GAME OF ZABIS ゲーム・オブ・ザビズ 作:GAME OF ZABYS
1.白の牢獄、去勢のショパン
部屋には窓がない。
あるのは、目に痛いほど白い壁と、かつて幼少期に聴いたショパンの旋律が、かすかに、絶え間なく流れ続けるスピーカーだけだ。
ショパン、ノクターン第2番。
繊細で、優雅で、どこか物悲しい旋律。
母がまだ生きていた頃。
私が『ザビ家の御曹司』として、蝶よ花よと育てられていた温室の記憶が呼び覚まされる。
「……誰か!誰か、そこにいるんだろう?!開けてくれ!」
返事はない。
扉の向こうからは「お体のために、静かになさってください、ガルマ様」という、血の通わない自動人形のような侍女の声が返ってくるだけだ。
「…出してくれ!!ここから出してくれ!」
私は狂ったように叫び、拳が血に染まるまで扉を叩いた。
だが、それは分厚い防音壁に吸い込まれ、私の無力さを強調するだけだった。
数日が過ぎた。
今は何日だ、何曜日の、何時だ…。
時間の感覚が、溶けていく。
ショパンの調べに、『幸福な過去』と『窓のない白』の境界が溶けていく。
やがて、それはドロドロになって私の脳を侵していく。
時たま、キシリア姉上がやってくる。
琥珀色の鎮静剤と、甘いリキュールを携えて。
「可哀想なガルマ。貴方は、あの男に裏切られたのよ」
姉上が、私を抱きしめる。
私が着ているのは、肌になじんだ金モールの軍服ではない。
小さな頃に着せられた、柔らかい布地のたっぷりとした寝間着だ。
まるで、絹で包まれた、もの言わぬ人形のようだ。
しかし、姉が耳元で囁く言葉は、どんな拷問よりも鋭く私の心を切り裂いた。
「貴方の親友…。シャア・アズナブルはね、貴方の失態を恥じて、心底失望したそうよ。一人で前線へ逃げたわ。」
──嘘だ。
シャアが、あいつが、私を見捨てるものか。
そう叫ぼうとしても、喉が焼けたように動かない。
「あとは…、ララァ・スン?あのスパイの娘。あの子は、今頃独房で処刑を待っている。
貴方に余計な知恵を吹き込んで、こんな目に合わせたのだもの。当然の報いね」
ララァ。守れ、ないのか。
ようやく見つけた私の導き手を、私は、守れないのか。
2.偽りの名で打たれし傷は
頭が痛む。
父上に打たれた傷がズキズキと疼き、私の思考力を根こそぎ削り取っていく。
思い出すは、父が私を打った杖の音。
私を、息子ではなく、ダイクンと呼んだ。
私の中にあの思想家の亡霊を見てパニックを起こした父。
あの、濁った瞳。
父上の、願い。
──ガルマ、お前は変わってくれるな。
──変わらずこのままでいておくれ。
──私が変わらなければ、貴方は救われたのか。
──私がダイクンであろうとしたのは、貴方にとっては断罪だったのか。
私は貴方を裁きたいのではない。
貴方に愛されたかったのだ。
何も、考えたくなかった。
父上は僕を愛しているんじゃない。
自分の罪悪感をなだめるために、僕を“無垢な身代わり”にしたかったのだ。
ふと、脳裏に二枚の絵画が浮かぶ。
かつて、母に連れられて訪れた美術展。
幼い私を戦慄させた、忌まわしき神話の情景。
優しい母の手の温もりとは裏腹に、そのキャンバスには、地獄が描かれていた。
サトゥルヌス、といったか。
自分の王座を守るために、子どもを食らう浅ましい神。
一匹は、黒い奴。
暗闇で我が子の肉を貪る、老いた捕食者。描いた画家は、ゴヤ…だったか。
その瞳にはあるのは子どもへの懺悔ですらなく、己の罪への怯えと恐怖、狂乱だ。
(……ああ、父上。貴方は、あの怪物、だったのか)
私の中に『ダイクン』という過去の罪を見た。
そして、その恐怖を紛らわすために、私の自我を、私の未来を、その震える顎(あぎと)で食らい尽くそうとしている。
そしてもう一人は──あの静かで、冷徹な神。
画家は…思い出せない。
だが、正気を保ち、人類の歴史という巨大な時計の針を動かすために、冷徹な義務として我が子を咀嚼する男だった。
ギレン兄上……貴方は、狂ってさえいない。
貴方はただ、未来の勝利という理法のために、
私の肉を、私の血を、一噛みずつ正確に選別し、飲み込んでいくのだ。
過去に食われるか、未来に咀嚼されるか。
二人の狂った神、サトゥルヌスに頭蓋を砕かれ、足を折られて、
私はもう、私という形を、保てない!!
──ドズル兄上。
兄上でさえ、私を見ていない。
兄上は『部下や家族を守れる強い兄』という、自己満足に浸りたいだけなのだ。
3.毒蜘蛛のピエタ
私は、力なくキシリア姉上の膝に頭を預けていた。私の髪を、姉の細い指先が梳く。
その手つきは、壊れやすいガラス細工を慈しむ聖母のようでもあり、獲物の息の根を止めるタイミングを計る蜘蛛のようでもあった。
「可哀想なガルマ……。貴方をここまで追い詰めたのは誰か、分かっているわね?」
私の虚ろな瞳に、姉の冷たい紫の瞳が覆いかぶさる。
「ギレン兄上よ。あの人は、父上を『国民の父』に仕立て上げ、自分に背く者を排除するための偶像にしたわ。……
貴方が討論会で投げかけた純粋な問いさえ、兄上にとっては、秩序を乱すノイズ、でしかなかった。
ギレンが、貴方を精神病だと言って、この部屋に閉じ込めたのも、あのとち狂った優生思想のせいなのよ」
ギレン兄上。あの公開討論会の日。完敗だった。
姉の指が、私の耳元に触れる。
熱を帯びた、毒のような囁きが続く。
「外の世界ではね、私が貴方の名誉を守っているわ。
私の力で、ギレンがいかに非情な兄か、国民にその真実を広めてあげるから。
……いずれ、兄上は『血も涙もない選民思想者』として、民衆の手で裁かれるでしょう。
貴方の流した涙が、兄上を玉座から引きずり下ろす刃になるの」
姉は私を強く抱きしめ、その肩に顔を埋めた。
「だから、オデッサへ行きましょう。あそこは、ギレンの指一本触れさせない私の庭よ。
マ・クベに命じて、貴方のためだけの軍備を整えさせてあげるわね。
兄上が介入しようとしたら、『病気の弟の静養を邪魔するのか』と私が一蹴して差し上げる。
もし、兄上が、ジオンや……お前を、私の手の届かない場所へやろうとするなら、その時は、私がすべてを『無』にしてあげる。
……貴方は、オデッサで、私の言う通りにしていればいいのよ」
姉の唇が、私の額を割り、脳に直接言葉を刻み込むように動く。
「父上の遺志を継ぎ、貴方の無念を晴らすのは、私だけ。
……世界中の誰もが貴方を裏切っても、姉さんだけは貴方の味方よ。
さあ、私を呼んで。貴方の唯一の家族の名を」
姉上の腕は温かい。
だが、それは私という自我を絞め殺す『鎖』の感触だ。
姉上もまた、私を愛しているんじゃない。
私という『看板』を愛しているだけだ。
4.黒パンで少年は孵化する
静かだ。
耳が痛くなるほどの静寂の中で、ショパンの旋律だけが、剥製にされた思い出のように部屋を漂っている。
私は独りだ。
世界から、家族から、そして『ガルマ・ザビ』という名前からさえ切り離され、この白い立方体に閉じ込められている。
姉上が置いていった食事が、トレイの上で冷え切っている。
私はそれを手に取った。
一切れの、固い黒パンだ。
(……ギレン兄上)
喉の奥が、焼けるように熱い。
なぜ、こうなった。
かつて兄上が私の口に押し込んでくれたあの黒パンは、人殺しと謗られた屈辱の中で、唯一、私が「生きていていい」と許された証だったはずなのに。
──知らないでいたほうが、幸せだった。
──自分が誰からも愛されていなかったことなど。
父上は、私に亡霊を重ねた。
姉上は、私を操り人形として慈しむ。
ドズル兄上は、自分を『良き兄』と酔わせるための鏡として、私を見ていた。
そして、ギレン兄上。
……貴方にとって、私は『生き延びさせる価値のある数字』でしか、なかったのだ。
不意に、あの日の記憶が蘇る。
ジオン・ズム・ダイクンが暗殺され、世界がザビ家への呪詛に満ちていたあの日。
学校で石を投げられ、教科書を捨てられ、話しかけても無視される。
逃げ帰った邸宅ですら、父の悲鳴と家族の罵声が飛び交う地獄だった。
どこにも居場所がなかった。
苦しくて死にそうだった。
誰かに「ここにいていい」と言ってほしかった。
その時、兄は、私の口にパンをねじ込み、世界を敵に回して『ザビ家』という城を築き上げた。
私は兄のように、なりたかった。
あの強く、冷たく、優しい兄のように、なりたかったのだ。
『落ち込む体力があるなら咀嚼しろ、ガルマ。死ねば数字にもなれん。
……飲み込め。それがお前の血になり、ザビ家の力になるのだ』
私は、冷え切った黒パンを一口、力任せに噛みちぎった。
唾液も出ない乾いた口内で、パンは砂のようにざらついた。
(……ああ、そうだ。兄上)
私はそれを無理やり飲み込む。
喉をこする痛みが、皮肉にも私がまだ『生きている』ことを実感させた。
(……ああ、そうだ。兄上。私は、飲み込むよ。
貴方のパンを、貴方の言葉を、ザビ家の力を、全部飲み込んで、私の血肉に変えてみせる。)
涙がパンにこぼれ、塩味が混じる。
食事が置かれていた銀色のトレイを引き寄せ、貪るようにパンを食む。
歪んだ金属の表面に、ぼんやりと自分の姿が映り込んだ。
そこにいたのは、父を怯えさせたダイクンの亡霊でも、姉が愛でた操り人形でもない。
髪を振り乱し、獣のように目を血走らせた男が映っていた。
殴打された額の傷跡が、乾いた血を纏い、茨の冠のように鈍く光っている。
──あの男だ、ゴヤのサトゥルヌス。
生きるために、復活するために、身内を、記憶を、貪り喰らう神。
私はその傷をなぞり、歪んだトレイの中の男に向かって、指で頬をつかみ口角をニィッと上げてみた。
私の獣の瞳から、次第に光が消えていく。
そして、底なしの闇のような決意が宿り始めた。
考えろ。考えろ。
ギレン兄上は、連邦と徹底抗戦する構えだ。
連邦の国力はジオンの30倍だ。…勝てるわけがない。
なぜ、こんな無謀なことをする?
兄上は何を考えている?
あの聡明な兄上が、本気でジオンが連邦と戦いながら、宇宙を支配できると思っているのか?
戦争に負けたら、どうなる?
ジオン公国はなくなる。
僕が子供の時に味わった虐めなんてものじゃない。
ジオン公国は地図から消え去り、ジオン国民の居場所はなくなる。
そして、最悪なのは。
誰も、ジオン公国のために戦っていない。
家族全員が、自分の中の怪物を飼いならすために、
この国を、そして僕を、共喰いしている。
私の目から熱い涙がこぼれた。
「……なら」
暗闇の中で、私は初めて笑った。
──まるで、私のようじゃないか、
──私のジオン公国は……!
家族という怪物に喉元を食い破られ、血を流しながら、
それでも王冠を戴こうとする孤独な国。
大丈夫、大丈夫だ。
安心していい。
絶望の底で、冷たい身体を熱い血が駆け巡り、僕の中に新しい心臓を形作る。
「なら、僕だけは、ジオン公国を愛する」
愛する。
ジオン公国、君を愛する。
世界中の誰が、君を見捨て、君をバラバラにしようとも。
僕だけは、君を愛する。
君を一番に愛すると誓う。
僕だけは、決して君を見捨てたりしない。
君を守る。
僕は。僕だけは。
そして。
──兄上は、何か隠している。本音を話していない。
兄上と、話さなくてはならない。
言葉ひとつ、声ひとつさえ出やしない。
それでも、僕は叫んでいた。
歯を鳴らし、咽喉を震わせ、心臓を燃やして。