ゲノム・レプリカ   作:伊都川ハヤト

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2-2 ステップアウト ⑤

 *

 

 二十時。

 

 駐車場に車を停めたタイミングで鳴ったスマートフォンを、アオイは無意識に、誰かにするように睨みつけていた。しかしその相手が同期の友人であることが分かると、アオイは途端に笑顔になる。

 

「モモコ? どうしたの?」

 

「アオイ。悪いね、急に。今、大丈夫?」

 

 聞き覚えのある声。少し疲れて聞こえるのは、お互い様かもしれない。

 

「うん。そっちはまだ職場?……場所、変えようか」

 

「いや、そういうのじゃないから。……最近どう?」

 

「なあに? お互い、似たようなもんでしょ」

 

「そりゃそうだ。で、聞いた? もう、うちらの中で残ってるのは、私らだけ」

 

 アオイの脳裏に、今朝の様子が思い浮かんだ。

 

 デスクの上に置かれていた、格式ばった白い封筒。それはアオイの友人がまた一人、寿退社することの知らせだった。

 

「聞いた。サツキが結婚かあ……。遠距離は無理とか、浮気癖とか、あれだけ愚痴ってたのに」

 

「今、三か月だってさ」

 

 なるほどと、アオイは独り言ちた。キャリア志向の強いサツキが、退社を選んだ理由が分かったからだ。子供を授かるということは、それだけ一人の女性の価値観を大きく変える出来事なのだろう。

 

「それが、良い方のニュース」

 

 海外の映画を真似たようなモモコのセリフに、アオイは笑う。

 

「悪い方があるの?」

 

「まあね。今、担当してる案件がねえ、ちょっと気になるんだわ。近く、話せる?」

 

「わかった。ああ、でも明日は半休なの。午後、どっか空いてる?」

 

「珍しいね」

 

「弟の学校行事」

 

「相変わらず、過保護ですこと。中学? もう高校だっけ? 早いねぇ」

 

「そう。あっという間」

 

 電話の向こうで、モモコが予定を確認している。

 

 少しの間、二人は無言でいた。その間、モモコが煙草を吸っている事に気付いて、アオイは苦笑する。止める止めると言い続けているが、会う時はいつも咥えているのだ。

 

 昔から、モモコには少しルーズなところがある。そこが、魅力でもあるのだけれど。

 

 アオイは通話したまま、車を後にした。

 

 階段と、その隣のエレベーターの前に立って、アオイは少し迷ってエレベーターのボタンに手を伸ばす。駐車上から地上まではたった一階層しか無いのだが、今日は階段を昇る気にはなれなかった。

 

「明日かあ。微妙に詰まってんだよねえ……。そういえば最近、向島とは連絡取ってる?」

 

「全然。向島も忙しいんじゃない?」

 

 到着したエレベーターに乗り込むと、アオイは地上階のボタンを選んで壁にもたれた。

 

「連絡してやんな? あいつ、心配してたから」

 

 一体何をかと問いかけると、モモコが電話越しに苦笑した。

 

「あんたが、性悪男に捕まったってさ」

 

 開くドア。

 タイミングを見計らったように、その向こうで笑顔を見せている男の姿。淡路だ。

 

 淡路はエレベーターの正面にあるベンチに脚を組んで腰かけ、アオイに手を振っている。

 

「……ごめん。また連絡する」

 

 半ば強引に電話を切ると、アオイは深く溜息を漏らす。頭痛がするのは、疲れのためではないように思えた。

 

「あれ、よかったんですか? 電話」

 

 エレベーターを降りると、アオイは淡路の言葉を無視して彼の前を足早に通り過ぎた。

 それをみて淡路は口の端で笑い、アオイの後を追う。

 

「……あんた、午後、半休取ってなかった? 忙しいとかなんとか、言ってたじゃない」

 

「ええ。お休み、ありがとうございました。物件を確認しに行ってたんですよ」

 

 淡路は、彼が今住んでいる物件の更新時期が近いのだと説明する。

 

 アオイはその言葉に違和感を覚えたが、深くは考えないことにした。

 

「寮にでも入れば?」

 

「嫌ですよ。寮なんか入ったら、仕事の後も職場の奴と顔を合わせることになる」

 

「そうね。それは、最悪ね」

 

「でしょう。僕も同意見です。気が合いますね」

 

 アオイの嫌味は、早々に流されてしまった。

 

「で、いつまで、こんなこと続けるつもり?」

 

「アオイさんが、婚姻届けにサインしてくれるまで、ですかねえ」

 

「あのねえ……」

 

 足を止めて、アオイは思わず額に手をあてて俯いた。

 淡路も同じように足を止めて、俯いたアオイの髪から覗く首筋を眺めている。

 

 少し迷って、それからアオイは、淡路の方へ振り返った。マンションの中庭の電灯の下でも、淡路の顔は笑顔を崩していないのがよく分かった。

 

「いい加減、こういうのは止めにしない? まどろっこしいのは嫌いなの」

 

「と、いうと?」

 

「うちは、副業が禁止だって話」

 

「ああ。なるほど」

 

 淡路の顔は、アオイが予想していた通り、特に変化を見せなかった。驚いている様子もなければ、困った様子もない。淡路はアオイが答えに辿り着くことは予想していて、それを当たり前だと考えているように見えた。

 

 淡路は変わらず笑顔のままではあったが、しかし何かを思案しているような素振りも見せたため、アオイは無言で彼の言葉を待った。

 

「――つまりアオイさんは、僕の愛を疑っている、と」

 

 予期せぬ言葉に、アオイは自分の耳を疑った。淡路より先に、アオイの方が驚きの表情を浮かべている。

 

 淡路は、初めて困ったような顔をして見せた。

 

「あなたへの気持ちだけは、本当ですよ。何に誓ってもいい。多分、今は何をしても信じて貰えないでしょうけれど」

 

「あのね、そういうことじゃないでしょう? あんた、私を裏切ってるんでしょ」

 

「まさか。僕は、あなたを裏切るような事はしない。愛していますから」

 

「あのねえ……」

 

 このまま話しをしていても埒があかないと察し、アオイは再び淡路に背を向けて家路を急いだ。疲れが増したようで、体が重い。

 

 淡路は少し小走りになって、アオイの隣へとやってきた。

 

「アオイさん、本当に好きなんです」

 

「どうだか」

 

「やっぱり、信じて貰えませんか?」

 

「そうね。だって、あんたは自分を見せないもの」

 

 言うつもりのなかった言葉が口から出たことに、誰よりもアオイが驚いていた。

 

 そしてさらにアオイを驚かせたのは、言葉がそれだけでは終わらなかったことだ。 

 

「好きだなんだとか言う割に、そっちは一切自分を見せてこない。端から知って貰いたいとも思ってない。スーツもシャツも時計も靴も、それ、本当にあんたの趣味なの? 私を好きになるっていうのも、設定の一つなんでしょう?」

 

 淡路が、口を結んだ。

 アオイも、言いかけた別の言葉を飲み込んだ。

 

 こう責めれば相手が何も言い返せなくなることは分かっていたはずなのだが、アオイには淡路の反応が不思議と悲しく思えた。

 

 淡路は、口元には笑顔を残したままだったが、目元には憂いの色が浮かんでいた。その表情からは、何らかの複雑な事情が見え隠れしている。

 

 アオイはそれに気付いてしまい、そのために直ぐに何も見なかったフリをした。

 

 自宅の前に着くまで、淡路は何も話さなかった。

 だからアオイも、無言のまま。

 

 ドアを開けると、アオイに続いて淡路が直ぐに家に入った。

 

 家族に帰宅を告げようとしたところで、アオイの左手を淡路の右手がそっと掴んだ。それから指を一本一本確かめるように絡めて握って、まるで離れることを惜しむように、指先をそっと撫でていった。

 

「今は、これだけ――」

 

 耳元でそう囁くと、淡路は先に家の奥へ声を掛け、リビングの方へ歩いていく。

 その後姿を見てアオイは、淡路が珍しくコートを玄関で脱ぎ忘れていることに気付いた。

 

 無意識に、アオイは掌に視線を落とす。

 

 アオイはこの時初めて、自分が淡路に触れたことに気付いた。

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