シャボンディ諸島の高級居住区にある、マヤの屋敷。
その一角には、主の権力と莫大な財力によって誂えられた、世界最高峰の環境が整っていた。
高い天井まで届く壁一面の書棚には、世界中の歴史書や非公開の政府文献がずらりと並んでいる。部屋の中央には、巨大な製図台と最新の気象観測機器。そして、常に一定の温度と湿度を保つ空調システムが、紙やインク、古い文献を完璧な状態で保護していた。
ナミは、その製図台に向かい、一心不乱にペンを走らせていた。
海賊船の絶え間ない揺れも、突然の嵐による命の危険も、海軍の追跡に怯えることもない。ただ純粋に「世界地図を描く」という己の夢だけに没頭できる、完璧な温室。泥棒猫として張り詰めて生きてきた日々から解放された彼女の顔には、柔らかな充実感が満ちていた。
少し離れたアンティークのソファでは、ロビンが静かにページを捲っている。
五老星による『不可侵』のお墨付き。サイファーポールに追われる恐怖が一切排除されたこの場所は、彼女にとって二十年ぶりに手に入れた真の安息の地だった。
「……ふう」
ナミがペンを置き、大きく伸びをした。
タイミングを見計らったように、メイドが淹れたての最高級の紅茶がワゴンで運ばれてくる。ナミはソファへと移動し、ロビンの向かいに腰を下ろした。
「ロビン。マヤ聖の事と、今後はどう考えてる?」
ティーカップの縁を指でなぞりながら、ナミがふと切り出した。
ロビンは本を閉じ、涼やかな目を向ける。
「あら。そんなの決まってるわよ。一生一緒にいるつもりよ? 当たり前でしょ、あそこまでしてくれているんだもの」
「そうよね。私も同じかなぁ〜」
ナミはソファーの背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「この前の話の時の、『はじめての奴隷を持つ』って言葉に……なんか、ジーンってきちゃった」
「ふふふ、私もよ。相当な覚悟だったのでしょうね。それなのに、こっちの事も気にかけてくれて、少しね……」
「惚れたってこと?」
ナミが、悪戯っぽく身を乗り出した。
ロビンは隠すこともなく、ふんわりと微笑む。
「それはそうでしょ? 天竜人だからってわけじゃないわ。あの人は、そうじゃなくてもあーいう風に動ける人よ。ナミもでしょ?」
「あはははは……そうなりますよ。ならない女性がいたら、知りたいくらいよ」
ナミは笑い声を上げた後、少しだけ視線を落とした。
「ルフィ達との旅は楽しかったわ。でも……ここでマヤ聖と一緒にいて、学んだの。『自由』には『責任』が伴うってこと……」
「…………」
ロビンは口を挟まず、静かに耳を傾けた。
「私、小さい時にベルメールさんに拾われて、海軍にも恩義があった。でも、アーロンが来て、そのアーロンをのさばらせたのも当時の海軍。……でも、元海兵のベルメールさんは、私たちを庇って死んでいった」
ナミの瞳に、少しの影が差す。
「何をしてるんだろうね、私……。前までの私を見て、ベルメールさん喜んでくれるかな? 『いい仲間ね』って、笑ってくれるかな……」
「それは、私も同じ事よ」
ロビンの声が、静かに重なる。
「オハラの為とはいえ、アラバスタでの非道。そして、ルフィ達に救われたのも事実。今、マヤ聖と一緒にいることで、過去の行動が正しかったかと言われたら……それは、ただ『楽しかった』としか言えないわ」
「そうよね。ただ楽しいから、暴れてた」
ナミは、テーブルの上に置かれた最新の世界経済新聞――インペルダウンの被害を報じる記事――に目を落とした。
「もし、ベルメールさんが生きてて、インペルダウンの暴動鎮圧に召集されて殺されたりとか……私がアーロンじゃなくて、真っ当な海兵になってたり……『もしも』を考えたらさ」
ナミは、自分の描いた美しい海図を振り返った。
「私……海図を描くのって、別に『海賊』である必要なんてなかったのよ」
ロビンは、静かに頷いた。
誰かの日常を壊す暴力の上に成り立つ自由。その危うさを、二人はマヤの圧倒的な理詰めと保護の下で、完全に理解してしまっていた。
「ねえ、ナミ」
少し重くなった空気を変えるように、ロビンが明るいトーンで口を開いた。
「マヤ聖がもし、天竜人じゃなくて、海賊や海兵だったらって……最近、考えてみたの。そうしたら、面白くて……」
「え? なになに? どういうこと?」
「ふふ。だって、あの人が海賊だったら……ピースメインどころか、出発もしないんじゃないかしら?」
「そうね! 海賊になるって発想がなさそうだものね。もし海に出てても、巻き込まれた変な仲間がどんどん増えていって、マヤ聖は結局……ずっとドブさらいしてただけ? みたいな?」
「あははは、そうそう! 海兵でもそうね。無責任な海賊をどんどん捕まえるでしょうね。すぐ元帥とかになって、平和になった街でドブさらいしてそう……」
「結局ドブさらいじゃない! あの人、綺麗好きだものね!」
二人の笑い声が、アトリエに明るく響いた。
どんな立場であれ、マヤはマヤだ。潔癖で、他人の尻拭いをし、理不尽に巻き込まれながらも、最終的には全てを丸く収めてしまう。
「でもさ……嬉しかった」
笑い合った後、ナミがふと、愛おしそうに呟いた。
「二年後の、烙印の話。……『女の肌に傷を』なんて気遣って言われたらさ。もう、たまらなかったな……」
ナミの脳裏には、アーロンに無理やり刺青を彫られ、血の涙を流した過去の記憶がある。だからこそ、マヤの言葉は深く、痛いほど心に沁みたのだ。
「そうね。あんな風に言う男性は、海賊の世界じゃ考えられないもの。忌まわしい『天駆ける竜の蹄』なのに、そうじゃないように見せてくれる……はぁ〜、なんかね」
ふと、ロビンが両手で自分の頬を押さえた。
その白い頬が、ぽっと林檎のように赤く染まっている。
「ちょっと、ロビン!? 顔真っ赤よ! いつもクールなのに!?」
「何故かしらね。……なんかあの人の事を考えると、気持ちが若い時に戻るのよね」
照れ隠しのように視線を逸らすロビンを見て、ナミは満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ。私はまだまだ若いから、このパワーで一気に押し切っちゃおうかな〜! なんてね!」
紅茶の甘い香りが漂う部屋の中。
二人の女性は、過去の呪縛から完全に解き放たれ、ただ愛する人を想う純粋な時間を楽しんでいた。