決闘の朝、フォンテーヌ廷には細い雨が降っていた。
ヌヴィレットは、審判官席から客席を見渡した。満員だった。三日前の審理よりも、さらに多い。人々は、決闘代理人が恋人を斬るのか、それとも恋人に斬られるのかを見に来ている。
天窓を打つ雨音が、少しずつ強くなっていた。
自分のせいだと、ヌヴィレットは知っていた。心が揺れると、この国の空は泣く。何百年経っても、それだけは上手く抑えられなかった。
今朝早く、特巡隊のシュヴルーズから短い書付が届いた。
『ヴィクトルなる人物の外交書類に不審点あり。身分保証人は、すでに解体された研究部門の名義。調査継続中』
調査継続中。それでは、決闘を止める理由にはならない。法は疑いでは動かない。証拠で動く。それが、この国の正義の形だった。
原告席では、ヴィクトルが手袋の指を組み、穏やかな顔で舞台を見下ろしていた。
舞台の上には、二人が向かい合って立っていた。
被告人ソルは、手錠を外され、長柄の槍を渡されていた。決闘においては、被告人は己のすべてをもって名誉を証明する。押収されていた神の目も、彼の腰に戻されている。けれど彼は、槍の穂先を床に下ろしたまま、静かに目を伏せていた。
その向かいに、決闘代理人クロリンデ。いつもと同じ白い制服、三角帽子。剣の柄に、手を添えて。
三年前も、ヌヴィレットはこの席から決闘を見ていた。
カーレスが致命傷を負い、膝をつき、それでも降伏を拒んだとき。ヌヴィレットは、何もできなかった。降伏しない者を止めることを、法は許していなかったからだ。
法は、人を裁くためにある。
だが――人を生かすためにも、あるはずだ。そうでなければ、何のための法なのか。
答えの出ないまま、ヌヴィレットは告げた。
「始め」
◇
合図と同時に、クロリンデは剣を抜いた。
ソルは、動かなかった。
槍の穂先を床に下ろしたまま、構えもせずに立っている。眼鏡のない金と紅の目が、まっすぐにクロリンデを見ていた。
客席が、ざわめいた。
「……構えろ」
「構えないよ」
ソルは、穏やかに笑った。
「斬ってくれ、クロリンデ。君の剣なら、怖くない」
ざわめきが、どよめきに変わる。原告席のヴィクトルが身を乗り出したのが、視界の端に映った。
クロリンデは、剣を下げなかった。
「意志のない剣とは、決闘にならない」
「だったら、さっさと終わらせて。一番早く終わる方法、君なら知ってるだろ」
知っている。喉を一突き。それで終わる。彼は、それを待っている。
クロリンデは、外套の内ポケットに手を入れた。
取り出したのは、黒い布だった。
歌劇場が、一瞬で静まり返った。
クロリンデは帽子を脱ぎ、舞台の床にそっと置いた。それから黒い布で自分の両目を覆い、頭の後ろできつく結んだ。
「……何、やってるんだよ」
ソルの声が、初めて揺れた。
「公平を期すためだ」
暗闇の中で、クロリンデは答えた。
「あなたは、自分を見ていない。自分の命を、自分の目で見ようとしていない。だから、私も目を閉じる。相手が目を塞いでいるなら、私も塞ぐ。それが私の決闘だ」
「そんなの、屁理屈――」
「構えろ、ソル」
クロリンデは、剣を構えた。
目隠しの下で、耳を澄ませる。天窓を打つ雨音。客席の息遣い。舞台の床板の軋み。そして、数歩先で、彼が息を呑む音。
目に頼るな。目は、嘘をつく。
師匠の声が、暗闇の奥から聞こえた気がした。
「構えなければ、このまま斬りかかる。目の見えない私の剣が、どこに当たるかは分からない」
一。
心の中で、数え始める。
クロリンデは、踏み込んだ。
金属が噛み合う甲高い音が、歌劇場の天井に響き渡った。
ソルの槍が、クロリンデの剣を受け止めていた。
◇
構えないつもりだった。
なのに、腕が勝手に動いていた。
剣が来る。そう感じた瞬間に、槍の柄が跳ね上がっていた。考えるより先に。決闘場の八年間が、骨の奥に刻み込んだ動きだった。
「……っ」
ソルは、受け止めた剣の重さに歯を食いしばった。
見えていないはずなのに、正確だった。喉ではなく、肩口。致命傷にはならないが、受けなければ確実に腕が使えなくなる場所。
二撃目が来る。今度は下から。足を払う軌道。半歩退いてかわす。三撃目、横薙ぎ。槍を回して弾く。
――読まれている。
目隠しの下で、クロリンデは音を聞いていた。足音を。息遣いを。槍が空気を裂く音を。ソルがどこにいて、次にどう動くかを、彼女は全部聞き取っていた。
下がれば、追ってくる。止まれば、斬られる。
斬られたかったはずだ。それが目的だったはずだ。
なのに、体が言うことを聞かない。
四撃目を受け止めた瞬間、舞台の床に霜が走った。自分でも気づかないうちに、神の目が応えていた。白い氷の筋が、クロリンデの足元へと伸びていく。
クロリンデは、跳んだ。氷を避けて。音だけで。
空中から、紫の雷光が降ってきた。
氷と雷がぶつかり、青白い閃光が弾ける。空気が軋む音。客席から悲鳴が上がった。超電導の衝撃が、ソルの体を覆っていた冷気の膜を剥ぎ取っていく。
胸の奥の欠片が、焼けるように冷たくなった。
口の中に、鉄の味が広がる。視界の端が、白く霞む。それでも、腕は止まらなかった。剣を受け、払い、退き、また受ける。
どうして、と思った。
どうして、止まらないんだ。
剣と槍が噛み合うたびに、何かが頭の中で弾けた。
暗い地下。半分に割ったパン。お日さまみたいな目、と言った小さな声。
カフェ・リュテスのテラス。カップの中で溶けていく角砂糖。
三年話しかけても返事をしない花。下手くそな盾の絵が描かれたキャラクターシート。お揃いのリップクリーム。白いカップ。
――自分で取りに来なさいよ。
――幕が下りる前に、言えばいい。
――その騎士は、死なない。
槍を握る手が、震えていた。邪眼の欠片のせいではなかった。
ああ、そうか、とソルは思った。
止まらないのは、体が死にたくないからだ。
二十年、自分は道具だと思ってきた。使い捨ての、誰かに握られる剣だと。でも、体は知っていた。剣を受けるたびに、払うたびに、退くたびに。この体は、ずっと叫んでいた。
生きたい、と。
その一瞬の迷いを、クロリンデは聞き逃さなかった。
雷をまとった剣が、槍の柄を下から打ち上げた。手から槍が離れかける。踏みとどまろうとした足元を、正確に払われた。
背中から、舞台の床に倒れ込む。
冷たい切っ先が、喉元に触れた。
目隠しをしたままのクロリンデが、真上から、まっすぐにソルを見下ろしていた。見えていないはずの目で。
「十を数えるまでに」
静かな声だった。
「降伏しろ」
切っ先は、少しも震えていなかった。
「生きて、外に出ろ」
そして、彼女は数え始めた。
「一」
◇
ナヴィアは、歌劇場の最後列にいた。
一番後ろの、一番暗い席。ソルがずっと、クロリンデの決闘を見ていたという席だ。
本当は、リネたちが来たらすぐに動けるように、出口の近くで待っていた。けれど、もう座っていられなかった。立ち上がって、手すりを握りしめて、遠い舞台を見下ろしていた。
「二」
クロリンデの声が、静まり返った歌劇場に響く。
「三」
三年前も、同じ光景を見た。
倒れた男。喉元の切っ先。降伏を促す声。そして、首を横に振ったパパ。
「四」
「……降伏して」
ナヴィアは呟いていた。誰にも聞こえない声で。
「五」
「お願い。降伏して」
「六」
舞台の上のソルは、動かなかった。仰向けに倒れたまま、目隠しをしたクロリンデを見上げている。
「七」
手すりを握る手が、白くなる。日傘を落としたことにも、気づかなかった。
「八」
ソルの唇が、動いた気がした。
「九」
からん、と乾いた音がした。
ソルの手から、槍が離れていた。床を転がって、舞台の端で止まる。
「……降伏、する」
掠れた声だった。けれど、それは歌劇場の一番後ろまで、はっきりと届いた。
そして、彼はもう一つ、言葉を続けた。
「……生きたい」
声が、震えていた。
「クロリンデ。俺、生きたい」
歌劇場の中の誰もが、息をするのを忘れていた。
クロリンデが、剣を引いた。それから、片手で目隠しの布を引き下ろした。
「認めよう」
短い言葉だった。その声が、ほんのわずかに揺れていたことに気づいたのは、たぶん、ナヴィアだけだった。
ナヴィアは、手すりにしがみついたまま、泣いた。子供みたいに、声を上げて泣いた。
パパ。今度は、降伏してくれたよ。
そのとき、背後の扉が勢いよく開いた。
「ナヴィアさん!」
リネが、息を切らして立っていた。その隣に、シュヴルーズ。そしてリネの手を握りしめた、黒い髪の小さな女の子。
舞台の上で、原告席のヴィクトルが立ち上がるのが見えた。
「決闘は終わった。被告人は降伏し、有罪は確定した。速やかに、身柄の引き渡しを――」
ナヴィアは涙を拭いもせずに、通路を駆け下りた。
「待って!」
叫んだ。歌劇場じゅうに響くように。
「審判官様、待って! まだ、終わってない!」
◇
「静粛に」
ヌヴィレットの声が、騒然とした歌劇場を鎮めた。
通路を駆け下りてくる棘薔薇の会の会長。その後ろに、特巡隊の隊長と、シルクハットの青年。そして、青年の手を握りしめた小さな女の子。
「決闘は終わった。だが、身柄の引き渡しについては、まだ審議していない」
ヌヴィレットは、原告席を一瞥した。ヴィクトルの微笑みが、ほんのわずかに強張っていた。
「新たな証拠があるのなら、聞こう」
シュヴルーズが、まず進み出た。
「特巡隊より報告します。原告ヴィクトルの外交書類について、スネージナヤ大使館に照会しました。回答は――該当する外交官の記録なし。身分保証人の欄にある研究部門は、すでに解体されています。この男は、外交官ではありません」
客席がざわめいた。
「それは手続きの行き違いだ」ヴィクトルが立ち上がった。「私は、正式な――」
「それから、もう一通」
シルクハットの青年――壁炉の家のリネが、優雅に封筒を掲げた。
「ファデュイ執行官第四位『召使』より、最高審判官殿へ。お読みいただけますか」
ヌヴィレットは封筒を受け取り、封を切った。
短い文面だった。癖のない、鋭い筆跡で。
『この男は、ファデュイの名において、何者をも代表しない。子供に値札をつける者に、我らの名を名乗る資格はない。――召使』
ヌヴィレットは、その文面を声に出して読み上げた。
ヴィクトルの顔から、血の気が引いていった。
「同封の記録には、この男が十五年前、壁炉の家の子供たちを買い取ろうとした経緯が記されています」とリネが続けた。「それから、メロピデ要塞の公爵からも、宣誓供述書が一通。地下の非合法決闘場『籠』の金主が、灰色の外套に銀縁の眼鏡をかけた北国の男だったという、元関係者の証言です」
「……でたらめだ。囚人の戯言など――」
「最後に」
リネの声が、柔らかくなった。彼は、手を握っていた女の子の前にしゃがみ込んだ。
「ミラ。本当に、いいんだね? 言いたくなければ、言わなくていいんだよ」
女の子は、黒い髪を揺らして、こくりとうなずいた。
七つか、八つくらいに見えた。いや、三年前に七つなら、今は十になるだろうか。小さな手が、スカートの裾をぎゅっと握っている。
ヌヴィレットは審判官席から降り、女の子の目の高さまで身をかがめた。
「話してくれるかね」
女の子は、ヌヴィレットを見上げた。それから、目を閉じた。
小さな唇が、かすかに動いていた。
「……いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう――じゅう」
舞台の上で、ソルが息を呑むのが聞こえた。
女の子は目を開けて、震える声で、けれどはっきりと話し始めた。
「雪の日でした。兵隊さんたちが村に来て、みんな、いなくなりました。わたし、納屋に隠れてました。怖くて、数を数えてました。数えてると、ちょっとだけ怖くなくなるから」
歌劇場は、水を打ったように静かだった。
「兵隊さんが一人、わたしを見つけました。槍を持ってて……でも、刺しませんでした。槍を、下ろしてくれました。そしたら、もう一人の兵隊さんが怒って、わたしに鉄砲を向けて――」
女の子の声が、詰まった。リネがそっと背中に手を添える。
「最初の兵隊さんが、その人をやっつけてくれました。それから、わたしの前にしゃがんで言いました。十数えたら走れ。振り返るなよ、って」
女の子は、舞台の上を振り返った。
床に座り込んだままの男を、まっすぐに見つめた。
「……お日さまの目の、兵隊さん」
ソルの顔が、くしゃりと崩れた。
片手で目元を覆い、肩を震わせている。声は出ていなかった。その隣で、目隠しを外したクロリンデが、彼の肩にそっと手を置いていた。
「わたし、言われたとおりに、十数えて、走りました。一回も振り返りませんでした。……でも、ずっと、お礼を言いたかったんです」
女の子は、小さく頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
ヌヴィレットは、ゆっくりと立ち上がった。
天窓を打つ雨音が、いつの間にか、弱まっていた。
「……原告ヴィクトル」
振り返ると、ヴィクトルは原告席を離れ、出口へ向かおうとしていた。その前に、シュヴルーズが立ちはだかった。
「どこへ行く。スネージナヤ外務官付き技術顧問殿――いや、ただの仲買人か」
「どけ。私には、外交特権が――」
「ない。たった今、それを証明したばかりだ」
シュヴルーズは、ヴィクトルの手から革の鞄をもぎ取った。
「未成年者の人身売買、およびフォンテーヌ国内における非合法決闘場の運営の容疑で、身柄を拘束する。この鞄も、証拠として押収する」
手錠の音が、乾いた音を立てて響いた。
ヌヴィレットは、審判官席に戻った。
「判決を言い渡す」
歌劇場じゅうが、息を呑んだ。
「一、スネージナヤ外交関係者に対する傷害の件。被害者とされた者たちは外交関係者ではなく、被告人に対する襲撃者であった。被告人の行為は正当防衛と認め、無罪とする」
客席の一角で、ナヴィアが両手で口を覆った。
「二、ファデュイ士官殺害の件。これは国外の事件であり、本法廷の管轄外である。ただし、被告人の行為が、無抵抗の子供の命を守るためのものであったことを、本法廷は事実として認める。身柄引き渡しの要請は、要請者に正当な資格がないため、却下する」
どよめきが起きた。今度は、驚きと安堵の入り混じったどよめきだった。
「三、非合法決闘場における殺人の件」
ヌヴィレットは、少しだけ言葉を切った。
「当時、被告人は未成年であり、他者によって檻に入れられ、殺し合いを強いられていた。そのことを、本法廷は認める。だが――そこで命が失われた事実は、消えない。被告人自身がそれを認め、償いを望んでいることも、本法廷は聞き届けた」
ヌヴィレットは、床に座り込んだ男を見た。金と紅の目が、まっすぐにこちらを見上げていた。もう、別れの笑顔ではなかった。
「よって、被告人を、メロピデ要塞における一年の服役に処す」
短い沈黙があった。
「なお、押収した記録は証拠として保全した上で、被告人の治療のために、メロピデ要塞の医療班へ提供することを許可する」
ヌヴィレットは、静かに槌を下ろした。
「閉廷」
天窓から、雲の切れ間をくぐった光が差し込んでいた。雨は、いつの間にか止んでいた。
法は、人を裁くためにある。
そして、人を生かすためにもある。
今日、ヌヴィレットは、ようやくその答えを一つ見つけた気がした。
◇
メロピデ要塞へ移送される前に、少しだけ時間が許された。
歌劇場の裏手の、人気のない通路。衛兵が二人、気を利かせて少し離れたところに立っている。ソルの両手には、また手錠がかけられていた。
クロリンデは、帽子をかぶり直していた。目隠しの布は、外套の内ポケットに戻してある。
「……一年、だって」
ソルが言った。目元が、まだ少し赤かった。
「そうだ」
「長いね」
「短い。あなたは、二十年待たせた」
ソルは、困ったように笑った。今度の笑顔には、継ぎ目があった。不格好で、少し泣きそうで、それでいて、どこか晴れやかな。
「シグウィンさんに、これ、取ってもらえるかな」
手錠のかかった手で、彼は自分の胸を指した。
「記録は、押収された。最高審判官が、医療班への提供を許可した。シグウィンなら、必ずやる」
「……そっか」
ソルは、細く息を吐いた。それから、まっすぐにクロリンデを見た。眼鏡のない、金と紅の目で。
「今度は、ちゃんと行くよ」
クロリンデは、何も言わなかった。
「一年経ったら、自分の足で、君のところに行く。……だから、十数えて待ってて」
「一年は、十では数えきれない」
真顔で、クロリンデは言った。
ソルが、吹き出した。喉の奥から勝手に転がり出てくるような、あの笑い方で。
「じゃあ、日数で。三百六十五」
「予定に組み込む」
衛兵が、時間を告げに来た。
ソルは、手錠のかかった両手を少しだけ持ち上げた。クロリンデは、その手を両手で包んだ。冷たい手だった。でも、震えてはいなかった。
「行ってくる」
「ああ」
衛兵に連れられて、彼は通路の奥へと歩いていった。一度だけ、振り返った。笑っていた。別れの笑顔ではなかった。
扉が閉まるまで、クロリンデはその場を動かなかった。
背後で、足音がした。振り返ると、ナヴィアが立っていた。泣き腫らした目で、白いカップを両手に抱えて。
「……預かり期間、一年延びちゃった」
「割るなよ」
「割らないわよ!」
ナヴィアが、泣きながら笑った。
クロリンデは、閉じた扉をもう一度だけ見た。
師匠は、来なかった。二十年前のあの子も、来なかった。二度、来ない人を待った。
三度目は、違う。
三度目は、来る人だ。