十数えたら、外だ   作:にんら

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残り時間

 港の夜明けから、二週間が経った。

 

 非番の朝、クロリンデはいつもより少しだけ早く目を覚ました。予定は決まっている。午前中に花を買い、果物を買う。午後はナヴィアの卓。夕方は――今日から、もうひとつ予定が増えていた。

 

 花屋の前で待ち合わせた。ソルは先に来ていて、店先のバケツに並んだ花を、真剣な顔で見比べていた。

 

「おはよう。窓辺の白いの、そろそろ元気がなくなってきてさ。今日はどれにする?」

「あなたが選べ」

 

 ソルは少し迷ってから、小さな黄色い花を一束手に取った。

 

「これ。……なんか、日向みたいな色だから」

「あなたの目に似ている」

 

 ソルが固まった。耳の先が、みるみる赤くなっていく。

 

「……そういうこと、真顔で言う?」

「事実だ」

 

 花屋の主人が、にこにことこちらを見ていた。クロリンデは代金を払い、花束をソルに渡した。

 

 果物の屋台では、ソルはオレンジばかり選んだ。

 

「この前の鴨、ちゃんと食べられなかったからさ。あのソース、また食べたいんだ」

「次は、窓のない部屋で作る」

「そういう問題?」

「襲撃者は、窓から来る」

 

 ソルが吹き出す。クロリンデは真顔のまま、オレンジの袋を受け取った。

 

 午後のナヴィアの卓には、フリーナも来ていた。

 

 二人が並んで部屋に入ってきた瞬間、ナヴィアがにやりと笑った。

 

「で? 二人はどこまで進んでるの?」

「第三章までだ」

「そっちじゃないわよ! キャンペーンの話してないから!」

「ふふん。恋愛劇の進行についてなら、この僕に任せたまえ。五百年分の脚本の知識があるからね」

 

 ソルは笑いすぎて、キャラクターシートに飲み物をこぼしかけた。クロリンデは衝立の向こうで、黙ってサイコロを振った。出目は最高値だった。

 

 夕方、二人で川沿いを歩いた。

 

 空が橙色に染まって、水面がきらきらと光っていた。人通りは少なく、遠くで水上船の汽笛が鳴っている。

 

「これを」

 

 クロリンデは、外套の内側から小さな包みを取り出した。

 

 ソルが包みを開くと、中から白い陶器のカップが出てきた。飾り気はないが、手に馴染む丸い形をしている。

 

「あなたの分だ」

「……俺の?」

「マイカップは、持参する主義だ。あなたも今日からそうしろ」

 

 ソルは、カップを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。

 

「……俺の、カップ」

 

 小さな声だった。

 

「俺だけの物って、たぶん、初めてだ」

 

 クロリンデは何も言わなかった。代わりに、彼の空いた手を握った。

 

 ソルが、咳をした。

 

 一度。乾いた咳だった。彼はすぐに顔を背け、口元を手の甲で押さえた。

 

「ごめん。ちょっと、風邪気味かな」

「……そうか」

 

 手の甲を、彼はさりげなく外套のポケットに入れた。クロリンデは、それを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。言えば、彼はまた「なんでもない」と笑うだろう。

 

 棘薔薇の会の建物の前に着いたときには、空はもう藍色になっていた。

 

「じゃあ、また明日」

 

 ソルは階段の一段目に足をかけて、振り返って笑った。カップを、大事そうに胸に抱えて。

 

「ああ。また明日」

 

 クロリンデがうなずいた、そのときだった。

 

 ソルの体が、大きく折れ曲がった。

 

 激しい咳が、立て続けに彼の喉を裂いた。止まらない。手すりにすがりつき、膝が崩れる。

 

「ソル!」

 

 駆け寄って、倒れかけた体を抱きとめる。

 

 その瞬間、温かいものが、クロリンデの白い制服の胸元に散った。

 

 赤かった。

 

 夕闇の中で、それは黒に近い色をしていた。ソルの唇から、顎へ、喉へと、同じ色が伝っている。

 

「……ごめん」

 

 掠れた声で、彼は言った。

 

「汚しちゃった」

 

 それきり、彼の体から力が抜けた。腕の中に、ずしりと重みがかかる。

 

 倒れながらも、彼は白いカップを、しっかりと胸に抱えたままだった。

 

 

◇

 

 

 真夜中を過ぎた頃、医務室の扉が激しく叩かれた。

 

「シグウィン、急患だ」

 

 公爵の声だった。扉を開けると、公爵の後ろに、クロリンデさんが立っていた。腕の中に、ソルさんを抱えて。

 

 白い制服の胸元が、赤黒く染まっていた。

 

「こっちへ! 診察台に寝かせて!」

 

 クロリンデさんは、言われたとおりにソルさんを横たえた。その手つきは丁寧で、少しも乱れていなかった。けれど、手を離すとき、指先がほんの一瞬だけ、彼の袖を掴んだまま離れなかったのを、シグウィンは見た。

 

 約束、守ってくれたのね――とシグウィンは思った。本当に苦しくなったら、ここに来て、と言った。こんな形じゃなくて、よかったのに。

 

 脈を取る。弱い。それに、冷たい。前に診たときより、ずっと。

 

「シャツを開けるのね」

 

 今度は、断る人はいなかった。

 

 ボタンを外し、胸元を開いた瞬間、シグウィンは息を呑んだ。

 

 鳩尾の少し上。前に一瞬だけ見えた、黒っぽい何か。それが今は、はっきりと皮膚の下に浮かび上がっていた。硝子のような、結晶のような欠片。そこから、細い黒青色の筋が、霜のひび割れのように胸全体へ広がっている。血管に沿って。心臓の方へ。

 

 指先でそっと触れる。氷のように冷たい。そして、かすかに――脈打っていた。彼の心臓とは、違う拍子で。

 

 シグウィンは、これを知っていた。

 

 メロピデ要塞には、ときどきファデュイの元構成員が収監されてくる。その中に、同じような冷たさを持つ人がいた。命を燃料にして、神の目の代わりに元素の力を引き出す道具。

 

「……邪眼なのね」

 

 声が、震えた。

 

「でも、これは普通の邪眼じゃないのよ。普通は、身につけて使うもの。外せば、それ以上は命を削らない。でもこれは――埋め込まれてる。体の中に」

 

 シグウィンは、欠片の周りの組織をそっと押した。欠片を包むように、硬く盛り上がった肉が育っている。何年も、何年もかけて、体が異物を抱え込もうとした跡だ。

 

「十年以上前なのね、これを入れられたの。……子供のときに入れられて、そのまま大人になるまで、ずっと」

 

 背後で、公爵が低く何かを呟いた。罵りの言葉のように聞こえた。

 

「この欠片が、ずっと彼の命を吸い上げてるの。体を、いつでも戦える状態に保つために。戦えば戦うほど、たくさん吸い上げる。最近、無理をしたでしょう。だから、急に悪くなったのね」

「……取り出せないのか」

 

 クロリンデさんの声だった。静かで、平らな声だった。

 

 シグウィンは、黒青色の筋を指でなぞった。

 

「根が、張ってるのよ。心臓の血管に、絡みつくみたいに。どこにどう繋がってるのか分からないまま切ったら――」

 

 その先は、言えなかった。

 

「どう繋がっているか分かれば、取り出せるのか」

「……たぶん。これを埋め込んだ人が、どうやって入れたのか。どこに根を伸ばすように作ったのか。その記録があれば、ウチと公爵のところの医療班で、きっと」

「このままなら、あとどれくらいだ」

 

 シグウィンは、唇を噛んだ。

 

 看護師は、嘘をついてはいけない。それも、シグウィンの決めごとだった。

 

「……数年、なのね。戦い続ければ、もっと短い」

 

 医務室が、静まり返った。

 

 シグウィンは、クロリンデさんの顔を見上げた。

 

 人間の顔の筋肉は、とても正直だ。悲しいとき、怖いとき、どこかが必ず動く。

 

 クロリンデさんの顔は、動いていなかった。

 

 どこも、少しも。けれど、それは何も感じていないからではなかった。顔じゅうの筋肉が、何かをこらえるために、ぎゅっと固まっていたのだ。眉も、頬も、唇も。全部が、崩れないように、必死に。

 

 剣の柄に置かれた彼女の右手が、小刻みに震えていた。

 

「……分かった」

 

 それだけ言って、クロリンデさんは診察台の脇の椅子に腰を下ろした。ソルさんの冷たい手を、両手で包む。

 

 シグウィンは、そっと近づいて、クロリンデさんの肩に手を置いた。

 

「クロリンデさんも、泣いていいのよ」

「今は、いい」

 

 クロリンデさんは、ソルさんの顔から目を離さずに答えた。

 

「彼が起きてから決める」

 

 シグウィンは、それ以上は何も言えなかった。公爵と目を合わせ、二人で静かに医務室を出た。

 

 扉を閉めた途端に、目の奥が熱くなった。廊下の壁にもたれて、シグウィンは少しだけ泣いた。メリュジーヌは、人間ほど上手に泣けない。それでも、泣かずにはいられなかった。

 

 公爵は何も言わずに、その隣に立っていてくれた。

 

 

◇

 

 

 ソルが目を覚ましたのは、明け方だった。

 

 海の底に朝は来ない。けれど、医務室の時計が六時を指した頃、彼の瞼がゆっくりと持ち上がった。

 

 枕元の小さな台の上に、白いカップが置いてある。クロリンデが置いたものだ。倒れたときも、彼はこれを離さなかった。

 

 ソルの目が、カップを見つけ、それからクロリンデを見つけた。眼鏡のない、金と紅の目。

 

「……ここ、メロピデ?」

「そうだ」

「そっか。……シグウィンさんとの約束、守っちゃったな」

 

 冗談めかした声だった。クロリンデは笑わなかった。

 

「邪眼だそうだな」

 

 ソルの表情が、止まった。

 

 長い沈黙のあとで、彼は小さく息を吐いた。

 

「……見られちゃったか」

「知っていたのか」

「うん。ずっと前から」

「残り時間のことも」

「あと何年かって。……自分の体のことだからさ、なんとなく分かるんだ」

 

 他人事のような口調だった。天気の話をするように。

 

 クロリンデは、膝の上で両手を握りしめた。

 

「全部、話せ」

 

 ソルは天井を見上げた。逃げ場を探すように。けれど、海の底の医務室に、逃げ場はなかった。

 

「……決闘場がなくなったのは、俺が十四のときだ」

 

 掠れた声で、彼は話し始めた。

 

「ある日、身なりのいい男が来た。スネージナヤの人だった。俺を買い取って、北へ連れていった。そこで、これを入れられた」

 

 彼の指が、シャツの上から胸の真ん中に触れた。

 

「子供でも、大人の兵士を殺せるように、って。……ファデュイの研究部門の、試作品だったらしい。同じ処置を受けた子は、ほかにもいた。生き残ったのは、俺だけだった」

 

 クロリンデは、息をするのを忘れていた。

 

「それから十年くらい、ファデュイの猟犬をやってた。言われた相手を追って、言われたとおりに片付ける。……命令で斬った人たちの顔、全部は覚えてない。覚えてないのが、一番ひどいと思う」

「……それで」

「最後に、一度だけ命令に背いた。それで、逃げてきた。それだけ」

 

 その「それだけ」の中に、まだ何か隠されているのは分かった。けれど、クロリンデはそこまでは踏み込まなかった。今は、もっと先に聞かなければならないことがあった。

 

「なぜ、黙っていた」

 

 ソルは、しばらく答えなかった。

 

 それから、ひどく静かな声で言った。

 

「いなくなる人間が、誰かを待たせちゃいけないだろ」

 

 クロリンデの胸の奥で、何かが軋んだ。

 

「君は、もう二回も待ったんだ。師匠さんと、俺と。……三回目は、俺じゃいけないと思った。だから、港から出ていこうとした。どこか遠くで、君が知らないうちに終わればいいと思った。君が先回りしなきゃ、そのまま消えてたよ」

「……私が、先回りしなければ」

 

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

 

「あなたは、また、来ない人になるつもりだったのか。私の知らないうちに。勝手に。何も言わずに」

「……うん」

「許さない」

 

 声が、震えた。

 

 クロリンデは、彼の手を掴んだ。冷たい手を、骨が軋むほど強く。

 

「許さない。三度目なんて、許さない。あなたが勝手に決めて、勝手に終わらせて、私だけがまた待たされるなんて、絶対に許さない」

 

 ソルの目が、大きく見開かれた。

 

 握った手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。クロリンデは、それを拭わなかった。拭う余裕がなかった。

 

「……ごめん」

「謝罪はいらない」

 

 深く息を吸う。吐く。崩れかけた声を、もう一度まっすぐに立て直す。

 

「代わりに、約束しろ。もう隠すな。二度と。残り時間のことも、痛みのことも、全部私に話せ。全部、私の予定に組み込む」

 

 ソルは、泣き笑いのような顔をした。

 

「組み込むって……何年分?」

「何年でもだ」

 

 クロリンデは、彼の目をまっすぐに見た。

 

「だが、数年で終わらせるつもりはない」

「……え?」

「シグウィンが言っていた。その欠片をどう埋め込んだのか、記録があれば取り出せるかもしれないと」

 

 ソルの顔から、表情が消えた。

 

「記録は、埋め込んだ側が持っているはずだ。……襲撃者たちが言っていた名前があったな」

「……ヴィクトル」

 

 ソルは、その名前を口にするのも嫌だというように、唇を歪めた。

 

「あいつだよ。決闘場から俺を買って、これを入れたのは」

「なら、狩りに行く」

「だめだ」

 

 ソルが、初めてクロリンデの手を握り返した。強く。

 

「あいつは、君が思ってるより――」

「私が思っているより、何だ」

「……汚い」

 

 吐き捨てるような声だった。

 

 クロリンデは、彼の手をそっと握り直した。

 

「法廷は、汚いものを裁くためにある」

 

 

◇

 

 

 ソルがもう一度眠りに落ちたのを確かめてから、クロリンデは医務室を出た。

 

 人気のない廊下。壁に灯った小さな明かり。分厚い壁の向こうで、海が低く唸っている。

 

 クロリンデは、冷たい壁に額を押しつけた。

 

 帽子が、少しずれた。直さなかった。

 

 目を閉じる。

 

 一。二。三。

 

 喉の奥から、何かがせり上がってくる。歯を食いしばって、押し戻す。

 

 四。五。六。

 

 数年。戦い続ければ、もっと短い。

 

 七。八。九。

 

 ――十。

 

 目を開ける。壁から額を離す。帽子の鍔を直す。

 

 十を数えたら、狩人に戻る。

 

 クロリンデは、昇降機に向かって歩き出した。その足取りに、もう迷いはなかった。

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