話しているうちに、窓の外が暗くなった。
沙代が壁の時計に目を向けて、驚いたように瞬きをする。
「……もう、こんな時間」
テーブルの紙は、まだ半分ほど残っていた。
槙島が持ってきた本も、最初の数ページしか開いていない。
「夕飯、まだですよね」
「そうだね」
「私もです。何か食べますか?」
彼が頷いたので、沙代は立ち上がった。今日は帰る時間を聞いていない。
聞けば、そろそろ、と言われるかもしれない。
そのことが頭をよぎったけれど、まずは二人分の食事を用意した。
*
温めた食事をテーブルに並べるため、メモを端へ寄せた。
本も一度閉じる。
「……なんだか、散らかりましたね」
「君が話すことを用意していたからね」
「槙島さんの分もあります」
「そうだった」
彼は自分の本を膝へ移した。二人で食べながら、さっき話していた場面の続きを考える。
今度はメモが手元になくても、沙代は迷わず言葉を継げた。
「その時には、言いたいことが変わってたんだと思う」
言い終えてから、槙島を見る。
彼は頷いた。
「最初の手紙を読まれた後で?」
「はい。でも、もう送ってあるから。次の手紙が届くまで、前の気持ちのままだと思われちゃう」
「今なら、その場で訂正できるね」
「……返事が来れば」
言ってから、沙代は食器へ目を落とした。
槙島も、少し黙った。
「そうだね」
それだけ返された。
沙代は顔を上げる。
「責めたかったわけじゃないです」
「分かっているよ」
彼は食事を続けた。
そのまま話を変えてしまわないことに、沙代は少し安心した。
「文字って、待ってる間に色々考えちゃいますね」
「君は、何を考えた?」
今なら話してもいい気がした。
「送る前に、もう一回読もう、とか。質問が多すぎたかな、とか」
「本を?」
「送った文章をです」
彼の手が止まる。
「……なるほど」
沙代は笑って、空になった皿を見た。
「今日は、顔が見えるから楽です」
槙島がこちらを見る。
「返事を考えているのが、分かるので」
彼は少し目を細めた。
「僕も、同じことを言ったね」
「はい。だから、今は待てます」
*
片づけを終え、お茶を淹れ直した頃には、夜も深くなっていた。
槙島が端末を確認する。沙代はカップを置いた。
帰る時間だろうか。昼間、玄関を開けた時には、また話せるだけで嬉しかった。
実際に話し始めると、聞きたいことが次々に出てきた。
まだ一緒にいたかった。
「……槙島さん」
「何かな?」
沙代は膝の上で指を重ねた。
「今日、泊まっていきませんか」
彼は端末から顔を上げた。
言ってしまうと、急に部屋の静けさが気になった。
「もう遅いですし。ソファ大きいから、寝られると思うので」
「まだ、帰れない時間ではないよ」
「……はい」
それは分かっていた。沙代はソファへ視線を向けた。
沙代にとっては大きいソファも、彼には少し短いかもしれない。言ったあとで気付く。
「嫌なら、大丈夫です」
「君は、どうして泊まってほしい?」
穏やかな問いだった。
理由をもう一つ用意しようとして、やめた。
「もう少し、話したいです」
槙島は待っていた。沙代は小さく息を吸う。
「……あと、久しぶりに会えたので。今日、帰っちゃうのが寂しいです」
彼の表情は、大きくは変わらなかった。
沙代は慌てて付け足す
「帰ったら、また連絡が取れなくなるとか、そういう意味では——」
「そこまで、言い直さなくていい」
口を閉じる。槙島が端末を手に取った。
「毛布はある?」
沙代は一拍遅れて頷いた。
「あります」
「では、借りようかな」
「……いいんですか?」
「君が誘ったんだろう」
その返事に、沙代はようやく笑った。
*
『今日は戻らない』
届いたメッセージを見て、グソンは眉を上げた。
『彼女のところですか』
少しして、返事が来る。
『ああ。明日の連絡は、こちらから入れる』
グソンは画面をしばらく見た後、短く返した。
『了解です』
端末を置く
「……考え抜いた結果、そうなるんですかね」
誰に聞かせるでもなく呟き、作業中の資料へ戻った。
*
泊まる、と決めてからは一瞬の時間が過ぎた。話し足りない沙代の顔は眠気も入り交じっていて、就寝の準備を始めた。
毛布を出す間、槙島はテーブルの本を片づけていた。
読みかけのページには、しおりを挟む。
沙代のメモは、順番を崩さず重ねてあった。
「これ、続きを聞くんじゃなかったんですか?」
「明日でも、話せるね」
沙代は毛布を抱えたまま、彼を見た。
明日。
その言葉が、不思議と嬉しかった。
「……そうですね」
ソファに毛布を置き、清潔なタオルも用意する。
洗面所の場所を案内してから、沙代は自分の寝室へ向かった。
扉の前で振り返る。
「本、読んでいても大丈夫です。明かりも、好きにしててください」
「ありがとう」
「おやすみなさい」
「おやすみ、倉橋さん」
寝室の扉を閉め、ベッドへ座った。
部屋の外で、小さな物音がする。
カップを置く音。ソファが軋む音。
それから、ページをめくる音がした。
沙代は横になった。今日話したことを思い返すより先に、口元が緩んだ。
明日の朝にも、話の相手がいる。
それだけで、眠る前の静けさがいつもと違った。
*
槙島はソファの背にもたれ、本を開いていた。
寝室の向こうは静かだった。
窓にはホロの景色もなく、外の灯りが薄く映っている。
ここへ来た時には、泊まるつもりはなかった。
帰れない時間ではない。帰ろうと思えば、帰れた。
けれど、沙代に寂しいと言われた時、その感情をほどくように質問を重ねる気にはならなかった。
自分も、今夜の会話を終えるのが惜しかった。
それなら、残ればいい。
そう考えた自分に、槙島はわずかな違和感を覚えた。
本へ視線を戻す。
一つの段落を読み終えたはずなのに、何が書かれていたのか残らなかった。
寝室の向こうで、沙代が寝返りを打った。
その音に耳を澄ませている。
十日ほど、会わずにいた。
その間も、彼女が何を読んでいるのか気になった。返事が届けば画面を開き、今日は、顔を見た途端に長く話すつもりになった。
今は明日の朝まで、待っている。
槙島は本を閉じた。
誰かのいる場所へ行きたくなる。
そこを離れるのが惜しくなる。
その感情を、自分が持て余していた。
「……君がいなくなれば」
小さく口にしてみる。
この落ち着かなさも、なくなるだろうか。
グソンには、手を出すなと言った。
あの時は、彼の提案を聞くのが不快だった。けれど今、自分も同じことを考えている。
槙島は立ち上がった。
寝室の扉の前で足を止める。
向こうからは、声がしなかった。
取っ手へ手をかけ、静かに開ける。
枕元の小さな灯りが、沙代の顔を照らしていた。
眠っている。
人が入ってきても、目を覚まさなかった。
槙島はベッドの傍らへ近づいた。
ここに泊まってほしいと、彼女が言った。
自分の家に招き、眠る場所を用意して、先に寝た。
何も知らない。
知っていれば、こんなふうには眠らなかったかもしれない。
手を伸ばした。沙代の首元へ、指先が触れる。
温かかった。
あと少し、力を込めればいい。
そう考えている間も、彼女の呼吸は変わらなかった。
槙島は、その顔を見下ろした。
明日の朝、扉が開くことはなくなる。
用意していたメモの続きも、聞けない。
今日渡した本をどう読んだのか、尋ねる相手もいなくなる。
白いカップは棚へ戻されない。
彼の指が止まった。
消したかったのは、この気持ちだった。
けれど、目の前にいる沙代がいなくなることを考えた途端、手を動かせなくなった。
眠ったまま、彼女が少し顔を寄せる。
触れている手を避けようとはしなかった。
槙島はゆっくり、指を離した。
しばらく立ち尽くす。できないとは、思っていなかった。
彼女に何かを言われたわけでもない。
止められたわけでもない。
自分で、やめた。
そのことを確かめるように、下ろした手を見る。
沙代が目を覚ます前に、寝室を出た。
*
ソファへ戻っても、本は開かなかった。
毛布を広げ、身体を横たえる。
足を伸ばすには、少し短かった。
寝室の向こうは、静かだ。槙島は目を閉じた。
沙代を消せば、すっきりするのかもしれない。
その問いにはもう、答えが出なかった。試して確かめるつもりも、なくなっていた。
数時間後には、彼女が扉を開ける。
何も知らない顔で挨拶をして、昨日の話の続きを始めるのだろう。
槙島は、それを思い浮かべた。
今夜は、その朝が来ることに、少し安堵していた。
知らなかったんだ、全てが初めてだったから。