あるゴブリンの母娘の話 作:匿名希望
森の奥深く、木漏れ日が柔らかく差し込む小さな隠れ家で、二人は静かな朝を迎えていた。
「おかあさま、きょうも おさんぽ いくの?」
小さなゴブリンクイーン――かつて主人であり、一流のテイマーだった少女──メルが、ベッドの上で目をこすりながら甘えた声を上げる。
その声に、体長2メートル近い雌ホブゴブリン――かつて異世界に迷い込んだ日本の男の子だった彼女──ラグナは、優しく目を細めた。
手際よく木の実と炙った肉を大皿に盛り付けながら、幼いクイーンの元へと歩み寄る。
「ええ、行きましょうね。でもその前に、ごはんをしっかり食べないとダメですよ」
彼女は膝をつき、メルの小さな口元へ丁寧に食事を運んだ。
実は最近、メルティが冒険者だった頃に知り合った呪いについて知る高位の神官が、彼女たちの元を訪れていた。
呪いを解除し、二人を「元の人間」へと戻す儀式の準備が整ったという報せをもたらすために。
しかし、ラグナが出した答えは「拒否」だった。
彼女は自分自身の手と、膝の上で満足そうにお腹をさするメルを見つめた。
(私たちが人間に戻ったら、どうなるだろう……)
人間に戻れば、あの子は再び一人立ちした大人になり、自分はただの従者に戻る。
あるいは、異世界から来た自分は元の世界へ送り返され、離れ離れになってしまうかもしれない。
何より、10年という歳月が育んだこの温かな「親子の絆」は、人間だった頃のどんな記憶よりも愛おしく、かけがえのないものになっていた。
自分を救ってくれた大切な主人は、今や自分が命に代えても守りたい「愛娘」なのだ。
「解呪のお話、お断りしてしまいましたよ。……ずっと、ゴブリンのままでいることになりますけれど、良いですか?」
ラグナが優しく問いかけると、メルは首をかしげ、小さな緑色の手で母親の頬を包み込んだ。
「おかあさまと いっしょ? じゃあ、メル、ずっとこれがいい!」
屈託のない満面の笑み。人間だった過去など、もう二人には必要なかった。
「元に戻るための旅」は、今日この瞬間をもって「ゴブリンとして二人で幸せに生きていくための生活」へと完全に変わった。
「さあ、メル。今日もお外のパトロールに出発しましょう」
「うんっ! おかあさま、だっこ!」
ラグナは愛しい娘を力強い腕で抱き上げ、大きな背中に背負わせた。
メルは母親の首にしっかりと腕を回し、嬉しそうに足をバタバタと揺らす。
森の入り口へと向かう二人の後ろ姿には、もう迷いも憂いも一切なかった。
人間としての過去を捨て、種族の壁すら超えて「母と娘」になった二人。
緑の木々に包まれたこの広大な森で、可憐なクイーンと最強のホブゴブリンの幸せな物語は、これからもずっと続いていく。