あるゴブリンの母娘の話 作:匿名希望
冷たく湿った岩肌の感触と、悪臭を放つ泥の匂いで目が覚めた。
「おにいちゃん……どこ?」
5歳のたけるの喉から出た声は、いつもの自分の声ではなかった。
甲高く、かすれて擦れたような異様な響き。
ここはどこだろう。幼稚園の帰りに、公園の大きな樹の空洞を覗き込んだまでは覚えている。
気がつけば、光の届かない暗い洞窟にいた。
奥から足音が近づいてくる。姿をあらわしたのは、絵本で見たような緑色の皮膚をした不気味な小鬼――ゴブリンたちだった。
恐怖で声も出ないたけるを取り囲み、怪しげな紫色の液体が入った壺を突きつけてくる。
拒む間もなく、その泥のように粘り気のある液体が無理やり口の中に流し込まれた。
「……ゲホッ、うぐっ……! おねが、やめ……」
体の内側から、灼熱のマグマが流れ込んだかのような激痛が走った。
まず変化が訪れたのは、小柄な身体だった。
幼い男の子の柔らかい骨格が、内側からミシミシと音を立てて強引に再構築されていく。
短かった手足はわずかに引き締まりつつも小柄なまま、骨盤がグッと横に広がり、幼いながらも明らかな腰のくびれが生じた。
丸かったお腹は凹み、胸元には微かに芽吹くような膨らみが形作られる。肌はスベスベとした桃色から、くすんだ明るい緑色(ライトグリーン)へと変色し、手の指先からは硬く鋭い爪が伸びた。
耳は横へと尖り、口元からは小さな可愛らしい八重歯のようなきばが覗く。
続いて、服装が音を立てて崩壊した。
着ていた幼稚園の黄色い通園制服と紺色のズボンは、体型の変化と緑色の肌に押し潰されるようにして破け飛ぶ。
肩紐をかけていた通園バッグはちぎれ落ち、代わりに怪しい魔力が衣服を焼き変えていく。
上衣はボロボロの粗末な革布が胸元をギリギリ覆うだけの破れかけたブラトップ状になり、ズボンは股ぐりを覆うだけの短い腰布へと変わり果てた。
小さなスニーカーは弾け飛び、裸足の足首には粗末な鉄の輪がはめられた。
そして最後に、内面(心)が塗り替えられていく。
「おにいちゃんに助けてほしい」「お母さんのご飯が食べたい」という幼い男の子としての記憶と自意識が、頭の中で急速に遠のいていく。
代わりに、甘ったるくも本能的な「守られたい」「誰かに従いたい」という雌ゴブリン特有の従属欲求が脳内を満たしていく。
恐怖で溢れていた涙は引っ込み、視界が鮮明になると、自分の緑色の手足を見て「これでいいんだ」という謎の充足感が胸を支配した。
(あ……わたし、ゴブリンの女の子になっちゃった……)
男の子だった意識は完全に沈み込み、思考の語尾や一人称までが、可憐で従順な雌の小鬼のものへと書き換えられていく。
だが、巣のゴブリンたちが不気味な笑みを浮かべて手を伸ばしてきた瞬間、新しい本能が「ここは危険だ」と警鐘を鳴らした。
自分を変貌させた怪しい魔法陣の隙間を縫い、新しくなったしなやかな体肢で、彼女は無我夢中で暗闇の洞窟を駆け抜けた。
光が差し込む洞窟の出口を飛び出し、茂みに転がり込む。
「はぁ……はぁ……つかれちゃった……」
へたり込んでいると、草むらがガサガサと揺れ、剣を構えた一人の少女姿の冒険者が姿を現した。
「えっ……? ゴブリン……? でも、なんだかすごく小さくて……女の子?」
彼女は街を出たばかりの新米モンスターテイマーだった。
手に持った初心者用の杖を構えつつも、怯えて身を縮める緑色の小さな体に毒気を抜かれたようだ。
「ウゥ……あくむじゃない……わたし、たすかったの……?」
雌ゴブリンへと変化した元男の子は、潤んだ瞳でテイマーの少女を見上げた。
もはや人間の男の子に戻りたいという感情すら残っていない。
ただ、目の前の優しそうなテイマーに甘えたい、自分を拾ってほしいという雌としての従属心が突き動かす。
トコトコと四つん這いで近づき、テイマーの革ブーツに小さな緑色の頭を擦り付けた。
「キュ……キュぅ……(わたしを、あなたの従者にして……?)」
「えっ、あ、懐いてる……!? 攻撃してこないどころか、テイムの契約を受け入れようとしてる……?」
新米テイマーは戸惑いながらも、その愛くるしい(様に彼女には見えた)小さな雌ゴブリンの頭を優しく撫でた。手に伝わる契約の温かい光。
「よろしくね、ちいさなゴブリンちゃん。今日から私のお供だよ」
「きゅんっ……!」
首輪のかわりにテイマーの手から温かい魔力が流れ込み、彼女はうっとりと目を細めた。
かつて日本の幼稚園に通っていた男の子はもうどこにもいない。
新米テイマーの後ろを嬉しそうにパタパタとついていく、一匹の可憐な雌ゴブリンがそこにいるだけだった。