十数えたら、外だ   作:にんら

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鞘

 鴨は、朝のうちに仕留めた。

 

 エリニュス島の北の湿地で、夜明け前から二時間ほど待った。一発で済ませた。羽をむしり、血を抜き、胸肉だけを丁寧に切り出して、冷たい布に包んで持ち帰った。

 

「……え、今日の晩ごはん、それ?」

 

 棘薔薇の会の三階、角部屋の小さな台所で、ソルが目を丸くしていた。

 

「そうだ」

 

 クロリンデは帽子を脱いで椅子の背に掛け、袖をまくった。

 

「前に言っただろう。機会があれば、狩りの獲物で作ってやると」

「言ってたっけ」

「言った。港で、三日目の夕方に」

 

 ソルは少し考えて、それから困ったように笑った。

 

「よく覚えてるね」

「予定に組み込んだことは忘れない」

 

 フライパンを火にかけ、皮目から鴨肉を焼く。脂が溶け出して、ぱちぱちと音を立てる。そのあいだにオレンジを搾り、果汁と少しの蜂蜜を小鍋で煮詰めていく。酸味のある果物と一緒に食べる肉が、クロリンデは一番好きだった。

 

 ソルは台所の入口の柱にもたれて、それを黙って見ていた。いつものように、扉の見える位置で。けれど、その肩からは、少しだけ力が抜けているように見えた。

 

「……なんか、変な感じだな」

「何がだ」

「決闘代理人さんが、エプロンもしないで鴨を焼いてるの。スチームバード新聞に載せたら、きっと売れるよ」

「載せたら、その記者と決闘する」

「写真機だけで?」

「公平を期すためにな」

 

 ソルが吹き出した。クロリンデは振り返らずに、鴨肉をひっくり返した。焼き色は申し分ない。

 

 この三週間で、彼はずいぶん変わった、とクロリンデは思う。

 

 最初の頃は、何を差し出されても、困ったように笑って遠慮していた。今は、渋々ながら受け取る。コーヒーに角砂糖を入れるのも、自分からするようになった。窓辺の花には、毎朝水をやっている。ナヴィアの会の子たちとは、すっかり打ち解けたらしい。

 

 それでも、まだ足りなかった。

 

 ときどき、彼はひどく遠い目をする。窓の外を見ているとき。誰もいない部屋で、一人で座っているとき。胸のあたりに、無意識のように手を当てているとき。

 

 聞いても、答えはいつも同じだ。何でもないよ、と笑う。継ぎ目のない、あの笑顔で。

 

「できたぞ」

 

 皿に鴨肉を切り分けて並べ、オレンジのソースをかける。付け合わせに、焼いたポテトを少し。

 

 小さな卓に向かい合って座る。ソルが、ひと切れを口に運んだ。

 

 そして、動きを止めた。

 

「……うまい」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

「すごく、うまい。……こんなの、食べたことない」

 

 色眼鏡の奥の表情は、見えない。けれど、その声がわずかに揺れていたのを、クロリンデは聞き逃さなかった。

 

「当然だ。獲物は新鮮で、焼き方も正しい」

「自分で言う?」

「事実だからな」

 

 ソルは笑って、もうひと切れを口に運んだ。ゆっくりと、噛みしめるように。まるで、この味を一生覚えておこうとしているみたいに。

 

 その食べ方が、なぜか胸に刺さった。

 

 ――また今度、作ってやる。

 

 そう言おうとして、クロリンデが口を開きかけたときだった。

 

 ソルの手が、ぴたりと止まった。

 

 フォークを持ったまま、彼の顔が窓の方を向く。一瞬前までの穏やかさが、嘘のように消えていた。

 

「クロリンデ」

 

 低い声だった。

 

「伏せて」

 

 次の瞬間、窓硝子が砕け散った。

 

 

◇

 

 

 飛び込んできたのは、紫の雷光をまとった光球だった。

 

 雷蛍術師の放つ蛍だ。ソルは卓をひっくり返して盾にし、クロリンデの肩を掴んで床に引き倒した。頭上で光球が弾け、壁の棚が吹き飛ぶ。皿が割れ、オレンジのソースが床に散った。

 

 せっかくの鴨が、と場違いなことを思った。

 

「何人だ」

 

 床に伏せたまま、クロリンデが短く聞いた。もう剣の柄に手がかかっている。

 

「窓の外に術師が二人。屋根の上に一人。階段の下に、たぶん五、六人。それと――」

 

 ソルは目を閉じて、耳を澄ませた。雨の路地で、背中を刺されたときの気配。

 

「姿の見えないのが、一人」

「デットエージェントか」

「たぶん」

 

 階段を駆け上がってくる足音がした。扉が蹴破られる。灰色の軍装の先遣隊が三人、その後ろに、鏡を携えた女――ミラーメイデン。

 

「『日蝕』」

 

 先頭の男が、仮面の下から言った。

 

「ヴィクトル様の命令だ。生きたまま連れて帰る。邪魔をする者は――殺してかまわない、とのことだ」

 

 男の視線が、ソルの隣のクロリンデに向いた。

 

 その瞬間、ソルの中で、何かが冷たく切り替わった。

 

 壁に立てかけてあった槍を、手に取る。帆布はもう巻いていない。穂先に、白い霜が這い上がっていく。

 

「……その人に手を出したら」

 

 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。地下の決闘場で、最後の試合の前に出していた声だ。

 

「俺は、手加減しない」

 

 先遣隊が動いた。

 

 ソルが床を踏む。部屋中の床板に霜が走り、先遣隊の足元が凍りつく。一人目が滑って体勢を崩したところへ、石突きを叩き込む。二人目が剣を振りかぶる――が、その剣は振り下ろされなかった。

 

 紫の雷光が、横から男の手首を撃ち抜いていた。

 

「左は私が引き受ける」

 

 クロリンデが、もう隣にいた。

 

 言葉は、それだけで足りた。港で初めて並んだときと同じだった。ソルが下段を払えば、クロリンデが上段を抑える。クロリンデが踏み込めば、ソルが退いて背後を塞ぐ。

 

 ミラーメイデンが鏡をかざし、水の鎖を放つ。ソルは槍を回してそれを凍らせ、砕いた。氷の破片が宙に散る。

 

 そこへ、クロリンデの雷が走った。

 

 凍りついた水と雷がぶつかった瞬間、青白い閃光が弾けた。空気が軋むような音がして、ミラーメイデンの体を覆っていた水の膜が、硝子のように脆く砕け散る。

 

 超電導――氷と雷が重なったとき、相手の守りを根こそぎ剥ぎ取る現象だ。

 

 クロリンデの剣が、その隙を逃さず閃いた。ミラーメイデンが鏡を取り落として、床に崩れる。

 

 窓の外から、また雷の蛍が飛び込んでくる。ソルは窓枠を蹴って外に身を乗り出し、壁伝いに屋根へ跳んだ。雷蛍術師が驚いて振り返る。その足元を凍らせ、蛍ごと氷の中に閉じ込める。

 

 二人目の術師は、下の路地にいた。ナヴィアの会の若い子たちが、それに向かって駆け寄っていくのが見えた。

 

「下がれ!」

 

 ソルが叫ぶより早く、術師の放った雷が、一人の少年の肩を撃った。少年が悲鳴を上げて倒れる。

 

 頭の芯が、白くなった。

 

 屋根から飛び降りる。着地の衝撃で、右手が痺れた。構わない。術師の喉元に、槍の穂先を突きつける。

 

 ――喉を突けば、それで終わる。

 

 地下の決闘場で、何百回と繰り返した動き。体が、それを覚えている。今なら、一呼吸で――

 

「ソル」

 

 背後で、クロリンデの声がした。

 

 穂先が、止まった。術師の喉の皮一枚手前で。

 

 ソルは、細く息を吐いた。それから槍を返し、石突きで術師のこめかみを打った。術師は白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。

 

 振り返ると、クロリンデが路地の入口に立っていた。剣を下げて、まっすぐにこちらを見ている。

 

「……ありがとう」

 

 なぜ礼を言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 戦いは、それで終わった。デットエージェントは、最後まで姿を見せなかった。たぶん、最初から見ているだけのつもりだったのだろう。

 

 捕らえた先遣隊の男の一人を、ナヴィアの会の子たちが縛り上げた。男は、ソルを見上げて、仮面の下で笑った。

 

「ヴィクトル様は、諦めない」

 

 かすれた声だった。

 

「お前が戻るまで、何度でも来る。お前の周りにいる人間を、一人ずつ消していけば――いずれ、お前は自分から戻ってくる。そうだろう、『日蝕』?」

 

 ソルは何も答えなかった。

 

 肩を撃たれた少年が、仲間に支えられて手当てを受けていた。命に別状はない、と誰かが言った。けれど、少年の顔は痛みで真っ青だった。

 

 ――お前の周りにいる人間を、一人ずつ。

 

 ソルは、自分の右手を見下ろした。震えていた。今度は、止まらなかった。

 

 

◇

 

 

 真夜中を過ぎた頃、クロリンデは特巡隊に事情を説明しに行った。捕らえた先遣隊を引き渡し、襲撃の報告をするためだ。

 

「すぐ戻る。ここを動くな」

 

 出ていく前に、彼女はそう言った。

 

「うん」

 

 ソルは笑ってうなずいた。

 

 嘘をつくのは、慣れている。

 

 割れた窓には、ナヴィアの会の子たちが板を打ちつけてくれた。床に散ったガラスと皿の欠片も、もう片付いている。ナヴィアは肩を撃たれた少年に付き添って、医者のところへ行った。去り際に、彼女はソルの背中を軽く叩いて言った。

 

「あんたのせいじゃないからね。分かってる?」

 

 分かっている、と答えた。それも嘘だった。

 

 一人になった部屋で、ソルは荷物をまとめた。

 

 三週間前、網小屋を出たときと、ほとんど変わらない。着替えが二枚。予備の眼鏡。槍。それから、内ポケットの新聞の切れ端。

 

 増えたものは、持っていかないことにした。

 

 ナヴィアがくれた果物の籠は、机の上に置いたまま。フリーナが置いていったキャラクターシートも。シグウィンのリップクリームだけは、少し迷ってからポケットに入れた。約束を一つ、破ることになるから。せめてそれくらいは。

 

 窓辺の花の前で、足が止まった。

 

 白と薄紫の、名前も知らない花。三週間、毎朝水をやった。話しかけたことも、何度かある。返事は一度もなかった。

 

 机の上に、短い書き置きを残した。

 

『ナヴィアさんへ。部屋をありがとう。花は、ナヴィアさんが世話してあげてください。三年話しかけても返事はしないそうです』

 

 書いてから、少しだけ笑った。それから、少しだけ、目の奥が熱くなった。

 

 クロリンデへの書き置きは、書かなかった。何を書いても、言い訳にしかならない気がしたから。

 

 夜明け前の船が、ポワソン町の港から出る。荷を積んで、外海へ向かう貨物船だ。それに潜り込めば、昼にはもうフォンテーヌの外にいる。

 

 行き先は、どこでもよかった。ヴィクトルが追ってくるなら、それでいい。自分がフォンテーヌにいなければ、あの人たちに手を出す理由はなくなる。

 

 階段を下り、まだ暗い路地に出る。

 

 ――お前の周りにいる人間を、一人ずつ。

 

 肩を撃たれた少年の、真っ青な顔が浮かぶ。それから、もし、あれがクロリンデだったら、と考えてしまって、足が止まりそうになった。

 

 考えるな。歩け。

 

 港へ続く坂道を下りながら、ソルは口の中で数を数えた。

 

 一。二。三。

 

 怖いときは、数を数える。数えているあいだは、自分がまだここにいると分かる。あの子に教えたやり方だ。

 

 四。五。六。

 

 今度は、自分が「来ない人」になるのだ。

 

 あの子は、二度、来ない人を待った。黒いマントの師匠と、すぐ行くと言った自分と。三度目を作るのは、自分だ。

 

 分かっている。ひどいことをしようとしている。

 

 それでも、待たせて悲しませるほうが、死なせるよりずっといい。

 

 七。八。九。

 

 十まで数えたら、もう振り返らない。

 

 坂を下りきって、桟橋が見えた。夜明け前の灰色の空の下に、貨物船の黒い影が浮かんでいる。荷積みの人足たちが、ランタンを揺らしながら行き来していた。

 

 十。

 

 ソルは顔を上げた。

 

 そして、桟橋の先の係船柱に腰掛けている人影を見て、凍りついた。

 

 三角帽子。白い制服。膝の上に、湯気の立つカップが二つ。

 

 彼女は、まるでずっと前からそこにいたかのように、静かにこちらを見ていた。

 

 

◇

 

 

 獲物が逃げる道は、いつも決まっている。

 

 師匠はそう言っていた。追い詰められた獣は、一番よく知っている道を選ぶ。一番遠くまで行ける道を選ぶ。そして――一番、誰も傷つけずに済む道を選ぶ。

 

 最後のひとつは、師匠の言葉ではない。クロリンデが、自分で付け足したものだ。

 

 特巡隊の詰所で報告を済ませたあと、クロリンデはシュヴルーズに一つだけ尋ねた。今夜から明朝にかけて、ポワソン町の港を出る船の予定を。

 

 シュヴルーズは怪訝そうな顔をしたが、何も聞かずに台帳を開いてくれた。夜明け前に、外海行きの貨物船が一隻。

 

 それで十分だった。

 

 部屋には戻らなかった。戻れば、彼はまた笑って「おかえり」と言い、自分が眠ったあとで出ていくだろう。だから、先回りした。

 

 ――すぐ戻る。ここを動くな。

 

 ――うん。

 

 あの「うん」に継ぎ目があったことに、彼は気づいていなかったのだろうか。

 

 クロリンデは係船柱から立ち上がり、カップを一つ差し出した。

 

「コーヒーだ。角砂糖は入れてある」

 

 ソルは、受け取らなかった。荷物を肩に担いだまま、桟橋の上で立ち尽くしている。

 

「……なんで、ここに」

「狩りは得意だと言った」

「俺は獲物かよ」

「今夜は、そうだ」

 

 ソルの口元が、笑いかけて、歪んだ。

 

「……帰ってくれ、クロリンデ」

 

 掠れた声だった。

 

「聞いただろ。あいつらは、俺の周りの人間を一人ずつ消すって言った。今夜はナヴィアさんのところの子が撃たれた。次はナヴィアさん本人かもしれない。フリーナさんかもしれない。……君かもしれない」

「私は撃たれない」

「そういう問題じゃないんだよ!」

 

 初めて、彼が声を荒げた。

 

 荷積みの人足たちが、驚いてこちらを振り返る。ソルは息を呑み、それから声を落とした。

 

「……俺がいなければ、あいつらがフォンテーヌに来る理由はなくなる。それで全部、元どおりだ。君は決闘代理人で、ナヴィアさんは会長で、みんな明るいところにいる。俺は、最初からいなかったことになる。それでいいんだ」

「よくない」

「よくなくても、そうするしかないんだよ」

 

 ソルは、自分の両手を見下ろした。

 

「それに……君は知らないから。俺がこの手で何をしてきたか。決闘場のことだけじゃない。そのあとのことも。命令ひとつで、何人も――」

 

 言葉が途切れた。

 

「俺の手は、汚れてる。君は正義の剣だ。明るい舞台の真ん中に立ってる人だ。そんな人の隣に、俺みたいなのがいていいはずがない」

 

 貨物船の汽笛が、一度鳴った。出航の合図には、まだ早い。

 

 クロリンデは、しばらく黙っていた。

 

 言葉を探していた。法廷で被告を問い詰めるための言葉なら、いくらでも出てくる。けれど今、彼に届けたい言葉は、そういうものではなかった。

 

「……師匠が、言っていた」

 

 ようやく、口を開く。

 

「鞘を捨てた剣の末路は、良くても錆びついて終わるのみ、と」

 

 ソルが顔を上げた。

 

「あなたは二十年、鞘のない剣だった。抜き身のまま誰かに握られて、使われてきた。地下の決闘場で。そのあと、どこかで。誰もあなたを鞘に納めなかった。だからあなたは今、自分で錆びようとしている」

 

 クロリンデは、一歩、前に出た。

 

「錆びさせない」

 

 もう一歩。

 

「私が、あなたの鞘になる」

 

 ソルの肩が、震えた。

 

「……何、言って」

「あなたが好きだ」

 

 言葉は、思っていたよりもずっと簡単に出てきた。必要なことを、必要なだけ言う。それが自分のやり方だ。今必要なのは、この一言だった。

 

「パンを半分に割った日から、たぶん。いや――もっと前からかもしれない。分からない。だが、今はっきりしていることがある。あなたがいなくなるのは、嫌だ」

 

 ソルは何も言わなかった。ただ、色眼鏡の奥で、何度も瞬きをしていた。

 

「……だめだよ」

 

 やがて、絞り出すように言った。

 

「俺は、君に好きになってもらえるような人間じゃ――」

「それを決めるのは、あなたじゃない」

 

 クロリンデは、彼の言葉を遮った。

 

「港で言っただろう。贅沢かどうかは、飲む人間が決めることじゃない。淹れた人間が決めることだ」

 

 ソルが、目を見開いた。

 

「私があなたを好きでいていいかどうかは、私が決める」

 

 長い、長い沈黙があった。

 

 それから、ソルの喉から変な音が漏れた。笑い声のような、泣き声のような。肩を震わせ、顔を伏せ、片手で目元を覆う。

 

「……ずるいよ、それ」

「狩りでは、使える手は全部使う」

「ほんと、変な人だなあ……」

 

 笑いながら、彼の声は濡れていた。

 

 肩から、荷物が滑り落ちた。どさりと、桟橋の板の上に。

 

「……俺も」

 

 目元を覆ったまま、ソルは言った。

 

「俺も、ずっと好きだった。地下にいた頃から。君が外に出ていったあの夜から、ずっと。新聞で名前を見つけた日も。歌劇場の一番後ろの席で君の決闘を観てた日も、全部」

 

 汽笛が、二度目に鳴った。今度こそ、出航の合図だった。

 

 貨物船が、ゆっくりと桟橋を離れていく。ソルは、振り返らなかった。

 

 クロリンデは手を伸ばし、彼の目元を覆っていた手を、そっと退けた。それから色眼鏡のつるに指をかけて、外した。

 

 夜が明けかけていた。水平線の向こうから、最初の光が差してくる。

 

 その光の中で、金と紅の目が、濡れて揺れていた。

 

「……お日さまみたいな目だ」

 

 二十年前と同じことを、クロリンデは言った。

 

 ソルが、泣き笑いの顔で、小さく笑った。

 

「それ、昔も言われた」

「知っている。言ったのは私だ」

 

 クロリンデは、少しだけ背伸びをした。彼のほうが、ずっと背が高かったから。

 

 唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。冷たくて、少しだけ、コーヒーと角砂糖の匂いがした。

 

 離れると、ソルは目を丸くして固まっていた。

 

「……い、今の」

「予定にはなかった」

 

 クロリンデは、手の中に残っていたカップを、改めて彼に差し出した。少し冷めてしまったが、まだ温かい。

 

「だが、組み込んでおく」

 

 ソルは受け取ったカップを両手で包み、それから空を仰いで笑った。今度の笑い声は、もう濡れてはいなかった。

 

 

◇

 

 

 帰り道、二人は並んで坂を上った。

 

 クロリンデの手が、ソルの左手を握っていた。剣を握る人の手だ。硬くて、温かい。

 

 右手には、空になったカップ。

 

 甘かった、とソルは思った。コーヒーも。それ以外も。

 

 角砂糖を、ひとつ手に入れた。スプーンしか握ってこなかった、この手で。

 

 坂の上から、ポワソン町の屋根が朝日に照らされていくのが見えた。板を打ちつけた棘薔薇の会の窓も。あの部屋に帰ったら、花に水をやろう。書き置きは、ナヴィアさんが起きる前に破り捨てておかないと。

 

 ふと、胸の奥が、きしむように冷えた。

 

 鳩尾のあたり。埋め込まれた、あの欠片。ゆうべ戦ったせいか、いつもより冷たい気がした。

 

 ――まだ、言っていないことがある。

 

 ソルは、繋いだ手に少しだけ力を込めた。クロリンデが、こちらを見上げる。

 

「どうした」

「なんでもないよ」

 

 笑って、首を振った。

 

 クロリンデは何か言いたげに、少しのあいだ彼の顔を見ていた。それから、黙って、握った手に力を込め返してきた。

 

 今だけは、とソルは思った。

 

 この朝だけは。胸の冷たさを、忘れていたかった。

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