第10話 来る人
手術の前の晩、リオセスリは医務室の隣の病室に顔を出した。
ソルは、寝台の上で天井を見ていた。眼鏡はない。金と紅の目が、薄暗い明かりの中でかすかに光っている。
「眠れないか」
「公爵さん。……まあね」
リオセスリは、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。扉に背を向けて。わざとだった。ソルの視線が、一瞬だけその背中の向こうの扉に流れ、それから、ゆっくりと戻ってきた。
この二週間、シグウィンと要塞の医療班は、押収された記録を昼も夜もなく読み込んでいた。邪眼の構造。根の伸び方。どの血管に、どう絡みついているか。安全に切り離すための手順。
明日の朝、それを実行する。
「シグウィンは、勝算は七割だと言ってた」
「七割か。決闘場なら、悪くない賭けだな」
ソルは、小さく笑った。それから、少しだけ黙った。
「……公爵さん。もし駄目だったら、あの人に伝えてくれる? 俺、最後まで生きたがってたって」
「断る」
リオセスリは、即座に言った。
「自分で伝えろ。あんたは、もう隠さないって約束したんだろう」
ソルは、目を丸くした。それから、喉の奥で笑った。
「……そうだった。怒られるところだった」
◇
手術は、朝から始まった。
リオセスリは、医務室の硝子窓の向こうから、それを見ていた。囚人の命を預かるのは、管理者の務めだ。目を逸らすわけにはいかなかった。
シグウィンの小さな手が、驚くほど正確に動いていた。記録の頁を傍らに広げ、助手たちに短く指示を出しながら、黒い欠片から伸びる根を、一本ずつ、一本ずつ、慎重に切り離していく。
一本目。二本目。三本目。
時間が、ひどくゆっくりと流れた。
昼を過ぎ、夕方になった。根は、残り一本だった。心臓の一番近くに、最も深く絡みついた一本。
シグウィンの手が、それを切り離した瞬間だった。
計器の針が、がくんと落ちた。
「心拍、低下!」
助手の声が上ずる。リオセスリは思わず硝子窓に手をついた。
「だめ、まだ行っちゃだめなのよ!」
シグウィンが叫んだ。彼女はソルの胸に両手を重ね、全身の重みをかけて押し込んだ。水元素の淡い光が、彼女の手のひらから溢れ出す。
「いち、に、さん、し――」
声に出して、数えている。
「ご、ろく、しち――」
リオセスリは、息を止めていた。
あの男は、数を数えるのだと聞いた。怖いときは、数を数える。数えているあいだは、自分がまだここにいると分かるから。
「はち、きゅう――」
頼む、と思った。祈る相手もいないくせに。
「――じゅう!」
計器の針が、ぴくりと跳ねた。
とくん、と。
もう一度、とくん、と。
弱々しく、けれど確かに、針は規則正しく揺れ始めた。
シグウィンが、その場にへたり込んだ。助手たちが、声にならない声を上げた。
銀色の皿の上に、黒い欠片が置かれていた。指の先ほどの大きさしかない、硝子のような結晶だった。
――こんなもののために、あいつは二十年。
リオセスリは、拳を握りしめた。
◇
管理者室に戻ると、クロリンデが窓辺に立っていた。
朝からずっと、ここで待っていたのだ。一度も座らずに。紅茶にも、一度も手をつけずに。
リオセスリが扉を開けた瞬間、彼女は振り返った。いつもの、表情のない顔で。
「成功だ」
リオセスリは、短く言った。
「欠片は取れた。心臓は動いてる。シグウィンの見立てじゃ――これからは、普通の人間と同じだけ生きられるそうだ」
クロリンデは、何も言わなかった。
それから、膝が折れたように、すとんと椅子に腰を落とした。
帽子を脱いで、顔の上に載せる。鍔で、目元が隠れた。
「……そうか」
帽子の下から、くぐもった声がした。
リオセスリは、何も言わずに窓の外の暗い海を眺めた。見ないでいてやるのが、礼儀だと思った。
しばらくして、帽子の下から、もう一度声がした。
「公爵」
「なんだ」
「紅茶を、一杯もらえるか」
リオセスリは、口の端を持ち上げた。
「ああ。ここのは悪くないぜ」
◇
メロピデ要塞での一年は、思っていたよりもずっと、ちゃんとした一年だった。
朝は鐘の音で起きる。工場で機械の部品を組み立てる。働いた分だけ特別許可券がもらえて、それで食堂の飯や、少しだけ上等な石鹸が買える。週に一度、シグウィンの診察がある。夜は寝台に横になって、眠る。
普通の暮らし、だった。
檻の中で普通の暮らしを覚えるなんて、変な話だとソルは思った。でも、たぶん、自分にはこういう順番が必要だったのだ。
胸の真ん中には、縫い目の痕が残っていた。シグウィンが縫ったものだ。クロリンデの縫い目に負けないくらい、きれいだった。
その下で、心臓が動いている。とくん、とくん、と。温かく。
胸の奥の冷たさは、もうどこにもなかった。手の震えも、止まっていた。咳をしても、血は出なかった。
朝起きるたびに、ソルは自分の胸に手を当てた。温かいことを確かめるために。何日経っても、それは不思議なことのように思えた。
手紙が、よく届いた。
クロリンデからは、毎週一通。いつも短かった。
『今週の決闘、三件。全勝。花は元気だ。返事はしない』
『非番の日にオレンジを買った。あなたの分は、出てきたときに買い直す』
『ナヴィアの卓で、あなたの代わりにリュカの盾役を私が動かした。三回死にかけた。あなたの立ち回りは、思ったより難しい』
読むたびに、ソルは寝台の上で笑い転げた。同じ房の男に、変な目で見られた。
ナヴィアからの手紙は、いつも分厚かった。棘薔薇の会のこと、肩を撃たれた少年がすっかり元気になったこと、預かっている白いカップを毎朝磨いていること。最後には必ず、『割ってないからね!』と書いてあった。
フリーナからは、劇団の芝居の台本が届いた。端役の名前の横に、赤い字で『キミの役』と書き込んであった。出所したら、本当に舞台に立たせるつもりらしい。
それから、一度だけ、小さな封筒が届いた。
中には、拙い絵が一枚入っていた。黄色い丸に紅い輪をつけた目の、槍を持った人の絵。その隣に、黒い髪の女の子が、手を振っている。
『お日さまの目の兵隊さんへ。わたしは、壁炉の家で元気です。もう、数をかぞえなくても眠れます。ミラ』
ソルは、その絵を寝台の脇の壁に貼った。
壁には、もう一つ、貼ってあるものがあった。
新聞の切れ端だ。何年も前の、茶色く変色した、擦り切れた記事。『無敗の決闘代理人クロリンデ、今季も勝利を重ねる』。
その横の石壁に、ソルは毎晩、小さな線を一本ずつ刻んでいった。
五本ずつ束ねて。一日、一本。
座る位置も、少しずつ変わっていった。
最初の頃は、どこにいても、扉の見える位置に背中を壁につけて座っていた。それが、いつからだろう。食堂で、扉に背を向けて座っている自分に気づいた。それに気づいたとき、ソルは少しだけ泣きそうになった。
公爵には、すぐに見抜かれた。
「座り方、変わったな」
「……そうかな」
「ああ。いい座り方だ」
それだけ言って、公爵は紅茶を啜っていた。
◇
出所の前の晩、ソルは眠れなかった。
寝台の上に起き上がって、壁の線を数えた。
五本の束が、七十二。残りが、四本。
指で一本ずつなぞりながら、数えていく。三百六十一、三百六十二、三百六十三、三百六十四。
それから、小さな石のかけらを手に取り、最後の一本を刻んだ。
三百六十五。
壁から、新聞の切れ端とミラの絵を、そっと剥がした。丁寧に畳んで、胸のポケットにしまう。神の目と同じ場所に。
明日の朝、この扉を出る。
自分の足で。誰にも引きずられずに。誰にも買われずに。
あの子のところへ、行く。
ソルは寝台に横になり、目を閉じた。それから、小さく数えた。
「いち。に。さん――」
怖いからではなかった。
嬉しくて、眠れなかったからだ。
◇
クロリンデがメロピデ要塞の昇降機の前に着いたのは、約束の時刻の一時間前だった。
早すぎることは分かっていた。それでも、家でじっとしていられなかった。
両手に、カップを二つ持っていた。自分のマイカップと、白い陶器のカップ。今朝、ナヴィアから返してもらったものだ。一年間、毎朝磨かれていたそれは、新品のように光っていた。
「割るんじゃないわよ」
手渡すとき、ナヴィアは泣きそうな顔で、そう念を押した。
二つのカップには、カフェ・リュテスのコーヒーが入っている。白いほうには、角砂糖を一つ。
昇降機の扉は、閉じたままだった。
クロリンデは、扉の前に立って待った。
海風が、外套の裾を揺らした。空は晴れていた。昇降機の脇の小さな詰所で、看守が一人、退屈そうにあくびをしていた。
待つことには、慣れていた。
六歳のときは、床下から出たあとの宿の窓辺で。すぐ行く、と言った男の子を待った。
十歳のときは、ナヴィアの家で。誕生日の夜に、帰ってこない師匠を待った。
どちらも、来なかった。
扉が開くたびに振り返り、足音がするたびに顔を上げて、そして、来なかった。待つというのは、そういうものだと思っていた。来ないかもしれないものを、それでも待つこと。
時計の針が、約束の時刻に近づいていく。
胸の奥で、小さな、嫌な声がした。
――もし、来なかったら。
手術は成功した。刑期は終わった。彼は約束した。分かっている。全部、分かっている。
それでも、二十年分の待つことの記憶が、喉の奥から這い上がってきた。
クロリンデは、目を閉じた。
一。二。三。
怖いときは、数を数える。数えているあいだは、自分がまだここにいると分かる。
四。五。六。
昇降機の、低い駆動音が聞こえた。
七。八。
鉄の扉の向こうで、何かが止まる音。
九。
扉が、ゆっくりと開いた。
十。
クロリンデは、目を開けた。
灰白色の髪が、海風に揺れていた。
眼鏡は、かけていなかった。金と紅の目が、真昼の光を受けて、燃えるように輝いていた。日蝕の空のように。いや――違う。蝕は、もう終わったのだ。
お日さまみたいな目だった。
彼は、昇降機から一歩、外に出た。自分の足で。誰にも手を引かれずに。
それから、クロリンデを見つけた。
一瞬、彼は立ち止まった。それから、笑った。継ぎ目のない笑顔ではなかった。泣きそうで、嬉しそうで、少し照れくさそうで、不格好な、本物の笑顔だった。
クロリンデは、言おうと思っていた言葉を、全部忘れた。
代わりに、口から出たのは、これだった。
「遅い」
ソルが、吹き出した。
「ごめん」
彼は、まっすぐにこちらへ歩いてきた。一歩ずつ。迷わずに。
「十数えるのに、ちょっと時間がかかった」
目の前で、彼が立ち止まった。手を伸ばせば、触れられる距離。
クロリンデは、白いカップを差し出した。
「コーヒーだ。角砂糖は入れてある」
ソルは、カップを両手で受け取った。それから、それをじっと見下ろした。一年前、自分が預けたカップを。
「……割れてない」
「ナヴィアが、毎朝磨いていた」
「そっか」
ソルはカップに口をつけた。ゆっくりと、ひと口。
「……甘いね」
「それが目的だ」
ソルが、笑った。笑いながら、その目から、ぽろりと一粒こぼれた。
クロリンデは、自分のカップを足元に置いた。それから、両腕を伸ばして、彼を抱きしめた。
彼の胸に、耳を当てる。
とくん、とくん、と。温かい音がした。
冷たくなかった。
「……ただいま、クロリンデ」
頭の上で、彼の声がした。震えていた。
クロリンデは、目を閉じた。数は、もう数えなかった。
「おかえり、ソル」
三度目に待った人は、来た。
来る人だった。
◇
それから、季節が二つ巡った。
棘薔薇の会の応接間では、今夜もテーブルトークシアターの卓が囲まれていた。
ゲームマスターの衝立の向こうには、クロリンデ。その向かいに、ナヴィアとフリーナ。それから、灰白色の髪の男――ソルが、盾役の傭兵「リュカ」のキャラクターシートを前に、真剣な顔でサイコロを握っていた。
卓の隅には、もう一人。黒い髪の小さな女の子が、リネに連れられて見学に来ていた。ミラは、ソルの隣にちょこんと座って、彼のキャラクターシートの下手くそな盾の絵を、楽しそうに眺めていた。
「砦の大扉が崩れ始める。誰かが押さえていなければ、村人たちは逃げきれない」
クロリンデが、淡々と告げた。
一年前と、同じ場面だった。わざとだ、とナヴィアは思った。
ソルが、顔を上げた。
「じゃあ――」
卓が、しんとなった。ナヴィアも、フリーナも、息を詰めて彼を見た。
「リュカは、扉を押さえない」
ソルは、にっと笑った。
「全員で、扉を蹴破って外に出る。村人も、仲間も、俺も。一人も残らない」
「……運命判定カードを引け」
ソルがカードを引いた。
大成功だった。
ナヴィアは、椅子から跳び上がって歓声を上げた。フリーナが「ブラボー!」と叫び、ミラが手を叩いて笑った。衝立の向こうで、クロリンデの口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。
◇
ゲームが終わり、皆で後片付けをしているときだった。
クロリンデが、外套の内ポケットから小さな箱を取り出して、ソルの前に置いた。
「これを」
ソルが、きょとんとした顔で箱を開けた。
中には、細い鎖のついた、小さな短剣のネックレスが入っていた。銀色の刃に、文字が刻まれている。
ソル、と。
ナヴィアは、拭いていたグラスを取り落としそうになった。
知っている。あの形を。クロリンデが、ずっと首から提げているのと、同じ形だ。
「ファントムハンターの伝統だ」
クロリンデが言った。いつもの、表情のない顔で。
「師匠は、弟子に、名前を刻んだ短剣を贈る。私も、十歳のときに師匠から受け取った」
「……え、じゃあ俺、君の弟子になるの?」
「違う。私は師匠ではないし、あなたは弟子でもない」
クロリンデは、まっすぐにソルを見た。
「だから、これは別の意味だ」
「別の意味って?」
「一生、私の予定に組み込むという意味だ」
応接間が、静まり返った。
フリーナが、両手で口を覆った。リネが、ミラの耳元で何かを囁いた。ミラが目を丸くした。
ソルは、手の中の短剣を見下ろしたまま、動かなかった。それから、ゆっくりと顔を上げた。金と紅の目が、大きく見開かれていた。
「……それ、もしかして、プロポーズ?」
「そう聞こえなかったなら、言い直す」
クロリンデは、少しも表情を変えなかった。けれどナヴィアには見えた。帽子の鍔の下で、彼女の耳の先が、ほんのりと赤くなっているのが。
「ソル。結婚してくれ」
ソルの顔が、くしゃりと崩れた。
笑っているのか、泣いているのか、分からない顔だった。たぶん、両方だった。
「……はい」
掠れた声で、彼は言った。
「はい。……喜んで」
ナヴィアは、今度こそ本当にグラスを取り落とした。幸い、絨毯の上だったので、割れなかった。
「きゃああああ!!」
叫んで、二人に飛びついた。フリーナが「ブラボー! ブラーボー!」と拍手をしながら椅子の上に立ち上がり、リネがどこからともなく紙吹雪を降らせ、ミラが両手を上げて跳びはねた。
もみくちゃにされながら、ソルは短剣のネックレスを首にかけた。クロリンデの手を借りて。
二人の胸元で、お揃いの小さな短剣が、灯りを受けて光った。
ナヴィアは、少し離れたところから、二人を見ていた。
クロリンデが、笑っていた。口の端だけではなく、ちゃんと、顔全体で。十数年の付き合いで、ナヴィアが一度も見たことのない笑い方だった。
その隣で、ソルも笑っていた。喉の奥から勝手に転がり出てくるような、あの笑い方で。
パパ、とナヴィアは心の中で呼びかけた。
見てる? あの子、ちゃんと幸せになったよ。
窓の外で、春の夜風が、花の匂いを運んできた。
◇
海の見える小さな家の台所に、朝の光が差し込んでいた。
窓辺には、黄色い花が活けてある。日向みたいな色の、小さな花。毎朝、水をやっている。話しかけてもいる。何十年経っても、返事は一度もない。
卓の上に、カップが二つ並んでいた。
一つは、使い込まれた古いマイカップ。もう一つは、白い陶器のカップ。縁が一箇所だけ欠けていて、金継ぎで丁寧に直してある。何年か前に、孫のように可愛がっている子が落としてしまったのだ。ナヴィアが聞いたら卒倒するだろうと、二人で笑いながら直した。
「コーヒーだ。角砂糖は入れてある」
白髪を低い位置でひとつに結んだ女が、白いカップを差し出した。
「ありがとう」
灰白色の――今はもう、すっかり真っ白になった髪の男が、それを両手で受け取った。皺の刻まれた手。けれど、もう震えてはいない。
胸元で、小さな銀の短剣が揺れていた。刻まれた文字は、長い年月ですっかり擦り減っている。それでも、まだ読める。
ソル、と。
男はカップに口をつけて、目を細めた。
「……甘いね」
「それが目的だ」
何十年も繰り返してきたやりとりだった。それでも、男は毎朝、同じように笑った。
女は、向かいの椅子に腰を下ろして、男の顔を見た。
皺が増えた。髪は白くなった。背も、少しだけ縮んだかもしれない。
けれど、その目だけは、何も変わらなかった。
蜂蜜を陽に透かしたような、柔らかい金。瞳孔のまわりを縁どる、紅い輪。朝の光を受けて、穏やかに輝いている。
「お日さまみたいな目だ」
女が言った。
男が、喉の奥で笑った。
「それ、何回言うんだよ」
「数えていない」
「数えるの、得意なくせに」
「十までならな」
女は、真顔のまま言った。
「それより先は、数えないことにした。あなたと一緒にいる時間は、数えきれないほうがいい」
男は、しばらく黙っていた。
それから、カップを置いて、卓の上の女の手に、自分の手を重ねた。
温かい手だった。
窓の外で、海が光っていた。遠くで、船の汽笛が鳴った。どこにも行かない二人の朝に、それはただ、穏やかに響いた。
十を数えたら、外だ。
ずっと昔、暗い地下で、小さな男の子が小さな女の子にそう言った。
二人はとうに外に出て、十よりずっと長い時間を、一緒に数えてきた。
そして、これからも。