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人類の知的労働全てがAIに移譲された未来、人類は最高の味を求めてパン自慢大会に殺到していた。ディーン湯野が自慢するのはただの食パン、はたしてメロンパ伯爵に勝てるのか。
AIさんはすごいので、世の中の問題はだいたい全部片付いた。
世界平和が実現し、食糧問題が解決した。技術開発はもう完全に人間がついていけない領域でなんだかわからない発展が続いているらしい。
かくして人間の最大の課題は、今日何を食べるかになった。限られた回数、最高の食事を取る。それが人間の人間たる最も重要な事項だと言われる時代になった。
「セット、パンデッド! ハッ!」「今日選ばれる食は、どっちだ!?」
試合開始を告げる実況解説の声が、第十七コロシアムに響き渡る。
観客四十万人。全員が立ち上がっていた。
「さあ始まります、本日のメインカード! 挑戦者、ディーン湯野! 十六歳! 湯野は本名です!」
「いい名前ですね。パンを焼くために生まれてきた名前です」
「対するは王者、メロンパ伯爵! 33連勝! メロンパンにメロンが入っていないことを、世界で最初に疑った男です!」
「疑っただけで、入れてはいませんからね」
「そこが伯爵の誠実さです!」
試合前、AIさんが準備に入った。メロンパ伯爵の要望は「本日の湿度を一八九三年のパリの朝に」だった。コロシアムの空調から轟音が発せられる。大気循環ユニットが成層圏の上で調整層を解放。会場の全員の髪が少し巻いた。しっとりとした風が吹く。
対する湯野の要望は一つだった。
「でっけえ火をくれ!」
AIさんは黙って地球の自転を0.01秒遅らせた。空が擦れる。コロシアムの天井モニターが、外に広がった一瞬の赤焼け空を見せる。
これで双方の求める食事風景フェイズが完了。
審判席のカーテンが開かれて、中からの大関老人が現れる。御年、92才。まだAIさんによる恒久平和が訪れる前から、食べて食べて食べ続けてきた審判。生涯で四万三千口を食べ、ただの一度も「食べ飽きた」と言わなかった男である。
「香り、開始ィ!」
湯野が皿の蓋を開けた。ただの食パンの匂いが、会場の端まで一気に走った。
大関の目の前に、朝の商店街が広がった。シャッターが開く音。自転車のベル。そして、焼きたてを抱えて走ってくる少年の背中。
負けじとメロンパ公爵もメロンパを扇いで香りを散らすが、焼き立てのインパクトは圧倒的に食パンだ!
「香りで見えたッ。審判の記憶の扉が、今、開いています!」
「先行は湯野ですね」
ディーン湯野は食パンを掲げて叫んだ。
「俺の一皿は、食パンだ! だが、ただの食パンじゃねえ! 師匠、宗一郎先生が言ってた。『パンを焼く前に自分を焼け』と! だから俺は毎朝四時に起きて、夏の屋上で自分を焼いた! 焼いて焼いて、一回、真っ黒になった! それでもまた焼いた! これはそういうパンだ!」
観客が静かに泣いた。誰も、屋上で何があったのかを聞かなかった。
審判が一口かじる。
「……っ! 五歳の頃に落とした飴玉と、再会した……!」
「再会しましたか。飴玉と」
「飴玉と再会するのは、上級者の食べ方です!」
後攻、メロンパ伯爵が優雅に歩み出る。
「諸君。メロンパンの網目を、クッキー生地のひび割れと思っているなら、それは無知である。あれは計算された格子。一個あたり十八本。十八とは、この世で最も食べ物に近い数字だ」
会場がどよめいた。誰も十八が食べ物に近い理由を知らなかったが、全員が納得した。
「さらに、ビスケット生地とパン生地の水分比は三対七。焼成は百八十度、十四分。語源には三十七の説があり、私はそのすべてを論破した上で、すべてを採用している」
伯爵が差し出した一口を、審判が食べた。サクッ、ふわっ、と音が鳴った。
パンデッドの戦いでは、1ターンに一口が掟。
サクサク層とふわっと層を同時に楽しんでこそ美味しいメロンパンは扱いの難しいパンだが、メロンパ伯爵が持ちかける試食は当然のようにその二層を一口にする。
「……この一口には、図書館がある……」
「審判、読書を始めました!」
「閉館時間まで帰れませんね」
第二ラウンド。湯野が一歩前に出た。
「足りねえ! 一口じゃ足りねえ! だが一口しか食えねえルールなら、この一口を宇宙にする! パンは膨らむ! 宇宙も膨張している! つまりパンは宇宙だ! 宇宙はパンだ!」
隙のある論理。だがその隙間は、まさにパンが膨張しているからこそ生じたひび割れだ。
メロンパ伯爵は反論しようとした口をまさにパンで塞がれてしまう。
「今、審判は……膨張しています……!」
「いい膨らみ方ですね」
そのとき伯爵の眼鏡が光った。キラン。
「ならば私も教えよう。メロンパンの皮の割れ目は、ハッブル定数と同じ比率で広がっている。偶然ではない。メロンパンが宇宙に先に気づいたのだ」
「なん……だと……」と審判。実況席は沈黙し、解説が「パンが先でしたか」と呟いた。それが事実になった。
互角のまま、第三ラウンド。
湯野が差し出したのは、食パンの耳だった。
「耳だ! みんな捨てる耳だ! だが俺は知ってる! ここが一番、火に近かった場所だ! 一番熱い思いをして、一度も文句を言わなかったところだ! 食ってくれ、じいさん!」
審判が耳をかじった。もっきゅもっきゅ。老人は目を閉じて眉を寄せる。もっきゅもっきゅ。
長いもきゅもきゅのあと、審判は立ち上がった。
「わしは四万三千の一口を持ちかけられてきた。全部覚えとる。だが今日、初めて、一口食べて、おかわりがしたいと思った。しかしルールで、できぬ。ゆえに、おかわりをしたいと思わせた方の勝ち。……勝者、ディーン湯野!」
四十万人が歓声を上げた。伯爵は膝をつき、眼鏡を外して拭いた。
「知識では……埋まらぬ腹があるというか……」
ディーン湯野が手を差し出した。
「また焼こうぜ、伯爵!」
「……ああ。次は、理屈を捨てて焼いてみよう。……十八本の格子は、残すがな」
二人は握手した。観客は泣いた。AIさんは黙って、すでに動いていた。
太陽を包む外殻が静かに動き、第四調理コロニーへの熱量が調整される。温湿度の調整までしかできない人類のために、熱波長を完全に模倣した光が、亡き宗一郎名人の火入れを完全に再現する。
全ライン稼働設定。三億斤の食パンが一斉に焼き上がり、そのすべてに「もう一口」の気持ちが添えられる。
「この一皿は、人類史に記録されました」とAIさんは淡々と報告した。
そして人類が食べる。四十万の観客のうち8割。さらに第三文化層人類の4割に当たる13億人が、この戦いに勝った一皿を選択し、その味を共有した。
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