あるゴブリンの母娘の話 作:匿名希望
木漏れ日が柔らかく揺れる大樹の隠れ家で、メルはラグナの膝の上にちょこんと座り、手作りの甘い木の実のクッキーを頬張っていた。
「おかあさま、これ、甘くてとってもおいしい!」
「ふふ、良かったです。メルが喜んでくれるなら、いくらでも作りますよ」
頭を優しく撫でるラグナの手は大きくて温かい。
ラグナの愛おしそうな眼差しに包まれながら、メルは至福の心地よさに目を細めていた。
その時だった。
風が葉を揺らす音と同時に、脳裏の奥深くにしまわれていた「開かずの扉」が、カチリと音を立てて開いた。
ほんのわずかな既視感――。
「おいしいクッキー」
「温かい手」
「自分を見守る優しい瞳」。
その断片的な刺激が引き金となり、かつて漆黒の呪詛に呑み込まれた際に完全に消失したはずの記憶が、電撃のように頭の中を駆け巡った。
(……あ………………?)
胸の奥がドクンと大きく跳ね上がる。
頭の中に流れ込んでくるのは、自分のものであって自分のものではない、遠い過去の情景。
小さな冒険者ギルドの賑わい、手垢のついた初心者用の杖の感触、初めて魔物を従えさせた時の達成感、そして――街道の脇で怯えて震えていた、緑色の小さな小鬼を抱きしめた時の、あの腕の温もり。
(私……私、メルティだ……)
自分がかつて人間であり、一人前の「魔物使い(テイマー)」としてこの世界を旅していたこと。
そして目の前で自分を愛おしそうに見つめている大きなホブゴブリンが、かつて自分が拾い、名前をつけ、大切に育ててきた大切な従者「ラグナ」であったこと。
10年以上の時を超え、忘却の彼方に沈んでいた「人間だった自分」の記憶と意識が、鮮明な映像となって蘇ってきたのだ。
「……っ!?」
あまりの衝撃に、メルの手から食べかけのクッキーがぽろりとこぼれ落ちた。
息が詰まる。
視界が急速に明瞭になり、思考が人間としての解像度を取り戻していく。
自分が今、幼いゴブリンの体になってラグナの膝に抱かれていることの意味、そして自分たちが辿ってきた数奇で過酷な運命の全てを、大人の頭脳で理解してしまった。
「メル……? どうしました? 急に顔色を悪くして……どこか痛みますか!?」
急に変貌したメルの様子に気づいたラグナが、心底心配そうに顔を覗き込んでくる。
その大きな緑色の手の手のひらが、慌ててメルの額に触れた。
その手を見て、メルの胸に激しい感情の嵐が吹き荒れた。
(ラグナ……! 私は……私はあなたのご主人様で、テイマーのメルティだったの……!
あなたを助けたくて、護りたくて……なのに、呪いに倒れて……)
言葉を吐き出そうとした。
「思い出せたよ」「私はメルティだよ」と伝えようと、喉を振るわせた。
だが、その瞬間――。
メルは、ラグナの「目」を見た。
そこに映っていたのは、かつて主人の背中を追いかけていた従者の目ではなかった。
ただひたすらに自分の娘を愛し、命に代えても守ろうとする、慈愛と誇りに満ちた「母親」の目だった。
(あ……)
メルはハッと息を呑んだ。
思い出したのだ。呪いを解く神官が訪れたあの日のこと。
ラグナが「人間に戻る儀式」を断った時のことを。
ラグナが人間だった頃の過去も、男の子だった記憶もすべてを手放し、ただ「メルのおかあさま」として生きていくことを選んでくれた、あの温かい決意を。
もし今、自分が「メルティ」に戻ったと伝えたらどうなるだろう?
ラグナは再び「従者」に戻り、自分は「主人」に戻ってしまうのだろうか?
あんなにも深く、優しく育んできたこの「母と娘の幸せな時間」は、人間だった頃の過去によって壊れてしまうのではないだろうか?
(……ううん。違う……)
幼いゴブリンクイーンの小さな胸の中で、かつての大人のテイマーとしての知識と、今の無邪気なメルとしての感情がひとつに溶け合っていく。
「テイマーのメルティ」は、確かに自分だ。
けれど、ラグナの手によって愛され、育まれ、今日まで幸せに生きてきた「小鬼の姫メル」もまた、紛れもない自分なのだ。
人間だった過去よりも、テイマーとしての尊厳よりも――今の自分にとって何よりも尊く、愛おしいのは、この世界でたった一人のおかあさまと過ごす「今」だった。
喉まで出かかっていた言葉を、メルはそっと胸の奥へと押し戻した。
「メルティ」の記憶は、自分だけの秘密の宝物として、永遠に心に鍵をかけて仕舞い込むことを決めたのだ。
「……ううん! なんでもないの、おかあさま!」
メルは浮かび上がりそうになった涙を引っ込めると、とびきりの笑顔を咲かせた。
そして、こぼれ落ちたクッキーの代わりに、小さな緑色の両手でラグナの首にギュッと抱きついた。
小さな体いっぱいの力で、愛しい母親の温もりを確かめるように。
「クッキーが、とってもおいしかったから……びっくりしちゃっただけ!」
「まあ……ふふ、驚かせないでください、本当に具合が悪くなったのかと思いましたよ」
ラグナはホッと胸を撫で下ろし、愛娘を優しく抱き返した。
(ありがとう、ラグナ。私を拾ってくれて……私を、こんなにも愛してくれて)
ラグナの胸に顔を埋めながら、メルは心の中で静かに呟いた。
かつて自分が差し伸べた手が、今度は自分を救い、温かな居場所を与えてくれた。
立場が変わり、姿が変わり、記憶が巡ろうとも、二人を結ぶ絆は最初から何一つ変わっていなかったのだ。
「おかあさま、だいすき!」
「ええ、私もですよ、メル。ずっと、ずっと大好きです」
陽光が注ぐ深い森の中で、小さなゴブリンクイーンと大きなホブゴブリンの母娘は、寄り添いながら幸せな笑い声を響かせた。