ゲノム・レプリカ   作:伊都川ハヤト

42 / 42
2-5 あなたは最高 ④

 *

 

「最低。本っ当に最低」

 

 助手席から聞こえてくる恨み節に、淡路は苦笑した。

 

 時刻は既に十九時を回って、道は少し混み始めている。

 

 車内の空気は険悪で、助手席のアオイは未だ機嫌を直していない。彼女は肘をついてつまらなそうに助手席側の窓の外ばかり眺めていて、淡路は時折その後頭部に視線を送っていた。

 

 アオイは淡路の視線を感じつつ、話しかけるタイミングを伺う彼のことを完全に無視して、さして興味もない道路脇の看板を眺めている。

 

 二人はあの後、何事もなかったように幾つかの打合せに参加し、幾度も会話を交わしていた。その際の普段と全く変わらない互いの振舞いが、アオイには腹立たしく思え、淡路には可愛らしく思えている。

 

 淡路は自分に、やらかした事の大きさを考えれば、同じ車に乗ってくれただけマシなのだと言い聞かせていた。ただ、この状況を作り出すために、アオイの荷物から車のキーを抜いたのも他ならぬ自分なのだが。

 

 ラジオは少し前から、落ち着いた女性パーソナリティの番組に切り替わっていた。海外の情勢がどうだの、株価がどうだのと話しているが、どちらも二人の耳には届いていない。

 

 少ししてリスナーからのリクエスト曲が流れ出すと、アオイは不意に意識をそちらへ向けていた。それが向島の部屋で流れていた曲と同じものだと気付いた時、まるでその心を読んだようなタイミングで番組が切り替えられる。

 

 不意に、カーラジオから流れ出すラテンポップ。

 

 赤信号で停車する車。

 

 淡路は素知らぬ顔で、前だけを見ている。

 

 アオイはいよいよ何か言ってやろうという気になったが、それでは淡路の思う壺だと思い直して引き続き窓の外を眺めた。

 

 目の前の横断歩道を、学生の集団がふざけ合いながら渡っていく。やけに陽気な音楽と相まって、ゲラゲラと楽し気な学生の声が不愉快な程に耳に響く。

 

 スマートフォンの通知音がして、アオイは気だる気にジャケットのポケットを探った。通知は向島からで、昨日のハンターの件についてとある。

 

「向島さんからですか」

 

 淡路は、アオイの後頭部に問いかけた。その口調は、殆ど断定だ。

 

 アオイはスマートフォンを握り閉めたまま、窓の外へ視線を戻した。

 

 車が再び動き出し、景色が次第に流れていく。

 

 どんな反応を返したとしても、それは淡路に切っ掛けを与えるだけだと思い、アオイは無言を貫いている。

 

 淡路は、アオイが向島の名前を出しても乗ってこないようでは、埒が明かないと思い始めていた。こうなったら強引にでも、話を進めるしかない。

 

「向島さん、どうしてピアノを辞めたんですか」

 

 唐突な淡路の質問。

 興味もない癖にと、アオイは心の中で呟く。

 

「……調べたんでしょ?」

 

「そうですね。でも、大した情報はなかった。将来を期待されていて、評価も正当。今だにお声が掛かっているようですが、頑なに弾かず、理由も明かさない。何故かなと思って」

 

 アオイは短く、「知らない」と答えた。

 淡路はその口調に、少しの変化を見た。

 

「アオイさんは、ご存じだと思ったんですよ。お二人は、とても仲が宜しいから」

 

 淡路は、随分ワザとらしい言い回しになってしまったなと後悔したが、先ずはアオイの反応を待った。

 

 アオイは淡路が自分の返答を待っていることに気付いて黙っていたが、このままでいる訳にもいかないと思い直し口を開いた。

 

「向島と私は、あんたが思ってるような関係じゃない。何を言ったって、向島が私に求めてるのは男女の関係じゃない。それは、自分が一番分かってる」

 

 学生の頃、アオイは向島に惹かれていた。しかしアオイは向島を見るうちに、彼が自分に求めているものは、子供が母親に求めるものと同じであることに気付いてしまったのだ。

 

 そしてアオイは、向島がまだ自分の気持ちの正体に気付いていないことも知っている。

 

「勘違いから始まる関係だって、あるはずだ」

 

「そうかもね。でもそれは、悲劇でしょう?」

 

 アオイの口調は優しかったが、それは淡路には酷く寂しげにも聞こえた。

 淡路は次の言葉を躊躇い、それに気づいたアオイが言葉を続ける。

 

「淡路は、どうして結婚なの?」

 

 それは、アオイが以前から抱いていた疑問だった。淡路のアオイへの感情が本当に彼の副業と関係のない事であるならば、結婚に拘るのは彼の意思ということになる。

 

「一緒に居るだけなら、幾らでも方法はある。結婚に拘る理由はなに?」

 

 今のアオイは自分を信じて話しているのだと気付いて、淡路は笑顔を作るのを止めた。

 

「別に、大した理由なんかありませんよ。出来るだけ周りに祝福されたいし、堂々と優しくする権利が欲しい。僕みたいな奴にも、そういう当たり前で普通のことに憧れがあるってだけです」

 

 その声が余りにも冷淡だったので、アオイは思わず淡路の方へ顔を向けていた。

 

 淡路は取り繕うともせず、横顔は冷ややかだ。自分のことを話した筈なのに、全く関係のない誰かの心情を代わりに吐き出したような表情をしている。

 

 存在しない部隊の存在しない兵隊という向島の言葉が、アオイの耳に蘇った。

 

「愛しているんです」

 

 真顔でそういって、それから淡路は直ぐにいつもの笑顔を貼り付けた。

 

「まあ、そろそろ機嫌直してくださいよ。僕らがこんな調子で戻ったら、ヒカル君たちが不安になるでしょうから」

 

 ヒカルの名前を出すのは少し狡い事だと分かっていたが、淡路は敢えて口にしていた。

 しかし、アオイが呆れたのは別のことだ。

 

「あんたは……あんなことしておいて、まだ家に上がるつもりでいるのね」

 

 どういう神経をしているのかと、アオイはワザとらしく大きな溜息をついてみる。

 

「そんなこと言ったら、アオイさんだってそうでしょう? 普通、そんな奴と同じ車には乗らない。なんだかんだ、あなたは僕が好きなんじゃないかな」

 

「ああ、そう。降ろして」

 

 ダメですと答えて、淡路はアクセルを踏み込んだ。

 

「本当に嫌で生理的にムリだったら、家になんか上げませんよ。家族が居れば尚更だ。それって僕のこと、憎からず思ってるって事じゃないですか」

 

「そう思うの?」

 

「思ってますし、信じてますよ」

 

「そう。あんたは……あんたが私にしていることを、私があんたにもしているとは、考えたことないの?」

 

 赤信号で車は停まり、淡路はアオイへ顔を向ける。

 

 アオイは、淡路を見ていた。

 

 二人はそのまま、数秒間互いに見つめ合う。それは映画に描かれるような恋人同氏のロマンチックなものではなく、完全に腹の探り合いでしかない。

 

「だとしたら、やっぱり、あなたは最高だ」

 

 そういった淡路の表情は普段と同じ仮面を被っていたが、その目は少し熱っぽく見えた。

 

 家の傍まで来たとき、アオイは車が普段とは逆の方向へ曲がるのに気付いた。淡路は、寄り道するのだという。

 

 アオイは向島に話したように、ヒカル達の事が心配だから早く帰りたいと伝えた。しかし淡路はそれに応えず、車を走らせる。

 

 家から十分程の所にある店の駐車場で車を停めると、淡路はアオイに降りるように促した。

 

 店は、お好み焼き屋だ。昨年まではステーキハウスだった筈だが、いつの間にか改装している。狸の置物が所狭しと置かれた気取り様のない店の外観に、アオイは拍子抜けしたような、安心したような、不思議な気持ちになった。

 

 促されるまま車を降りたものの、やはり外食している場合でもないとアオイがごねているのを見て、淡路は半ば無理やり彼女を店へと誘導する。

 

 アオイは渋々、店の暖簾をくぐった。

 

「今日のスーツって、明後日クリーニングに出すやつで合ってましたよね?」

 

「そうだけど。なんで、そんなことまで把握してんのよ。気持ち悪い」

 

「アオ姉!」

 

 店の入り口で、アオイは名前を呼ばれて驚き顔を向けた。店の奥の座敷席に、ヒカルとリリカの姿がある。ヒカルはヘラを、リリカはスマートフォンを手に、入り口の二人へ向けて手を振っていた。

 

「色々、大変だったじゃないですか。それで学校はないし、かといって外に遊びに行けるわけでもないし。でも体は元気だしで、相当暇そうにしてたんですよ。たまには良いかなと思って。お嫌いでした?」

 

 アオイは応えなかったが、淡路の目に映る彼女の横顔は決して嫌いだとは言っていない。

 

 アオイと淡路が席へ行くと、リリカが荷物を避けて二人に着席を促す。

 

「とりあえず、適当に頼んじゃった。あ、淡路さんは、海鮮系って大丈夫?」

 

 リリカから飲み物のメニューを受け取りながら、淡路は彼女に問題ないと答えた。

 

 ヒカルは既に一枚目のお好み焼きを焼き始めていて、手慣れた手つきで鉄板にタネを流し込んでいる。

 

「あのね、関西風も広島風も頼んだの」

 

 リリカが、隣のアオイに笑いかけた。

 

「リリカが『どっちも!』って聞かないから」

 

 ヘラを手に、ヒカルが笑う。

 

「だって。ヒカルも食べたいでしょ」

 

「まあね。でも、焼くのは僕なんだろ?」

 

 昨日のことなどなかったように、二人はいつものようにじゃれ合っている。

 

 すっかり肩の力が抜けて、アオイは頬を緩ませた。

 

「今日は、ビールでも頼んじゃおっかな」

 

 アオイが、機嫌よく呟く。

 

 それを聞いたヒカルとリリカが、「いつもだ」と声を上げて笑った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。