案内された店は、大通りから少し奥へ入ったところにあった。
窓際の席に座ると、沙代は鞄から買った本を出した。
表紙を上にして、テーブルの端へ置く。
「袋に入れたままじゃ、気になる?」
槙島に聞かれて、沙代は笑った。
「ちょっと。まだ、ちゃんと見てなかったので」
注文を済ませ、最初のページを開く。
小さな窓の中に、眠っている猫が描かれていた。
「これです。前に言ってた絵」
彼が少し身を寄せる。
「ページごとに変わるんだったね」
「はい。次は起きてるんですけど、その次にはいなくなってて」
沙代はゆっくりめくった。
「どこかにいると思って、探しちゃいました」
「今日は、見つかった?」
「まだです。先に見つけても、言わないでくださいね」
「分かった」
お茶が運ばれてきて、沙代は本を閉じた。
カップを持ち上げる前に、窓の外を見る。
朝から歩いてきたのに、まだ帰る時間を考えていなかった。
「……昨日から、ずっと楽しいです」
槙島が顔を上げた。
「本の話をたくさんできたから?」
「それも。でも、朝起きても誰かがいて、そのまま一緒に出かけるのって初めてだったので」
彼女はカップの取っ手に指をかけた。
「友達に泊まってもらったこと、なかったんです。こんなに何度も一緒に出かけたりするのも」
言いながら、少し笑う。
「だから昨日、誘う時はちょっと緊張しました」
「そうだったんだね」
「帰れない時間じゃないって言われて、確かに、って思いました」
槙島の口元が緩んだ。
「それでも、泊まってほしかった?」
「はい」
迷わず答えた。
「一人になったら、寂しいなって。せっかく会えたのに、もう終わりなのが嫌だったんです」
カップへ目を落とす。
言ってみると、昨夜の気持ちはそれだけだった。
「でも、泊まってくれたら、朝も楽しかったです」
「君は、ずいぶんよく眠っていたね」
沙代は顔を上げた。
「……寝癖の話は、もういいです」
彼が笑う。つられて沙代も笑った。
お茶を一口飲み、本へ手を置く。
「今日も、買おうと思ってなかった本を買えて、グソンさんにもお礼を言えて」
指先で表紙の角をなぞる。
「こういうの、いいですね。誰かと出かけると、自分だけだったらなかったことが増えるんですね」
槙島は、彼女の手元から顔へ視線を戻した。
昨夜、泊まってほしいと言われた。
今朝は、次にはソファを何とかしようと言っていた。
槙島は、そのどれにも深く考えずに応じていた。
沙代には、どれも初めてだった。
「一人で出かける時は、どうしているの?」
「用事を済ませたら、帰ることが多いです。何となく歩くこともありますけど……今日みたいに、じゃあ次はお茶にしようって、あまりならなくて」
彼女は窓へ目を向けた。
「一人でお茶を飲んでもいいんですけど。今見たものを、誰かに話せるのは違いますね」
「本の猫のことも?」
「はい」
沙代が笑った。
「まだ見つかってないって、言えるので」
槙島はカップを持ち上げた。
特別なことを用意したつもりはなかった。
覚えていた本を探しに行き、その後にお茶を飲む。
それを、彼女はこんなふうに楽しんでいる。
「では、今日は探し終わるまで付き合おうかな」
「ここで?」
「お茶も、まだあるからね」
沙代は嬉しそうに本を開いた。
*
二人で覗き込むには、少し小さな本だった。
沙代がテーブルの中央へ寄せると、槙島も椅子をわずかに動かした。
「ここには、いないですよね」
庭の絵を指さす。
草の間に蝶がいて、塀の上には鳥がいた。
「君が探しているのは、窓にいた猫?」
「はい。模様が同じ……あ」
沙代の指が止まった。
木の根元に、尻尾だけが覗いていた。
「いました」
顔を上げる。
槙島は絵より先に、こちらを見ていた。
「見つかったね」
「これ、前にも開いたページなのに」
もう一度、絵へ目を落とす。
「一人で見てたら、気づかなかったかも」
「僕は、何も言っていないよ」
「でも、一緒に見てくれてたから」
*
それで答えになっているつもりなのだろう。
沙代は満足そうに、次のページをめくった。
槙島は、その横顔を少し眺めた。
猫を見つけたことで、今日の楽しかったことがまた一つ増えたらしい。
彼女は、帰ってからこれを思い出すのだろうか。
棚へ本を置く時に、今の会話まで覚えているのだろうか。
自分はきっと、覚えている。
「槙島さん」
呼ばれて、絵へ視線を戻す。
「今度は、そっちが探してみてください」
沙代が本をこちらへ向けた。
「見つけても、すぐ答えを言わないほうがいい?」
「私が分からなくなったら、教えて」
「難しい注文だね」
「待つのは、得意でしょう?」
槙島は笑った。
「本があればね」
二人の間には、ちょうど一冊の本があった。
最後のページで猫を見つけると、沙代は満足そうに本を閉じた。
「全部いましたね」
「途中で、君が二匹見つけたけれど」
「同じ猫かもしれません。移動しただけで」
「ずいぶん速いね」
沙代が笑った。表紙を撫で、それからカップへ手を伸ばす。
槙島は、その様子を眺めていた。
「君は、本当に素敵な子だね」
沙代の手が止まった。
「……急になんですか。照れます」
「はは。素直にそう思ったんだよ。君といると、楽しいんだ」
沙代は彼を見たまま、少し黙った。
沙代は、彼の顔を見つめていた。
槙島は返事を急かさず、彼女が口を開くのを待った。
「……私も、楽しいです」
ようやく答えて、カップを持ち上げる。
もう、ほとんど空だった。沙代はそれに気づくと、静かに置き直した。
槙島の口元がまた緩む。
「そんなに困らせたかな」
「困ってはないです。ただ……嬉しいので」
彼女は表紙へ目を落とした。
「何て返したらいいか、考えちゃいました」
「今の返事で、よく分かったよ」
沙代は小さく笑った。
頬に残った熱をごまかすように、鞄の口を開く。
本をしまう前に、もう一度だけ表紙を見た。
彼女は、この本を買った日のことを覚えていてくれるだろうか。
猫を一緒に探したことも。
その後で伝えた言葉も。
「また、こういう時間があるといいですね」
沙代は本を鞄へ入れながら言った。
槙島は彼女の顔を見た。
「また作ろう」
短い返事だった。
沙代が顔を上げる。
「はい」
今度は、すぐに笑った。
槙島はその笑顔を見てから、テーブルに残っていた自分の本を取った。
彼女は次を楽しみにしている。
自分も、その次に会いたいと思っている。
それを、もう曖昧なままにしておく必要はなかった。
「そろそろ出ようか」
「はい。今日は、道をちゃんと見て帰ります」
「本は開かずに?」
「家まで我慢します」
槙島は笑って立ち上がった。
沙代が鞄を肩へかけるのを待ち、二人で席を離れた。
一つ一つ、思い出せばキリがないね