エピクレシス歌劇場は、立ち見が出るほどの満員だった。
号外が出てから、三日。決闘代理人クロリンデの恋人が、元地下決闘場の殺し屋として裁かれる。フォンテーヌの人々にとって、これほど面白い見世物はなかった。
ナヴィアは、前から五列目の席に座っていた。隣には、つばの広い帽子を目深にかぶったフリーナ。二人とも、膝の上で手を握りしめていた。
原告席には、灰色の外套の男が座っていた。銀縁の眼鏡。手袋をはめた手を膝の上で組み、穏やかな顔で舞台を眺めている。あれがヴィクトルだと、ナヴィアはシュヴルーズから聞いていた。
――あいつが、あの夜、うちの子を撃たせた男。
日傘の柄を、折れそうなほど握りしめた。
舞台の端には、いつもどおりクロリンデが立っていた。白い制服。三角帽子。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見ている。何も変わらないように見えた。
でも、ナヴィアには分かった。剣の柄に添えられた彼女の右手の指が、一本だけ、かすかに動き続けていることが。
被告人席に、ソルが連れてこられた。
手錠をかけられて、眼鏡はなかった。金と紅の目が露わになった瞬間、客席がどよめいた。
「あれが『日蝕』……」「本当に、あんな色の目が……」
ソルは、どよめきにも、好奇の視線にも、まったく反応しなかった。ただ静かに被告人席に座り、一度だけ、舞台の端のクロリンデを見た。それから、目を伏せた。
最高審判官ヌヴィレットが、罪状を読み上げた。
非合法決闘場における、殺人。スネージナヤ外交関係者に対する傷害。そして、スネージナヤ側からの、ファデュイ士官殺害に関する身柄引き渡しの要請。
「被告人。これらの告発について、認めるか」
ソルは、顔を上げた。
「全部、認めます」
客席が揺れた。ナヴィアは思わず腰を浮かせかけ、フリーナに腕を掴まれた。
「……被告人には、弁護人を立てる権利がある」
「要りません」
「何か、述べておくことはあるか」
ヌヴィレットの声は、いつもより少しだけ長く、間を置いていた。答えを待つように。
ソルは、ほんの一瞬だけ黙った。
「……ありません」
ナヴィアは、奥歯を噛みしめた。
あの夜のことを、話せばいいのに。襲ってきたのは向こうだって。決闘場に入れられたのは、六歳の子供のときだって。誰が、その子を檻に入れたのかって。
言えば、少しは違うかもしれないのに。
けれどソルは、何も言わなかった。
ヌヴィレットは長く目を閉じ、それから静かに告げた。
「被告人を、有罪とする。身柄引き渡しの要請については、判決確定後に審議する」
原告席のヴィクトルが、満足そうに小さくうなずくのが見えた。
そのとき、ソルが手錠のかかった両手を、ゆっくりと持ち上げた。
「代理決闘を、申請します」
歌劇場が、爆発したような騒ぎになった。
歓声と、悲鳴と、どよめきと。新聞記者たちが一斉に立ち上がる。誰かが「決闘だ!」と叫び、誰かが「恋人同士で!」と叫んだ。
ナヴィアの体から、血の気が引いていった。
知っている光景だった。
三年前。有罪を言い渡された被告人が、名誉のために決闘を申し込んだ。相手は、クロリンデだった。被告人は、どれだけ傷を負っても降伏しなかった。そして――
「……パパと、同じだ」
声が、震えた。
隣で、フリーナが息を呑む音がした。
ヌヴィレットが、舞台の端に目を向けた。
「決闘代理人クロリンデ。本件の事情を鑑み、君がこの決闘を辞退することは認められている」
客席が、しんと静まった。
クロリンデは、一歩前に出た。
「辞退しません」
迷いのない声だった。
「私以外の者に、この決闘は任せられない」
ナヴィアは、その意味を理解した。
他の決闘代理人なら、手加減はしない。致命傷を与えても、相手が降伏しなければ、それで終わる。三年前のパパのように。
だからクロリンデは、自分で立つと言ったのだ。
決闘は、三日後と決まった。
衛兵に連れられて退廷するとき、ソルがもう一度、クロリンデの方を振り返った。
そして、笑った。
穏やかで、優しくて、継ぎ目のない笑顔だった。
ナヴィアは、その笑顔の意味を知っていた。パパも、最後の朝、同じ顔で笑ったから。
あれは、別れの笑顔だ。
◇
その夜、ナヴィアはメロピデ要塞の管理者室にいた。
「泣いてる暇はないの」
紅茶を勧める公爵に、ナヴィアはそう言った。目の縁は赤かったが、声はもう震えていなかった。
「決闘まで三日。それまでに、あの男が何をしてきたのか、全部明るみに出す。あの人を檻に入れたのが誰なのか。あの夜、うちの子を撃たせたのが誰なのか」
公爵は、紅茶のカップを置いた。
「同感だ。……実は、もう少し手をつけてある」
彼は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「ここの古株の囚人に、ガストンって爺さんがいる。三十年近く前から、出たり入ったりしてる男だ。若い頃、地下の賭場で用心棒をやってたらしくてな。『籠』のことも知っていた」
「本当に?」
「ああ。あそこの金主は、北から来た男だったそうだ。灰色の外套に、銀縁の眼鏡。子供を値踏みするときだけ、楽しそうに笑う男だった、とさ」
ナヴィアの背筋に、冷たいものが走った。
「……ヴィクトル」
「たぶんな。だが、爺さんの証言だけじゃ弱い。囚人の言うことを、法廷がどこまで信じるか。それに、あの男は外交特権を盾にしてる。決定的な証拠がなけりゃ、手は出せない」
そのとき、管理者室の扉が、軽やかに三度叩かれた。
「こんばんは。夜分に失礼します、公爵。それから、ナヴィアさんも」
扉の向こうに立っていたのは、シルクハットをかぶった青年だった。にこやかな笑顔と、隙のない立ち姿。
「リネ……?」
「お父様からの伝言を、お届けに来ました」
リネは帽子を取って一礼し、懐から封筒を二通取り出した。
「一通目は、壁炉の家の古い記録です。十五年ほど前、ある北国の男が、うちの子供たちを『買い取りたい』と持ちかけてきたことがありました。もちろん、お父様はお断りになりました。……その男の名前が、ここに」
ナヴィアは、封筒の中の紙を広げた。
癖のある字で、名前が書かれていた。ヴィクトル。所属、ファデュイ研究部門付き仲介人。備考欄には、ひとこと。『子供に値札をつける男。二度と敷居を跨がせるな』
「お父様は、子供を道具にする大人が大嫌いなんです」
リネは、笑顔のまま言った。目だけが、少しも笑っていなかった。
「それから、もう一つ」
リネの声が、少しだけ柔らかくなった。
「壁炉の家には、三年前にスネージナヤから来た女の子がいます。国境の村で、家族を亡くした子です。雪の中を一人で走ってきて、うちの者に保護されました」
ナヴィアは、息を止めて聞いていた。
「その子が、ずっと言っているんです。『お日さまの目をした兵隊さんが、逃がしてくれた』って。『もう一人の兵隊さんが、わたしを撃とうとしたら、お日さまの目の兵隊さんが、その人をやっつけてくれた』って。『十数えたら走れ、振り返るなって言われた』って」
ナヴィアは、口元を手で覆った。
公爵が、低く口笛を吹いた。
「……あいつが殺したっていう士官は、子供を撃とうとしてたってことか」
「そういうことになりますね」
「その子に、会わせて」
ナヴィアは立ち上がっていた。
「今すぐ。お願い」
リネは、少しだけ困ったように眉を下げた。
「お父様は、一つだけ条件をつけました。その子が、自分の口で証言すると決めたなら。……誰かに言わされるのではなく、自分で決めたならば、と」
リネは帽子をかぶり直した。
「子供を道具にしない。それが、うちのルールなので」
ナヴィアは、ぐっと唇を噛んで、それからうなずいた。
「……分かった。その子に、ちゃんと聞く。無理強いはしない」
「ありがとうございます。それと、特巡隊のシュヴルーズ隊長にも、お父様から一言お伝えしてあります。ヴィクトルという男の外交書類について、少し調べてみるといい、と」
リネは、扉の前で振り返った。
「決闘の日までに、間に合わせましょう。僕も、マジシャンとして――幕が下りる前の大逆転は、得意なんです」
◇
決闘の二日前、ナヴィアが面会に来た。
鉄格子の前の椅子に座るなり、彼女は言った。
「あんた、死ぬつもりでしょ」
ソルは、壁にもたれたまま、困ったように笑った。
「……何のこと?」
「とぼけないで。あたし、知ってるのよ。その顔」
ナヴィアは、膝の上で両手を握りしめた。
「三年前ね。パパが、クロリンデと決闘したの。有罪を言い渡されて、名誉のために決闘を申し込んで。……パパ、致命傷を受けても、降伏しなかった。最後まで。それで、死んじゃった」
ソルの笑みが、少しずつ消えていった。
「決闘の日の朝、パパ、すごく優しい顔で笑ってたの。あたし、そのときは分からなかった。あとになって、やっと分かった。あれは、もう帰ってこないって決めた人の顔だったんだって」
ナヴィアの声が、揺れた。
「あんた、審理の日、同じ顔してた」
房の中に、沈黙が落ちた。
「あたし、ずっと思ってたの。なんでパパは降伏してくれなかったんだろうって。名誉なんかより、生きててほしかった。かっこ悪くてもいいから、帰ってきてほしかった」
ナヴィアは、鉄格子を掴んで、まっすぐにソルを見た。目に涙が溜まっていたが、こぼれてはいなかった。
「パパは、降伏しなかった。でもあんたは、降伏していいんだよ」
ソルは、何も言えなかった。
「……ナヴィアさん、俺はさ」
「言い訳は聞かない!」
ナヴィアは立ち上がった。
「あんたのカップ、あたしが預かってるんだからね。割らずに、ちゃんと。だから――自分で取りに来なさいよ」
それだけ言って、彼女は背を向けた。足音が、早足に遠ざかっていく。途中で一度だけ、鼻をすする音がした。
ソルは、自分の両手を見下ろした。震えていた。
◇
決闘の前日、フリーナが来た。
彼女は椅子には座らず、鉄格子の前の床に、すとんと腰を下ろした。膝を抱えて、まるで楽屋で休憩でもしているみたいに。
「ここ、寒いね」
「……そうかな」
「キミのせいかもね。壁、ちょっと凍ってるし」
ソルは苦笑した。三日前、ヴィクトルが来たときの霜が、まだ壁の隅に残っていた。
フリーナは、しばらく黙って天井を見上げていた。それから、ぽつりと言った。
「僕もね、あの舞台で裁かれたことがあるんだ。被告人席に立って」
知っている。フォンテーヌで、それを知らない人はいない。
「みんなが僕を見てた。五百年の嘘が全部ばれて、ああ、これで終わりだと思った。神様のふりをしてた、ただの人間。裁かれて、消えて、それで幕が下りるんだって」
フリーナは膝を抱え直した。
「でも、終わらなかった。僕は今、小さな劇団で主役をやってる。下手くそだけどね。毎日、台詞を間違えて、座長に怒られてる。……それが、すごく楽しいんだ」
彼女は、鉄格子越しにソルを見た。
「あの舞台で裁かれても、生きていていいんだよ」
ソルは、目を伏せた。
「キミは、代役になろうとしてる。誰かの罪を全部背負って、最後に一人で退場する役。……そういう脚本、僕は知ってる。五百年、自分で演じてきたから」
フリーナの声が、少しだけ強くなった。
「でもね、そんな脚本、僕は認めない。だって、観客が泣くじゃないか。一番前の席で――いや、舞台の真ん中で、剣を持ったまま、クロリンデが」
ソルの肩が、震えた。
「……フリーナさん」
掠れた声が出た。
「俺、舞台の降り方が、分からないんだ」
ずっと、誰かに握られた剣だった。道具だった。自分で何かを選んだのは、たった二回だけ。あの夜、あの子を床下に隠したときと、雪の日、あの子に似た女の子を逃がしたときと。
生きることを、自分で選んだことは、一度もなかった。
フリーナは立ち上がり、ドレスの裾をぱんぱんと払った。
「簡単だよ」
彼女は、舞台の上の女優のように微笑んだ。
「幕が下りる前に、言えばいい。――生きたい、って」
足音が遠ざかっていったあとも、ソルはしばらく、その言葉を胸の中で繰り返していた。
生きたい。
口に出そうとして、出なかった。喉の奥で、凍りついたように。
◇
決闘の前夜、クロリンデは自室で剣を拭いていた。
特製の薬液を含ませた布で、刃の根元から切っ先へ。ゆっくりと、一度だけ。それから鍔を、柄を。決闘の前には、必ずこうして剣を清める。そうすると、心が静かになる。何年も続けてきた、自分だけの儀式だった。
今夜は、手が止まった。
刃の中ほどで、布を持つ手が動かなくなった。
磨かれた刃に、自分の顔が映っている。いつもと同じ、表情のない顔。それなのに、目だけが、ひどく見知らぬ人のように見えた。
三年前の夜も、こうして剣を拭いた。
カーレスとの決闘の前夜だった。彼は前日、クロリンデに一つだけ頼みごとをした。ナヴィアの安全を確保してほしい、と。それが、もう帰らないと決めた人間の言葉だということは、あとになってから分かった。
翌日、彼は降伏しなかった。
致命傷を負っても。膝をついても。クロリンデが剣を止め、降伏を促しても。彼は、首を横に振った。
決闘代理人は、降伏しない相手を止められない。それが、この国の決闘のルールだ。法の剣は、情で鈍ってはならない。
――正義は、常に冷酷であり続けなければならない。
ずっと、そう信じてきた。そう信じなければ、剣を握り続けられなかった。
クロリンデは、刃に映る自分の目を見つめた。
明日、ソルは降伏しないだろう。
審理の日の、あの笑顔。ナヴィアが言っていた。パパと同じ顔だった、と。クロリンデにも分かった。彼は、自分の剣で終わるつもりだ。ヴィクトルの手に渡らないために。そして、殺し屋を自らの剣で裁いた決闘代理人として、クロリンデの名誉を守るために。
――馬鹿だ。
布を握る手に、力がこもった。
私の名誉など、あなたの命と比べられるものか。
クロリンデは、目を閉じた。
彼を斬ることはできない。わざと負けることも、できない。それは法への裏切りであり、この国の決闘という仕組みそのものへの裏切りだ。そして何より、彼の決意を、誰かが勝手に踏みにじることになる。
ならば、道は一つしかない。
勝って、彼に降伏させる。
彼自身に、生きることを選ばせる。
それができなければ――クロリンデは、二度目の悪夢の中で、一生を過ごすことになるだろう。
布を置き、剣を鞘に納めた。今度は、手は止まらなかった。
立ち上がり、机の引き出しを開ける。一番奥に、古い黒い布が一枚、丁寧に畳まれてしまってあった。
師匠との訓練で使っていた、目隠しの布だ。
目を塞がれて、森の中を歩かされた。耳と、肌と、直感だけで獲物を追った。最初は木にぶつかり、根に足を取られて、何度も転んだ。そのたびに、師匠は笑いながら言った。
――目に頼るな。目は、嘘をつく。
目隠しをされるたびに、クロリンデは心の中で十を数えた。誰に教わったのか、ずっと口にはしなかったけれど。十を数えれば、外に出られる。そう信じて、暗闇の中を歩いた。
布を手に取り、外套の内ポケットにしまう。
窓の外では、細い雨が降り始めていた。
クロリンデは、窓辺に置いた黄色い花を見た。ソルが、日向みたいな色だと言って選んだ花だ。少し萎れかけていた。水をやるのを、忘れていた。
水差しを取り、花瓶に水を注ぐ。
「……明日だ」
花に向かって、そう言った。返事はなかった。三年話しかけても、返事をしたことはない。
それでも、今夜だけは、話しかけずにはいられなかった。
「明日、十を数える」