読み終えたページを、もう一度開いた。
同じ一文を目で追っていることに気づき、槙島は本を閉じた。
机には、仕事の資料と端末がある。
どちらにも、今すぐ確認するものはなかった。
沙代から連絡が来なくなって、十日ほど経っていた。
静かになれば考えられると思っていた。実際、考える時間はできた。
会う場所を変える。自分の仕事と彼女の生活を接触させない。
グソン以外には、名前を出さない。いくつかの選択肢を検討した。
飽きたら捨てる。それだけのはずだったのにいつの間にか一人の人間としてあの時間を楽しんでいる。
夜になると、端末を確かめていた。彼女が何を読んでいるのか。
あの本を読み返したのか。自分に話そうと思ったことが、まだあるのか。
尋ねれば分かることを、尋ねずにいる。
槙島は端末を取った。
入力欄には、送らなかった文章が残っていた。
『最近は、何を読んでいる?』
そのまま送る。
画面を置かず、しばらく待った。
*
沙代は棚の前に立っていた。
読み終えた本を戻すと、挟んでいた紙が床へ落ちた。
拾い上げる。
槙島に聞こうと思って、書いたものだった。
今読むと、自分で答えを出せそうな問いもあった。
でも、彼なら何と返すのかは分からない。紙を本へ戻したところで、端末が鳴った。画面に出た名前を見て、手が止まる。
『最近は、何を読んでいる?』
沙代はソファへ座った。嬉しくて、すぐに返事を打ち始める。
けれど、三行ほど書いたところで止まった。
長すぎるだろうか。
少し削り、送った。
『前に買った本を読み返しています。槙島さんは、お仕事落ち着きましたか?』
*
返信が届くまで、思っていたより時間がかかった。槙島は開いたままの画面を見ていた。
ーー仕事。
自分が会えない理由として伝えた言葉だった。
沙代は、その説明を疑っていない。
『今日は時間があるよ』
打ってから、続ける。
『話したかったところは、まだ残っている?』
今度は早かった。
『はい。メモ、たくさんあります』
その文章を読んで、槙島は椅子の背から身体を起こした。
『今から、聞きに行ってもいいかな』
*
沙代は顔を上げた。部屋の中を見る。
畳んだ膝掛け。テーブルに置いたカップ。窓際の本棚。
慌てて片づけなければいけないものは、特になかった。
それでも、もう一度見回した。
『今からですか?』
『都合が悪ければ、別の日に』
沙代はすぐに返した。
『大丈夫です。来てください』
送信してから、立ち上がる。
お湯を沸かし、棚から白いカップを出した。
いつも一つだけ使っていた場所へ、二つ並べる。
本をテーブルへ置く。
何から話そう。
たくさん書いたはずなのに、急に選べなくなった。
*
槙島がコートを取ると、グソンが顔を上げた。
「出かけるんですか」
「ああ」
「彼女のところへ?」
槙島は袖へ腕を通した。
「そうだよ」
グソンは少し黙った。
「……決めたんですね」
「会ってくる」
それが、今答えられることだった。
グソンは机の資料へ視線を戻した。
「こちらは済んでます。今日は、戻る時間を気にしなくていいですよ」
槙島は彼を見る。
「ああ。ありがとう」
扉を閉める前に、端末を確かめた。
沙代から、もう一通届いていた。
『お茶、用意して待ってます』
*
呼び鈴が鳴ると、沙代はすぐ玄関へ向かった。
扉を開ける。白い髪。見慣れたコート。
片手には、一冊の本があった。
「こんにちは、倉橋さん」
「……こんにちは」
声が少し小さくなった。
文字で返事をしていた時より、ずっと久しぶりに感じた。
槙島がこちらを見る。
「入っても?」
「あ、はい。どうぞ」
身体を横へずらす。
彼が靴を脱ぐ間、沙代はお茶が冷めていないか気になった。
でも、それを確かめるために先へ行くのも、何となく惜しかった。
「急に来てしまったね」
「いえ。……嬉しいです」
言ってから、少し笑った。槙島は、その顔を見ていた。
「忙しいのかなと思って。私、いっぱい送っちゃうので、ちょっと控
えてました」
彼はすぐには答えなかった。沙代は廊下の先を指す。
「メモは、増えちゃいましたけど」
「そう聞いたね」
彼が歩き始め、沙代も隣へ並んだ。
*
テーブルに置かれた紙を見て、槙島は椅子へ座った。一枚ではなかった。
本の間から抜き出された紙が、数枚重なっている。
日付が書かれたものもあった。自分が返事を遅らせていた日。
連絡が来なくなった後の日。彼女は、その間も読んでいた。
「……どこから話そうかな」
沙代が紙を見比べる。
槙島はカップへ手を伸ばした。温かかった。
「順番どおりでもいいよ」
「長くなります」
「今日は、時間がある」
沙代は顔を上げた。
確かめるように彼を見て、それから頷く。
「じゃあ、最初から」
彼女が一枚目を取る。
その手元を見ながら、槙島は口を開いた。
「倉橋さん」
「はい?」
「返事が遅くなっていたね」
沙代は紙を持ったまま、少し笑った。
「忙しい時は、仕方ないです」
その言葉を、そのまま受け取ることもできた。
槙島はカップを置いた。
「君と話したくなくなったわけではないよ」
沙代の指が止まった。
彼女は一度、紙へ目を落とした。
「……はい」
返事の後で、小さく息を吐く。それから、もう一度こちらを見た。
「ちょっとだけ、それも考えました」
槙島は黙って聞いた。
「でも、聞いたら困らせるかなと思ったので」
「今は?」
「違うって分かったので、大丈夫です」
そう言って、沙代は笑った。槙島は、久しぶりにその顔を近くで見た。
画面に届く文章だけでは、分からなかった。
彼女がどれほど遠慮していたのかも、この一言でどんな顔をするのか
も。
「僕からも、話したいことがあった」
沙代が少し身を乗り出す。
「本のこと?」
「ああ。君ならどう読むかと思って」
持ってきた本を、テーブルへ置いた。
彼女が表紙を見る。
題名を小さく読み上げ、それから顔を上げる。
「……じゃあ、お互いにたまってますね」
槙島は笑った。
「そうだね」
沙代が一枚目のメモを開く。
「私、ここは少し意見が変わったんです」
その声を聞いた時、槙島はようやく、何を求めてここへ来たのかを実感した。
彼女の安否を確かめるためでも、本を渡すためでもない。
この続きを、聞きたかった。
「どう変わった?」
そう尋ねると、沙代は待っていた話を始めた。
悩んだんだよ、凄く。