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数学教師の北上は、元来、不器用な男である。物事を深く考え過ぎてしまうあまり、思考と発話とがズレることも多い。
教師という仕事が多くの人間と接する必要があることを考えると、北上のような人間には不向きにも思えることだろう。しかし授業力の高さと決して悪人ではない人柄とで、北上は彼自身が首をかしげるほどに、悪くはない評価を得ているのだった。
そんな北上は、校外のランニング途中に不思議な光景を目にしていた。顧問を務める男子空手部の部員達が、木の陰や植え込みの陰に隠れて、なにかを観察しているのだ。
北上が彼らと同じように背を屈めると、彼の目には、前方の草むらや植え込みに隠れる剣道部員の姿が映った。
「田中」
「押忍!」
北上が小声で名前を呼ぶと、左手の植え込みの陰から空手部主将が立ち上がった。察しの良い彼は、身を屈めると小走りに北上のもとに駆け付ける。
田中は北上の無言の問いに、シンプルに答えをよこした。
「走り込みの途中で、剣道部員が妙な行動を起こしているのを見つけたので、皆で心配しているのです」
なるほど、そのままだなと納得し、北上は理解したことを示すため頷いた。
「押忍!」
北上の視線で大体のことを察して、田中主将は彼に頭を下げる。そして彼は素早く他の部員たちを召集すると、空手部一同は再び元のルートに戻り走っていった。
心配しなくていい。後は自分がやるから、君は他の部員たちをまとめて学校へ戻りなさい――その言葉を北上の視線から読み取り、田中主将は速やかに行動を起こしたのだった。彼は北上だけでなく、部員達から厚い信頼を寄せられている。
余談だが、田中主将の友人間でのあだ名は通訳。彼の担任は、中学一年生の頃から高校二年の現在まで、五年続けて北上である。
空手部の部員たちが去ったのを確認してから、北上は一人の剣道部員の傍へ行き、そっと肩を叩いた。
「……っひ!」
(ひ?)
「き、北上先生……!」
(脅えているのか? どうした? 元気が良いのが我が校の)「剣道部じゃないか」
「はい! そう、そうです。スミマセン!」
(何故、謝る? 一体、なにがあったんだ? そういえば顧問の)「南城が見えないが」
「あ、あの、あちらです」
震える手で不憫な剣道部員が指さした先には、南城の後姿があった。彼女の両脇には、遠目にも目立つ顔立ちの良い女性と、大柄な青年の姿がある。
南城の両脇に立つ男女は、その雰囲気から、唯のビジネスマンでないことは明白だ。
(そうか。南城を心配しているのか)
北上は、状況を理解して頷いた。
(わかった。ここは自分がいく。君たちは安心して)「学校へ帰りなさい」
「は、はい……っ!」
北上に促された剣道部員達は、主将の中原を中心に集まってコソコソと話し合いを始めた。彼らとしては、顧問である南城を北上に任せてよいか、そのためにまた二人が揉めるのではないかと不安に思ったのだ。
剣道部員たちは時折、南城の方を見ては、彼女が自分たちに気付いてくれないかと念を送っていた。だが、北上の物を言う視線に気付くと、彼らは渋々岐路についた。南城を心配する気持ちと同じくらい、北上を恐れる気持ちもあったからだ。
(いい子たちだな)
恐れられているとも露知らず、北上は南城と部員たちとの関係に温かな気持ちを感じていた。生徒に慕われている教員というのは、同僚の立場から見ても素晴らしいものだ。
生徒たちの姿がすっかり見えなくなってから、北上は南城へと歩み寄った。
「南城先生」
声を掛けてから北上は、混乱のあまり脳をフリーズさせた。
振り向いた南城の顔は、幸福に蕩け切ったような笑みを湛えている。それは北上が知っている、いつもの南城ではなくなっていた。
*
時間は、北上が南城に声を掛ける十分ほど前に遡る。
「東條先輩!」
抱き着こうとして、南城は広げた両手を所在なく宙に浮かべた。さり気なく間に入るような形で、淡路がアオイの腕を引き寄せたからだ。
南城と淡路とは、目を合わせた数秒でお互いが敵同士であることを悟る。それはアオイには悟られることなく、二人は笑顔を崩すことなく、ごく自然に行われた。
「南城! 久しぶり。卒業以来じゃない? 今は、稽古中?」
「先輩……!」
耳に届くアオイの声に心を乱されて、南城は思わず声を詰まらせた。
「久方ぶりの再会ですのに、こんな姿でお恥ずかしい。今は、部活の指導中なのです」
「そっか。あ、淡路。こちら、ヒカルとリリちゃんの学校の先生で、私の後輩」
どうせ知っているでしょうけどと言外に皮肉を込めつつ、アオイはあくまで形式上の紹介をした。
「そうでしたか。初めまして、淡路です」
「こちらこそ。南城です」
「アオイさんの後輩を紹介してもらえるなんて、幸せです」
淡路は顔を寄せて、ニコリともしないアオイの横顔に微笑みかける。
南城は、眼前の二人の距離に強い違和感を覚えた。
「先輩。失礼ですが、その方とはどのようなご関係なのですか?」
落ち着いているというよりは覚悟が座っていると言った方が適切なほど、南城の声のトーンは一定で淀みがなかった。笑顔を崩していないが、声は水面のように静まり返っている。
南城も淡路も表情や声に感情を表すことをしないが、その内面は荒れ狂っていた。互いに、相手が厄介な障害になることを悟っているからだ。
当のアオイは二人の心模様など知る由もなく、純粋に後輩との再会を喜んでいた。仕事に忙殺される日々で忘れかけていた大学生活の思い出が、花開くように次々思い返されたからだ。
「本当に久しぶり。南城、私もね、ずっと会いたかったの」
「先輩……!」
ずっと会いたかった――そのフレーズが、南城の頭の中で何度もリフレインする。彼女は淡路のことなどすっかり頭から追い出して、やがてアオイのことだけを考えるようになっていた。
(先輩も私に会いたかったなんて……! こんな幸せがあって良いのだろうか)
南城は静かに幸せを噛み締めるうちに、段々と表情を緩ませていった。
「――南城先生」
声を掛けられて、南城はウットリとした気持ちのまま振り返る。すると彼女の前には、辛気臭い現実があった。現実は稽古着を纏って、葬式のような表情をした北上の姿をしていた。