朝食の皿を片づけ終える頃、槙島が窓の外へ目を向けた。
「この後、よければ出かけないかい」
「ん、ぜひ。どこ行くんです?」
「ちょっとね」
沙代は振り返った。
「……教えてくれないんですか」
「着けば分かるよ」
彼は残っていた紅茶を飲み、カップを置いた。
急ぐ様子はなかった。
沙代は少し考えてから頷く。
「じゃあ、着替えてきます」
*
家を出る時には、朝の冷たい空気が少し和らいでいた。
槙島は昨夜と同じコートを着ている。
その隣に並んで、沙代は歩き始めた。
普段なら、彼に会うまでに一人で歩く時間がある。
今日は玄関を出た時から一緒だった。
「お仕事は、大丈夫ですか」
「ああ。出る前に連絡した」
「私、支度遅かった?」
「本を読めたから、構わないよ」
沙代は少し笑った。
「それ、待つ時の決まり文句ですか」
「本当に読んでいたんだけれど」
「知ってます」
昨夜から続く会話のように、言葉が出てきた。
*
二つ目の角を曲がったところで、沙代は周囲を見た。
見覚えのある階段。入口の脇に、木の箱が置いてある。
「……あの本屋?」
「覚えていたね」
「この角、前に間違えたので」
槙島が扉へ手を伸ばす。
沙代は一歩下りかけて、足を止めた。
「もしかして、あの絵の本ですか」
彼がこちらを向いた。
「まだ気になっているかなと思って」
沙代は入口の向こうを見た。
あの日、二冊を並べて迷った。
一冊を選んだ後、もう一冊を元の場所へ戻した。
「……覚えてたんですね」
「君が、次に来たら買うと言っていたから」
扉が開く。
沙代は店主へ挨拶して、積まれた本の前にしゃがんだ。
上から一冊ずつ、そっとずらす。
少し位置は変わっていたけれど、見覚えのある背表紙があった。
「あった」
抜き出して、表紙を確かめる。
小さな動物の絵。
角に、少し擦れた跡。
槙島は隣に立っていた。
「同じ本?」
「はい」
沙代はページを開く。窓の中の絵が、前と同じ場所にある。
今日は、先に戻そうとは思わなかった。
「買います」
「うん」
彼が頷く。
沙代は立ち上がり、本を胸元に持った。
「昨日、もう一冊借りたばっかりなのに」
「買う時と読む時は別だと、前に話したね」
「……そうでした」
彼は奥の棚へ向かった。
沙代も少しだけ店を見て回る。
今日は持って帰りたい本が、もう決まっていた。
*
店を出ると、沙代は袋の中を覗いた。
「今日、何を買うかも考えてなかったです」
「予定にない本も、棚へ入る?」
「まだ、いっぱい空いてます」
その答えに、槙島が少し笑った。
階段を上がり、大通りへ出る。
沙代が本の袋を鞄へ入れようとしていると、前から来た男の人が足
を止めた。
「……槙島のダンナ」
槙島の視線が上がる。
男の人は彼を見て、それから沙代へ目を向けた。
「君とこんなところで会うとはね」
「こっちの台詞ですよ」
沙代は袋を持ったまま、二人を見比べた。
槙島の知り合い。
それに気づいて、少し姿勢を正す。
「倉橋さん。彼はチェ・グソン。知人だよ」
「初めまして。倉橋沙代です」
「どうも。チェ・グソンです」
グソンさんは軽く頭を下げた。
その視線が、沙代の手元へ落ちる。
「本屋へ?」
「はい。この前、買わなかった本が残っていたので」
沙代が答えると、彼は槙島を見た。
「朝から、結構なことで」
「君は、何か用事の途中?」
穏やかな声だった。グソンさんは一度頷く。
「ええ。近くまで来たもので」
二人には分かる話なのだろう。
沙代は鞄の口を閉めて、待っていた。
グソンさんがもう一度こちらを見る。
「体調は、もういいんですか」
「あ……はい。すっかり」
答えてから、槙島へ顔を向けた。彼が説明する。
「君が寝込んだ時、救急の連絡を手伝ってもらったんだ」
沙代は驚いて、グソンさんを見る。
「そうだったんですか。ありがとうございました」
「いや、大したことはしてませんよ」
「私、あの時のこと、あまり覚えてなくて。お礼も言ってなかったの
で……」
グソンさんは片手を上げた。
「元気になったなら、それで」
沙代はもう一度頭を下げた。
顔を上げると、彼は少しだけ困ったような顔をしていた。
「では、僕たちは行くよ」
槙島が言った。
「あとで連絡する」
「了解です」
グソンさんが道を空ける。
沙代は会釈をしてから、槙島の隣へ戻った。
*
二人の背中を見送り、グソンはしばらく立っていた。
記録で見た顔より、印象が柔らかかった。
挨拶する時は真面目で、本のことを話す時だけ声が明るくなる。
槙島のほうも、彼女が袋を鞄へしまい終えるまで歩き出さなかった。
それは、グソンに見せるための振る舞いではない。
二人が話しているところへ、自分が入っただけだった。
「……なるほどね」
小さく呟いて、来た道へ足を向けた。
*
少し歩いてから、沙代が口を開いた。
「槙島のダンナ、って呼ばれてるんですね」
「気になった?」
「はい。初めて聞いたので」
槙島は沙代を見る。
「君もそう呼んでみる?」
「呼ばないです」
すぐ答えると、彼が笑った。
「でも、グソンさんには似合ってました」
「そう」
「お二人、長いんですか?」
「付き合いはあるね」
沙代は頷いた。
それ以上、何年なのかまでは聞かなかった。
「助けてくれた人にも会えてよかったです」
槙島がこちらへ視線を向ける。
「そうだね」
短い返事の後、彼は進む方向へ目を戻した。
沙代は鞄の中の本を確かめる。
「……今日は、いい朝ですね」
槙島は隣を見た。
彼女にとっては、本を買い、知人に挨拶をした朝だった。
それ以上のことは、何も伝わっていない。
沙代が、次の角を指さす。
「今度は、右ですよね」
「今日は、その先へ行こう」
「また、着けば分かる?」
「今度は教えるよ。お茶を飲める店がある」
沙代は笑った。
「はい。行きたいです」
槙島は彼女と並んで、角を曲がらずに歩いた。