最後に爆弾を投下して、この小説を締めたいと思います。
式は、海の見える小さな礼拝堂で挙げた。
招いたのは、ほんの十数人だった。ナヴィアとフリーナ。公爵とシグウィン。シュヴルーズ。リネとリネット、それにフレミネ。そして最前列の端の席に、最高審判官が、背筋を伸ばして座っていた。
ソルは、祭壇の前に立っていた。
慣れない礼服の襟が、首に当たる。古い首輪の痕のあたりが、少しだけくすぐったい。ネクタイは、今朝ナヴィアが三回結び直してくれた。「動かないで! 曲がる!」と怒られながら。
眼鏡は、かけていなかった。もう、隠すものは何もない。
礼拝堂の扉が、開いた。
ソルは、息をするのを忘れた。
白かった。
ドレスは、白い制服の形をしていた。高い襟。肩から背中へ流れる短いケープ。腰をきゅっと絞った仕立て。クロリンデが「仕事着以外は着ない」と言い張り、ナヴィアとフリーナが三晩かけて説得した末の、折衷案だった。
それから、三角帽子。いつもの帽子に、薄い白のヴェールが掛けられていた。ヴェールの向こうで、紫の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
彼女は、一人で立っていた。
花嫁の手を引いて祭壇まで導くのは、普通は父親か、それに代わる誰かの役目だ。クロリンデには、そのどちらもいなかった。ナヴィアが申し出たのを、彼女は静かに断ったのだという。
――師匠の代わりに、誰かに手を引いてもらうつもりはない。
だから、一人で歩いてくる。そう聞いていた。
クロリンデが、一歩、踏み出した。
その瞬間、ソルの足が、勝手に動いていた。
祭壇の前を離れて、通路を歩き出す。客席が、小さくどよめいた。段取りと違う。ナヴィアが「ちょっと!」と声を上げかけて、フリーナに口を塞がれていた。
通路の真ん中で、二人は向かい合った。
「……段取りと違う」
ヴェールの向こうで、クロリンデが言った。いつもの真顔で。
「うん。ごめん」
ソルは、手を差し出した。
「今度は、俺が迎えに行くって決めてたから」
クロリンデは、しばらく黙って、その手を見下ろしていた。
それから、白い手袋の手を、そっと重ねた。
二人で並んで、祭壇まで歩いた。
誓いの言葉は、それぞれが自分で考えることになっていた。
先に口を開いたのは、クロリンデだった。
「あなたを、一生、私の予定に組み込む」
礼拝堂が、しんと静まった。
「以上だ」
一拍おいて、客席から笑い声が漏れた。公爵が肩を震わせていた。シュヴルーズが、珍しく口元を緩めていた。
ソルも笑いそうになって、こらえた。それから、深く息を吸った。
「毎朝、君のコーヒーに、角砂糖を入れる」
自分の声が、少し震えていた。
「それと――もう、どこにも行かない。君が待っててくれるところに、必ず帰る。一生」
ヴェールの向こうで、紫の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
ソルは、ヴェールを上げた。
唇が触れたとき、礼拝堂の外で、さあっと音がした。
雨だった。
窓の外では陽が照っているのに、細い雨粒がきらきらと光りながら降り注いでいた。天気雨だった。
最高審判官が、白い手巾で、そっと目元を押さえていた。
ナヴィアが、声を上げて泣き出した。フリーナが「ブラボー!」と叫んで立ち上がり、シグウィンがハンカチを振り回した。
陽の光と雨粒の中で、クロリンデが、小さく笑った。
◇
海辺の小さな家に帰り着いたのは、夜も更けてからだった。
ナヴィアの会で開かれた祝いの席は、思っていたよりずっと長引いた。フリーナが三回乾杯の音頭を取り、公爵が珍しく紅茶以外のものを飲み、シグウィンが特製の飲み物を全員に配って回った。誰もそれを断れなかった。
家の中は、静かだった。波の音だけが、窓の外から聞こえてくる。
クロリンデは先に湯を使い、寝室の寝台の端に腰掛けていた。
白いドレスは、もう脱いでいる。今は、薄い寝間着の上に、簡素な上着を一枚羽織っているだけだった。いつも低い位置で結んでいる髪も、ほどいて、背中に下ろしてある。
落ち着かなかった。
膝の上に置いた手が、意味もなく何度も組み替えられる。自分の心臓の音が、波の音よりもうるさく聞こえた。
おかしい、とクロリンデは思った。
何百回と決闘の舞台に立ってきた。剣を向けられても、銃口を向けられても、心臓がこんなふうに騒いだことは一度もない。呼吸を整え、剣を構え、相手の動きを読む。それだけのことだ。それなのに今は、何をどう整えればいいのか、まるで分からなかった。
クロリンデは、寝台の脇の小机に手を伸ばし、手帳を開いた。
今日の頁には、予定がきっちりと書き込んであった。
『七時、起床。八時、ナヴィアの家で着替え。十一時、礼拝堂。十四時、棘薔薇の会にて祝宴。二十時、帰宅。二十時半、入浴。二十一時――』
そこで、文字が途切れていた。
二十一時のあとは、空白だった。
昨夜、何度もペンを持った。持っては、置いた。何を書けばいいのか、分からなかったのではない。知識はある。ナヴィアから、聞きたくもないほど詳しく聞かされた。フリーナからは、恋愛劇の脚本を三冊渡された。
それでも、書けなかった。
自分の予定に、自分が知らないものを組み込むことができなかった。
寝室の扉が、そっと開いた。
ソルが、湯上がりの髪を手拭いで拭きながら入ってきた。灰白色の髪が、まだ少し濡れている。寝間着の襟元から、首の古い痕と、胸の真ん中の手術の縫い跡が、ほんの少しだけ覗いていた。
「お待たせ。……何見てるの?」
「何でもない」
クロリンデは、手帳を閉じようとした。
その手より一瞬早く、ソルが横から覗き込んでいた。
「あ、今日の予定? 君、結婚式の日まで予定組んでたんだ」
「当然だ」
「二十時、帰宅。二十時半、入浴。二十一時――」
ソルの声が、止まった。
それから、彼はクロリンデの顔を見た。クロリンデは、目を逸らした。
「……予定、空白なんだけど」
「……書けなかった」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
「何をどうすればいいのか、知識はある。ナヴィアとフリーナから、十分すぎるほど聞かされた。だが――予定に、落とし込めなかった」
ソルは、しばらく黙っていた。
それから、肩を震わせ始めた。
「……笑うな」
「ご、ごめん、笑ってない、笑ってないよ」
「笑っている」
「だって……」ソルは、片手で口元を押さえた。「無敗の決闘代理人が、予定表の前で固まってるの……かわいすぎて……」
クロリンデの耳が、かっと熱くなった。
反論しようとして、言葉が出てこなかった。剣を持っていれば、もう少しましな対応ができただろうに。
ソルは、ようやく笑いを収めると、小机の上のペンを手に取った。
「じゃあ、俺が書いてもいい?」
「……何をだ」
答えずに、ソルは手帳を受け取り、空白の行にさらさらと何かを書き込んだ。それから、それをクロリンデの前に差し出した。
少し癖のある、丁寧な字だった。
『二十一時、クロリンデに触れる』
クロリンデは、その一行を、三回読んだ。
耳の熱が、首筋まで広がっていくのが分かった。
「……それは、予定と呼べるのか」
「呼べるよ」
ソルは、寝台の端に、クロリンデのすぐ隣に腰を下ろした。肩と肩が、触れるか触れないかの距離。
「君が組み込んでくれれば」
金と紅の目が、すぐそばから、静かにこちらを見ていた。穏やかで、少しだけ照れていて――それから、クロリンデがまだ見たことのない色が、ほんの少しだけ混じっていた。
クロリンデは、手帳を閉じた。
小机の上に置いて、深く息を吸った。決闘の前のように。
「……組み込む」
◇
ソルの指が、クロリンデの髪に触れた。
背中に下ろした、濃い青紫の髪。その一房を、彼はそっと指に絡めた。壊れものに触れるように。
「髪、下ろしてるの、初めて見た」
「……変か」
「ううん。きれいだ」
真顔で言われて、言葉に詰まった。いつもは自分が言う側なのに。
ソルの手が、髪から頬へ移った。親指が、頬の線をゆっくりとなぞる。剣を握る人の手ではない。槍を握ってきた手だ。硬くて、傷だらけで、それなのに、驚くほど温かかった。一年前のあの冷たさは、もうどこにもなかった。
唇が触れた。
港の夜明けのときと同じ、ほんの一瞬の、確かめるような口づけだった。
離れて、すぐに、もう一度。
今度は、離れなかった。
クロリンデは、目を閉じた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。呼吸を整えろ。相手の動きを読め。決闘と同じだ。いつもどおりにやればいい。
心の中で、数を数え始めた。
一。二。
ソルの手が、うなじに回った。髪の生え際を、指先がそっと撫でる。
三。
唇が離れて、耳の下に、柔らかく触れた。
――四が、出てこなかった。
息が、勝手に震えた。自分の喉から、聞いたことのない小さな音が漏れた。クロリンデは、慌てて唇を噛んだ。
耳元で、ソルが小さく笑う気配がした。
「……数えてる?」
囁くような声だった。吐息が、首筋にかかる。
「……数えていない」
「そっか」
ソルの声が、どこか楽しそうに揺れた。
「じゃあ、俺が代わりに数えようか」
クロリンデは目を見開いた。
十数えたら、外だ。ずっと昔、暗い地下でこの声がそう言った。その同じ声が、今は耳元で、まるで違う意味の数を数えようとしている。
「……あなたは」
反論しようとした言葉は、また塞がれた。
今度の口づけは、さっきよりも深かった。
頭の芯が、じんと痺れた。指先から力が抜けていく。上着の襟を掴んでいたはずの手が、いつの間にか、彼の寝間着の胸元を握りしめていた。
このままでは、まずい。
クロリンデは、どうにか体を離した。灯りを消さなければ。そう思って、寝台から立ち上がろうとした。
立ち上がった、つもりだった。
膝が、かくんと折れた。
「――っと」
床に崩れかけた体を、ソルの腕が受け止めた。背中と膝の裏に腕を回されて、気づいたときには、彼の胸に抱き寄せられていた。
「……大丈夫?」
「問題ない」
即座に答えた。答えたが、足に力が入らなかった。膝から下が、自分のものではないみたいだった。
ソルの肩が、小刻みに震えていた。
「……笑うな」
「ごめん。でも、無理」
ソルは、こらえきれないように吹き出した。そして、そのまま、クロリンデを軽々と抱え上げた。
「降ろせ。自分で歩ける」
「さっき立てなかったのに?」
「……あれは、事故だ」
「そっか、事故か」
ソルは笑いながら、彼女を寝台の上にそっと降ろした。それから、自分も隣に横になって、片手で灯りの芯を絞った。
部屋が、薄暗くなった。窓の外の月明かりだけが、ぼんやりと二人を照らしている。
ソルの手のひらが、クロリンデの目元を、そっと覆った。
「目に頼るな、だっけ」
耳元で、彼が囁いた。
「君の師匠さんの教え。……今夜は、俺が君の目を塞ぐ番だ」
視界が、闇に閉ざされる。
途端に、ほかの全部が鮮やかになった。
波の音。シーツの擦れる音。すぐそばの、彼の息遣い。髪を撫でる指の感触。触れ合った肩の温かさ。何年も、目隠しをして森を歩かされた。耳と肌と直感だけで、獲物の位置を探った。その全部が、今は、たった一人の人に向けられていた。
「……ソル」
「うん」
「……公平じゃない」
「何が?」
「あなたばかり、余裕がある」
一瞬の沈黙のあと、ソルが、クロリンデの手を取った。そして、それを自分の胸の真ん中に押し当てた。手術の縫い跡の、少し上。
心臓が、早鐘のように打っていた。
とくん、とくん、とくん、と。一年前に、彼女が耳を当てて確かめた音よりも、ずっと速く。
「……余裕なんて、ないよ」
囁く声が、少しだけ掠れていた。
「ずっと、こうしたかった。地下にいた頃から。……震えないようにするので、精一杯なんだ」
クロリンデは、目を塞がれたまま、小さく笑った。
自分でも驚くほど、柔らかい笑い声だった。
彼の胸に当てた手のひらから、速い鼓動が伝わってくる。温かい。生きている。来る人の音だ。
月明かりが、雲の陰に隠れた。
◇
そこから先のことを、クロリンデは誰にも話さないと決めている。
ナヴィアにも。フリーナにも。何度、どれだけしつこく聞かれても。
ただ、一つだけ確かなことがある。
その夜、彼女は――生まれて初めて、十まで数えることが、一度もできなかった。
◇
ソルが目を覚ましたとき、窓から朝の光が差し込んでいた。
ぐっすり眠っていた、と気づいて、少し驚いた。
物音で目を覚まさなかった。扉の方を確かめもしなかった。夜中に一度も起きずに、朝まで眠った。たぶん、生まれて初めてのことだった。
隣で、クロリンデが眠っていた。
濃い青紫の髪が、白い枕の上に広がっている。いつもは帽子の鍔の陰に隠れている顔が、朝の光の中で、無防備にこちらを向いていた。眉間に皺もない。唇も、きつく結ばれていない。
こんな顔をして眠るんだ、とソルは思った。
しばらく、そのまま見ていた。飽きなかった。二十年分、見ていられなかった顔だった。
やがて、長い睫毛が震えて、紫の瞳がゆっくりと開いた。
焦点の合わない目が、ソルを見つける。一瞬、ぼんやりと見つめ合って――それから、彼女の目が、ぱちりと見開かれた。昨夜のことを、全部思い出したらしい。
「……おはよう」
ソルが言うと、クロリンデは何も答えずに、もぞりと身を起こそうとした。
そして、途中で止まった。
眉が、ほんのわずかに寄った。腰のあたりに手を当てて、もう一度起き上がろうとして――諦めたように、ぽすんと枕に沈み込んだ。
「……」
「……大丈夫?」
「問題ない」
枕に顔を半分埋めたまま、くぐもった声が返ってきた。
「ただ、今日の予定は、全部取り消す」
ソルは、口元を押さえた。
笑ってはいけない、と分かっていた。分かっていたが、肩が勝手に震えた。
枕の陰から、紫の目がぎろりとこちらを睨んだ。
「笑うな」
「笑ってない」
返事はなかった。枕の陰から、ただじっとこちらを見ている。瞬きもしない。
「……はい、笑いました。ごめんなさい」
ソルは寝台から抜け出して、台所へ向かった。
湯を沸かし、豆を挽く。カフェ・リュテスで分けてもらった、新しい焙煎の豆だ。二つのカップに注ぐ。使い込まれたマイカップと、白い陶器のカップ。それから、マイカップの方に、角砂糖を一つ。
寝室に戻ると、クロリンデはシーツを肩まで引き上げて、どうにか上半身だけ起こしていた。髪が、少し跳ねている。
「はい。コーヒー」
マイカップを差し出すと、クロリンデは両手でそれを受け取った。湯気の向こうで、ほんの少しだけ目を細める。
しばらく黙ってコーヒーを啜ってから、彼女は、ぽつりと言った。
「……あなたは、どこでそういうことを覚えた」
「え?」
「昨夜の、ああいうことだ」
クロリンデは、カップの縁から目だけを覗かせて、こちらを見ていた。耳の先が、赤い。
ソルは、少し考えた。
「覚えてないよ。どこでも」
「嘘だ」
「本当だって」
クロリンデはじっとソルの顔を見た。それから、しぶしぶといった様子で小さくうなずいた。
「……信じる」
「よかった」
ソルは、寝台の端に腰を下ろした。
「たぶん、ずっと君を見てたからだよ。歌劇場の一番後ろの席から、二十三回。港で、毎日。君がどこで息を止めて、どこで力を抜いて、何をされたら、どんな顔をするのか」
言いながら、自分でも少し照れくさくなって、頭をかいた。
「……狩りは得意なんだろ? 俺も、獲物の観察だけは、得意だったから」
クロリンデは、何も言わなかった。
カップを持ったまま、しばらく固まっていた。それから、カップで顔の下半分を隠すようにして、低い声で言った。
「……次は」
「うん?」
「次は、公平を期す」
ソルは、目を瞬いた。
「え」
「今度は、私があなたの膝を折る」
真顔だった。いつもの、決闘の前の顔だった。
ソルは、思わず吹き出した。
「それ、決闘の宣戦布告みたいに聞こえるんだけど」
「そのつもりだ」
「受けて立つよ。……でも、今日はもう取り消したんだよね、予定」
「明日に組み込む」
「明日かあ」
ソルは笑いながら、自分の白いカップに口をつけた。砂糖の入っていないコーヒーは、少しだけ苦かった。
向かいで、クロリンデが、甘いコーヒーをもうひと口飲んだ。それから、カップを両手で包んだまま、小さく息を吐いた。
「……甘い」
ソルは、彼女の跳ねた髪を、指でそっと撫でつけた。
「それが、目的だ」
クロリンデが、カップの陰で、ほんの少しだけ笑った。
窓の外で、海が光っていた。予定の何もない、静かな朝だった。
ネフェル編の第一話目だけ、一旦投稿しました。
残りの本編は土曜の23,4時くらいに全話一気に上げます。アンケート結果通り、なるべく曇らせた…とは思います。
あと、それから少ししたら鳴潮のキャラで一人、短めですがオリ主との小説を投稿しようと思ってます。
ひと月まえくらいから鳴潮始めましたが、いままでは動画でストーリーを見るだけでしたが、いざやってみると快適すぎてやばいですね。進めやすいし、探索も楽だし、まじで不便ほとんどないです。原神戻れなくなりそうでこわいです。ちなみに今度上げるのはそのキャラの完凸記念です。
これでクロリンデ編の投稿はほんとに、以上になります。たぶん。
評価高すぎてビビってます。ほんと感謝です。
ご愛読ありがとうございました。
アンケートやめて、書いてほしいキャラのお題箱的なの作りました。書くかはわかりません()
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=347080&uid=498370
今後の方針
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今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
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5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて