エピクレシス歌劇場の天井は高い。客席を埋めた人々のざわめきは、その高さのぶんだけ遅れて、ゆるやかに舞台へ降りてくる。
クロリンデは帽子の鍔の陰で、それを聞き流していた。
「――以上をもって、被告人オーギュスト・ベルナールを有罪とする」
最高審判官ヌヴィレットの声が響くと、客席がひときわ大きくどよめいた。被告人席の男が、椅子を蹴るように立ち上がる。四十がらみで、仕立てのいい外套を着ている。港の倉庫の帳簿を書き換え、取引相手を三人まとめて破産させた――それが、今しがた認められた罪状だった。
「異議がある! 私は、自らの名誉を守るため、代理決闘を申請する!」
客席の熱がもう一段上がる。新聞記者たちが一斉に手帳を開く音まで聞こえた気がした。
ヌヴィレットは静かに目を伏せ、それから舞台の端に立つクロリンデへと視線を移した。
クロリンデは小さくうなずいた。それだけで足りる。
舞台に降りてきた男は、左腕を布で吊っていた。審理の最中にも何度か痛そうに顔をしかめていたから、芝居ではないのだろう。右手に握らされた細身の剣は、明らかに持ち慣れていない角度で揺れている。
クロリンデは左手を背中に回し、腰のベルトに指を掛けた。
「……何のつもりだ」
男が眉をひそめる。
「あなたは左腕が使えない。だから私も使わない」
「は――」
「それと、銃も使わない。決闘では剣しか抜かない主義だ。安心するといい」
客席の一角から笑いが漏れた。冗談だと思われたらしい。クロリンデにとっては、ただの事実の説明だったのだが。
開始の合図が鳴る。
男は叫び声を上げて突っ込んできた。剣筋はまっすぐで、そして読みやすかった。一歩だけ横へずれる。空を切った剣が床を打ち、男の体勢が崩れる。二合目、苦し紛れの横薙ぎを刃の根元で受け、そのまま手首を返して絡め取る。三合目は、なかった。
乾いた音を立てて、男の剣が舞台の端まで転がっていった。
喉元に切っ先を止めたまま、クロリンデは問う。
「降伏するか」
男の喉が上下する。膝が床に落ちたのは、それから二呼吸ほどあとだった。
「……降伏、する」
「認めよう」
剣を引く。客席が割れんばかりの歓声に包まれた。花が投げ込まれ、誰かが名前を叫んでいる。クロリンデはそのどれにも顔を向けなかった。決闘は勝敗を決め、道理を明らかにするためのものだ。観客を沸かせるためのものではない。
鞘に剣を納めながら、ふと客席の最上段に目をやったのは、ほとんど癖のようなものだった。出口を確かめ、人の流れを見る。狩人の習い性だ。
最後列の暗がりで、何かが光った。
色の入った硝子――眼鏡のレンズが、舞台の照明を一瞬だけ跳ね返したような光だった。
立ち上がりかけた背の高い人影が、すぐに扉の向こうへ消える。それだけだった。
「…………」
気のせいだろう。決闘のたびに、最後列に座る物好きはいくらでもいる。
クロリンデは帽子の鍔を軽く押さえ、舞台袖へと歩き出した。
◇
カフェ・リュテスのテラス席は、午後の光で白っぽく霞んでいた。
「お疲れ、クロリンデ! 今日も圧勝だったんだって? もう号外が出てたわよ」
向かいの席で、ナヴィアが新聞をひらひらと振る。日傘の影が、彼女の金色の髪の上で揺れていた。
「三合だ。圧勝と呼ぶほどのものじゃない」
「三合で終わる決闘を、普通は圧勝って言うのよ」
クロリンデは持参したカップを店員に渡し、新作のコーヒーを注いでもらう。ついでにケーキも一つ頼んだ。今日はもう仕事がない。決闘のあとの甘いものは、自分で決めた小さな決まり事の一つだった。
「相手、左腕を吊ってたんでしょ? あんた、また片手縛りでやったって書いてある」
「縛ってはいない。使わなかっただけだ」
「同じことよ」
ナヴィアは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「ねえ、明日って非番よね?」
「ああ。午前中に花を買って、果物を買う。午後は空いている」
「相変わらず予定がきっちりしてるわね……。じゃあさ、午後、ちょっとだけポワソン町に寄ってくれない?」
クロリンデはフォークを止めた。
「何かあったのか」
「宝盗団よ。最近、港の荷揚げのときを狙って、作業員にちょっかいを出してくるの。荷を抜いたり、場所代をよこせって脅したり。うちの会からも人を回したいんだけど、ちょうど別件で手が足りなくて」
ポワソン町。かつての水害で大きな被害を受けた町だ。復興は進んでいるが、傷跡はまだ深い。そこに付け込む連中がいるのは、残念ながら珍しいことではなかった。
「警察隊には」
「届けは出してる。でも、来たときにはもう逃げてるのよ。逃げ足だけは一流なんだから」
ナヴィアは肩をすくめ、それから思い出したように付け加えた。
「あ、でもね、ここ最近はわりと平気らしいの。作業員の人たちが、新しく用心棒を雇ったんだって」
「用心棒」
「そう。『リュカ』って名乗ってる人。背が高くて、いつも色付きの眼鏡をかけてて……すっごく腕が立つって評判よ。宝盗団を三人まとめて海に放り込んだとか、なんとか」
色付きの眼鏡。
歌劇場の最後列で光ったレンズが、一瞬だけ頭をよぎる。だが、それを結びつけるほどの理由はなかった。フォンテーヌ廷に色眼鏡の男など、何人でもいる。
「その用心棒がいるなら、私が行く必要はないだろう」
「それがね、その人、日雇いだから毎日いるわけじゃないみたいで。それに……」
ナヴィアは言いよどみ、ストローの先でグラスの氷をつついた。
「作業員の人たちも、ちょっと怖がってるのよ。助けてもらってるのに、あの人のことがよく分からないって」
「よく分からない?」
「笑い方がね、優しいのに、どこか寒いんだって。変な言い方だけど」
クロリンデはしばらく黙って、コーヒーを口に運んだ。
「分かった。寄ろう。花と果物のあとで」
「ほんと!? 助かる! あ、でも果物を先に買うと潰れちゃうかもしれないから、順番には気をつけてね」
「問題ない。宝盗団が果物を潰す前に、私が宝盗団を潰す」
ナヴィアは一拍おいてから、テーブルに突っ伏して笑い出した。
「あはは! それ、本気で言ってるでしょ!」
本気だった。クロリンデは小さく首をかしげ、ケーキの最後の一切れを口に運んだ。
◇
翌日の午後、クロリンデは片手に花束を、もう片方の手に果物の紙袋を抱えてポワソン町に入った。
潮の匂いがする。修繕の終わった家と、まだ板で窓を塞いだままの家が交互に並び、その向こうから荷揚げの掛け声が響いていた。
港へ下りる坂の途中で、その掛け声が怒号に変わった。
「おい、さっさと出せって言ってんだろ!」
荷揚げ場の真ん中で、作業員が五、六人、木箱を背にして固まっている。それを取り囲んでいるのは、柄の悪い男が七人。宝盗団だ。
クロリンデが坂を下りきるより先に、別の影が動いた。
積み上げられた木箱の上から、背の高い男がひょいと飛び降りる。灰色がかった白い髪。長い棒のようなものを帆布でぐるぐる巻きにして、肩に担いでいる。そして顔には、薄く色の入った眼鏡。
「やあ。また来たのか、君たち」
声は穏やかだった。昼下がりの世間話のように。
「てめえ、この前の……!」
「今日は荷物を落とさないでくれるかな。昨日、魚の箱をひっくり返されてさ。俺の日当から引かれたんだよ」
男は笑っていた。困ったような、人の好さそうな笑顔。だが宝盗団の男たちは、その笑顔を見た途端に一歩下がった。
一人が叫んで斬りかかる。
次の瞬間には、その男は地面に転がっていた。
クロリンデは足を止めて、それを見ていた。
帆布に包まれた棒が、短く突き出されただけだ。みぞおちに一撃。倒れた男の手から落ちたナイフを爪先で蹴り飛ばし、彼はもう次の相手を見ている。
二人目。三人目。動きに無駄がない。振りかぶらない、溜めない、叫ばない。相手が踏み込むその半歩先に、もう棒の先端が置かれている。喉、みぞおち、膝の裏。狙っているのは全部、急所だった。
――殺すための動きだ。
クロリンデはそう思った。そして、そのすべてが殺す寸前で止められている。喉に届く直前で軌道が変わり、肩を打つ。胸を貫くはずの突きが、相手を突き飛ばすだけで終わる。
あれは、殺し方を体で覚えた人間が、意志の力だけで殺さないようにしている動きだ。
彼の足元の石畳に、うっすらと白いものが走った。霜だ。真昼の港で。
四人目が倒れたとき、残る三人のうちの一人が、木箱の陰で何かを取り出すのが見えた。
小型の銃。狙いは、男の背中。
クロリンデは花束と紙袋を、手近な木箱の上に置いた。果物が潰れないように、袋の口を一度折り返してから。
そして、引き金が引かれるよりも速く、その手首を撃ち抜いた。
紫の雷光が弾ける。銃が宙を舞い、男が悲鳴を上げて手を押さえた。
灰白色の髪の男が、肩越しにちらりとこちらを振り返る。色眼鏡の奥の目は見えない。だが、口元がわずかに動いた。
――ああ、と言ったように見えた。
「手伝おう」
クロリンデは剣を抜き、残る二人の前へ歩み出た。
「け、決闘代理人だ……!」
「クロリンデだ、本物だぞ!」
宝盗団の顔色が変わる。逃げようとした一人の足元に、帆布の棒がすっと差し出されて、足を払う。もう一人がやけくそで振るった斧を、クロリンデは剣の腹で受け流した。
言葉は交わさなかった。それでも、互いの間合いがぶつからない。彼が下段を払えば、クロリンデは上段を抑える。クロリンデが踏み込めば、彼は半歩退いて背後を塞ぐ。まるで何年も前から、一緒に戦ってきたかのように。
最後の一人が地面に伸びるまで、さほど時間はかからなかった。
「……助かったよ。ありがとう」
男がそう言って、帆布の棒を肩に担ぎ直した。その瞬間だった。
最初に倒れたはずの男が、地面を這いながら、懐から取り出した瓶を投げつけた。
男は避けた。避けたが、砕けた瓶の破片の一つが、眼鏡の縁をかすめた。
ぱきん、と小さな音がした。
色の入ったレンズが割れ、片方が石畳に落ちる。男は反射的に顔を伏せ、手で目元を覆おうとした。
だが、それより先に、クロリンデはそれを見てしまった。
金色だった。
蜂蜜を陽に透かしたような、柔らかくて深い金。その瞳孔のまわりを、紅い輪が細く、くっきりと縁取っている。午後の光を受けたその目は、燃えているように――日蝕の空のように見えた。
時間が止まった、とクロリンデは思った。
暗い場所の記憶。寒い夜。半分に割ったパン。誰かの背中の温かさ。
『お日さまみたいな目』
自分の、幼い声。
「……ソル?」
唇から零れた名前は、自分でも驚くほど掠れていた。
男の肩が、ほんのわずかに強張った。
それから、彼は顔を上げた。片方だけ残ったレンズの横から、金と紅の片目がこちらを見ている。そして、笑った。さっき宝盗団に向けたのと同じ、人の好さそうな、困ったような笑顔で。
「人違いだよ、決闘代理人さん」
「待――」
「助けてくれてありがとう。あとは警察隊によろしく」
男は割れた眼鏡のフレームだけを拾い上げると、軽く頭を下げて、積み上げられた木箱の間へと歩いていった。
追いかけようとしたクロリンデの足を止めたのは、足元で呻く七人の宝盗団だった。
ここで彼らを放っておけば、また逃げられる。作業員たちが、怯えた顔でこちらを見ている。決闘代理人として、ここを離れるわけにはいかない。
――剣がこの手にある限り、私はフォンテーヌの法を代表している。
それは誇りであり、同時に、こういうときには枷だった。
木箱の向こうに、灰白色の髪はもう見えなかった。
「あの……代理人さん」
作業員の一人が、おずおずと声をかけてくる。
「今の人、リュカさんっていって……最近ここで用心棒をやってくれてる人なんです。悪い人じゃ、ないと思うんですけど……」
「……そうか」
クロリンデは、それだけ答えた。
木箱の上に置いた花束が、潮風に小さく揺れていた。
◇
その夜、クロリンデは灯りをつけないまま、部屋の椅子に座っていた。
窓の外では、フォンテーヌ廷の街灯が水面に揺れている。机の上には、結局活けそこねた花束と、手つかずの果物の袋。
目を閉じると、暗がりが戻ってくる。
六歳までの記憶は、ほとんどが寒さと暗さでできている。
どこかの地下だった。湿った石の壁と、錆びた鉄格子。同じくらいの年の子供たちが何人もいて、ときどき大人がやって来ては、そのうちの誰かを連れていった。連れていかれた子は、帰ってこなかった。
自分がどうしてそこにいたのか、クロリンデは知らない。親の顔も覚えていない。覚えているのは、隣にいた一人の男の子のことだけだ。
名前のない子だった。大人たちは彼を「目の珍しいガキ」と呼んでいた。
暗い地下の中で、彼の目だけがいつも光って見えた。だから幼いクロリンデは言ったのだ。お日さまみたい、と。ソレイユ、と言おうとして、舌がもつれて「ソル」になった。
彼はそれを、ひどく気に入ったようだった。
『じゃあ、俺はソルな』
寒い夜は背中をくっつけて眠った。大人の目を盗んで手に入れたパンは、いつも彼が半分に割った。大きいほうを、必ずクロリンデに寄越して。
そして、あの夜。
上のほうで怒声が上がり、何かが壊れる音がした。大人たちが走り回っていた。ソルは何も言わずにクロリンデの手を引いて、床の割れ目――子供一人がやっと潜り込める隙間へ、彼女を押し込んだ。
『目を閉じて、十数えて』
暗闇の中で、彼の声だけがはっきり聞こえた。
『十数えたら、外だ。俺もすぐ行く』
一。二。三。
震えながら数えた。上で何かが倒れる音がした。四。五。六。誰かの悲鳴。七。八。九。
十。
床板が持ち上がり、光が差し込んだ。逆光の中に、黒いマントを羽織った女が立っていた。女はクロリンデを軽々と抱き上げ、あっさりと言った。
『もう大丈夫よ。外に出ましょう』
それが、師匠――ペトロニラとの出会いだった。
外へ出てから、クロリンデは泣き叫んだらしい。もう一人いる、置いてきた、と。師匠は眉をひそめ、もう一度あの地下へ戻ってくれた。
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
鉄格子の向こうは空っぽで、彼がいつも座っていた隅には、何も残っていなかった。売られたのか、どこかへ移されたのか。それとも――。
師匠は何も言わなかった。言わなかったことが、答えのように思えた。
それからずっと、クロリンデは、彼は死んだのだと思って生きてきた。
『俺もすぐ行く』
その言葉を信じて、待っていた時期もあった。森の小屋で、宿の窓辺で。誰かが扉を叩くたびに振り返った。そして、彼は来なかった。
――その四年後、十歳の誕生日に、彼女はもう一度、来ない人を待つことになる。
目を開ける。
暗い部屋。窓の外の街灯。
今日見た金と紅の目は、あの地下で見た光と、寸分違わなかった。
人違いだと、彼は言った。
クロリンデはもう一度、目を閉じた。
一。二。三。四。五。六。七。八。九。
十。
目を開けても、扉は開かなかった。誰も入ってはこなかった。当たり前だ。もう子供ではないのだから。
それでもクロリンデは、しばらくのあいだ、閉じた扉から目を離すことができなかった。
◇
ポワソン町の外れにある古い網小屋の二階を、ソルは月極めで借りている。
天井は低く、床は傾いていて、潮が満ちると下から水音が聞こえてくる。それでも、屋根と鍵がある。それだけで上等だと、彼は本気で思っていた。
小さな机の上に、割れた眼鏡のフレームを置く。片方のレンズは港の石畳に落としたまま、拾い損ねた。
「……参ったな」
呟いて、笑おうとした。うまくいかなかった。
ソル、と呼ばれた。
その名前を他人の口から聞いたのは、二十年ぶりだった。決闘場では「日蝕(エクリプス)」と呼ばれた。ファデュイでは番号で呼ばれた。今は「リュカ」と名乗っている。ソルという名前は、ずっと自分の胸の内だけにあった。誰にも教えなかった。あの子がくれたものだったから。
あの子が、覚えていた。
机の端に置いた右手が、小刻みに震えている。左手で押さえつけた。いつものことだ。少し無理をして動いた日は、こうなる。しばらく休めば止まる。
「見られちゃったか」
いつかこうなるかもしれないとは思っていた。だから眼鏡をかけた。だから彼女の決闘を観るときは、いつも最後列の一番暗い席を選んだ。名前も変えた。近づきすぎないように、ずっと気をつけてきた。
なのに今日、彼女の撃った雷を背中に感じたとき、体が勝手に合わせてしまった。踏み込みの間合いも、呼吸も。二十年経っても、隣にいる感覚だけは覚えていた。
馬鹿だな、と思う。
引き出しを開けて、予備の眼鏡を取り出す。同じ色のレンズ。かけると、世界が少しだけ暗くなる。それでいい。この目は、暗いほうに慣れている。
人違いでいい。
あの子は外に出た。黒いマントの人に抱かれて、光のほうへ。売られていく馬車の小窓から見たあの光景を、ソルは一日も忘れたことがない。
そしてあの子は、フォンテーヌで一番強い決闘代理人になった。正義の剣を持って、明るい舞台の真ん中に立っている。花を投げられ、名前を呼ばれて。
そこに、自分のようなものは要らない。地下の決闘場で血を浴びて、命令ひとつで人を斬ってきた、使い捨ての道具みたいな男は。
窓を開けると、夜の潮風が入ってきた。
川の上流に、フォンテーヌ廷の灯りが見える。あの光のどこかに、彼女がいる。
「……元気そうで、よかった」
誰にも届かない声でそう言って、ソルは静かに窓を閉めた。