ゲノム・レプリカ   作:伊都川ハヤト

1 / 7
Cell
1-1 登場


第一部  Cell

 

 一、登場

 

 二〇×一年 十月四日 月曜日

 

 仕事帰りのビジネスマンや、塾帰りの学生が行き交う桜見川区の路上。

 そのすぐ脇の桜見川中央公園の沿道から、空気を裂くような女性の悲鳴が上がった。

 

 皆が反射的に視線を向けたその先には、倒れこむ女性の姿と、その上に被さるようにして飛び掛かる黒い影。

 

 ゴキブリのような触覚に、背中を覆う醜い羽根。膨れ上がった体の上に据えられた、小さすぎる頭。目と思われる部分は大きく腫れあがっていて、今にも破裂しそうに見えている。

 

 その生き物は、人とは異なるもの――アナザーと呼ばれる怪物だった。

 アナザーは粘着く体液を吐き出しながら、女性に向かって襲い掛かる。

 

 その場にいた誰もが、無意識に死を連想した。しかし誰もが恐怖に慄き動くことが出来ないその中で、女性を助けるべく動いた一つの影があった。

 

「――間に合った」

 

 全身をシルバーのボディスーツに包んだ赤毛の少年が、突如として化け物の背後に躍り出る。彼は左腕の肘から指の先までを二本指でなぞってスーツの力を解放させると、化け物の顔面に目掛けて強烈な一撃を叩きこんだ。

 

 巻きあがる砂塵。

 飛び散る緑の体液。

 

 風が止んで、人々が目を開いた時。そこには、原型を留めていない化け物だったものの姿があった。それはもはや、肉塊と呼ぶ方が相応しい。

 

 そしてその傍らには、先程の少年の姿があった。

 

 少年はシルバーのボディスーツに身を包み、口元を黒いフェイスガード、目元をスモーク仕様のゴーグルで覆っている。武骨なゴーグルは、街灯の光を鋭く反射させていた。

 

 少年は化け物の残骸の中からビー玉ほどの鈍色の塊を拾い上げると、それを素早く胸元にしまい込んだ。群衆の中に、その様子を捉えきれた者はいない。

 

 少年は倒れている女性を気遣うように手を伸ばすと、ゆっくりと彼女を立たせてやった。それから彼は、彼女の方へ向けて首を傾ける。それは、怪我はないかと、問いかけるような仕草だった。

 

 女性は呆然としながらも、大きく頷いて無事だと答える。

 

 それを見た少年は、何も言わず人々の前から姿を消してしまった。まるで風のように、一瞬で。

 

 人々は立ち尽くし、皆一様に宙を見る。

 

「みなさん! アナザーは……!」

 

 トレンチコートを着た赤毛の女――東條アオイが、息を切らし、彼女の身分を示す手帳を掲げながら人々の間に飛び込んできた。手帳には、彼女が公安部特務課のアナザー対策班所属であることが記されている。

 

 人々は困った様子で、同じ方へと視線を向けた。そこには、何が起きているのか分からないといった様子の女性が立ち尽くしている。

 

 それを見たアオイは、思わず頭を抱えた。彼女は、地面に転がる肉塊がアナザーであったものの成れの果てであると瞬時に理解したのだ。

 

(遅かった……また……)

 

 口の端を噛み、呼吸を整えて、アオイは無線機に手を添える。これが本意であれ、不本意であれ、状況は正しく迅速に報告せねばならない。

 

「こちら、東條」

 

 ザザッというノイズが、耳に障る。

 

「東條か。アナザーは?」

 

 無線の向こうの男の口ぶりは、端から答えを求めていないようだ。

 

「現場にて、アナザーの死亡を確認」

 

「ご苦労」

 

 さして興味もなさそうに、一方的に切られた無線。

 

 アオイは耳元でノイズを立てる無線機に睨むような視線を送って、叫びだしそうな自分を抑えるために胸に手を押し当てた。

 

 ふと気付けば、化け物を囲んでいた人々が、いつの間にかスマートフォンを取り出して撮影を始めている。恐怖で感覚が鈍くなっているのか、あるいは初めからどこかおかしいのかもしれない。

 

 公園の傍にサイレンを鳴らした車が停車すると、降りてきた大柄なスーツの青年がアオイの元に軽やかな足取りで駆け付けた。彼はアオイの部下で、名前を淡路という。

 

「また、先を越されましたね」

 

 苛立つアオイに、淡路はそう声を掛けた。彼は笑顔だったが、決してこの状況を楽しんでいる訳ではない。淡路の顔には、いつも同じ笑顔が張り付いているのだ。

 

 アオイは口早に、アナザーのサンプル回収と、野次馬への対応を淡路に指示した。さらに彼女は部下の佐渡、国後、城ヶ島、能登にも無線を飛ばし、招集をかける。

 

 忙しくなりそうだと、淡路が呟く。 

 

 アオイは無言で、淡路に背を向けた。

 

(アナザーは、私が必ず……)

 

 コートのポケットの中で固く握られた拳が、アオイの決意を表していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。