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不意に声を掛けられたように思って、ヒカルは立ち止まった。
誰もいない廊下には、近くの教室から漏れてくる生徒の話声だけが響いている。
「ばっか。遅刻すんぞ!」
急かされて、ヒカルは山田の後を追った。二人は英語の授業の後に話し込んでしまい、ジャージに着替えるのが遅くなったのだ。こういう日に限って、遠く離れた武道場に集合と指示されている。
「やべえよ。俺、唯でさえ謝るところからスタートだからね、今日は」
「それは、山田が悪いんだろ?」
「ぐうの音も出ねえ」
二人が並んで走っていると、階段の手前に差し掛かったところで長身の男が姿を現した。数学教師の北上だ。
ヒカルと山田はピタリと止まり、北上に挨拶しながら、早歩きで彼の前を通り抜けていく。
「もう、いいか?」
「まだ見てるよ」
小声でやり取りする二人を、北上は腕を組み呆れた様子で見守っている。どうせ見えなくなったら走り出すと分かっているが、目の届く範囲は睨みを利かせておこうという考えだ。
北上はいつも、黒いスリーピースのスーツとグレーのシャツに身を包んでいる。どんなに暑い日でも着崩さず、どんな強風の日でも髪型一つ乱さない。表情乏しくいつもクールな北上は、鉄仮面というあだ名をつけられ、主にやんちゃな男子生徒から恐れられている。
余談だが、北上と南城は犬猿の仲で有名である。
そうこうしているうちにベルが鳴り、遅刻した二人は校庭を走ってくるように南城から言い渡された。
「これは、噂なんだけどさあ」
「え? なに?」
南城が武道場から見ているため、ヒカルと山田はそれなりの速度でトラックを周回することを余儀なくされていた。手を抜いていると判断されれば、周回の回数が上乗せされるのを知っているからだ。
「南城先生と、北上先生って、さあ」
「うん?」
「付き合ってるらしいぜ」
思わずヒカルは、武道場の入り口に目をやった。南城の姿はない。彼女は中にいる生徒を見に行ったのかもしれなかった。
南城が戻ってこないことを確認してから、ヒカルは山田の言葉を否定した。二人の仲が悪いことは、周知の事実だからだ。
「ないんじゃない? いつも言い合いしてるだろ?」
つい先日も、数人の生徒が二人が揉める様を目撃している。その時は、北上が南城の服装について何やら注意をしているようだったという。
「でもさ、生徒の前でやるかな? 普通さ」
山田の言い分によると、生徒の前で言い合いをしているのは、本当は恋人同士であることを隠すための芝居だという。
ヒカルは少し考えてから、やはり想像できないと答えた。仮に山田の言うそれが正しかったとしても、スポーツ一筋の南城とロジカルな北上とが一緒にいる姿は想像できない。あの二人は、タイプが違いすぎる。
「だから良いんだろ? 初めは嫌いだったのに、気付いたら……っていうのがよくあるパターンじゃん! 王道だよなあ」
「楽しそうだな! 山田少年」
耳に飛び込む、南城の声。
ヒカルは、前を走る山田の心臓が止まってしまったのではないかと思った。
ヒカルを追い抜いて、南城が山田の背を追いかける。
山田――彼は野球部期待の新人でもある――は、振り向くことなく、日頃鍛えている足腰で全力疾走している。
ヒカルは山田の悲壮感溢れる背中を見るうち、彼が振り向かないのではなく、振り向けないのだと気付いた。
「せっかくの機会だ。まずは全員、走り込みから始めることになった。王道だろう? ちなみに、私より後ろを走る者は周回をプラスしていくぞ!」
南城の言葉で、ヒカルの後ろからはジャージ姿のクラスメイト達が鬼のような形相で飛び出してきた。山田への恨み節を口にする余裕すらなく、全員が必死である。
その姿がおかしくなって、ヒカルは笑みをこぼした。中林に言われたように、確かにこの日常を守ったのは自分なのだと、ヒカルは少しだけ誇らしく思うのだった。
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時を同じくして、校舎のとある教室では、リリカが校庭の様子を眺めていた。幼馴染のヒカルが、坊主頭の少年と一緒に走らされている。珍しい光景だ。
リリカがしばらく眺めていると、今度は武道場から生徒たちが次々と飛び出してきた。まるで、何かに追い立てられるようだ。
リリカが事情を理解する間もなく、校庭にはあっという間に人が増えていく。そうしていつの間にか、四十人ほどの男子が校庭を全力疾走する事態となっていた。その中ほどには、何故か体育教師の南城の姿がある。
「授業中」
丸めた教科書で頭をコツンと叩かれて、リリカは我に返った。数学教師の北上が、いつの間にか隣に立っている。
「彼氏じゃなく、授業に集中してくれ」
「彼氏じゃありません!」
「反応まで似てきたな」
「先生、意地悪」
リリカが顔を赤くするのをみて、クラスの中に小さな笑いが起きた。それを見て、北上の纏う空気も少しだけ柔らかくなる。
北上に黒板の問題を解くように当てられて、リリカはノートを手に立ち上がった。クラスメイトが自分に期待を寄せているのを肌で感じ取って、彼女はそれを嬉しく思う。
リリカは人前に出ることも、注目を集めることにも抵抗がなかった。そのどちらも大好きで、自分から積極的に手を上げることも多い。皆が自分を見ている時、彼女は自分が必要とされているように思うのだ。
二、三分と経たずに式を書き終えると、リリカはクラスを見回して北上に声を掛けた。
北上はいつの間にか、教室の一番後ろまで移動している。彼は窓の外に目を向けていたが、直ぐに黒板の前まで戻り、リリカを褒めてから問題の解説を始めた。
「少しレベルの高い応用問題だが、よく出来ている」
北上に褒められ、クラスメイトから羨望の眼差しを向けられて、リリカはすっかり気分を良くした。実をいうと数学は得意ではなかったが、何時あてられても困らないように予習と復習だけは欠かさず行っているのだ。
(昨日、ちゃんと解いておいて良かった)
思い返しながらパラパラとノートを捲るうち、とあるページの隅に見慣れた筆跡を見つけて、リリカは息を詰まらせた。ヒカルの字だ。それは一緒に勉強をしている時に、ヒカルが解説しながらメモを残したものだった。
リリカは不意に、北上の言葉を思い出す。
反応まで似てきたなと、北上は言った。つまり、北上はヒカルにも同じような質問をして、ヒカルは同じように答えたのだろう。
ヒカルとの関係を問われる度に、彼氏ではないと否定する度に、リリカは何故か胸が重苦しくなるのを感じる。二人は幼馴染で、ずっと一緒に過ごしてきた。それが今になって、不思議なことのように思えるのは何故だろう。
皆には、この関係は一体どんな風に映っているのだろうか。
ノートに向かいながら、ヒカルの筆跡の上をそっと撫でながら、リリカは胸につかえるものを感じるのだった。