絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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12.結果

 

話しているうちに、窓の外が暗くなった。

沙代が壁の時計に目を向けて、驚いたように瞬きをする。

 

「……もう、こんな時間」

 

テーブルの紙は、まだ半分ほど残っていた。

槙島が持ってきた本も、最初の数ページしか開いていない。

 

「夕飯、まだですよね」

「そうだね」

「私もです。何か食べますか?」

 

彼が頷いたので、沙代は立ち上がった。今日は帰る時間を聞いていない。

聞けば、そろそろ、と言われるかもしれない。

そのことが頭をよぎったけれど、まずは二人分の食事を用意した。

 

 

*

 

温めた食事をテーブルに並べるため、メモを端へ寄せた。

本も一度閉じる。

 

「……なんだか、散らかりましたね」

「君が話すことを用意していたからね」

「槙島さんの分もあります」

 

「そうだった」

 

彼は自分の本を膝へ移した。二人で食べながら、さっき話していた場面の続きを考える。

今度はメモが手元になくても、沙代は迷わず言葉を継げた。

 

「その時には、言いたいことが変わってたんだと思う」

 

言い終えてから、槙島を見る。

彼は頷いた。

 

「最初の手紙を読まれた後で?」

 

「はい。でも、もう送ってあるから。次の手紙が届くまで、前の気持ちのままだと思われちゃう」

「今なら、その場で訂正できるね」

「……返事が来れば」

 

言ってから、沙代は食器へ目を落とした。

槙島も、少し黙った。

 

「そうだね」

 

それだけ返された。

沙代は顔を上げる。

 

「責めたかったわけじゃないです」

「分かっているよ」

 

彼は食事を続けた。

そのまま話を変えてしまわないことに、沙代は少し安心した。

 

「文字って、待ってる間に色々考えちゃいますね」

「君は、何を考えた?」

 

今なら話してもいい気がした。

 

「送る前に、もう一回読もう、とか。質問が多すぎたかな、とか」

「本を?」

「送った文章をです」

 

彼の手が止まる。

 

「……なるほど」

 

沙代は笑って、空になった皿を見た。

 

「今日は、顔が見えるから楽です」

 

槙島がこちらを見る。

 

「返事を考えているのが、分かるので」

 

彼は少し目を細めた。

 

「僕も、同じことを言ったね」

「はい。だから、今は待てます」

 

 

*

 

 

片づけを終え、お茶を淹れ直した頃には、夜も深くなっていた。

槙島が端末を確認する。沙代はカップを置いた。

帰る時間だろうか。昼間、玄関を開けた時には、また話せるだけで嬉しかった。

実際に話し始めると、聞きたいことが次々に出てきた。

 

まだ一緒にいたかった。

 

「……槙島さん」

「何かな?」

 

沙代は膝の上で指を重ねた。

 

「今日、泊まっていきませんか」

 

彼は端末から顔を上げた。

言ってしまうと、急に部屋の静けさが気になった。

 

「もう遅いですし。ソファ大きいから、寝られると思うので」

「まだ、帰れない時間ではないよ」

「……はい」

 

それは分かっていた。沙代はソファへ視線を向けた。

沙代にとっては大きいソファも、彼には少し短いかもしれない。言ったあとで気付く。

 

「嫌なら、大丈夫です」

「君は、どうして泊まってほしい?」

 

穏やかな問いだった。

理由をもう一つ用意しようとして、やめた。

 

「もう少し、話したいです」

 

槙島は待っていた。沙代は小さく息を吸う。

 

「……あと、久しぶりに会えたので。今日、帰っちゃうのが寂しいです」

 

彼の表情は、大きくは変わらなかった。

沙代は慌てて付け足す

 

「帰ったら、また連絡が取れなくなるとか、そういう意味では——」

「そこまで、言い直さなくていい」

 

口を閉じる。槙島が端末を手に取った。

 

「毛布はある?」

 

沙代は一拍遅れて頷いた。

 

「あります」

「では、借りようかな」

「……いいんですか?」

「君が誘ったんだろう」

 

その返事に、沙代はようやく笑った。

 

 

 

*

 

 

『今日は戻らない』

 

届いたメッセージを見て、グソンは眉を上げた。

 

『彼女のところですか』

 

少しして、返事が来る。

 

『ああ。明日の連絡は、こちらから入れる』

 

グソンは画面をしばらく見た後、短く返した。

 

『了解です』

 

端末を置く

 

「……考え抜いた結果、そうなるんですかね」

 

誰に聞かせるでもなく呟き、作業中の資料へ戻った。

 

 

*

 

泊まる、と決めてからは一瞬の時間が過ぎた。話し足りない沙代の顔は眠気も入り交じっていて、就寝の準備を始めた。

 

毛布を出す間、槙島はテーブルの本を片づけていた。

読みかけのページには、しおりを挟む。

沙代のメモは、順番を崩さず重ねてあった。

 

「これ、続きを聞くんじゃなかったんですか?」

「明日でも、話せるね」

 

沙代は毛布を抱えたまま、彼を見た。

 

明日。

 

その言葉が、不思議と嬉しかった。

 

「……そうですね」

 

ソファに毛布を置き、清潔なタオルも用意する。

洗面所の場所を案内してから、沙代は自分の寝室へ向かった。

扉の前で振り返る。

 

「本、読んでいても大丈夫です。明かりも、好きにしててください」

「ありがとう」

「おやすみなさい」

「おやすみ、倉橋さん」

 

寝室の扉を閉め、ベッドへ座った。

 

部屋の外で、小さな物音がする。

カップを置く音。ソファが軋む音。

それから、ページをめくる音がした。

沙代は横になった。今日話したことを思い返すより先に、口元が緩んだ。

明日の朝にも、話の相手がいる。

それだけで、眠る前の静けさがいつもと違った。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

槙島はソファの背にもたれ、本を開いていた。

寝室の向こうは静かだった。

窓にはホロの景色もなく、外の灯りが薄く映っている。

 

ここへ来た時には、泊まるつもりはなかった。

帰れない時間ではない。帰ろうと思えば、帰れた。

 

けれど、沙代に寂しいと言われた時、その感情をほどくように質問を重ねる気にはならなかった。

 

自分も、今夜の会話を終えるのが惜しかった。

それなら、残ればいい。

そう考えた自分に、槙島はわずかな違和感を覚えた。

 

本へ視線を戻す。

一つの段落を読み終えたはずなのに、何が書かれていたのか残らなかった。

 

寝室の向こうで、沙代が寝返りを打った。

 

その音に耳を澄ませている。

 

十日ほど、会わずにいた。

その間も、彼女が何を読んでいるのか気になった。返事が届けば画面を開き、今日は、顔を見た途端に長く話すつもりになった。

 

今は明日の朝まで、待っている。

 

槙島は本を閉じた。

 

誰かのいる場所へ行きたくなる。

そこを離れるのが惜しくなる。

 

その感情を、自分が持て余していた。

 

「……君がいなくなれば」

 

小さく口にしてみる。

 

この落ち着かなさも、なくなるだろうか。

 

グソンには、手を出すなと言った。

 

あの時は、彼の提案を聞くのが不快だった。けれど今、自分も同じことを考えている。

 

槙島は立ち上がった。

寝室の扉の前で足を止める。

 

向こうからは、声がしなかった。

取っ手へ手をかけ、静かに開ける。

 

枕元の小さな灯りが、沙代の顔を照らしていた。

 

眠っている。

 

人が入ってきても、目を覚まさなかった。

槙島はベッドの傍らへ近づいた。

 

ここに泊まってほしいと、彼女が言った。

自分の家に招き、眠る場所を用意して、先に寝た。

 

何も知らない。

 

知っていれば、こんなふうには眠らなかったかもしれない。

 

手を伸ばした。沙代の首元へ、指先が触れる。

 

温かかった。

 

あと少し、力を込めればいい。

 

そう考えている間も、彼女の呼吸は変わらなかった。

 

槙島は、その顔を見下ろした。

 

明日の朝、扉が開くことはなくなる。

 

用意していたメモの続きも、聞けない。

今日渡した本をどう読んだのか、尋ねる相手もいなくなる。

 

白いカップは棚へ戻されない。

 

彼の指が止まった。

 

消したかったのは、この気持ちだった。

けれど、目の前にいる沙代がいなくなることを考えた途端、手を動かせなくなった。

 

眠ったまま、彼女が少し顔を寄せる。

 

触れている手を避けようとはしなかった。

 

槙島はゆっくり、指を離した。

しばらく立ち尽くす。できないとは、思っていなかった。

 

彼女に何かを言われたわけでもない。

止められたわけでもない。

 

自分で、やめた。

 

そのことを確かめるように、下ろした手を見る。

 

沙代が目を覚ます前に、寝室を出た。

 

 

*

 

 

ソファへ戻っても、本は開かなかった。

 

毛布を広げ、身体を横たえる。

足を伸ばすには、少し短かった。

 

寝室の向こうは、静かだ。槙島は目を閉じた。

沙代を消せば、すっきりするのかもしれない。

 

その問いにはもう、答えが出なかった。試して確かめるつもりも、なくなっていた。

 

数時間後には、彼女が扉を開ける。

 

何も知らない顔で挨拶をして、昨日の話の続きを始めるのだろう。

 

槙島は、それを思い浮かべた。

 

今夜は、その朝が来ることに、少し安堵していた。




知らなかったんだ、全てが初めてだったから。
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