲網の中、彼女たちは天竜人のもとにいると、自ら願い出たそうだ」
「なんじゃと……!! 天竜人へ……捕まっておるのか!?」
レイリーの海賊としての勝手な解釈による推測を聞き、ハンコックの顔から一瞬にして血の気が引いた。
天竜人。その言葉は、彼女の魂の奥底に焼き付いた絶対的な恐怖と絶望の象徴だ。首輪をはめられ、家畜以下の扱いを受け、余興のために悪魔の実を無理やり食べさせられた凄惨な過去。
あの優しかった娘たちが、そんな地獄に落ちたというのか。男の天竜人から受ける末路を自分と重ね合わせ、ハンコックの全身がガタガタと震え始める。
「ああ、そうだ!」
ルフィが、岩をドンッと殴りつけて吠えた。
「俺の大事な帽子を奪おうとしたから、殴ってやったぞ! くそっ、もっと俺が強ければ、あいつらを連れ戻せたのに!!」
その言葉には、己の行動が周囲にどれほどの被害を及ぼしたかという視点は欠落していた。ただ「自分の帽子」と「自分の仲間」という極めて利己的な正義だけが、彼の行動原理を支配している。
「君の気持ちはわかる。だが、相手は天竜人だ」
レイリーがたしなめるように言った。
「それにあの男は、よく舌が回る。下手に乗り込んでもいい事はない。再会の時までに、しっかりと修行をして強くなるんだ」
「くそ、くそッ! 今すぐ行っても俺じゃ……!」
ルフィが悔し涙を流しながら岩を叩く。
その後ろで、ハンコックは真っ青な顔で立ち尽くしていた。
(天竜人の手に落ちたなら……あの娘たちは……。……いや、急いでも仕方がないのだな……。どうか、気力がもつとよいのだが……)
遠い目をして、ハンコックは祈るように胸を押さえた。
だが、その時、彼女の脳裏にふと、一枚の不可解な記憶の欠片がよぎった。
絶対的な恐怖の象徴であった聖地マリージョア。その地獄のような場所で、たった一度だけ見た、異端の光景。
泥にまみれながら、一人黙々とドブさらいをしていた不思議な少年の後ろ姿。
(恩義ある、あの時のドブさらいの少年は……無事であろうか。……今更になって思うとは、妾もどうかしておるな)
遠い過去の記憶を振り払うように、ハンコックは静かに首を振った。
その後、ルフィは己の決意を世界中の仲間に伝えるため、再びマリンフォードへと足を踏み入れた。
十六点鐘の鐘の音と共に、新聞の紙面を通じて、彼の右腕に刻まれた『3D2Y』の文字が世界中へと散っていったのである。
シャボンディ諸島の高級居住区。
マヤの屋敷の広々としたダイニングルームには、さんさんと暖かな朝日が降り注いでいた。
白いテーブルクロスの上には、焼き立てのパンの香ばしい匂い、湯気を立てる新鮮な野菜のスープ、そして色鮮やかなフルーツが並べられている。インペルダウンの冷たい石の床や、荒れ狂う海の上とは無縁の、絶対的な安全と豊かさがここにはあった。
「ちょっとこれ……ルフィの記事よ。マリンフォードで十六点鐘を鳴らしたって……それに、この右腕の文字……」
ナミが、手にした朝刊をテーブルに広げた。
その横から、ロビンが静かに紙面を覗き込む。
「『3D2Y』……なるほど。私たちへのメッセージのようね。三日後ではなく、二年後にシャボンディ諸島で集合しろ、と」
「は……? 二年後に、集合……?」
ナミの声が、微かに震えた。
それは感動から来るものではない。明確な、怒りと嫌悪感による震えだった。
「今のままでは新世界を生き残れないから、各自で力をつけて、二年後に再出発しようということでしょうね」
ロビンの声もまた、氷のように冷え切っていた。
二人にとって、ルフィのこの行動は美談でも何でもない。ただのグロテスクなエゴイズムの極致だった。
「ふざけないでよ……!」
ナミが、新聞紙をクシャリと握り潰した。
「自分がインペルダウンで、クロコダイルや無数の極悪人を世界に放って……今この瞬間も、関係ない人たちが悲鳴を上げてるのに……! 自分のやらかした大罪への反省も責任もなく、『俺は修行するから、お前らも待っててな!』ってこと!? 自己中にもほどがあるわ!!」
「……自分がどれほど残酷な真似をしたのか、全く理解していないのね。海賊の身勝手な『絆』の中だけで、世界が完結しているわ」
少し離れた席で、黒いスーツに身を包んだエースが、呆れたようにため息をついた。
「おいおい……俺は世間的には黒ひげに殺されて死んだ事になってるんだぞ? 俺の親父や仲間たちは悲しんでるっていうのに、呑気に『二年後修行して集合な!』って……あいつ、本当に頭おかしいんじゃねぇか?」
三人がそれぞれにルフィの行動にドン引きしている中、テーブルの奥でコーヒーを啜っていたマヤが、カップをコトリと置いた。
「そうか。なら、お前たちは二年後にあいつと会った時に決めろ。俺は、お前たちが好きにしても構わない」
「え……?」
「え?」
ナミとロビンが、弾かれたようにマヤを見た。
「お前たち二人は俺の所持品だ。それが、あのガキの方に行きたいと言うなら止めないさ。それに……お前たちには、これから酷な扱いをさせる事にもなるかもしれない。そのための猶予だと思ってくれ」
マヤの赤い瞳が、真っ直ぐに二人を射抜いた。
その視線の真剣さに、エースが何かを察して背筋を伸ばす。
「俺は正直に話すと、今まで『奴隷』を持ったことはない。食事を与えたり、虐げられた者を庇ったりしたことはあるがな。だが、ここには絶対のルールがある」
マヤの声は淡々としていたが、そこには為政者としての重い覚悟が込められていた。
「二年後、ナミ、ロビン。お前たちには現実を突きつける。俺もそれはしたくない。ガキのところへ行けば、お前たちは俺の保護が外れる。前と同じ、追われる生活だ。そして……俺の元に残るというなら、俺はお前らを守るために、しなければならない事がある」
ごくりと、ナミが唾を飲み込む音が響いた。
「お前たちの身体の何処かに、『天竜人の紋章』を焼き付けなければならない」
その瞬間、ナミとロビンの呼吸が止まった。
天竜人の紋章。天駆ける竜の蹄。
それは、押された者が人間ではないこと、永遠に天竜人の所有物(家畜)であることを示す、世界で最も残酷で屈辱的な烙印だ。
「これは、ルールだ。これがあれば、確かに、お前たちの世界やルールから見たら、人間以下の烙印だと思うだろう」
マヤは静かに目を伏せた。
「だけどな。こんな烙印がなくても、それ以下の不条理な扱いを受ける存在は、この世界にいくらでもいる。だから、俺はお前たちを守るための盾として、この烙印を使わなきゃならない」
絶句する二人をよそに、エースが静かに頷いた。
「……マヤ聖。俺の背中には、白ひげのマークがある。それも、親父と会った後なら、烙印へ変えてもらって構わない。俺は死んだ身だ、それくらい受け入れるさ」
「ああ。だが、そのままの紋章を使う気はない。俺の『シンキ・マヤ聖』の印もつける」
マヤが懐から一枚の図面を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
そこには、あの忌まわしい『天駆ける竜の蹄』をベースにしながらも、鋭くしなやかな『S』の文字が、まるで竜のように紋章全体に絡みついている美しい意匠が描かれていた。
「基本的には天駆ける竜の蹄だ。だが、そこに俺の所有であるというマーク『S』を、ひづめに絡ませるように刻印する。今作らせてあるが、パッと見は、あの気色悪い天竜人の紋章とはわからないようにしたつもりだ」
その図面を見た瞬間、ナミとロビンの胸の奥で、熱いものが込み上げてきた。
この男は、自分たちの過去の痛みや尊厳を誰よりも理解し、その上で世界政府のルールをまげてまで、絶対の安全圏を作ろうとしてくれているのだ。
海賊の無責任な自由より、この重く苦しい烙印の方が、どれほど自分たちの命と心を大切に想ってくれているか。
「私は、腕に……すでに、アーロンに無理やり入れられた刺青を、オレンジの木と風車にしたけどね……!」
「わかったわ、マヤ聖。貴方の気持ち、受け取ったわ。本来なら……」
ナミとロビンが、確かな決意を瞳に宿して口を開こうとした、その時だった。
「ナミ、ロビン。お前たちは今、言うな」
マヤが、少しだけ声を荒げて二人を制止した。
「女の肌に烙印をつけるんだ。そこは本当にすまないと思ってる。だから、その答えは二年後でいい」
「マヤ聖……」
「二年後、お前たちが俺の所に残る意志があれば、俺はお前たちを皆の目の前で、烙印を押す。コソコソ隠れてやるんじゃない。これで絶対的に俺の所有物だと、世界中に認めざるを得なくする。そうすれば、もう誰も手出しはできない」
その圧倒的なまでの庇護の覚悟に、エースが目を丸くした。
「それじゃあ……マヤ聖の世間からの評判がガタ落ちになるんじゃ……」
「バカを言うな。俺と民の絆は、そんなことで早々壊れないさ」
マヤは鼻で笑い飛ばし、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「そういう覚悟で、この二年間を過ごしてくれ。……さぁ、飯を食おう。明日はドブさらいが待ってるからな」
「もうっ、本当にブレないわね」
張り詰めていた空気が一気に緩み、ナミが吹き出した。
「私は、マヤ聖がドブさらいをしてるのを眺めながら、涼しいところでスケッチでもしようかしら」
「私もそれを見守っていようかしらね。フフッ」
「おいおい、それを護衛するってどんな構図だよ。天竜人がドブさらいしてんのに、他は見守るって……」
エースが頭を抱えると、マヤが真顔で指を差した。
「エース、お前はその黒スーツにサングラスだから、一見サイファーポールみたいに見える。間違えられたら『CP10だ』とでも言っておけ。天竜人の極秘護衛だとな」
「そこまで配慮してくれてんのかよ……ってか、CP10ってなんだよ!」
「いや、適当に言い訳するより、それで通る。だが、やたら言うなよ? 機密組織みたいだからな」
「でも、そんな格好してドブさらいの護衛って……」
「それが、マヤ聖ですもの」
ロビンが優しく微笑み、ダイニングルームに温かな笑い声が響き渡った。
ここは、もう二度と失われることのない、確かな居場所だ。
ナミは、ルフィの『3D2Y』の文字がデカデカと載った新聞紙を丸めると、部屋の隅にあるゴミ箱へと、一切の未練もなく無造作に投げ捨てた。