朝、寝室の扉がゆっくり開いた。
沙代は片手で目を擦りながら、部屋へ出てきた。
髪は片側だけ大きく跳ねていて、頬には薄く枕の跡がついている。
窓際のソファから、本を閉じる音がした。
「おはよう」
「……おはようございます」
返事をして、沙代は足を止めた。
槙島がいる。
昨夜、自分で泊まってほしいと言った。それを思い出すまで、数秒かかった。
彼は沙代の顔を見ていた。
それから、肩をわずかに揺らした。
「……何ですか」
「よく眠れたみたいだね」
声に笑いが混じっている。沙代はぼんやりと頷いた。
「はい……」
何がおかしいのか、まだ分からなかった。
槙島の視線が、頭の横へ動く。
つられて手を上げると、指先に跳ねた髪が触れた。
「……あ」
押さえてみる。
手を離すと、戻った。
槙島が、今度は隠さずくすくす笑った。
「ちょっと待ってください」
「うん」
「見ないで」
「もう見たよ」
沙代は両手で髪を押さえた。
「そういうことじゃなくて……」
彼は笑ったまま、本へ目を落とした。
「では、続きでも読んでいようかな」
沙代は急いで洗面所へ向かった。
鏡を見ると、思っていたよりひどかった。
片側だけではない。後ろの髪も、好きな方向を向いている。
頬の跡に触れ、昨夜の自分を思い返す。本をめくる音が聞こえていた。
次に覚えているのは、朝だった。
確かに、よく眠れたらしい。
髪を整えて戻ると、槙島はさっきと同じ場所に座っていた。
ただ、毛布は畳まれ、ソファの端に置かれている。
「……お待たせしました」
彼が顔を上げた。
「もう一度、おはよう」
沙代は少し口を尖らせた。
「まだ笑ってます?」
「今は笑っていないよ」
「今は、って」
槙島の口元がまた緩む。
沙代は台所へ向かい、お湯を沸かした。
カップを二つ出す動作が、昨夜より自然だった。
「槙島さんは、眠れましたか?」
「ああ」
「ソファ、狭くなかった?」
「少し短かったね」
振り返る。
「やっぱり。言ってくれれば……」
「眠れたよ」
そう返され、沙代は続きを飲み込んだ。
何とかしたかったけれど、今から昨夜のソファを長くすることはできない。
「……次は、何か考えます」
槙島が本から目を上げた。
沙代はまだ、カップに視線を落としていた。
次。
特に予定を立てるつもりもなく、口にした言葉だった。
彼はそれを訂正せず、しおりを挟んだ。
「朝は、何を飲むの?」
「いつもは紅茶です。コーヒーもあります」
「では、紅茶を」
「分かりました」
湯の沸く音が大きくなる。
沙代は待っている間に、窓へ目を向けた。
「この時間は、こっちの壁が明るいんです」
槙島も、そちらを見た。
窓の近くから伸びた光が、棚の側面に当たっていた。
三冊の本のうち、一冊だけ背表紙が明るくなっている。
「夕方とは、違う場所だね」
「はい」
沙代は笑った。
髪はもう整っていたけれど、目元にはまだ少し眠気が残っている。
*
槙島はその顔を見てから、窓の光へ視線を戻した。
昨夜、眠る前に考えたとおり、彼女は扉を開けて出てきた。
ただ、最初に聞く話が寝癖についてになるとは思っていなかった。
台所で、カップへ湯が注がれる。
「何を笑ってるんですか」
沙代の声に、彼は顔を上げた。
「思い出したんだ」
「もう忘れてください」
「それは、約束できないね」
沙代が振り返る。
少しして、自分でもその言葉に聞き覚えがあることに気づいた。
「……本の話と一緒にしないで」
槙島は笑い、テーブルの上を空けた。
温かい紅茶が、二つ並んだ。