フォンテーヌの空気は湿っていて、ヴィクトルは好きではなかった。
外交船のタラップを降りながら、彼は手袋の指先で襟元を整えた。五十を少し過ぎた年齢の、痩せた男だ。仕立てのいい灰色の外套。銀縁の眼鏡。手には、使い込まれた革の鞄が一つ。
書類の上では、彼は「スネージナヤ外務官付き技術顧問」ということになっていた。そう書かせるのに、ずいぶん手間がかかった。
「……二十年ぶりか」
港の向こうに、フォンテーヌ廷の白い街並みが見える。
二十年前、彼はまだファデュイの正式な構成員ですらなかった。北の研究部門のために、各地で「素材」を集めて回る、ただの仲買人だった。珍しい体質の子供。特異な元素反応を示す子供。そういうものを見つけては、値段をつけて買い取り、北へ送る。
フォンテーヌの地下で、あの目を見つけたときのことは、今でもよく覚えている。
薄汚い溜まり場の、鉄格子の奥。痩せた子供たちの中に、一人だけ、光る目を持つ男の子がいた。蜂蜜色の金に、紅の環。日蝕の空のような目。
――これは、高く売れる。
いや、売るのは惜しい。自分の手元で育てるべきだ。そう直感した。
引き取りの夜、溜まり場が襲われた。黒いマントの女が一人、表から踏み込んできたらしい。裏口に馬車を待たせていたヴィクトルのところへ、溜まり場の親方が転がり出てきた。あの男の子の首根っこを掴んで。
馬車の窓から、ヴィクトルも見ていた。黒いマントの女が、黒髪の小さな娘を抱えて表から出ていくのを。
あの娘には、値札がつかなかった。どこにでもいる、ありふれた捨て子だったから。
ヴィクトルは、男の子をフォンテーヌの地下の決闘場に預けた。自分が金を出していた場所だ。子供同士を戦わせ、弱いものを篩い落とす。生き残ったものだけが、次の段階に進む資格を得る。
八年後、男の子は一度も負けずに生き残っていた。
ヴィクトルは彼を北へ連れていき、研究部門の最新の試作品を、その胸に埋め込んだ。
第七号。
同じ処置を受けた十一人のうち、唯一の生存者。邪眼を体内に組み込み、命を燃料に、子供の体で大人の兵士を凌駕する。研究部門の――いや、ヴィクトル自身の、最高傑作だった。
それが、三年前に逃げた。
命令に背き、監督官を殺し、神の目まで得て。
最悪だったのは、時期だ。研究部門を率いていた「博士」が姿を消し、部門そのものが解体されかけていた。予算は削られ、研究者たちは散り散りになった。ヴィクトルの立場も、風前の灯火だった。
成果が要る。目に見える、動かぬ成果が。
第七号を、生きたまま連れ帰る。それができれば、ヴィクトルの研究には価値があると証明できる。できなければ、自分も、二十年かけた研究も、まとめて北の雪に埋もれるだけだ。
◇
パレ・メルモニアの応接室で、ヴィクトルは丁寧に手袋を外した。
「告発状は、以上です」
向かいに座った執律庭の書記官が、書類をめくりながら眉をひそめる。
「通称『ソル』、偽名『リュカ』……かつてフォンテーヌ国内の非合法決闘場において、多数の殺人。さらに先月、ポワソン町において、スネージナヤ外交関係者に対する傷害……」
「どちらも、フォンテーヌの国内で起きたことです。貴国の法で裁かれるべきでしょう」
ヴィクトルは穏やかに微笑んだ。
「その上で、我が国の士官を殺害した件については、判決ののち、身柄の引き渡しを正式に要請いたします」
「外交関係者への傷害、とありますが……」
「ええ。彼らは平和的に面会を求めただけです。それを、あの男が一方的に」
書記官は、何か言いたげな顔をしたが、黙って書類に判を押した。外交特権というのは、便利なものだ。
応接室を出て、廊下を歩きながら、ヴィクトルは鞄の重みを確かめた。
中には、第七号の全記録が入っている。邪眼の構造。埋め込みの位置。根がどの血管にどう絡むよう設計されたか。安全に取り出すための手順も含めて。
この世で、これを持っているのは、自分だけだ。
それから、もう一つの手紙。差出人の名前はない。宛先は、スチームバード新聞社。
中には、非合法決闘場の古い記録の写しが入っている。「日蝕」の戦績。倒した相手の数。それと、つい先日、カフェのテラスで撮られた写真。白い制服の決闘代理人と、色眼鏡の男が、並んで笑っている写真だ。
手紙を郵便受けに落としながら、ヴィクトルはふと、あることを思い出した。
報告によれば、第七号を匿っている決闘代理人は、黒髪の女だという。幼い頃、黒いマントのファントムハンターに拾われて育った、と。
――あの夜の娘か。
ヴィクトルは、思わず小さく笑った。
値札をつけなかった、ありふれた捨て子。それが今は、フォンテーヌ最強の決闘代理人だと。
「値札のつけ方を、間違えたかな」
湿った風が、外套の裾を揺らした。
「さあ。帰っておいで、第七号」
◇
その朝、特巡隊の詰所に届いたスチームバード新聞の号外を、シュヴルーズは二度読んだ。
『無敗の決闘代理人の恋人、元・地下決闘場の「殺し屋」か』
見出しの下に、写真が一枚。カフェのテラス席で、白い制服のクロリンデと、色眼鏡の男が並んで座っている。男が何かを言って、クロリンデが――ほんのわずかだが――笑っている。
その下には、非合法決闘場「籠」の記録とされるものの写し。「日蝕」と呼ばれた少年剣闘士の戦績。八年間無敗。倒した相手の数。
シュヴルーズは、号外を机に置いた。
記事の書き方が、気に入らなかった。事実らしきものを並べながら、肝心なことは何も書いていない。その少年が、なぜ決闘場にいたのか。誰が彼をそこに置いたのか。六歳の子供が、自分の意思で殺し合いの檻に入るはずがない。
それに、この写真。誰かが、意図的に撮って、意図的に流したものだ。
昼前に、執律庭から書類が届いた。
逮捕状だった。通称ソル、偽名リュカ。罪状は、非合法決闘場における殺人、および、スネージナヤ外交関係者に対する傷害。告発者は、スネージナヤ外務官付き技術顧問、ヴィクトル。
シュヴルーズは、眉をひそめた。
外交関係者に対する傷害。日付は、先月の夜。場所は、ポワソン町。
彼女は、机の引き出しから一枚の報告書を取り出した。二週間前、クロリンデが真夜中に詰所を訪ねてきて、提出していったものだ。ポワソン町、棘薔薇の会の建物が、ファデュイの武装部隊に襲撃された。負傷者一名。捕縛者数名。襲撃者は、「日蝕」なる人物の身柄を要求していた。
日付も、場所も、同じだった。
つまり、「外交関係者」とは、あの夜の襲撃者たちのことだ。
襲った側が、襲われた側を訴えている。
「……気に食わんな」
シュヴルーズは呟いた。
だが、逮捕状は逮捕状だ。執律庭が正式に発行したものである以上、特巡隊はそれを執行しなければならない。法を守る者が、気に食わないという理由で法を曲げれば、それはもう法ではない。
「副隊長。このヴィクトルという男の外交書類を、裏から洗っておけ。到着日、所属、身分保証人。全部だ」
「了解しました。……隊長は?」
シュヴルーズは、帽子を手に取った。
「逮捕に行く」
◇
棘薔薇の会の建物の前には、すでに人だかりができていた。号外を握りしめた野次馬たちが、三階の板を打ちつけた窓を見上げて、ひそひそと何かを囁き合っている。
入口の前に、ナヴィアが立っていた。日傘を閉じて、両手で握りしめて。
「帰って」
シュヴルーズが近づくと、ナヴィアは低い声で言った。
「あの人は、何も悪いことしてないわ。あの夜だって、襲ってきたのは向こうなのよ。あたしの会の子が撃たれたの。あの人は、それを守って――」
「知っている。報告書は読んだ」
「だったら!」
「だが、逮捕状は出ている。私には、それを執行する義務がある」
ナヴィアが唇を噛んだ。その目に、涙が滲んでいた。
そのとき、建物の扉が内側から開いた。
「いいんだ、ナヴィアさん」
灰白色の髪の男が、階段を下りてきた。色眼鏡はかけていなかった。金と紅の、珍しい色の目が、まっすぐにシュヴルーズを見ていた。
顔色が悪い。痩せている。それでも、背筋は伸びていた。
「特巡隊の隊長さんだよね。俺に用があるんでしょ」
「……号外は読んだか」
「読んだよ。上手く撮れてたね、あの写真」
男は、少しだけ笑った。
「俺が行けば、あの人の名前は、これ以上汚れない?」
シュヴルーズは、すぐには答えなかった。
嘘をつくのは嫌いだった。
「……保証はできん。だが、逃げるよりはましだ」
「そっか。正直だね、隊長さん」
男は、振り返ってナヴィアを見た。それから、手に持っていた白いカップを、彼女の手に握らせた。
「これ、預かってて。……割らないでね」
「ちょっと、待ちなさいよ……!」
ナヴィアの声が震える。男は、もう一度笑って、シュヴルーズの方へ向き直った。
そして、両手を揃えて、前に差し出した。
手首を、上に向けて。
シュヴルーズは、その動作に一瞬言葉を失った。
あまりにも自然だった。抵抗も、躊躇も、何もない。何度も、何度も、こうして手首を差し出してきた人間の動きだった。誰かに繋がれることに、慣れきった手首だった。
部下が手錠をかける。男は、されるがままにしていた。
「一つだけ、お願いしていい?」
「……言ってみろ」
「あの人に、伝えてほしいんだ。俺から行った、って。連れていかれたんじゃなくて、自分で行ったって。……そうしないと、あの人、また自分を責めるから」
シュヴルーズは、しばらく男の顔を見ていた。
クロリンデは今、最高審判官に呼び出されている。号外の件で、決闘代理人としての立場を問われているのだろう。
「伝えよう」
「ありがとう」
男は、本当に嬉しそうに笑った。
野次馬たちのざわめきの中を、シュヴルーズは男を連れて歩き出した。背後で、ナヴィアが白いカップを胸に抱えて、立ち尽くしているのが分かった。
この件は、裏がある。
シュヴルーズは、そう確信していた。そして、その裏を暴くことも、自分の義務だと思った。
◇
パレ・メルモニアの地下の留置房は、湿っていて、静かだった。
ソルは、壁に背中をつけて座っていた。鉄格子の扉が真正面に見える位置。手は膝の上に。いつもの座り方だ。
檻の中に戻ってきた、と思った。
不思議と、怖くはなかった。むしろ、ひどく落ち着いていた。ここは知っている場所だ。鉄格子も、石の壁も、湿った空気も。地下の溜まり場と、決闘場と、ファデュイの営倉と。人生のほとんどを、こういう場所で過ごしてきた。
外にいた数週間のほうが、夢だったのかもしれない。
目を閉じると、雪の匂いがした。
三年前。スネージナヤの、名前も知らない国境の村。ファデュイのある作戦がしくじって、見てはいけないものを見た村人たちがいた。監督官のボリスは、全員を片付けろと命じた。
納屋の干し草の陰に、小さな女の子が隠れていた。七つか、八つくらい。黒い髪をしていた。
ソルが槍を構えたとき、女の子は震えながら、口の中で何かを呟いていた。
「……いち、に、さん……」
数を数えていた。
怖いときは、数を数える。数えているあいだは、自分がまだここにいると分かるから。
誰に教わったのかは知らない。けれど、その小さな声を聞いた瞬間、ソルの手から力が抜けた。
黒い髪。数を数える声。床下の暗がりで、震えていたあの子。
槍が、下がった。
背後で、ボリスが舌打ちをした。「役立たずが」と吐き捨てて、自分の拳銃を抜いた。銃口が、女の子に向いた。
そのあとのことは、よく覚えていない。
気がついたら、ボリスが雪の上に倒れていた。槍の穂先が赤く濡れていた。そして、腰のあたりに、見たことのない冷たい光が灯っていた。
氷元素の神の目だった。
あのとき、自分は何を願ったのだろう。今でも、はっきりとは分からない。ただ、女の子の震える声を聞きながら、強く思ったことだけは覚えている。
――あの夜、外に出ていったあの子の世界が。この子の世界が。どうか、綺麗なものでありますように。
ソルは女の子の前にしゃがみ込んで、言った。
「十数えたら、走れ。振り返るなよ」
女の子は、十を数えて、雪の中を走っていった。一度も振り返らなかった。
それが、ソルがファデュイから逃げた日だった。
◇
足音が近づいてきて、ソルは目を開けた。
鉄格子の向こうに、灰色の外套の男が立っていた。銀縁の眼鏡。手袋をはめた手に、革の鞄。
胃の底が、冷たくなった。
「久しぶりだな、第七号」
ヴィクトルは、まるで旧友に会ったかのように微笑んだ。
「面会は、外交上の特例でね。少しだけ時間をもらった」
ソルは、何も答えなかった。
「取引をしよう」
ヴィクトルは、鉄格子に手袋の指をかけた。
「審理で罪を認めろ。判決が出たら、引き渡しに同意しろ。それだけでいい。そうすれば、あの決闘代理人には手を出さない。新聞も黙らせよう。棘薔薇の会にも、二度と近づかない」
「……」
「それに」ヴィクトルは、鞄を軽く持ち上げてみせた。「お前の胸のそれ。もう限界が近いだろう? 記録は、ここにある。戻れば、延命くらいはしてやる。研究のためにな」
「断ったら?」
「あの女の名誉は、地に落ちる。殺し屋を匿い、恋人にした決闘代理人。もう誰も、彼女の剣を正義とは呼ばない。それから――お前の周りの人間を、一人ずつ」
ヴィクトルは、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、言っていなかったな。二十年前のあの夜、お前を馬車に乗せたのは私だ」
ソルの呼吸が、止まった。
「あの黒いマントの女が連れ出した娘――あれには、値札がつかなかった。どこにでもいる捨て子だったからな。……今思えば、惜しいことをした」
房の床に、音もなく霜が走った。
石の壁を、天井を、白い氷の筋が這い上がっていく。鉄格子が軋み、表面に氷の棘が生えた。胸の奥の欠片が、焼けるように冷たくなる。
ヴィクトルは、一歩も退かなかった。むしろ、満足そうに目を細めた。
「その目だ。やはりお前は、私の最高傑作だ」
踵を返しながら、彼は言った。
「よく考えておけ。審理は三日後だ」
足音が遠ざかっていく。
ソルは、凍りついた房の中で、自分の両手を見下ろした。震えていた。怒りなのか、邪眼の欠片のせいなのか、もう分からなかった。
戻れば、あの子は守られる。でも、あいつのところには、二度と戻りたくない。戻ったら、今度こそ自分は道具に戻る。あの子がくれた名前も、角砂糖も、白いカップも、全部なくなる。
戻らなければ、あの子の名誉が地に落ちる。
――この国では、有罪を言い渡された者は、名誉のために代理決闘を申し込むことができる。
ふと、そのことを思い出した。
決闘を申し込めば、相手は法廷の決闘代理人だ。つまり、クロリンデだ。
もし、彼女の剣で、自分が終われば。
ヴィクトルは、第七号を手に入れられない。そしてクロリンデは、殺し屋を自らの剣で裁いた決闘代理人になる。誰も、彼女の正義を疑わなくなる。
ソルは、ゆっくりと目を閉じた。
ひどい考えだと分かっていた。あの子に、一番させてはいけないことをさせようとしている。
それでも、他に道が見えなかった。
◇
夜遅く、また足音がした。
今度は、軽く、迷いのない足音だった。走っている。
鉄格子の向こうに、クロリンデが現れた。息を切らして、帽子が少しずれていた。最高審判官のところから、まっすぐここへ来たのだろう。
凍りついた房を見て、彼女は一瞬目を見開いた。それから、鉄格子を両手で掴んだ。
「ソル」
「やあ。遅かったね」
ソルは、いつもの顔で笑った。
「シュヴルーズ隊長から、聞いた? 俺から行ったんだよ。連れていかれたんじゃなくて」
「聞いた」
クロリンデの指が、鉄格子を握りしめて白くなっていた。
「必ず出す。どんな手を使っても」
「……うん」
ソルはうなずいた。
「大丈夫だよ、クロリンデ。俺、檻の中には慣れてるから」
クロリンデは、何か言いかけて、やめた。紫の瞳が、じっとこちらを見ている。継ぎ目を探している目だ。
ソルは、笑顔を崩さなかった。
やがて、看守が面会の終わりを告げに来た。クロリンデは、最後にもう一度だけ鉄格子を強く握ってから、手を離した。
「明日も来る」
「予定に組み込んだ?」
「そうだ」
彼女の足音が、遠ざかっていく。
ソルは、さっきの自分の「うん」を思い返していた。
その「うん」に継ぎ目があることを、今度こそ、彼女が気づかなければいいと思った。