十数えたら、外だ   作:にんら

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角砂糖の味

 棘薔薇の会が管理する建物の三階に、空き部屋が一つあった。

 

 クロリンデがそこを貸してほしいと言ってきたのは、雨の夜から二日後のことだ。

 

「人を一人、匿ってほしい」

「……あんた、最近あたしを驚かせるのが趣味になってない?」

 

 聞けば、例の「リュカ」――本当の名前はソルというらしい――がファデュイに追われて、刺されて、今はクロリンデの部屋で寝ているという。情報が多すぎて、ナヴィアは一度ポットを置き、深呼吸をしてから、最初から聞き直した。

 

 詳しい事情を、クロリンデは全部は話さなかった。昔の友達で、ずっと死んだと思っていて、生きていた。話したのはそれだけだった。

 

 それだけで、十分だった。

 

「いいわよ。三階の角部屋。窓から港が見えるの。うちの子たちにも見張りを頼んでおくわ」

 

 それから、十日が経った。

 

 

◇

 

 

「……で、これは何の集まりなの?」

 

 カフェ・リュテスのテラス席で、ナヴィアは向かいの二人を交互に見た。

 

 クロリンデは、いつもどおり背筋を伸ばしてマイカップを手にしている。その隣で、ソルが居心地悪そうに肩をすくめていた。色眼鏡は、あの雨の夜にクロリンデが拾ってきたものだ。罅の入ったレンズを入れ替えて、彼女が本人に返したのだという。

 

 ソルの膝の上には、なぜか小さな花束が載っていた。

 

「訓練だ」

 

 クロリンデが言った。

 

「訓練?」

「普通の暮らしの訓練だ。午前中に花を買い、果物を買う。午後はカフェでコーヒーを飲む。夜は――」

「それ、あんたの休日の予定そのままじゃない」

「そうだ。私が知っている一番まともな暮らしの手本が、これしかない」

 

 ソルが、小さく吹き出した。

 

「ごめん、ナヴィアさん。俺、断ったんだよ。でもこの人、聞かなくて」

「知ってる。昔からそうなのよ」

 

 ナヴィアは笑いながら、ソルを観察した。

 

 十日前に初めて会ったときより、顔色はずいぶん良くなっている。傷も塞がりかけているらしい。人当たりがよく、よく笑い、ナヴィアの会の子たちともすぐに打ち解けた。誰に聞いても「いい人」だと言う。

 

 けれど、作業員たちの言っていたことも、ナヴィアには少し分かる気がした。

 

 笑い方が、優しいのに、どこか寒い。

 

 彼は、いつも出口の見える席に座る。背中を壁につけて。誰かが急に立ち上がると、ほんの一瞬だけ、指先が動く。本人は気づいていないのかもしれないけれど。

 

 店員が、ソルの前にもカップを置いた。カフェ・リュテスの看板ブレンド。ソルは礼を言って、そのまま口をつけようとした。

 

「待て」

 

 クロリンデが手を伸ばし、角砂糖を一つ、彼のカップに落とした。

 

「え。俺、コーヒーは黒いままで――」

「今日は入れる」

「なんで?」

 

 クロリンデは少しだけ黙った。それから、ナヴィアも聞いたことのない話を始めた。

 

「師匠が言っていた。平和で満ち足りた暮らしこそが、手に入れなければならない角砂糖だと。戦いは、角砂糖を取るためのスプーンにすぎない」

 

 ソルは、カップの中で溶けていく角砂糖を見下ろした。

 

「……じゃあ俺、今までずっと、スプーンだけ握ってたのか」

 

 冗談めかした口調だった。けれど、ナヴィアには、それがちっとも冗談に聞こえなかった。

 

「スプーンを握っていたなら」

 

 クロリンデは、まっすぐに彼を見た。

 

「角砂糖は、これから取ればいい」

 

 ソルは何も言わずに、甘くなったコーヒーをひと口飲んだ。色眼鏡の奥の表情は見えない。でも、カップを持つ手が、ほんの少しだけ止まっていた。

 

「……甘いね」

「それが目的だ」

 

 ナヴィアは、自分のグラスのストローをくわえたまま、二人を見ていた。

 

 それから話題は、ソルの膝の上の花束に移った。

 

「その花、どうするの?」

「俺の部屋に飾るんだって。殺風景だからって」

「花って、ちゃんとお世話できるの?」

 

 ソルが困ったようにクロリンデを見る。クロリンデは、いつもの真顔で答えた。

 

「水をやる。日に当てる。話しかける」

「話しかける?」

「最後のは師匠の受け売りだ。効果は確認していない。三年ほど検証したが、花が返事をしたことは一度もない」

 

 ナヴィアは一瞬、意味が分からなかった。

 

 その隣で、ソルが吹き出した。肩を震わせ、テーブルに額をつけて、声を殺して笑っている。喉の奥から勝手に転がり出てくるような、子供みたいな笑い方だった。

 

「さ、三年……三年も花に話しかけて……返事待って……」

「検証には時間がかかる」

「あはは、もう、やめて……傷が開く……」

 

 ナヴィアは、ぽかんと口を開けた。

 

「え、待って。今の、冗談だったの!?」

「半分は」

「半分は本当なんだ……」

 

 ソルがさらに笑い崩れる。

 

 そしてナヴィアは、見てしまった。

 

 クロリンデの口の端が、ほんのわずかに持ち上がっているのを。

 

 十数年の付き合いで、ナヴィアはクロリンデの冗談を何度も聞き逃してきた。真顔すぎて、どこまでが本気なのか分からないのだ。パパでさえ、よく首をかしげていた。それなのに、この人は、一度も聞き逃さない。全部拾って、全部笑う。

 

 そして、それを見たクロリンデが、笑うのだ。

 

 ――ああ、この人、本物なんだ。

 

 ナヴィアは、ストローから口を離した。胸の奥が、少しだけ温かくて、少しだけ寂しかった。

 

 テラス席の向こうの通りで、誰かがこちらを指さしているのが見えた。決闘代理人が、見知らぬ男と笑い合っている。物珍しいのだろう。

 

 まあ、いいか、とナヴィアは思った。今くらいは。

 

 

◇

 

 

「やあやあ、待たせたね! 今夜の主役の登場だよ!」

 

 フリーナが棘薔薇の会の応接間の扉を開け放つと、卓を囲んでいた三人が一斉に顔を上げた。

 

 ナヴィアが手を振る。クロリンデは、ゲームマスター用の衝立の向こうで軽く会釈をした。そして、見知らぬ男が一人。灰白色の髪に、色の入った眼鏡。

 

「キミが噂の新人くんだね? ナヴィアから聞いてるよ。クロリンデの――えっと、何だっけ」

「昔の友達、です。ソルといいます」

 

 男は立ち上がって、人の好さそうな笑顔で頭を下げた。

 

「お会いできて光栄です、フリーナさん」

「ふふん、そうだろうとも!」

 

 胸を張って席に着きながら、フリーナはその笑顔をもう一度、横目で見た。

 

 上手いな、と思った。

 

 角度も、間も、声の高さも、完璧だった。初対面の相手に好かれるための笑顔として、非の打ちどころがない。五百年、舞台の上で神を演じてきたフリーナだからこそ分かる。あれは、練習を重ねた笑顔だ。

 

 

◇

 

 

 今夜のシナリオは、クロリンデの書き下ろしだった。

 

 崩れかけた古い砦から、囚われた村人たちを連れて脱出する。ナヴィアは陽気な銃士、フリーナは華麗な吟遊詩人、そしてソルは――

 

「名前、決めなきゃだめ?」

 

 キャラクターシートを前に、ソルが困ったように頭をかいた。

 

「だめに決まってるでしょ!」とナヴィア。

「じゃあ……リュカで」

 

 フリーナは、ほんの少しだけ眉を上げた。

 

 リュカ。彼が港で名乗っていた偽名だと、ナヴィアから聞いていた。仮面の上に、もう一枚仮面をかぶるのか。

 

 盾を持った傭兵、リュカ。口数は少なく、仲間の前に立って攻撃を受け止める役回り。初めての卓とは思えないほど、彼の立ち回りは堂に入っていた。どこに立てば仲間が守れるか。どの扉を塞げば追っ手が来ないか。考える前に、手が動いているようだった。

 

 ゲームは順調に進んだ。ナヴィアが派手に罠を踏み抜き、フリーナが歌で衛兵を眠らせ、ソルの傭兵がそのたびに尻拭いをする。笑い声が絶えなかった。

 

 そして、最後の場面。

 

「砦が崩れ始める」

 

 衝立の向こうから、クロリンデが淡々と告げた。

 

「出口の大扉は一つ。外から追っ手が迫っている。誰かが扉を押さえていなければ、村人たちは逃げきれない。押さえた者は――おそらく、砦の崩落に巻き込まれる」

 

 卓が静まり返った。

 

「えー、どうする? 運命判定カードで――」

 

 ナヴィアが言いかけたとき、ソルが口を開いた。

 

「じゃあ、俺が残るよ」

 

 あっさりとした声だった。

 

「リュカが扉を押さえる。皆は村人を連れて、先に行って」

「ちょっと、待ちなさいよ! まだ何か方法が――」

「いいんだ」

 

 ソルは笑った。あの、完璧な笑顔で。

 

「こういうの、慣れてるから」

 

 フリーナは、ぞくりとした。

 

 台詞が上手かったからではない。逆だ。今の言葉には、演技の匂いがまったくしなかった。キャラクターの台詞ではなく、彼自身の、ごく当たり前の本音として口から出てきた言葉だった。

 

 ナヴィアも気づいたのだろう。言葉を失って、彼を見ている。

 

 衝立の向こうで、クロリンデが黙っていた。

 

 サイコロを握った彼女の手が、白くなるほど強く握りしめられているのが、フリーナの位置からは見えた。

 

 長い沈黙のあと、クロリンデが口を開いた。

 

「……扉は、十を数えるあいだだけ持ちこたえる」

 

 静かな声だった。

 

「十を数えたら、扉は自然に閉じる。その騎士も、後を追って外に出られる」

「え、でも、それルールに――」

「ゲームマスターの裁定だ」

 

 クロリンデは、衝立越しにソルを見た。

 

「その騎士は、死なない」

 

 ソルの笑顔が、ほんの一瞬、崩れた。

 

 色眼鏡の奥で、彼が何を思ったのか、フリーナには分からない。けれど、膝の上に置かれた彼の手が、かすかに震えていたのは見えた。

 

「……そっか」

 

 彼は小さく笑った。今度は、少しだけ不格好な笑顔だった。

 

「じゃあ、十数えたら、追いかけるよ」

 

 

◇

 

 

 片付けを終えて、ナヴィアとクロリンデが台所でカップを洗っているあいだに、フリーナはバルコニーに出た。

 

 先客がいた。手すりにもたれて、夜の港を眺めている。

 

「キミ、演技うまいね」

 

 声をかけると、ソルが振り返った。

 

「……何のこと?」

「とぼけなくていいよ。僕もね、ずっと演じてたんだ。五百年くらい」

 

 フリーナは彼の隣に並び、手すりに頬杖をついた。

 

「だから分かるんだ。キミのその笑顔、すごくよくできてる。でもね、あれは誰かに好かれるための笑顔じゃない。誰にも心配させないための笑顔だ」

 

 ソルは何も言わなかった。

 

「それって、すごく疲れるんだよ。知ってる。僕も、毎晩ひとりで泣いてたから」

 

 夜風が、二人のあいだを抜けていった。

 

「疲れたら、やめていいんだよ。舞台は降りられるんだ。……これは、僕が言うんだから間違いない」

 

 しばらくして、ソルが小さく息を吐いた。

 

「……覚えとくよ、フリーナさん」

 

 その声には、もう、あの完璧な響きはなかった。

 

 

◇

 

 

 珍しい客だ、とリオセスリは思った。

 

 メロピデ要塞の管理者室に、決闘代理人クロリンデが訪ねてくることは、まずない。仕事で書類のやり取りをすることはあっても、本人がわざわざ海の底まで降りてくるのは、数えるほどしか記憶になかった。

 

 しかも今日は、連れがいた。

 

「紅茶でいいかい。ここのは悪くないぜ」

「いただこう」

 

 クロリンデは手短に用件を話した。連れの男が、十日ほど前に刺された。傷はもう塞がりかけているが、抜糸と、念のための診察を頼みたい。表の診療所には行かせたくない、と。

 

「記録が残る。彼を追っている者たちに、足取りを知られたくない」

「追っている者、ね」

 

 リオセスリは、紅茶のカップ越しに男を見た。

 

 灰白色の髪。色の入った眼鏡。人の好さそうな顔で、ソルと名乗った。

 

「シグウィンなら口は堅い。いいだろう。準備ができたら呼びに来させる」

「感謝する、公爵」

 

 クロリンデが一足先にシグウィンのところへ事情を説明しに行き、管理者室には男二人が残された。

 

 リオセスリは、黙って紅茶を啜った。

 

 男は、部屋の隅の椅子に座っていた。扉が真正面に見える位置。背中を壁につけて。両手は、いつでも動かせるように膝の上に軽く置かれている。リラックスしているように見えて、重心がわずかに前に寄っている。何かあれば、一呼吸で立ち上がれる姿勢だ。

 

 見覚えがあった。

 

 ずっと昔、鏡の中で、毎日見ていた座り方だ。

 

「あんた、どこの『中』にいた?」

 

 男が、ゆっくりとこちらを見た。

 

「……何の話?」

「座り方だよ」

 

 リオセスリは、カップを置いた。

 

「扉が見える位置に、壁を背にして座る。手はいつでも動かせるようにしておく。眠るときも、たぶん同じだろう。浅く眠って、物音がしたらすぐ起きる」

 

 男は何も言わなかった。

 

「俺も昔、そういう座り方をしてた。……ここに来る前と、来たばかりの頃にな」

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 

 男の襟元から、首に一周する細い痕が覗いていた。リオセスリは、それが何の痕なのかを知っている。メロピデの囚人の中にも、同じ痕を持つ者がいたからだ。

 

 やがて、男が小さく笑った。困ったような、諦めたような笑い方だった。

 

「……地下の籠。子供の頃にね」

「そうか」

 

 リオセスリは、それ以上は聞かなかった。聞く必要もなかった。どんな場所だったかは、その一言と座り方で十分に分かる。

 

「ここの連中も、似たようなもんさ。どこかの『中』から、また別の『中』に来た奴ばかりだ」

 

 リオセスリは立ち上がり、窓の外――分厚い硝子の向こうの、暗い海を見た。

 

「だがな。ここは地獄じゃない。少なくとも、俺が公爵でいるうちはな」

 

 男が、少しだけ目を見開いた気配がした。

 

「……覚えとくよ」

「ああ、覚えておけ。損はない」

 

 リオセスリは振り返り、口の端を持ち上げた。

 

「それと、もう一つ。あの決闘代理人が、誰かのために俺に頭を下げに来たのは、これが初めてだ」

 

 男の肩が、ぴくりと動いた。

 

「あんたのためにな。……せいぜい、大事にしてやれよ」

 

 男は、何か言いかけて、やめた。代わりに、色眼鏡の奥で目を伏せた。

 

 そのとき、扉が叩かれて、看護師長の明るい声が響いた。

 

「準備できたのよー! 患者さん、こっちに来てね!」

 

 

◇

 

 

「まあ、キレイな縫い目!」

 

 包帯を解いた瞬間、シグウィンは思わず声を上げた。

 

 脇腹の傷は、等間隔の小さな縫い目で、きっちりと閉じられていた。糸の締め具合も、結び目の向きも、申し分ない。腫れもほとんど引いている。

 

「これ、クロリンデさんが縫ったの? すごいのよ! ウチの助手になってほしいくらい!」

「遠慮しておく」

 

 診察台の脇に立ったクロリンデが、真顔で答えた。

 

「剣のほうが向いている。それに、私が助手になったら、患者が増える気がする」

「……それ、どういう意味?」

「怪我人を作るほうが得意だという意味だ」

 

 診察台の上で、患者の男――ソルさんが、肩を震わせて笑いをこらえていた。シグウィンは、少し首をかしげてから、くすっと笑った。クロリンデさんの冗談は分かりにくいけれど、この人はちゃんと分かるらしい。

 

「じゃあ、抜糸するのね。ちょっとチクッとするけど、我慢してね」

 

 鋏で糸を切り、ピンセットで一本ずつ抜いていく。ソルさんは、顔色ひとつ変えなかった。痛いはずなのに、眉ひとつ動かさない。痛みに慣れすぎている人の反応だ、とシグウィンは思った。

 

 抜糸の途中、彼の手首に軽く触れて、脈を取った。

 

 冷たい。

 

 人間の体温は、メリュジーヌのシグウィンよりずっと高いのが普通だ。それなのに、この人の手首は、ひんやりとしていた。氷元素の神の目を持っている人は体温が低めになることもある――と、どこかで聞いた気はする。でも、それだけでは説明がつかないくらい、冷たかった。

 

 そして、触れた指先に、細かい震えが伝わってきた。

 

 寒さで震えているのとは違う。筋肉の奥の、もっと深いところから来る震えだ。

 

 シグウィンは、ソルさんの顔を見上げた。

 

 人間の顔の筋肉は、とても面白い。嬉しいとき、悲しいとき、嘘をついているとき、それぞれ違う場所が動く。シグウィンは、人間の顔の筋肉を観察するのが大好きだった。

 

 ソルさんの口の周りの筋肉は、ちゃんと笑っていた。

 

 けれど、目の周りの筋肉は、ほとんど動いていなかった。

 

 笑っているのに、笑っていない顔だった。

 

「……はい、おしまい! よく頑張ったのね」

 

 最後の糸を抜き終えて、新しい薬を塗る。それから、シグウィンは何気ないふうを装って聞いた。

 

「ねえ、ソルさん。この手の震え、いつからなの?」

「ああ、これ?」ソルさんは軽く手を振ってみせた。「昔からだよ。寒がりなんだ」

「寒がり」

「そう。北のほうに長くいたからさ、体が冷えやすくなっちゃって」

 

 にこにこと笑う。口の周りの筋肉だけで。

 

「念のため、胸の音も聞いておきたいのよ。シャツ、もうちょっと上げてくれる?」

 

 ほんの一瞬、彼の手が止まった。

 

「いや、大丈夫。傷はここだけだから」

 

 そう言って、彼はシャツの裾を下ろし、ボタンを留め始めた。上から下まで、丁寧に。首元の、最後の一つまで。

 

 断られた。はっきりと。

 

 シグウィンは、それ以上は無理を言わなかった。看護師は、患者が嫌がることを無理やりしてはいけない。それがシグウィンの決めごとだった。治療は、患者の心と一緒にするものだから。

 

「クロリンデさん。あっちの棚から、包帯の替えを取ってきてくれる? 一番上の、青い箱なのよ」

「分かった」

 

 クロリンデさんが部屋を出ていく。扉が閉まるのを待って、シグウィンはソルさんに向き直った。

 

「これ、あげるのね」

 

 小さなリップクリームを、彼の手のひらに載せる。

 

「クロリンデさんにもあげたやつと、おそろいなのよ。乾燥すると、唇が切れちゃうから」

「……ありがとう」

「それから」

 

 シグウィンは、彼の冷たい手を、両手で包んだ。

 

「キミ、どこか悪いのね」

 

 ソルさんは答えなかった。笑顔のまま、何も言わなかった。

 

「ウチは、無理に聞かないのよ。キミが言いたくないなら、言わなくていい。でも――本当に苦しくなったら、絶対にここに来て。夜中でも、いつでも。約束よ」

 

 長い沈黙のあと、ソルさんが小さくうなずいた。

 

「……うん。約束する」

 

 その声は、とても静かだった。

 

 扉が開いて、クロリンデさんが青い箱を抱えて戻ってくる。ソルさんはもう、いつもの笑顔に戻っていた。

 

 二人が帰ったあと、シグウィンは診察台の上をしばらく見つめていた。

 

 シャツのボタンを留める前に、ほんの一瞬だけ見えたもの。彼の鳩尾の少し上、皮膚の下に沈んだ、黒っぽい何か。

 

 あの冷たさは、シグウィンが知っているどの病気とも違っていた。

 

 

◇

 

 

 棘薔薇の会の三階、角部屋の窓からは、夜の港が見える。

 

 ソルは寝台の端に腰掛けて、部屋の中を眺めていた。

 

 窓辺には、クロリンデが活けていった花がある。白と薄紫の、名前も知らない小さな花だ。机の上には、ナヴィアがくれた果物の籠。フリーナが置いていったキャラクターシートには、「リュカ」の名前と、下手くそな盾の絵が描いてある。ポケットの中には、シグウィンがくれたリップクリーム。

 

 それから、舌の上にまだ残っている気がする、角砂糖の甘さ。

 

「……もらいすぎだな」

 

 呟いて、指を折って数えてみた。

 

 コーヒー。角砂糖。花。果物。キャラクターシート。リップクリーム。部屋。見張りの人たち。笑ってくれる人たち。十日前までは、どれも持っていなかったものだ。

 

 十本の指では、足りなくなった。

 

 地下の決闘場では、何かを持つことは許されなかった。持てば奪われる。奪われれば、それを守ろうとして弱くなる。だから、何も持たないことにした。ファデュイにいた頃も同じだ。持ち物は武器と、命令と、胸の中のこれだけ。

 

 それなのに、今は、両手からこぼれるくらいのものを持っている。

 

 怖いな、と思った。

 

 幸せだと思う気持ちと、怖いと思う気持ちが、同じ場所から湧いてくる。失うのが怖いのではない。もっと欲しくなるのが、怖かった。もう少しだけ、もう一日だけ、と思ってしまう自分が。

 

 ――その騎士は、死なない。

 

 衝立の向こうから、まっすぐにこちらを見ていた紫の目を思い出す。

 

 ゲームの話だ。ただのゲームの裁定だ。分かっている。それなのに、あの言葉を聞いたとき、喉の奥が詰まって、うまく息ができなくなった。

 

 誰かに「死ぬな」と言われたのは、生まれて初めてだった。

 

 そのとき、胸の奥で、何かがきしんだ。

 

 咳が出た。一度。二度。止まらない。体を折り曲げ、口元を押さえる。肺の底から、冷たいものがせり上がってくる。

 

 ようやく咳が収まったとき、口元を押さえていた手のひらを見下ろした。

 

 赤かった。

 

 窓から差し込む街灯の光の中で、手のひらの上の血が、黒っぽく光っていた。

 

 ソルは、しばらくそれを見つめていた。

 

 驚きはなかった。いつかこうなると、ずっと前から知っていた。胸の真ん中に埋め込まれたあの欠片が、何をしているのか。少しずつ、少しずつ、自分の中の何かを削っていることを。

 

 シャツの上から、鳩尾のあたりに触れる。氷のように冷たい。

 

「……まだ、もう少しだけ」

 

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

 洗面器の水で、手を洗う。赤い色が水に溶けて、薄く広がって、消えていく。手拭いで口元を拭い、汚れた布を丸めて、ゴミ箱の一番奥に押し込んだ。

 

 誰にも見られないように。

 

 あの子に、知られないように。

 

 窓辺の花が、夜風に小さく揺れていた。

 

 ソルはその前にしゃがみこんで、白い花びらにそっと話しかけた。

 

「……なあ。三年話しかけたら、返事してくれる?」

 

 花は、何も答えなかった。

 

 当たり前だ。ソルは小さく笑って、それから、もう一度だけ咳をした。今度は、血は出なかった。

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