棘薔薇の会の事務所に、朝一番でクロリンデが訪ねてきた。
それだけでも珍しいのに、彼女は扉を開けるなり、こう言った。
「ナヴィア。頼みがある」
ナヴィアは書類から顔を上げ、たっぷり三秒は彼女の顔を見つめてしまった。
「……あんたが、あたしに、頼み事?」
「そうだ」
「明日、雪でも降るのかしら」
「天気の話はしていない」
いつもの調子だ。けれど、どこかが違う、とナヴィアは思った。帽子の鍔の下の顔は相変わらず静かで、声の抑揚もない。でも、昨日の午後にポワソン町へ寄ってくれたはずの彼女が、その報告より先に「頼み」を口にした。物事の順番をきっちり守るクロリンデにしては、ひどく珍しいことだった。
「とりあえず座って。コーヒー、淹れようか?」
「自分のカップがある」
「知ってる。だから淹れるのよ」
湯気の立つカップを前にして、クロリンデはようやく昨日のことを話した。宝盗団を七人捕まえて、警察隊に引き渡したこと。作業員たちに怪我はなかったこと。それから――
「『リュカ』という用心棒の居場所を知りたい」
ナヴィアはポットを置く手を止めた。
「昨日話した人? 会えたんじゃないの?」
「会った。……逃げられた」
「逃げられた? あんたが?」
「宝盗団を放っておくわけにはいかなかった」
「ああ、なるほどね」
ナヴィアは椅子に腰を下ろし、テーブル越しに友人の顔をのぞき込んだ。
「でも、どうして? 用心棒のことなら、作業員の人たちに聞けばすぐ分かると思うけど。わざわざあたしに頼むってことは……何か訳ありなんでしょ」
クロリンデはカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
ナヴィアは急かさなかった。この幼馴染が黙るのは、言葉を探しているときだ。海の岩礁みたいなものだと、昔から思っている。波が引くのを待てば、ちゃんと形が見えてくる。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……昔、知っていた人かもしれない」
「昔って、どのくらい?」
「師匠に拾われる前だ」
ナヴィアは息を呑んだ。
クロリンデとは十数年の付き合いになる。ペトロニラのことも知っているし、師匠がいなくなった日のことも、パパが亡くなったあとの気まずい三年間のことも知っている。けれど――ペトロニラに拾われる前のクロリンデのことは、何ひとつ知らなかった。本人が一度も、口にしたことがなかったからだ。
その彼女が今、自分からその扉を開けようとしている。
カップを包むクロリンデの指先に、ほんの少しだけ力が入っているのが見えた。
「……分かった。任せて」
ナヴィアは努めて明るく言った。
「港の親方とは顔見知りなの。日雇いの人の住所くらい、すぐ聞き出せるわ。お昼までには何とかしてみせる」
「助かる」
「ただし」ナヴィアは指を一本立てた。「その人、昨日あんたに何て言ったの?」
「……人違いだと」
「そっか」
人違いだと言った相手を、クロリンデは追いかけようとしている。それがどういうことか、分からないナヴィアではなかった。
「無理に聞き出そうとしちゃだめよ。向こうにも事情があるかもしれないし」
「分かっている」
本当に分かっているのかしら、とナヴィアは思った。クロリンデは真っ直ぐだ。剣も、言葉も、生き方も。真っ直ぐすぎて、ときどき、ぶつかった相手ごと壊してしまう。
――でも、とナヴィアは思い直す。
真っ直ぐぶつかっていかなきゃ、届かないものもあるのよね。
パパのことで意地を張っていた三年間を、彼女は思い出していた。あのとき、もっと早く真っ直ぐぶつかっていればよかったのだ。
その日の昼過ぎ、ナヴィアは約束どおり、一枚のメモをクロリンデに渡した。
ポワソン町の外れ、古い網小屋の二階。朝の荷揚げには、ほとんど毎日来ている。
メモを受け取ったクロリンデは、「ありがとう」とだけ言った。いつもと同じ、短い礼だった。
けれど、背を向けて歩き出したその後ろ姿が、ほんの少しだけ急いでいるように見えて――ナヴィアは、日傘の柄をぎゅっと握りしめた。
◇
翌朝、法廷へ向かう前に、クロリンデはポワソン町の荷揚げ場へ足を運んだ。
彼はそこにいた。
木箱を二つ重ねて肩に担ぎ、桟橋と倉庫のあいだを往復している。顔には新しい色眼鏡。灰白色の髪が、潮風に揺れていた。作業員たちと冗談を言い合い、親方に怒鳴られて首をすくめている。どこにでもいる、気のいい日雇いの男に見えた。
クロリンデが近づくと、作業員たちがざわめいた。決闘代理人が港に来ることなど、そうあるものではない。
彼が振り返る。色眼鏡の奥の表情は読めない。けれど、口元はすぐに笑みの形になった。
「やあ、決闘代理人さん。昨日はどうも」
「礼を言いに来た」
「礼を言うのはこっちだよ。危うく背中に穴が開くところだった」
彼は木箱を下ろし、首に掛けた手拭いで額の汗を拭った。
「ソル」
クロリンデは言った。
彼の手は止まらなかった。汗を拭い終えてから、困ったように首をかしげる。
「リュカだよ。昨日も言ったと思うけど」
「あなたの戦い方は、子供の頃から体に叩き込まれたものだ。違うか」
「さあ、どうだろう。用心棒は長いからね。いつ覚えたかなんて、忘れちゃったな」
「どこから来た」
「北のほう。スネージナヤから流れてきたんだ。寒いのは苦手でさ、フォンテーヌは過ごしやすくていい」
「眼鏡を外してくれ」
「それはちょっと」彼は苦笑した。「目が光に弱いんだよ。日差しの下だと、すぐ涙が出る」
クロリンデは、彼の顔をじっと見た。
法廷で、何百人という被告の嘘を見てきた。嘘をつく人間は、どこかに継ぎ目を作る。視線が泳ぐ。指先が動く。声がわずかに上ずる。言葉が必要以上に多くなるか、少なくなる。
彼には、そのどれもなかった。
穏やかな声。自然な間。軽い冗談。何もかもが滑らかで、継ぎ目がない。
だからこそ、クロリンデは確信した。
これは、長い時間をかけて磨かれた嘘だ。一日や二日で身につくものではない。何年も、何年も、本当のことを言えない場所で生きてきた人間の嘘だ。
「おい、リュカ! いつまでサボってんだ!」
親方の怒鳴り声が飛んでくる。彼は「はーい!」と大きく返事をして、木箱を担ぎ直した。
「ごめんね、仕事中なんだ。代理人さんも、そろそろ法廷じゃないのかい」
確かにそうだった。今日は午前に審理が一件ある。クロリンデは懐中時計に目を落とし、それから顔を上げた。
「また来る」
「来なくていいよ」
彼は笑って言った。
「人違いなんだから」
その言葉は、背を向けたクロリンデの胸に、思っていたよりも深く刺さった。
――来なくていい。
あの夜、『すぐ行く』と言ったのと、同じ声だった。
◇
クロリンデは、翌日も港へ行った。
その次の日も、そのまた次の日も。
朝の審理がない日は朝に。ある日は、仕事を終えた夕方に。手帳の予定欄に「ポワソン町」と書き込んだのは、三日目のことだった。
彼の態度は、一度も変わらなかった。
「やあ、代理人さん。今日も来たの」
「来ると言った」
「律儀だなあ」
彼は笑い、仕事に戻る。クロリンデは邪魔にならない場所に立って、それを見ている。作業員たちは最初こそ遠巻きにしていたが、四日目にもなると慣れたもので、「代理人さん、今日はリュカの奴、ちょっと寝坊したんですよ」などと教えてくれるようになった。
二日目には、コーヒーを持っていった。
自分のカップと、予備のカップ。予備のほうに注いで差し出すと、彼は少しだけ驚いたように手を止めて、それから受け取った。
「……うまいね、これ」
「カフェ・リュテスの新作だ」
「へえ。いいところのコーヒーなんだ。俺には贅沢だな」
「贅沢かどうかは、飲む人間が決めることじゃない。淹れた人間が決めることだ」
「何それ」
彼は小さく吹き出した。
「代理人さんって、変なこと言うね」
「変なことを言ったつもりはない」
「うん。だから変なんだよ」
それでも、彼は一度も認めなかった。名前を呼んでも、昔の話をしても、柔らかく笑って首を振るだけだった。人違いだよ。そんな子は知らない。俺はリュカ。北から流れてきた、ただの用心棒。
五日目の昼。
荷揚げの合間の休憩時間に、クロリンデは、彼が腰掛けている木箱の隣に座った。手には、パン屋で買ってきた丸いパンが一つ。
彼が怪訝そうにこちらを見る。
クロリンデは何も言わずに、パンを二つに割った。
うまく半分にはならなかった。片方が少し大きく、片方が少し小さい。
大きいほうを、彼に差し出す。
――あの地下で、彼がいつもそうしてくれたように。
彼の手が、伸びかけて、止まった。
色眼鏡の奥は見えない。けれど、時間が止まったのが分かった。港の喧騒も、波の音も、カモメの声も、全部が遠くなった気がした。
長い沈黙のあと、彼の手が動いた。
大きいほうではなく、クロリンデの手に残っていた、小さいほうのパンを取った。
そして、大きいほうを、そっと彼女の手に押し戻した。
「大きいほうは、君が食べなよ」
その言い方は、あまりにも自然だった。考える前に、手が動いていた。そういう動きだった。
クロリンデは、手の中に戻ってきたパンを見下ろした。
二十年前と、同じだった。
彼は、いつも小さいほうを取った。大きいほうを、必ずクロリンデに寄越した。お腹が空いているのは同じなのに。自分のほうがたくさん動いて、たくさん殴られていたのに。
「……あ」
彼が小さく声を漏らした。自分のしたことに、今気づいたように。
「いや、ほら。女の人から大きいほう貰うのは、なんか悪いからさ」
取り繕うように笑う。いつもの、継ぎ目のない笑顔――のはずだった。
けれど、その笑顔の端が、ほんのわずかに震えていた。
クロリンデは何も言わなかった。言えば、彼はまた逃げるだろう。だから黙って、大きいほうのパンをひと口かじった。
素朴な味だった。地下で食べたパンよりずっと柔らかくて、ずっとおいしかった。それなのに、なぜか喉の奥が詰まった。
「……そうか」
それだけ言って、パンを食べ終える。立ち上がり、帽子の鍔を直した。
「明日も来る」
「代理人さんって、暇なのかい」
「暇ではない。予定に組み込んだ」
彼は一瞬きょとんとして、それから――吹き出した。
今度の笑いは、それまでのどれとも違っていた。作り物の滑らかさがない、喉の奥から勝手に転がり出たような笑い声だった。
「予定に組み込んだって……あはは、何それ。本当に変な人だなあ」
肩を揺らして笑う彼を見下ろしながら、クロリンデは思った。
この笑い方は、知っている。
暗い地下で、寒さに震えながら、それでも彼がたまに見せた笑い方だ。
◇
彼女の背中が坂の上に消えるまで、ソルは笑っていた。
消えた途端に、笑いは止まった。
膝の上に残った小さいほうのパンを、じっと見下ろす。
「……何やってんだ、俺」
手が勝手に動いた。考えるより先に、大きいほうを彼女に押し戻していた。二十年、誰にも分ける相手のいなかった癖が、たった一度パンを差し出されただけで、何の抵抗もなく出てきてしまった。
あの子は気づいただろう。気づいて、何も言わなかった。言えば自分が逃げると分かっていたから。
――昔から、そういう子だった。
黙って、じっと見て、ちゃんと分かっている子だった。
ソルはパンをひと口かじった。味がよく分からなかった。
あの地下で、あの子が教えてくれたことがある。
自分の名前だ。
『わたし、クロリンデ。なまえだけは、あるの』
親が置いていったのは、それだけだったらしい。名前のない自分にとって、それはひどく羨ましくて、眩しいものに思えた。だからあの子が自分に「ソル」という名前をくれたとき、宝物をひとつ分けてもらったような気がした。
その名前を、もう一度目にしたのは、スネージナヤの兵舎だった。
フォンテーヌから流れてきた古い新聞。誰かが暖炉の焚きつけにしようとしていたのを、何気なく手に取った。そこに、その名前があった。
『無敗の決闘代理人クロリンデ、今季も勝利を重ねる』
挿絵の女性は、帽子を目深にかぶっていた。顔はよく分からなかった。それでもソルは、新聞を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
生きていた。
あの子は、生きていた。外に出て、大きくなって、剣を持って、明るい場所に立っていた。
その新聞の切れ端は、今もこの網小屋の引き出しの底にある。紙は茶色く変色して、折り目のところが擦り切れかけている。
フォンテーヌに戻ってきたのは、半年前だ。
最初は、遠くから一度だけ見られればいいと思っていた。歌劇場の最後列の、一番暗い席。舞台の上で剣を抜く彼女を見たとき、すぐに分かった。立ち方。間合いの取り方。それから――勝ったあと、歓声に一度も顔を向けない、あの横顔。
一度だけのつもりが、二度になり、三度になった。気づけば、彼女の決闘はひとつも欠かさず観ていた。数えたら、二十三回。
近づくつもりは、なかった。本当に。
自分の手が何をしてきたか、ソルは知っている。地下の決闘場で。ファデュイの命令で。この手は、あの子の差し出すパンを受け取っていい手じゃない。
だから、人違いでいい。
あの子が毎日港に来るのも、いずれ飽きるだろう。決闘代理人は忙しい。こんな日雇いの男に構っている暇なんて、本当はないはずだ。
右手が、また震え始めていた。左手で押さえつけて、ソルは立ち上がった。休憩はもう終わりだ。
その日の仕事を終えて、網小屋へ戻ったときだった。
階段を上りかけて、ソルは足を止めた。
扉の下のほう、ちょうど子供の目の高さに、白い線が引かれていた。チョークで描いたような小さな印。三本の線が、雪の結晶のように交わっている。
知らない人間が見れば、近所の子供の落書きにしか見えないだろう。
だが、ソルは知っていた。
それは、ファデュイが「脱走者の居場所を確認した」ときに残す、仲間内の合図だった。
背筋に、氷を流し込まれたような冷たさが走る。
「……見つかったか」
呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。
坂の上、フォンテーヌ廷の方角を振り返る。明日もあの子は来ると言った。予定に組み込んだ、と。
ソルは指先で、扉の印をゆっくりとこすり消した。白い粉が、潮風にさらわれて消えていく。
ここを離れなければならない。あの子を巻き込まないうちに。
――そう分かっているのに、足はなかなか動かなかった。